【フローニンゲンからの便り】16847-16850:2025年6月20日(金)
- yoheikatowwp
- 6月22日
- 読了時間: 12分

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タイトル一覧
16847 | Tri-Aidの効能を実感して/充実した学術探究 |
16848 | 今朝方の夢 |
16849 | 今朝方の夢の振り返り |
16850 | 波動を見せる種々の現象 |
16847. Tri-Aidの効能を実感して/充実した学術探究
時刻は午前5時半を迎えた。ちょうど今、遠くの空から朝日が昇り始めた。今日は自然といつもより少し早く起床した。そのご褒美として朝日が昇る姿を拝むことができている。昨夜も就寝前に、読書をしながら壁にTri-Aidを当てて首や背中を十分にほぐした。読書をしている40分弱の間、それを使いっぱなしで、首や背中のツボを刺激する形で、その日の疲れをほぼ完全に取ることができているように思う。そこからの睡眠もすぐさま熟睡となり、質の高い睡眠が取れて一石二鳥である。夜寝る前の体のケアとして、今後もTri-Aidにはお世話になり続けるだろう。それを使ってまだ2日だが、早速効果を感じている。眼精疲労が取れているという実感と、数多くのツボを刺激することにより、体から目には見えない緊張を取り除き、リラックスして体を解放させる形で睡眠ができている実感がある。この他にも、首や背中のツボにはたくさんの効能があるため、自分が気づいていない効能がたくさんあるはずである。この素晴らしいプロダクトをプレゼントしてくれた早田航さんには改めて深く感謝している。
今の気温は10度と肌寒いが、今日の日中は23度まで気温が上がるようだ。明日と明後日は夏日となり、30度ほどになる。しかし明々後日からは、最高気温がなんと19度止まりとなり、前日と10度もの気温差がある。こうして夏日が数日間だけやって来て、まだ涼しい日となるサイクルはもうしばらく続きそうである。今日もまた旺盛な学術探究を進めていこうと思う。『法相二巻鈔』の転写も順調に進んでおり、これを用いた論文の執筆に向けて準備は着々と整っている。上下巻のうち、上巻の転写がほぼ完了に向かっていて、下巻は上巻よりも分量が少ないため、予想以上に転写作業の完了が早い。そこからは翻訳と註釈が待っているが、どちらも楽しみなプロセスである。日本法相唯識学の探究に並行して、量子論の哲学に関する探究も順調に進んでいる。今後もこの両者を並行して探究をしていけば、飽きることなく常に楽しさの中で探究を進めていけるような気がしている。来月の初旬に知人の方がフローニンゲンに来られるに際して、仏教論理学(因明学)の日本語の専門書を2冊持って来ていただくことになった。それには大変感謝している。来月末ぐらいには、仏教論理学の英語の専門書を数冊ほど購入する予定で、仏教論理学も深く修めたい分野である。特に日本法相唯識学において因明学として発達した論理学の固有性に注目した研究に従事したい。こうしてこれからも自分には、絶えず学術的に研究したいトピックやテーマがたくさんあるだろう。その至福さに浸りながら毎日を充実した形で生きていく。その過程で得られたことを常に社会に還元していく。そのようなことを改めて思った。フローニンゲン:2025/6/20(金)05:44
16848. 今朝方の夢
今朝方の夢としてまず覚えているのは、大学時代のクラスメートの友人と、日本の見慣れないマンションの駐車場でサッカーの練習をしていたことである。特にドリブル練習に焦点を当て、彼に守備役を務めてもらい、1対1の練習をしていた。自分のドリブルはかなり切れ味があり、世界のトップにも通用するようなレベルだった。というよりも、おそらく自分のドリブルの突破力は世界一なのではないかと思っていた。しかし、それでもさらに技術に磨きをかけることに自分は情熱を傾けていた。今のところ自分のドリブルを止められるようなディフェンダーはこの世にはいないが、今後若手で物凄いディフェンダーが出てくるかも知れず、気を抜くことなく精進に励みたいと思った。そんな思いを持って彼に練習を付き合ってもらっていた。しばらく練習を続けていると、気づけば自分は土のグラウンドにいて、小中学校時代の友人たちとサッカーの紅白戦をしていた。自分は右サイドのポジションを務めており、そこで積極果敢にドリブル突破をし、それがことごとく成功していた。また、自分が中に上げるクロスの精度は芸術レベルにあり、ドリブルとクロスの双方で世界最高峰にある実感があった。ゴール前に走り込む友人たちに自分が上げたセンタリングが見事に彼らによってゴールに入っていく姿を見るたびに、自分の内側から喜びと楽しさの感情が湧き上がっていた。この感覚が得られるから日々の練習は飽きもせず、工夫に工夫を凝らして楽しくできるのだと思った。
もう1つ覚えている夢は、空港内にある中華料理屋で昼食を食べている場面である。どうやらその店は時間制を採用しているようで、自分たちのテーブルは4時間制だった。一方、隣のテーブルの大家族は11時間制とかなり長い時間を取っていて驚いた。おそらく飛行機の待ち時間が長く、この中華料理屋をラウンジのように使うことを意図しているのだと思った。制限時間の4時間にあと5分となったところで、味噌汁のおかわりが欲しいと思い、それを取りに行った。それを飲んだらもう店を出る必要がありそうだったので、少し急いで味噌汁を平らげた。4時間の中で美味しい料理を満足いくほど食べたので大満足だった。店を後にすると、搭乗口に早めに向かった。搭乗口で出発の時間が迫ってきたタイミングで、大学時代のゼミの女性友達が駆け込んでやって来た。「ギリギリ間に合ったね」と声を掛けると、彼女は微笑んで、「なんとか」と述べた。これから飛行機に乗ってどこに向かうのかはわからなかったが、ここからの旅もまたとても充実したものになるだろうという予感があった。フローニンゲン:2025/6/20(金)06:11
16849. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の2つの夢は、一見まったく異なる場面を描きつつ、それぞれが「生の運動性」と「旅の時間性」という二本の軸で深く結び付いているとChatGPTは指摘する。最初のサッカーの夢は、自己効力感が極度に高揚した状態を舞台にしながらも、依然として研鑽を怠らない自己の姿を描いている。マンションの駐車場という、日常と余所(よそ)との境界にある半私的空間は、「今ここ」の生活圏でありながら、他者の目からは遮蔽されたトレーニングの場である。その曖昧な場所で、大学時代の友人をディフェンダー役に据え、世界一の突破力を誇示しつつもなお磨きをかけようとする態度は、自己の専門領域における絶対的自信と、未来への備えとが同居するパラドクスを象徴する。そこには「到達点に立ちながらも終点であることを拒む」意志が宿り、友人はその意志を点検する内なる批判者として機能している。やがて場面が土のグラウンドへと移行すると、舞台は都市的なコンクリートの隘路から、裸の地面という原初の大地へと反転する。小中学校時代の仲間たちと繰り広げる紅白戦は、記憶の深層に埋め込まれた「源初の遊び」への回帰であり、そこで発揮されるドリブルやクロスは、自己表現の純粋な喜びそのものとして噴出する。右サイドから繰り返し放たれる芸術的センタリングは、「与える技術」の象徴である。自らの突破で得た優位を、仲間のゴールという共同成果へと譲り渡す快楽は、自己完結的な卓越性の先で見出される分有の歓びであり、生のエネルギーが他者とのネットワークを通じ循環する様を示唆している。突破できぬディフェンダーがまだこの世にいないという確信と、いずれ現れるかもしれない若手への警戒とが同居する構図は、「未来の自分」が「現在の自分」を越えてくる可能性を暗示し、時間を孕む緊張感がそこに漂う。第二の夢――空港の中華料理店――は、空間的には「旅立ちの待機ゾーン」、時間的には「制限された滞在」というきわめて象徴的な場を設定している。4時間制という枠は、自己が自覚する可処分時間の有限性を示し、隣席の11時間制は、同じ場所にいながら別の時間密度を生きる他者の存在を際立たせる。味噌汁のおかわりという極めて日常的な行為が、制限時間の残り5分という切迫と重なる場面は、「ささやかな滋養」と「有限時間の刻限」が一点で交わる劇的瞬間である。それを平らげたあと、満腹と満足感を抱いて店を出る姿は、限られた枠内でも充足を得られる自己の時間運用の巧みさを物語る。同時に、定時に響く搭乗のサインは、「次の場面へ進む不可逆のリズム」を告げる鐘である。空港は通過儀礼としての空白空間であり、そこで旧友の女性が駆け込む姿は、自己の中に潜むアニマ(内なる女性性)が旅の同行者として最終的に合流した合図である。「ギリギリ間に合った」というやりとりは、内的統合が時間ぎりぎりで成立したドラマを象徴し、不確定な目的地へ向けての出発感と結び付く。これら2つの夢を統合的に眺めると、第一の夢が「動的自己の研磨」を、第二の夢が「時的自己の旅立ち」を描き、それぞれが「境界空間」で展開されている点が際立つ。駐車場から土のグラウンドへ、そして空港レストランから搭乗口へ――いずれも安住ではなく移行の場であり、主体は常に「途中」であることを肯定している。さらに4時間と11時間という対照的な時間枠、ドリブルの無敵感と未知のディフェンダーへの予感、味噌汁という原風景的食物と国際線という広大な外界――これらは「有限と無限」「現在の充足と未来の挑戦」という二項を絶えず往還させる振り子のように機能し、夢全体にリズムを与えているのである。フローニンゲンという実際の居住地が注記されたことで、物理的現実と夢の時空が静かな呼応を見せる。ヨーロッパの北端に身を置きながら、夢では日本的な情景や旧友が現れ、さらに空港という世界の結節点を巡る。そこには、地理的距離を越えてなお保たれる文化的・情緒的ルートが浮かび上がる。自己は異郷に腰を据えつつ、身体的・感情的ルーツを携えたまま、未来へ続く未知のフライトに乗り込もうとしているわけである。ゆえにこの夢群は、「自分の中に潜む最高性能のドリブル」と「制限時間付きの中華料理店」という2つの比喩を通して、自己の潜在力と時間的制約、そしてその双方を超克しようとする旅の意志を立体的に編み込んでいる。総じて、これは「限りある時のうちに無尽蔵の技を磨き、他者と歓喜を交換しながら、新たな地平へ飛び立つべし」という内的勧告であり、同時に「どれほど高みに達しても、なお練習をやめない者こそが真に自由である」という確信の表現である。フローニンゲン:2025/6/20(金)06:32
16850. 波動を見せる種々の現象
今日は気温が16度ぐらいの中で朝のジョギングとウォーキングを楽しんだ。自宅を出ると冷んやりとした空気がとても心地良く、冷たい空気に包まれながらまずはジョギングをした。近所の小川が見えて来たところで走る足を止め、ゆっくりと歩くことにした。小川の水面にいたアヒルに注目すると、アヒルが水の中に嘴を突き、波紋が出来ていた。それを見て、量子の波の動きが連想された。そして、聞こえてくる音もまた波のように伝わっているのだろうと連想され、私たちの意識もまた波のようにどこまでも拡散し、お互いの解離した個別意識は波の干渉として互いに共鳴し合うのだと思った。こうして朝の散歩から得られる何気ない観察が、意識とリアリティの地動説に活きてくることを実感した。それもそのはずで、外界世界はまさに意識の映し鏡であり、外界の観察は意識の観察に他ならないのである。外界で観察されることは、意識世界の中でも相似形として現れているに違いない。そんなことを考えながら散歩から帰ってきた。最近はランニングの途中からは体温が上がってきて、上半身裸になって朝日を浴びるようにしている。今日は幾分冷んやりしていたが、それでも朝日が直接体に当たると暖かさを感じ、日光浴にはちょうどよかった。今、日々の生活習慣にせよ、探究上の習慣にせよ、諸々の習慣が良きサイクルとして回っていることを実感する。それが内から滲み出す幸福感の源泉にあるように思う。
波の動きを見ることができる現象は、音以外にも多数存在しており、それぞれが異なる物理的性質を持つ波動を可視的に表現している。第一に挙げられるのは朝の散歩の中で見たように水面波である。これは水の表面に発生する波動であり、石を投げた際の波紋や風によるさざ波、さらには津波などが該当する。これらは波の干渉、反射、回折、散乱といった基本的性質を直観的かつ視覚的に観察することができ、物理教育の場などで頻繁に用いられるものである。第二は光波である。光自体は電磁波であり、直接的にその波動を視認することはできないが、干渉や回折といった現象を通してその波動性を確認することが可能である。例えば、シャボン玉の表面や油膜の薄膜干渉、回折格子に当てた際に生じる虹色のパターン、ヤングの二重スリット実験における干渉縞などがその典型である。第三に弦の振動が挙げられる。ギターやバイオリンなどの弦楽器において、弦が振動する様子は条件によっては肉眼でも確認可能である。特に定常波が形成されると、腹と節の位置が可視的に現れ、波の周期構造を明確に示す。ストロボスコープやスローモーションカメラなどを用いれば、より詳細な観察が可能である。第四に音波や圧力波の可視化がある。通常、音は空気中を伝わる縦波であり視覚的には見えないが、シュリーレン法やシャドウグラフィーといった高精度の光学技術を用いれば、空気密度の変化を視覚化することができ、音波の伝播や衝撃波を画像として観察することが可能となるらしい。また、クラドニ図形のように、金属板の上に砂をまき、特定の振動を与えることで、節の位置に幾何学的な模様が形成される現象も、音波の節の可視化として有名である。第五に電磁波の伝播を示すコンピューター・シミュレーションがある。可視光以外の電磁波、例えばマイクロ波や電波といった波動も、電場および磁場の振動として記述されるものであり、これらの変動を数値解析によって映像化すれば、波動としての性質を視覚的に理解することが可能となる。このように、波の動きを見ることができる現象は音に限らず、水、光、弦、空気、電磁場など、さまざまな媒体において観察可能である。波動は自然界に普遍的に存在する運動様式であり、その可視化は人間の理解を深め、応用技術の発展にも寄与している。ゆえに、波を見ることは、単に視覚的興味にとどまらず、物理的本質への洞察に通じる知的営みなのである。そしてそれは、意識とリアリティの真相を洞察することにつながる。フローニンゲン:2025/6/20(金)10:42
Today’s Letter
Nonduality is neither physical nor mental; it transcends all dualities. The environment is alaya-consciousness, and its underlying nature is epiontic. Groningen, 06/20/2025
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