【フローニンゲンからの便り】16830-16834:2025年6月16日(月)
- yoheikatowwp
- 6月18日
- 読了時間: 14分

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タイトル一覧
16830 | 『法相二巻鈔』の翻訳と註釈に向けて |
16831 | 今朝方の夢 |
16832 | 今朝方の夢の振り返り |
16833 | 二重スリット実験と意識 |
16834 | 涼しさを感じながらの自主トレーニング |
16830. 『法相二巻鈔』の翻訳と註釈に向けて
時刻は午前6時を迎えた。今日からまた新たな週が始まる。週の初めには、その週が充実したものになるという期待と確信の双方が芽生え、実際にその気持ちに応える形で週が進んでいく。今週もまた実り多き週になるだろう。昨日は気温が下がっていたが、一昨日の気温の上昇を受けて、まだ2階の室温が比較的高かったので、今朝も窓を開けて換気がてら気温を下げている。今の気温は13度なので、もうしばらく窓を開けていたら随分と室温は下がるだろう。今日は天気に恵まれながらも最高気温は22度とのことで、気温の上昇は限定的でとても過ごしやすい。気温が30度に到達すると、それに伴って室温も上昇してしまうので、できれば今ぐらいの気温でずっと過ごしたいものである。
昨日、2021年にBDK America出版より、『観心覚夢鈔』の完全な英訳書が出ていることを知った。それを見て、『観心覚夢鈔』を自分で翻訳することそのものにはもはや意義がなくなったと感じた。註釈することには依然として価値はあるが、自分としては自らの手で英語に翻訳して、それに対してさらに自らで註釈を加えることに意義を見出していただけに残念である。しかし、すでにA. C. Mullerという研究者が素晴らしい翻訳をしてくれたことに感謝である。実際にPDFデータを通じてその翻訳を見たが、素晴らしい質だった。なので一旦は『観心覚夢鈔』の註釈プロジェクトは傍に置き、その代わりに『法相二巻鈔』の註釈プロジェクトを進めていこうと思う。念入りに調べたところこの文献に関しては英語に翻訳されていないようなので、翻訳と註釈に意義と価値がありそうだ。まさかすでに『観心覚夢鈔』が全て英訳されているとは意外だった。上述のように、それに対する解説はまだ誰の手によってもなされていないので、いつか解説を付す役割を担いたい。当初の予定では、『観心覚夢鈔』の翻訳と註釈を4本目の修士論文にしようと思っていが、計画が変更となり、『法相二巻鈔』の翻訳と註釈を修士論文として提出したい。今日からそれに向けて、『法相二巻鈔』の文章をワードファイルに転写していくことを行っていく。『法相二巻鈔』は初めて和文混じりで書かれた文章で、漢文以上に読みやすいし、転写の作業もより速やかなのではないかと思う。いずれにせよ、今日から転写作業に従事してみてその難易度を確認し、ペースを確立していきたいと思う。仏教研究も他の研究分野と同じく、数多くの研究者の協働によって成り立つ。誰かが何かの仕事をするから他の研究者の研究が進むのである。今回の『法相二巻鈔』の自分の研究もまた縁起の力によって、きっと誰か他の研究者に役に立つであろうことを祈る。フローニンゲン:2025/6/16(月)06:16
16831. 今朝方の夢
今朝方の夢としてまず覚えているのは、自分と同世代の学者兼有名なユーチューバーの家にいた場面である。彼と私は知り合いのようで、親しく話をしていた。彼の家には驚いたことにほとんど物がなく、引越しがとても楽そうだった。彼にそのことを伝えると、彼は同意し、笑いながら本当に引越しが楽だと述べていた。彼は学者ではあったが、立派な本棚には1冊も本がなく、本の代わりに動物の小さいぬいぐるみがいくつか置かれていた。彼の机には、マジック:ザ·ギャザリング(MTG)のカードのデッキがいくつか置かれていた。どうやら彼はMTGを愛好しているらしく、ちょうど隣にいた彼の友人とチームを組んで大会に出場することがよくあるとのことだった。次の大会では彼の友人をリーダーにするとのことで、その理由を尋ねると、今回のエディションにおいてその友人の才能が遺憾無く発揮されているからとのことだった。実際に2人の実力が知りたかったので、2人に目の前で対戦をしてもらうことにした。いざ対戦が始まるところで夢の場面が変わった。
次に覚えているのは、ある一頭の馬が飼い主の家と牧場の二拠点に存在が二重写しになる形で瞬間移動する場面である。物理的にはそのようなことはありえないはずなので驚いたが、何か得体の知れない新たな法則が働いたようで、実際にその馬は二拠点で同時存在していた。その場面を受けて、気づけば私は小中学校時代に住んでいた社宅の自転車置き場にいた。中学校まで歩いてすぐの距離だったが、どういうわけか私は自転車で通学しようとした。本来、自転車通学が許されているのは遠方から通う生徒だけだったが、自転車に乗って行った方が楽だと思ったので自転車に乗った。すると、自転車がとてもスムーズに颯爽と動き始め、横断歩道をスッと渡り、校内に入った。職員室を見ると、先生は誰もおらず、自分を咎める人は誰もいないことを確認して裏手の駐輪場に向かった。初めて自転車で通学したこともあり、駐輪場では誰がどこに停めるのかあらかじめ決まっているのかわからず、名札などがないか探ったところ、特にそのようなものはなかったので、自由に自転車を停めれるのだと思った。自転車を停めたところ、他校の生徒が2人自転車に乗ってきて、彼らも自転車を停めたいようだったので場所は自由であることを伝えた。すると気づけば薄暗い体育館の中にいて、そこで外国人のトレーナーからトレーニングメニューを受け取った。まず最初の種目は、小さいがしっかりとした重さのある錘を持って、垂直跳びをすることである。いざそのトレーニングが始まると、左横に小中高時代のある友人(SN)がいて、彼も同じ種目を行い始めた。最初は無理をせずに小さく跳べば良いとトレーナーから言われていたので、そのようにしたところ、1分間の時間が終わる頃には意外と足に負荷がかかっていた。どうやら自分は少し張り切りすぎていたようで、力を抜いていたつもりが、意外と高く跳んでいたようだった。隣にいた友人は体格も良く、自分よりも重たい錘で跳んでいたようだった。彼はすでにそのメニューを行ったことがあるようで、ニュートンの法則を持ち出しながら、下方向に働く3つの力の掛け合わせを意識すると良いと助言してくれた。そう言えば、かつて理科でその単元について習う際に、自分は病院に入院していたのでその単元を学ぶことができず、自分1人で後からキャッチアップしようとしたところ、内容が難しかったのを思い出した。彼の助言と実際にトレーニングでその単元の内容を体感してみると、以前理解できなかったことがスッと理解できたような気がした。フローニンゲン:2025/6/16(月)06:32
16832. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自己の各層が互いに共鳴しながら再配置され、あたかも幾何学的な多面体が回転するように、次々と別の面を見せる構造を持つ。最初の場面に登場する「学者兼ユーチューバー」は、知性の象徴である学者性と大衆に開かれた発信者としての側面とが、1人の人物に二重写しとなっている存在である。彼の家に物が少ないことは、情報過多の時代にあってなお、本質だけを選び取ろうとする意識の潔癖を示す。だが立派な本棚に一冊の本もなく、代わりに小さな動物のぬいぐるみが置かれていることは、蓄積された知識の外見を脱ぎ捨て、柔らかい感性や遊び心を知性の中枢に据えようとする逆説的意図を暗示する。そこに置かれたマジック:ザ·ギャザリングのデッキは、「学問=体系化された知識」と「ゲーム=即興的な創造」が等価に並ぶ世界観を示し、理詰めと直観、秩序と偶然とが一枚のカードの表裏であることを語る。友人を次の大会でリーダーに据えるという言及は、自我が自らの強みだけで世界を掌握しようとする姿勢から一歩退き、他者の才能を媒介とした共同創発へ軸足を移そうとする内的転換であるとChatGPTは指摘する。続く馬の二重存在の場面は、時間と空間の制約を超えて自己が同時多発的に生きる可能性を示す象徴である。牧場は外界‐野生、飼い主の家は内界‐飼い馴らされた部分を表わし、そこに一頭の馬が同時に在るというイメージは、対立する二元を溝なく統合する錬金術的イメージである。自分が驚きながらもその現象を「得体の知れない新たな法則」として受け取ったのは、論理では測れぬ直観世界の法則に自己が触れ始めたサインであると捉えることができるだろう。そこから一転して、自転車置き場という日常的かつ過去の記憶を喚起させる場面に遷移する。かつて暮らした社宅は、形成期の自己が格納された心の倉庫であり、その自転車置き場は「停滞」を象徴する場所である。そこから自転車で通学しようと決める行為は、かつての決まりごとや権威を軽やかに飛び越え、自己流の方法で道を開く決意を示す。横断歩道を「スッと渡る」感覚は、境界を越える際の恐怖が希薄化し、流れるような移行が可能となった心理的成熟を告げる。教師が不在の職員室は、外的権威の解体を象徴し、駐輪場の自由配置は、新たな秩序を自ら創出できる段階へと至った精神の自律を映す。さらに他校生に「自由でよい」と伝える場面には、自分が獲得した自由を他者にも分かち、秩序の再編成を共同で行おうとする社会的創造性が伺える。薄暗い体育館は無意識の奥まった空間であり、そこで外国人トレーナーから提示されるメニューは、外来の価値観や未知の方法論を通じて行われる魂の鍛錬である。小さな錘を携えた垂直跳びは、重力(制約)を敢えて受け取りながら、それを推進力に変える逆説の術を教える。ここで時間制限一分という枠が与えられるのは、有限性の中で無限への通路を見いだす試練である。左隣に立つ友人SNは、古い時代の自己像を投影したシャドウであり、かつて学び損なった力学の単元を体現している。彼がニュートンの法則を語りながら助言する様子は、知的理解が身体経験へと落とし込まれる瞬間を示し、長らく心に引っかかっていた「欠落」のピースが嵌まる音を鳴らす。ここで「自分は張り切りすぎていた」という気づきが添えられるのは、成果主義的な過剰努力を脱し、適切な力の抜き方を体得することで、知と行のバランスが取れるようになった兆しである。夢全体を貫く構造は、「空虚―充溢」「一元―二元」「束縛―自由」「頭脳―身体」が対となり、場面が移り変わるたびにその組み合わせがシャッフルされていく多重スリット構造である。カードゲーム、瞬間移動する馬、規則破りの自転車、物理法則を体感する跳躍──どのモチーフにも「既定のルールを書き換え、新しい力学を発見する」という共通ベクトルが潜む。しかもそれは単なる破壊ではなく、他者や過去の自己、そして身体感覚を媒介としながら、より包括的な秩序を紡ぎ出す働きとして現れる。最後に理解が「スッと」訪れる描写は、長いあいだ無意識に沈んでいた問いが、新たな文脈の中で発芽し、意識の光を浴びた瞬間である。したがってこの夢は、知と遊び、過去と未来、内と外を縫い合わせ、自己の運動エネルギーを刷新する一種の「内部革新プロセス」を示唆するものである。物の少ない家に始まり、負荷を伴う跳躍で結ばれるまでの流れは、「余計なものを削ぎ、軽やかに飛ぶ」という逆説的身体論を語る。今朝方、自分の心は、かつての制約を微笑みながら解除し、新しい法則を携えて次の局面へ踏み込もうとしている。ぬいぐるみの柔らかさと錘の重さが同一座標に置かれたとき、人は最小限の物質で最大限の跳躍を果たす──夢はその可能性を、場面転換という名の瞬間移動で鮮やかに描き出しているのである。フローニンゲン:2025/6/16(月)06:51
16833. 二重スリット実験と意識
先ほどふと、二重スリット実験において、監視カメラをオンにし、人が観察していない場合の量子の振る舞い方について考えていた。とりわけ、どのスリットを通ったかの情報が環境に記録される際に意識は関与するのかしないのか、それについて調べてみた。二重スリット実験において、どのスリットを通ったかの情報が環境に記録される場合、その量子的振る舞いにおいて人間の意識が関与するか否かという問題は、量子力学の解釈論における根本的争点の1つであるとのことである。結論から述べれば、標準的な量子力学、すなわちコペンハーゲン解釈や現代のデコヒーレンス理論においては、意識は波動関数の収縮や干渉縞の消失に必要不可欠な要因とはされていない。観測とは、意識的な知覚ではなく、粒子と環境、あるいは測定装置との物理的相互作用を意味する。例えば、スリット付近に設置された検出器や監視カメラが粒子と相互作用し、その情報が何らかの形で「記録」されれば、その時点で「経路情報が確定された」と見なされ、波動的な干渉は消失する。たとえ人間がその情報を後に見なかったとしても、干渉縞は現れない。この立場では、観測とは「情報の不可逆的な環境への拡散(エントロピー増大)」であり、意識という主体的要素は関与しないとされる。一方で、こうした客観主義的解釈に対して、意識が波動関数の収縮に関与するという立場も存在する。代表例が、フォン·ノイマン=ウィグナー解釈である。この解釈によれば、測定装置や環境との相互作用は波動関数の収縮を引き起こさない。最終的に、人間の意識がその情報を「知覚」した瞬間に初めて、波動関数が1つの現実的結果へと収束するという。この立場では、意識は単なる副産物ではなく、物理現象を確定させる本質的契機として働く。さらに、現代において注目を集めている量子ベイズ主義(QBism)は、これらとは異なる観点を提供している。この理論は、波動関数を客観的な物理実在ではなく、主体の信念や期待の表現と捉える。観測結果とは、外界そのものの記録ではなく、「私」という主体が経験する現象の現れである。この立場においても、意識的主体の存在が前提とされており、物理世界の描像は「観測者の立場に依存する経験の体系」として理解される。このような立場の違いを整理すれば、次のように分類できる。(1)コペンハーゲン解釈/デコヒーレンス理論:意識は不要。環境への情報記録=観測。(2)フォン・ノイマン=ウィグナー解釈:意識が波動関数収縮の決定要因。(3)QBism:波動関数は意識的主体の信念表現。経験が本質。この問題は、唯識思想(瑜伽行派)との接点においても興味深い射程を持つ。唯識においては、「一切は唯識の所変なり」とされ、あらゆる現象は識(vijñāna)の内的投影であると説かれる。これを量子解釈に適用すれば、環境との相互作用によって物理的に「情報が記録された」としても、それが識に現れるまでは未だ確定した現実とはならないという立場を取ることも可能である。すなわち、唯識的観点はウィグナー解釈と親和性を有し、「世界は意識によって成立する」という非二元的形而上学の1つの現代的展開とみなすことができる。このように、「観測における意識の関与」という問題は、単なる物理学的問いを超え、意識とは何か、現実とは何かという哲学的·宗教的探究と深く結びついている。ゆえに、二重スリット実験は、量子力学における技術的実験であると同時に、「観る者」が世界にどう関与しているかを問う、人間存在の根源的問題に直結する装置でもあると言えるであろう。ここからも唯識思想と量子論を架橋させる意義が見えてくる。フローニンゲン:2025/6/16(月)11:42
16834. 涼しさを感じながらの自主トレーニング
時刻は午後4時半を迎えた。ここ最近は日の入りが随分と伸び、午後10時過ぎが日の入りである。その時間を迎えてもまだ完全に真っ暗となるわけではなく、あくまでもそこから暗くなり始めるぐらいである。この時期が一番日照時間が長く、今の時間帯はまだまだ燦然と夕陽が輝いている。今日の最高気温はちょうど今の22度であり、非常に快適に過ごすことができた。午後にジムに出かける時には、最初こそ少しだけ肌寒さがあったが、ジョギングをしていると自然と体が温かくなってきて、半袖半ズボンで出かけるにはちょうどよかった。昨年の今頃は、まだ暖房が入る日もあったぐらいだが、今年はそれがない。どうやら今年は昨年よりも暖かくなるのが早かったようだ。もちろんまだ6月も半ばを迎えたところなので、ここからどうなるかはわからないが、7月に向かっていくにあたってここから寒くなるとは考えにくい。今年は30度を超える真夏日がどれだけあるのだろうか。昨年は冷夏ゆえに真夏日は数日程度だった。真夏日になると2階が暑くなってしまうので、できるだけ真夏日は少ない方がいい。さてどうなるだろうか。
今日のジムでの自主トレーニングはいつもながら充実していた。ただし、最初に懸垂を試してみたところ、ここ最近は月曜日と木曜日は必ず懸垂をしていることもあってか、まだ完全に筋肉痛が癒えておらず、今日は体を持ち上げるのがいつも以上に大変であった。こうした状況で無理をすると、体の別の部位に歪みが生じることをすでに知っているので、今日は無理をせず、懸垂はそこそこにして、その代わりにラットプルダウンを用いて広背筋を鍛えていった。今日はいつもよりジムが空いていて、男性よりも若い女性の数が多く、使いたい器具をその都度使うことができて、とても快適だった。最近の最後の締めのメニューとして、早田航さんに勧めてもらったデッドバグとサイドプランクトルソーローテーションを毎回行っている。特にデッドバグでは、通常のものだと負荷量が物足りないので、両手に2kgほどのダンベルを持って行っている。次回ぐらいからは3kgで試してもいいかもしれない。このように、毎回変化を感じ、変化を取り入れながらトレーニングができることはとても楽しいことである。毎回のトレーニングでその日の体と向き合い、体を対話をすることは実に多くの発見をもたらし、また体を鍛えることを通じて、体の喜ぶ声が聞こえてくる。フローニンゲン:2025/6/16(月)16:45
Today’s Letter
All things, both conscious and non-conscious beings, arise from their own subjectivity. Truly, the origin of everything is consciousness itself—neither material nor physical. Groningen, 06/16/2025
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