【フローニンゲンからの便り】16835-16838:2025年6月17日(火)
- yoheikatowwp
- 6月19日
- 読了時間: 11分

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タイトル一覧
16835 | 輝く朝日の下で |
16836 | 今朝方の夢 |
16837 | 今朝方の夢の振り返り |
16838 | 共鳴と新たなサンダル |
16835. 輝く朝日の下で
時刻は間もなく午前7時を迎える。今、燦然と朝日が輝いており、優しい朝日が地上に降り注いでいる。小鳥がそれを喜ぶかのように、鳴き声を上げた。今の気温は13度と涼しく、昨日は1日を通して涼しかったこともあり、2階には熱が溜まっていない。しかしそれでも朝の時間帯は窓を開け、少し換気をすることにしている。早朝に窓を開けられる時期はここから9月を迎えるまでぐらいしかないだろう。寒さがやって来る9月まで、この暖かさを十分に味わっておきたい。
今日は午後に親友かつかかりつけの理髪師のメルヴィンの店に行って髪を切ってもらう。5週間に1度の散髪は、メルヴィンとの対話の機会としていつも楽しみにしている。前回の散髪では、『キバリオン』の話となり、後日メルヴィンがわざわざ書店でそれを購入して自分の家に贈り届けてくれた。今日はこの書籍に関する感想をまず伝えたいと思う。そして、メルヴィンから借りていた量子論に関する基礎的なテキストを返そうと思う。それらの書籍に関する話をしながら、今日もまたどのように話が展開されていくのかが楽しみである。今日のその他の楽しみは、いつものように学術研究に従事することだ。『法相二巻鈔』の漢文に対して、毎日決められた分量のページを転写していきながら読解をしていくこと、そして量子仏教に関する書籍を音読読解していくこと。それが毎日欠かさず行っていることで、それに並行して唯識に関する書籍も旺盛に読み返している。今は中観思想にも関心を持っており、中観と唯識はお互いにライバル関係として、あるいは同盟関係として、切磋琢磨して思想を磨いてきた歴史がある。それを踏まえると、唯識について単体である程度理解を深めたら中観についても探究に乗り出すことによって、両者の理解がより深まるだろう。そういう算段で少しずつ唯識に関する専門書を読み始めている。幸いにも英語のテキストでいくつか良いものをすでに持っており、まずはそれらを核にしながら探究を進めていきたい。フローニンゲン:2025/6/17(火)07:08
16836. 今朝方の夢
朝のそよ風を感じながら、今朝方の夢を振り返っている。まず覚えているのは、愛犬が最期を迎えようとしており、両親と一緒に車に乗って動物病院に連れて行こうとしている場面である。私は後部座席に座っていて、右隣には知り合いの画家がいた。彼女も犬を連れてきており、それは白くて大きな犬だった。その犬もまた最期を迎えようとしているようだったが、見た目はまだ若く、私の横にやって来て、私の顔をペロリと舐める元気さがあった。一方、うちの愛犬はもう随分とおとなしくなっていて、しかも老化が一気に進んでいるかのようだった。うちの愛犬は動くことをほとんどせず、目もほとんど閉じながら呼吸だけをなんとかしていた。動物病院の駐車場に到着し、車を降りると、病院が開くまでもう少し時間があったのでそこで待っていると、自分よりも少し年上の男性が薄いヴェールに包まれた犬を抱えてやって来た。どうやらその犬は最期を迎えようとしているというよりも体調が悪いだけのようだった。その男性は今回初めてこの動物病院にやって来たようで、先生の腕前について少し疑念があるようだった。すると父が、先生を庇うかのように、先生の腕前を褒め、もし疑念があるのなら他の動物病院に行くことを勧めた。するとその男性は少し申し訳ないような表情を浮かべ、結局黙って先生を信頼して診察を受けることにした。すると、知人の愛犬が突然走り出し、病院の横の方に向かっていった。知人の彼女は犬を追いかけ、私も気になったので追いかけた。無事に彼女は愛犬を捕まえたところ、病院の脇の道を隔てた向こう側の一軒家から1人の女性が玄関から出てきた。何やら知人の女性はかつてこの辺りに住んでいたらしく、今玄関から出て来たのは彼女の知り合いとのことで、2人は再会をとても喜んでいた。玄関から出てきた女性は占い師でもあるらしく、私たち2人に相性の良さを伝えてくれたのだが、私たちは少し照れ笑いを浮かべた。そこから時間が突然進み、両親と私は愛犬を自宅で看取った。最後は愛犬がなぜか頭だけの存在となり、頭だけが静かに呼吸をし、最後に息を引き取った。苦痛なく、とても安らかな臨終だった。
もう1つ覚えている夢の場面として、幼少期に見ていたアニメの主人公が、目には見えない敵に対して本気を出し、青色く輝く状態に変化したことである。それがそのキャラクターの本気の証であり、それを見た瞬間に、彼は敵を必ずや撃退するだろうと思った。おそらく今朝方はもう1つ何か夢を見ていた気がする。そう思うと思い出したのは、大学時代のフットサルサークルのメンバーと一緒に大会に出場していた場面である。先輩や後輩はほとんどおらず、同じ学年のメンバーだけでの出場となった。自分はその試合でゴールを決めたら、婚約の申し出をある女性にしようと思っていた。しかし、ゴールを決めたらその申し出をするとはなかなか言いずらかった。というのも、確かに大会でゴールを決める自信はあったが、ゴールを決められる保証はなかったからである。なので別にゴールによらず、また試合の結果によらず、大切な人に思いはちゃんと伝えようと思った。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2025/6/17(火)07:23
16837. 今朝方の夢の振り返り
今朝のそよ風の中で思い返された一連の夢は、死と再生、疑念と信頼、子ども時代の理想と成熟した愛の表明とが多層的に折り重なり、1つの連続した物語を織り成している。最初に浮かび上がるのは、愛犬の死期を前にした家族の移動という場面であり、ここには「旅立ちの儀式」という古層の原型が潜む。車という閉ざされた小宇宙のなか、後部座席に座る「私」は傍らに画家の知人を迎える。創造性を象徴する画家は、白く若々しく見えながらも最期へ向かう犬を連れている。その白さは希望や純粋さを示すが、同時に「若さでさえ死から免れ得ない」という厳粛な真理を映し出す。その犬が舌で頬を舐める場面は、生と死の境にあってもなお及ぶ愛情の温度を思い出させ、老い衰えた愛犬の静かな呼吸と鮮烈な対比を成す。二頭の犬は、未来に向かう活力と過去を閉じゆく存在とを1つの視界に同居させ、「私」の内面に潜む二極性を可視化する。動物病院の駐車場は、現世と彼岸の閾を象る舞台装置である。そこに新参者として現れる男性とヴェールに包まれた犬は、「信頼の試練」を担う。男性の疑念は、「私」が抱える見えぬ不安の投影であり、父の静かな擁護は家族的価値観に根差した確固たる信頼の姿である。病院の開門を待つわずかな時間は、死が決定的に到来する前の「暫定的な無時間」であり、夢全体に漂う静謐な緊張を孕む。ここで白い犬が突然走り出し、隣家から現れる占い師と知人との再会が挿入される。疾走は抑圧された衝動の解放であり、占い師は運命論的視座をもたらす媒介者である。彼女が口にする「相性の良さ」は、現実の交友関係というより、夢を共有する者同士——ひいては「私」と私自身の多面的な部分——の統合可能性を予告する。照れ笑いは、心のどこかでその統合をまだ受け容れ切れていない内的抵抗の表情である。時間が飛び、自宅で看取る場面に移行する。愛犬が「頭だけ」となって静かな呼吸を続ける異様な光景は、肉体性を脱ぎ捨て純粋な意識のみが残る転生のイメージである。苦痛なく息を引き取るさまは、死が必ずしも破壊ではなく、完成へ向かう円環の一部であることを告げる。頭部とは思考と記憶の座であり、長きにわたって共に過ごした愛と時間が最後に凝縮された象徴的残余として示されたのであろう。次に挿入される幼少期のアニメの主人公は、過去の理想自我そのものである。目に見えない敵は実体のない不安や喪失感であり、主人公が青く輝く姿は「真の力の発現」、すなわち自己治癒力や直観的智慧の覚醒を意味する。青は精神性や冷静さを雪のように澄んだ光として放ち、先の喪失を受け止めるための心的エネルギーを供給する。最後のフットサルの場面は、共同体の中での自己肯定と愛の表現をめぐる成熟の試練である。同学年だけで挑む大会は水平的な関係性を示し、ゴールと婚約を結びつける思考は「成果に支えられた自己価値」の古い枠組みを映す。だが夢の「私」はそこで一歩踏みとどまり、結果に依存しない愛の伝達を決意するに至る。これは他者への献身と自己肯定とが実績条件から解放され、より自由な形で統合される過程を示す。以上3つの場面は、死の受容がもたらす喪失の痛みと、そこから立ち上がる再生の力とを段階的に描く。第一場面で肉親的愛情と創造的衝動が死を前に交錯し、第二場面で内なるヒーローが超然とした力を帯び、第三場面で社会的次元における愛の自立が宣言される。全体を通じ、「私」は〈別れ→覚醒→宣言〉という3つの門をくぐり、朝の風のように透明でしなやかな新たな自己へと歩み出したのである。日々の夢は、自己の歩みをまた新たなものにしてくれる価値を帯びている。フローニンゲン:2025/6/17(火)07:40
16838. 共鳴と新たなサンダル
時刻は午後4時を迎えた。先ほど散髪から帰ってきた。今日は気温が25度に達し、肌寒くもなく、暑くもなくという素晴らしい気候だった。昨日はジムでのトレーニングがあり、午後に散歩がてら街の中心部に出かけたことは良いアクティブレストになった。フローニンゲンは常にとても落ち着いた雰囲気を発していて、これはオランダの他の都市でも概ね共通している。自分はこうした忙しなさのなく平穏な雰囲気を発し続けているオランダの風土が好きなのである。そうしたことを改めて感じた。今日は平日であったが、ノーダープラントソン公園には、シーツを敷いて寛いでいる人の姿を多く見かけた。また、街の中心部では、今日は火曜日ということもあって市場が開かれていて活気があった。街の中心部には活気があるが、そこから少し離れるとすぐに落ち着いた雰囲気となり、そのコントラストが心地良い。メルヴィンの店に到着すると、今日は店の前のベンチに腰掛けてメルヴィンがギターの即興演奏をしていた。何やら今日は自分の散髪の前に1時間半ほどの休みを取り、ゆったりとした時間を過ごしていたとのことである。毎日多くの客の髪の毛を切っているメルヴィンにしては今日は珍しい時間の過ごし方だと思った。どうやら今日はいつもより遅い時間に客の髪を切ることになっているらしく、なので正午の時間は時間を取って休息していたとのことだった。そこから店の中に入り、ダブルエスプレッソを淹れてもらって、いつものようにお互いにソファに腰掛けて近況を話し合った。いつもこの時間帯がとても有意義であり、そこから散髪台に移ってからの会話も盛り上がった。今日はお互いに色々な偶然が重なっていることに話題に花が咲いた。メルヴィンに量子論の書籍を返却したところ、メルヴィンの彼女のプロの写真家のアンジェリカも最近量子論に関心を示しているらしく、ちょうど彼女にその本を読んでもらいたいと思っていたとのことだった。また、「最近シロシビン·マッシュルームを摂取した?」とメルヴィンに問い掛けられた時、そろそろそれを摂取するタイミングかもしれないと考えていたところだったことを伝えた。お互いに最後に摂取したのは昨年の夏とのことで、最後に摂取したタイミングが重なり、同時に再度摂取しようとしようと考えているタイミングも重なっていることに驚いた。そこからも意識とリアリティの話で盛り上がり、メルヴィンは確かに読書家ではあるが、生粋の学術書から知識を得ているというよりも、自らの思索を通じて深い洞察を得ているタイプである。そんなメルヴィンが話す内容は、今自分がようやく浸透させつつある量子唯識観念論的なパラダイムの考えと深く響き合う。そんなメルヴィンに今日の話からも深く敬意を表した。店を後にした時に、ふと足元を見ると、長らく愛用してきたビルケンシュトックのサンダルの踵が潰れ、大いにすり減っていることに気づいた。よくよく考えてみれば、これは今から10年前に東京に住んでいた時に購入したことを思い出し、寿命が来たのだと思った。これまでの10年間本当にお世話になったと思い、街の中心部の靴屋に行って、全く同じモデルの1つサイズが大きいものを購入して帰って来た。ビルケンシュトックのサンダルが好きな理由として、解剖学に基づいたフットベッドの履き心地にある。フットベッドには、細部まで考え抜かれた機能性があり、身体の健康を促進する効果があるらしく、上質な素材と地球に優しい天然のコルクを使用し、履けば履くほど自分の足に馴染み、唯一の一足へと育むことができる点も魅力に感じている。ここからまた10年ぐらいこのサンダルにお世話になり、このサンダルを履き潰す頃には自分はどの国のどの町で生活をしているのだろうかとぼんやりと考えた。フローニンゲン:2025/6/17(火)16:15
Today’s Letter
My existence is like water in the sea. I am the boundless sea itself. Therefore, I cannot disappear after death—I simply return to the infinite ocean. That’s all. Groningen, 06/17/2025
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