【フローニンゲンからの便り】16854-16858:2025年6月22日(日)
- yoheikatowwp
- 6月24日
- 読了時間: 15分

⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。
タイトル一覧
16854 | 6時間半ほどの1人語りをして |
16855 | 今朝方の夢 |
16856 | 今朝方の夢の振り返り |
16857 | デコヒーレンスと波動関数のコラプスについて |
16858 | ウィルスには意識があるか? |
16854. 6時間半ほどの1人語りをして
時刻は午前7時半を迎えた。今、朝日が燦然と輝いている。遠くの方から小鳥の鳴き声が聞こえた。今は風がほとんどなく、今日は朝から気温が上がっている。昨日の最高気温は29度ほどになっていたこともあって、その余熱が残っているようだ。そして今日も天気が良いので、気温がここから上昇していきそうである。昨日の天気予報では今日は曇りとのことだったが、今は雲が全くない形で晴れている。一応今日の天気予報を見ると、ここから曇るようだが、それでも最高気温は29度に達する。明日は今日と気温が打って変わって19度までしか上がらないようなので、気温差には注意したい。
昨日はゼミナールの第137回のクラスがあり、昨日のクラスでの対話もまた充実していた。ここ最近はクラスを終えてからの振り返りの音声ファイルが大抵2時間ぐらいになっていて、昨日は30分ぐらいで留めたいと思っていた。しかし蓋を開けてみれば、2時間半ほどの音声ファイルとなった。さらに、そこから補足の音声ファイルを録っていって、合計すると6時間半ほど1人語りをしていた。本編のクラスは1時間半ほどなのでそれを遥かに超えるほどの音声ファイルになって自分でも驚いていた。しかし、それだけ伝えたいメッセージがあったのだと思う。それにしても毎回2時間ほどの音声ファイルになっていることを見ると、毎週毎週新たな伝えたいメッセージが生まれることに驚かされる。もちろんかつて話したトピックやテーマもあるだろうが、改めて語り直してみることを通じて、語りの内容を自分自身に定着させているという意味もあるだろうし、語り直すことを通じてまた新たな気づきや発見を得ている自分がいることにも気づく。そうしたことからも、自分の考えを語るということの重要性を思う。数週間前にも合計すると4時間を超えるような振り返りの音声ファイルを作っていたように思う。そして平素からかなり長めの1人語りの音声ファイルになっており、何か伝えたい事柄が言葉になって来るということ以外にそれだけの時間の語りになる要因を探っている。間違いなく毎回のゼミのクラスでの対話が脳と知性、さらには自己の全存在に刺激になっているのだろう。そうした良き刺激を受けて、語りが自発的に生成されるという現象というふうに捉えることができるかもしれない。いずれにせよ、毎回何かを語り切ることを通じて、自己はまた新たな歩みを進めるような気がしている。今後も語り切るという感覚を大切にし、毎回のクラスを一期一会として大切にしていきたい。そうした意識で臨むクラスを積み重ねていった先に、まだ見ぬ景色が開かれてくるはずである。フローニンゲン:2025/6/22(日)07:39
16855. 今朝方の夢
今朝方の夢として覚えているのは、大学時代に住んでいた学生マンションにいた場面である。マンションの入り口からルームキーをかざして自動ドアを開け、自転車の駐輪場に向かった。というのも、これから大学の授業があり、授業開始まで時間がなかったので、歩いて大学に行くのではなく、自転車で行こうと考えていたからである。自分はしばらくどこかに旅行に出かけいていて、その間に自分の自転車が駐輪場のどこにあるのかを忘れていた。なので自転車を発見するのに少し時間がかかった。「あそこに見えているのが自分の時間かな」と思った時に、1階の奥の部屋に住んでいる小柄な学生がイヤホンを通じて英語で誰かと話しながらこちらに向かってきた。彼の英語を聞くと、中国語訛りがあり、彼は中国人だと思った。彼に挨拶をしようと思ったが、彼は自分と目を合わせる気配は一切なかったので、結局挨拶をすることはなかった。自転車を見つけ、自転車に乗って外に出ようとしたところ、そう言えば生ゴミを出しておく必要があると思ったら、なんと手に生ゴミが入っていた袋を持っていたので、それをゴミ捨て場に捨てに行くことにした。外に出る時に、同じ大学に通っていると思われる少し背の高い学生がやってきて、彼は日本人だったのだが、自分を留学生と思ったのか、英語で話しかけてきて、親切にもゴミの捨て方を教えてくれた。自分としてはここのマンションに住んで長いのでゴミの捨て方は知っているつもりだったが、マンションの横のゴミ捨て場に来て驚いたのは、そこが綺麗に改築されており、ゴミ捨て場に入るためにもルームキーが必要になっていた。セキュリティがしっかりしたことに加え、生ごみとプラスチックを捨てる部屋が完全に分かれていることに気づいた。生ゴミを捨てるゴミ袋の口の部分は黄色の帯で縛る必要があり、生ゴミを捨てる部屋は薄暗かったが、ひんやりとしたその部屋の中で黄色の帯の部分だけが光って見えた。ゴミの捨て方を教えてくれた彼にはお礼を述べ、無事にゴミを捨てたので大学に向かうことにした。授業は間も無く始まりそうだったが、授業の開始が午前9時ではなく、9時半であることが有り難く思った。夜更かしをして朝起きれない学生も多いだろうから、その30分の差は大きな違いであるように感じられた。今日の授業に際しての課題をどれだけこなしていたかは不明だったので、授業が終わったらもう一度課題を見直すという形で自学自習を進めていこうと思った。フローニンゲン:2025/6/22(日)07:53
16856. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、時間とアイデンティティの重層的な断面が1つの場所――大学時代の学生マンション――に凝縮され、そこに過去と現在の自己が交錯する構造を持っているとChatGPTは指摘する。まず住み慣れたはずのマンションにおいて、鍵をかざして自動ドアを開ける場面が示すのは、記憶という名の“内的な住まい”への再入場である。鍵は自己同一性を確かめる手段であり、扉の向こう側はかつての基盤的世界だ。しかしそこへ入るや否や、自転車のありかを忘れているという齟齬が立ち上がる。旅からの帰還直後に自分の足(=自転車)の位置を失念することは、長い精神的遍歴や環境変化の後で、これまで当たり前と思っていた能力や行動パターンの座標を見失っている状態を象徴する。駐輪場で自転車を探しあぐねる最中に現れる中国人と思しき学生は、外部化された「異邦の自己」である。彼は英語を介して誰かと通話し、こちらには視線を向けない。つまり、夢の自分が過去の住処に戻る一方で、その場にはもはや国際化された、多言語が飛び交う新しい秩序が入り込んでおり、自身はそこに溶け込めるのかという問いが暗示される。視線を交わさないという非接触は、世界との不協和音を示し、同時に「今や私はかつての住民でありながら、ここでは余所者なのかもしれない」という感覚を呼び起こす。自転車を見つけて出発しようとした瞬間、手にはいつの間にか生ゴミの入った袋が握られている。ここでゴミは「経験の残渣」であり、処理しない限り生活に悪臭を放つ影の側面を象徴する。ゴミを後回しにしようとした矢先に思い出し、しかもすでに袋が手にあるという展開は、無意識が「未処理の感情や課題を忘れずに持ってきた」ことを示唆する。続いて現れる日本人学生は、語り手を留学生と誤認し英語で話しかける。ここには「故郷と思っていた場所でも自分は異邦人足りうる」という二重のズレがある。彼は親切にゴミの捨て方を教えるが、そのゴミ捨て場は改築され、入場にも鍵が必要という厳重な管理体制へ変貌している。生ゴミとプラスチックが完全に分離され、黄色の帯で縛るという細かな規則が導入された光景は、心理的にも「未整理な感情(生ゴミ)」と「形だけの外装(プラスチック)」を峻別し、適切に封じて処理する必要性を訴える。薄暗い部屋で唯一輝く黄色い帯は、無意識の闇においても健在な倫理的・衛生的な意志の光――いわば“注意を喚起する理性”であり、影の側面を可視化するマーカーである。授業開始時刻が9時半であると気づいて安堵するくだりは、時間的猶予への感謝と、成熟した自己管理意識を映す。かつては寝坊しがちだった学生たちにとって30分の差が大きいという連想は、現在の自分が余裕を戦略的に使う術を身に付けたことを示し、夢の終盤で「課題を見直し、自学自習を進めよう」と決意する流れは、過去の不安定さを踏まえてなお前進しようとする覚悟の象徴であるとChatGPTは述べる。総じてこの夢は、〈記憶の住処〉への帰還を通じ、異文化との邂逅と自己同一性の揺らぎを演出しつつ、未処理の感情や課題を“ゴミ”として可視化し、それを厳密なルールのもとで処理する新しい心理的衛生観念を描き出している。鍵で管理されたゴミ捨て場は自分の内面に新設された“心の環境省”であり、黄色い帯は闇に埋もれがちな問題を光として仕分けるラベルである。自転車は個人的な移動手段=自発性の象徴であり、その所在を再確認した上で漕ぎ出すことは、過去の自分の行動半径を刷新しつつ未来へ向かう意思の再起動を意味する。したがって本夢は、過去の足場を批判的に点検し、異文化的・多言語的環境で変容する自我を抱えながらも、不要な残渣を適切に処理し、新たな時間感覚と自律性を携えて次の授業――すなわち人生の次章――へ踏み出すための準備儀礼であると言える。フローニンゲン:2025/6/22(日)08:14
16857. デコヒーレンスと波動関数のコラプスについて
素朴な疑問として、量子のデコヒーレンスと波動関数の収縮は同じ現象なのか違う現象なのかが気になったので調べてみた。すると、量子系において「デコヒーレンス」と呼ばれる現象と「波動関数のコラプス(収縮)」と呼ばれる過程とは、しばしば似た役割を担うかのように語られるが、厳密には別の概念であることがわかった。両者は「重ね合わせが失われ、古典的な振る舞いが前景化する」という現象学的共通点を持つものの、そのメカニズム・理論的地位・問題設定には明確な差異が存在するとのことである。デコヒーレンスとは、量子系が外界(環境)と相互作用し、互いにエンタングル(量子的絡み合い)することで、当該系の状態行列に含まれていた位相干渉項が時間発展とともに指数関数的に抑圧され、事実上消滅する過程である。系の全体(系+環境)は終始シュレディンガー方程式に従いユニタリーに進むが、環境の巨大な自由度をトレースアウトすれば、系の部分状態は古典的確率分布に近い対角化された密度行列として記述されるようになる。ゆえにデコヒーレンスは、量子から古典への移行を動的に説明する過程であり、理論的には量子力学内部のユニタリー進化に還元されるものであるとのことだ。デコヒーレンスに関しては、量子物理学者のヴォイチェフ・ズレクの仕事に注目をしており、改めて彼の論文と2025年にケンブリッジ大学出版から出版されたばかりの専門書も入手して読んでみたいと思う。一方、波動関数のコラプスとは、観測(測定)という行為がなされた瞬間に、系の波動関数が測定対象の固有状態へと非ユニタリーに“跳躍”し、ひとつの結果が実在化するという仮定である。これはコペンハーゲン解釈の射影公準として位置づけられ、厳密な時間的幅や動的機構は理論内に明示されない。コラプスは観測行為そのものを例外的・原理的に特別視する公準であり、測定前後を連続的に結ぶミクロな基礎方程式は与えられていないため、測定問題=「なぜ重ね合わせのうち1つだけが選ばれるのか」という問いを残したままにする。GRW理論やCSL理論のような「客観的コラプスモデル」は、この跳躍を確率的だが明確にダイナミクスへ取り込もうとする試みであるが、いずれもデコヒーレンスとは起源を異にする。このように、デコヒーレンスはユニタリーな量子ダイナミクスの帰結として干渉が不可逆的に観測不能へと追いやられる過程であるのに対し、コラプスは観測結果の唯一性を実在的に確定するための非ユニタリーな仮定(あるいは実在的過程)である。デコヒーレンスは「重ね合わせらしさ」を外界との絡み合いによって包摂・散逸させるが、その結果として得られるのは依然として混合状態(不純粋状態)であり、どの結果が採択されたかを確定的に指示しない。一方、コラプスは「結果が1つに決まった」という事実を前提あるいは公準として導入するが、その選択に至る物理的メカニズム自体は標準量子力学の外部に置かれている。したがって両者は同義ではなく、デコヒーレンスはコラプスを「見かけ上正当化」する土台を提供するが、それ自体が測定問題の完全な解決策とはならない――ここに両概念の根本的な差異があると言える。両者の概念については、量子論哲学の観点からもまだまだ考察に値するような内容のように思える。フローニンゲン:2025/6/22(日)08:22
16858. ウィルスには意識があるか?
時刻は午前10時を迎えた。今日はすでに気温が25度に到達していたので、ジョギングの代わりにウォーキングにした。天気予報とは違って、曇り空になることはなく、雲がほとんどない快晴の中、朝日を存分に浴びて散歩を楽しんだ。散歩に出かけて帰ってくると、門を開けて右手にある家の隣人のロクシーが椅子に腰掛けてパソコンを使って何か作業をしていた。どうやら子どもたちの科学教育に向けて動画を作っているとのことだった。来週の月曜日からギリシャのクレタ島に行くらしく、パートナーのゴヤと一緒ではなく、ギリシャ人の友達に案内してもらうとのことだった。クレタ島はまだ足を運んでいない風光明媚な場所であり、いつか自分も訪れてみたいと思った。この季節はきっと紺碧の海がさぞかし美しいだろう。ロクシーはフローニンゲン大学で哲学を専攻しており、分析哲学を主専攻にしながらも、心の哲学や仏教哲学についても選択科目で履修していたこともあり、最近の自分の研究テーマである仏教思想と量子論哲学についての話をした。彼女はとても知性が高く、どうやらロクシーもまた物質主義や物理主義のパラダイムから脱している世界観を持っているようだった。そんなロクシーと汎心論について話をしている時に、「植物に意識を認め、物に意識を認めないことは同意見だけど、ウィルスには意識がある?」と問われてなかなか回答に窮した。今の自分としては直感的にウィルスにも主観的な意識を認める立場を取っているが、バーナード・カストラップは、ウィルスには主観的な意識は宿っておらず、単に私たちの意識が動いている存在として認識している存在に過ぎないと述べる。この点についてもう少し考えてみた。植物の意識を肯定する立場が念頭に置かれるとき、ウィルスに同様の属性を帰すことが可能かという問いは、まずウィルスが生物学的にどのような存在であるかを踏まえねばならない。ウィルスは自己完結的な代謝を持たず、宿主細胞の装置を借りてのみ自己複製を果たす非細胞性実体である。エネルギー生産や恒常性維持を自律的に担えない点で、たとえゲノムは有していても、通常の生命の定義からは外縁に位置付けられることが多い。ゆえに「主体的活動の場」としての身体を欠くという事実は、意識帰属にかかわる重要な前提である。意識を情報統合理論(Integrated Information Theory, IIT)の観点から捉えるならば、意識とは「要素間の因果的結合が不可分の全体として統合されたときに現れる内的様相」であると定義される。この理論では統合情報量Φがゼロより大きい系のみが主観的体験を持つことになるが、ウィルス単体には複数の機能モジュールが同時並行に因果的フィードバックを形成する構造が乏しい。宿主内部に取り込まれ複製サイクルを開始しても、その過程はほぼ一次的な化学反応系列であり、統合の指標としては極小かゼロに近いと推定される。従ってIITの枠組みでは、ウィルスに可知的な意識を認めるのは困難である。しかし近年の「基底的認知(basal cognition)」研究は、認知を神経系に限定せず、生体分子レベルから進化的に連続した環境追跡・自己調節能力として捉え直している。この視点では、バクテリアや単細胞真核生物と同様に、ウィルスも宿主選択や生活環境への応答戦略を示すという報告がある。例えばファージが宿主の代謝状態を感知して溶解か溶原化かを“決定”する現象は、一種の情報処理として再解釈できる。こうした振る舞いを「原初的な感知−応答ループ」と見なす立場からは、ウィルスにも認知の萌芽、ひいては極微の主観性を仮定する余地が残される。加えて汎心論的あるいは自然主義的汎心論の立場に立てば、「物理的相互作用のあるところには程度の差こそあれ経験の原型が遍在する」と解される。ウィルスは情報を符号化し、自己を複製する際に高次の選択圧を受けるという情報的存在であるため、宇宙論的パースペクティブでは微弱だが非ゼロの内的相を持ちうるという議論が成立し得る。ただしこれは経験の質量を計測できる科学的方法を欠くため、形而上学的推論の域を出ない。一方で植物の場合、細胞間シグナル網、電気化学的伝達、ホルモンによる長距離コミュニケーションなどが協調して働くことで、IIT的・生理学的にも比較的大きな統合構造を形作りうる。結果として植物意識を唱える議論には、ウィルスよりも豊富な経験記述と実験的裏付けが存在する。基底的認知研究でも、植物は全生命的認知スペクトラムの中心近くに置かれるのに対し、ウィルスはしばしば限界的存在として括弧に入れられる。総括すれば、主流の生物学およびIIT的意識論からは、ウィルスを有意味な意識主体と認定する決定的根拠は見出しにくい。他方、認知概念を環境適応的情報処理まで拡張する基底的認知の視座、あるいは全存在に微細な経験相を配当する汎心論的形而上学を採用するなら、ウィルスにも極小だが連続的に意識の萌芽を帰属することは論理的には可能である。結局のところ、ウィルス意識の可否は「意識とは何か」をどこまで広く定義するかに依存し、現状の科学的検証手段はまだその問いに決定打を与えていない、というのが冷静な結論である。これはまさにロクシーも述べていたことで、結局意識をどのように定義するかが、何が意識を持つのかの範囲を決定することになるのだろう。それを含めて、意識の定義についてさらに精緻なものを見出していきたいと思う。フローニンゲン:2025/6/22(日)10:25
Today’s Letter
That was probably a decoherence experience of my consciousness. It occurred during one of my high-dose psilocybin sessions. My consciousness decohered into and through the environment, eventually returning to emptiness—or to the potentiality of the quantum field. Groningen, 06/22/2025
Comentarios