【フローニンゲンからの便り】16843-16846:2025年6月19日(木)
- yoheikatowwp
- 6月21日
- 読了時間: 12分

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タイトル一覧
16843 | Tri-Aidの効能を実感して |
16844 | 今朝方の夢 |
16845 | 今朝方の夢の振り返り |
16846 | 量子同士の相互作用について |
16843. Tri-Aidの効能を実感して
時刻は間もなく午前7時半を迎える。今日もまた爽快な青空が起床直後から広がっている。今の気温は14度で、今日の日中の最高気温は21度とのことなので大変過ごしやすい。今、2階の両側の窓を開けているのだが、冷たい風が流れて来てとても心地良い。フローニンゲンは夏でも早朝は涼しいことが有り難い。この時期はまだまだ朝は肌寒いぐらいである。今日は快晴の中ジムに行くことができ、行きと帰りのジョギングおよび散歩はとても気持ちが良いだろう。
昨日、知人の早田航さんから嬉しいプレゼンを受け取った。航さんが注目をしているTri-Aidというプロダクトを日本から送っていただいたのである。商品に合わせて航さんが自分のために作ってくれた解説動画もメールで送っていただき、それを見て早速使ってみた。実際にはこのプロダクトが届いてすぐに梱包を開け、早速午後の仮眠の際に枕の上に置いて使ってみた。特に首のツボを刺激することに関して大変有効だと実感し、仮眠中はずっと首の何かしらのツボを刺激していた。首には眼精疲労に効くツボがあるらしく、日々学術探究を通じて目を使っている自分にとってはとても有り難い。航さんの動画を夜に見て、そこから入浴をして就寝前にも使ってみた。ここでも大きな効能を実感した。入浴後は血流も良くなっているので、そこにこのプロダクトを活用すると、さらに血行が良くなる実感があった。背中にもたくさんのツボがあり、背中のツボを押すことは、内臓の調子を整えることにも繋がるらしい。首には自律神経が密集しているため、ツボを刺激することで自律神経のバランスが整い、ストレス緩和、不眠、イライラ、冷え性などの改善に繋がることがあるらしく、首にせよ、背中にせよ、普段ツボを自分1人では押せない箇所もこのプロダクトを使えば1人で押さえてしまうのがとても良い。ちょうど旅行にも持って行けるような持ち運びに便利なサイズであることも嬉しい。これまでは2階の書斎で立って本を読んでいる時には、足の裏を刺激するマッサージボードに乗っていることが多かった。今こうして日記を書いている時にもそれに乗っている。足裏のツボはこれまで毎日十分に刺激していたが、これからは首や背中のツボをこのプロダクトを通じて刺激し、全身の血流を良くしていきたい。特に背骨は生命の根幹であり、脳とつながる太い神経の束である脊髄は脳に情報伝達をする大切な働きをしている。このプロダクトは、脊髄液の流れを良くすることに大いに役立つ。今夜もまた入浴後に、ベッドの上で壁にTri-Aidを置いて首や背中のツボを押して読書をしてから寝ることにしたい。このプロダクトを継続して使ってみて、またどのような変化が心身にもたらされるかを観察してみよう。フローニンゲン:2025/6/19(木)07:39
16844. 今朝方の夢
今朝方はどのような夢を見ていただろうか。夢の中で私は、見慣れない山の上の駐車場にいた。そこに2人ほど知り合いがいて、1人は大学時代のサークルの友人だった。2人と少し話をした後に、かつてのサークルの友人が小さな白いボールを取り出した。今から駐車場で少しサッカーをして遊ぼうとのことだった。実際にサッカーをし始めると、単なる遊びのように思えてきて、あまり練習にならないと思った。より刺激を求め、そのボールを駐車場の坂道から転がしてみて、それを追いかけた方がよほど鍛錬になるのではないかと思った。なので私はボールを勝手に坂道から転がすことにし、坂道で転がり始めたボールを自ら全力疾走で追いかけて行った。息は当然上がったが、先ほどまでの手ぬるい感じのサッカーとは違い、全身の筋肉が大いに活性化されるのを感じた。坂道を転がっていったボールは結局、坂道の下の花壇に入った。花壇からボールを取り出そうとすると、花壇の上にとても小さな小鳥が数羽いて、その横に大きめの鳥が1羽眠っていた。小鳥たちもうつらうつらと寝ているようで、彼らを起こさないようにしてボールを拾い上げたところ、大きめの鳥が目覚め、驚いたことに日本語で言葉を発した。どうやら私に警告のメッセージを発しているようで、花壇にいる小鳥たちに危害を加えないようにすることと、すぐさま花壇から出ていくことを要求し、さもなければ嘴で足を突くぞと脅してきた。実際に、すでにその鳥は私のズボンの足の部分に口を当てており、その鳥の言うことを聞かないと痛い目に遭うぞと思ったのですぐに花壇を後にすることにした。
もう1つ覚えているのは、見慣れない教室で大学数学の問題を解いている場面である。おそらくそこは大学の教室だったのではないかと思う。いずれにせよ、まずは数列の問題を解いていた。それは一見すると高校数学の問題のようにも思えたが、大学数学の要素が盛り込まれていた。その問題に取り組んでいると、周りにいた生徒たちはかなり苦戦しているらしく、彼らのような数学を得意としている連中でもこの問題は難しいのだと思った。しばらく手を動かしていると、これは最後まで解けそうな感覚があった。自分にとってはその問題はさほど難しくなく、これは正解できそうだぞという手応えがあった。そこで友人に声をかけられ、いったん違う問題に取り掛かった。その問題も他の生徒は苦戦しているらしく、実際に自分で手を動かしてみると、その問題に関しても解法が思いついた。両方の問題で頭を悩ませている周りの人たちとは対照的に、自分はどちらも正解できるという予感があった。しかし、問題を最後まで解き切らないところで友人から声をかけられ、教室を離れて遊びに出かけることにした。教室を離れても自分の頭の中は先ほどの数学の問題があり、遊び終えたら2つの問題は必ず最後まで解き切ることを心の中で誓った。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2025/6/19(木)07:53
16845. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自己の成長過程における「身体―精神」「遊戯―鍛錬」「衝動―制御」という3つの対立軸を重層的に映し出していると考えられるとChatGPTは述べる。舞台は見慣れぬ山頂の駐車場である。駐車場は本来「移動の終点であり起点でもある空白地帯」であり、そこが山頂にあるという逆説がまず象徴的である。高所は到達点や霊的高みを示しつつ、一方で「これから先へ進むには下らねばならない」という下降運動を孕む。すなわち、意識的には到達感を得ているが、無意識は「まだ下りていって発見すべき領域がある」と告げているのである。大学時代の友人と小さな白いボールでサッカーを始める場面は、過去の共同体的安心感と軽い遊戯性を表す。だが白球はスポーツ用の公式サイズではなく掌中に収まるほど小さい。縮尺を誇張する夢の作用により、「今のままでは挑戦が足りない」という違和感が浮き彫りになる。そこで自分は自発的にボールを坂道へ解き放ち、自らも全力で追いかける。これは外的規範から逸脱し、重力という自然法則に身を委ねつつ、自分で負荷を創出していく能動性の表明である。息切れとともに筋肉が覚醒する感覚は、眠っていた活力が呼び起こされる予兆であり、精神のみならず身体感覚も研ぎ澄まされねばならないという自己メッセージである。坂の下の花壇は、整えられた土壌と芽吹きのイメージが重なり、無意識層で醸成されつつある「繊細な可能性の苗床」を示唆する。そこに小鳥が数羽いることは、その可能性がまだ幼く脆弱であることを強調する。一方、眠っていた大きな鳥は、花壇というリミナルな境界を守護する門番であり、ユング心理学的に言えば「自己(Selbst)」や「賢者」の側面を帯びる。驚くべきことに鳥は日本語で警告を発し、嘴という具体的な痛覚刺激をちらつかせて自分を制止する。ここには、芽生えたアイデアや感受性を乱暴に扱うなという超自我的命令が含まれる。鳥は「ただちに花壇を離れよ」と命じるが、それは単なる排除ではなく、「今は過度に介入せず、成長の余地を尊重せよ」という教育的指示である。ズボン越しに嘴の感触を覚えた事実は、警告が単なる観念にとどまらず、行動原理として身に刻まれたことを物語る。場面が転じて大学の教室へ移ると、今度は知的鍛錬の局面が現れる。数列の問題は「離散的だが連続性を孕む時間軸」や「人生の段階的発展」を象徴し、難度の高い大学数学が日常レベルの延長に置かれている点が印象的である。周囲が苦戦する中で自分は解法の筋道を直観し、「自分には解ける」という確信を抱く。この自信は前場面の身体的疾走と相補的であり、「肉体を総動員すれば知性もまた覚醒する」という無意識の了解事項が示されている。ただし途中で友人に誘われ、解答を完成させないまま教室を離れるという中断は、「社交的欲求と探究心のせめぎ合い」を生々しく映し出す。自分は遊びに出てもなお問題を反芻し、いずれ解き切ると心に誓う。ここには「未完の課題を抱えつつも、それを放り出さず熟成させる」という成熟した姿勢が読み取れるとChatGPTは述べる。両場面の間には興味深いパラレルが存在する。駐車場での軽いサッカーは、教室での表面的な解答作業に対応し、坂道の全力疾走は、問題を深層まで掘り下げる集中状態に相当する。花壇に足を踏み入れる行為は、解を得る寸前で「核心に触れる」行為と重なるが、いずれも守護者(鳥/友人の呼びかけ)によって一時停止を余儀なくされる。これは「他者との関係や内的倫理が、個の欲望を調整する」という働きの象徴である。そして最終的に主体は花壇を傷つけずに退き、数学の答案を先延ばしにしつつも完成を期す。つまり夢全体は「より大きな力に委ねる柔軟性と、自力で成し遂げる意志とを両立させよ」と教えている。総じて、この夢は自己の多面的成長段階を俯瞰する一夜の光景である。第一幕で肉体と本能の衝動を活性化し、第二幕で知性と計画性を点検する。いずれの場面でも、自己は既存の枠を越えた挑戦を欲し、同時に気づきと警告を受け取る。山頂から坂を下る運動と、教室から外へ出る運動はともに「区画の外へ踏み出す自由」を讃えつつ、「未熟なものを乱暴に扱うな」という倫理的ブレーキを伴う。そこには「深化と慎重さ」という、未来の成長に必須の二律背反が精妙に組み合わさっている。もし現実生活で、安定的な環境にいながらも新たな刺激を求める衝動や、他者に先んじたいという知的競争心が芽生えているなら、この夢はそれらを肯定しつつ、同時に「足元の脆い芽を護れ」と助言しているのであろう。花壇の小鳥を気遣ったように、周囲や自分の内側に潜む繊細な要素を尊重すれば、新たなチャレンジはより豊かな実りをもたらすはずである。夢の残響を胸に、次なる坂道と数式へと軽やかに向かうことが期待される。フローニンゲン:2025/6/19(木)08:12
16846. 量子同士の相互作用について
時刻は午後4時半を迎えた。今、輝く夕方の太陽がとても美しい。気温は20度ほどだが、日中は21度ぐらいまで気温が上がっていた。今日は、太陽の光の暖かさと相まって冷たい海風が大変気持ち良かった。気温の上昇は限定的だったが、ジムまで準備運動がてらジョギングをして代謝を上げていたこともあって、ジムでのトレーニングは適度に汗をかいた。ジムでは身体を鍛えながら、自分の心を見つめたり、学術的なテーマについて考えたりしている。ふと考えていたのは、量子どうしの相互作用に関するものだ。物質主義・物理主義のパラダイムを離れると、非物質的・非物理的な身体と、例えば非物質的・非物理的な毒ガスはどのように相互作用するのかと考えていた。どちらも根源に意識(個別意識および普遍意識)を置くと、その相互作用はどのように説明されるのか気になった次第だ。量子としての身体と量子としての毒ガスとの相互作用は、量子物理学的視座、量子化学的機構、そして哲学的世界観に基づいて多層的に考察されるべき現象である。まず、量子力学的な観点から見ると、身体も毒ガスも、量子場の励起として存在しており、それぞれの構成要素—原子や分子—は、確率的な波動関数として空間と時間にわたり展開している。身体に吸入された毒ガス分子は、その電子配置とエネルギー準位において、身体内部の分子(特に酵素や金属イオンなど)と干渉・結合する可能性を持ち、その相互作用は電子軌道の重なりや遷移という量子力学的機構を通じて進行する。例えば、シアンイオン(CN⁻)がミトコンドリアの鉄イオンに結合することで、電子伝達系が阻害され、酸素によるATP合成が停止する。この過程は、量子的視点からすれば、波動関数の干渉と崩壊(デコヒーレンス)という不可逆的現象として記述されるとChatGPTは述べる。また、観測と意識の関係に焦点を当てた哲学的解釈、特に観念論的・唯識的世界観においては、毒ガスの作用や身体の崩壊といった現象自体が、観測主体の意識的枠組みにおいて意味づけられた「現象的世界(仮現)」として立ち現れる。すなわち、毒ガスによる生理的変化は、主観的認識作用によって波動関数が収束した後の現象であり、それは意識という中心的な実在が構成する1つの経験的出来事にすぎない。さらに、プロセス哲学的、すなわちホワイトヘッドの宇宙論に依拠するならば、身体と毒ガスは共に「出来事(actual occasions)」の連鎖で構成される有機的過程である。毒ガスの分子は、身体を構成する出来事系列に対して「否定的な前構成(negative prehension)」として作用し、生命過程の秩序的連鎖に混乱と断絶をもたらす。このように、毒ガスとの出会いは、生命という過程の中で共鳴的な破壊因子として介入し、それによって存在の連続性が損なわれる。要するに、量子としての身体と量子としての毒ガスは、物理的には波動関数の干渉・崩壊を通じて分子的・生理的反応を引き起こし、哲学的には観測意識における現象構成、あるいは出来事の相互的生成という構造の中で意味をもって理解される存在である。このような多層的理解によって初めて、「量子としての毒ガスが身体にどのように作用するのか」という問いに対する包括的な解答が導き出されるのであるとChatGPTは述べている。これまでは物同士の相互作用として考えていたものを、究極的な意識的な物同士の相互作用として考えてみることで、また何か新たなことに気づくかも知れない。フローニンゲン:2025/6/19(木)16:40
Today’s Letter
The mystery of the double-slit experiment can be articulated in terms of Yogācāra epistemology, particularly its insights into the unity and differentiation of subject and object. I am looking for other mysterious experiments in quantum physics that could be explained through the lens of Yogācāra Buddhism. Groningen, 06/19/2025
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