【フローニンゲンからの便り】16795-16798:2025年6月5日(木)
- yoheikatowwp
- 1 日前
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タイトル一覧
16795 | ChatGPTを使った漢文読解 |
16796 | 今朝方の夢 |
16797 | 今朝方の夢の振り返り |
16798 | 2つ目のライティングサンプルのドラフトを執筆し終えて |
16795. ChatGPTを使った漢文読解
時刻は午前6時半を迎えた。空は少し曇っているが、爽やかな風が吹いていて、爽快な気持ちである。今の気温は12度で、今日の気温は17度までしか上がらない。しかも午後からは小雨が降る予報が出ているので、午後にジムに行く際には折り畳み傘を持っていこうと思う。来週の火曜日までは20度を下回る日々が続くが、水曜日からは25度を超す夏日が数日やって来る。来週の木曜日に関しては27度にもなるようだ。ここ最近は、学術書を音読読解することを続けており、それは良き週間になった。昨日もそれを朝からずっと行なっていたこともあり、喉を休める意味も含めて、夕方からは唯識に関する日本語の文献を改めて読み返すことにした。それはイギリスの大学院で研究したい日本法相唯識に関するもので、手持ちの漢文書籍の古書を読み返していくことに主眼を当てた。最近は漢文に関してもChatGPTが見事に現代日本語や英語に翻訳してくれるとのことで、試しに使ってみると、確かに非常に良い出来だった。手持ちの文献のPDFを読み込ませてみると、勝手に削除されてしまった漢字などもあり、それらをチェックする必要はあるが、それでも随分と使い勝手の良いツールである。唯識に関する古文書の研究にもChatGPTが活用できそうな目処が立ったことは喜ばしい。昨日ふと、日本法相宗に関する漢文での文献が残っているのも関わらず、それを用いて研究する日本人研究者が少ないのはなぜなのだろうという疑問が芽生えた。文献があるのに非常に勿体無い。自分は漢文を用いた研究をイギリスの大学院で行い、その成果を英語で発表していきたいという思いがある。ある意味、日本の法相唯識思想を輸出する形で研究を進めていくことになるだろう。そうした思いから、昨日は手元にある『唯識論同学鈔』の漢文文献を改めて眺めてみた。これは、日本における唯識思想の学習や注釈の伝統の中で、特に重要な中世注釈書の1つである。本書は、良算が編纂したとされる。成立時期は鎌倉時代で、日本において『成唯識論』の教学が体系的に理解·継承される過程で、特に学僧間の問答·講義を踏まえて書かれた注釈·学習書の一環としての位置付けがある。形式としては、講義録·問答録·略解書的性格を併せ持ち、内容としては、『成唯識論』の各章に対し、一定の理解·解釈·疑問点の整理が施されており、当時の教学理解の水準と関心が反映されているという興味深い内容の書籍だ。分量はハードカバー2冊に渡るかなりのものなので、全てを読解していくことは難しい。何かテーマを決めて、例えば唯識の形而上学思想などを設定し、それに関する箇所を英語に翻訳し、註釈していく研究は1つの案である。今日は午前中の時間を使って、イギリスの大学院に提出する予定の2つ目のライティングサンプルの執筆に取り掛かりたいと思う。フローニンゲン:2025/6/5(木)06:51
16796. 今朝方の夢
今日もいつものように朝空を眺めながら、今朝方の夢について振り返っておきたい。今朝方の夢で覚えているのは、見慣れない新しい雰囲気のある学校の教室にいた場面である。その学校は、欧州のどこかの街と日本のどこかの街が融合したような、しかも自然を感じられる郊外にあった。授業の開始前に、小中高時代のある女性友達(NI)と2人で話をしていた。彼女は何やら、2020年から一人旅をして、世界の色々な国を巡っていたらしく、その行動力に驚かされた。というのも、2020年に世界の一人旅を始めた時の彼女の年齢は中学生だったからだ。彼女に旅の思い出話を聞いていると、こちらもワクワクした気分となった。自分が訪れことのある場所として、ラトビアのリガなどがあり、リガに関する話は2人で盛り上がった。教室にいるその他の生徒たちはまだ海外旅行などしたことがないようだったので、私たちはどうやら特殊なようだった。旅の話で盛り上がっていると、中学校時代の数学の女性の先生が教室に入ってきた。先生は随分と露出度の高い若い格好をして教室に入ってきたので少し驚いた。しかし、先生はまだ若いし、気持ちとして若くいたいのだろうと推察した。教室には半分ほどの生徒しかおらず、しかも全員が前側に座っていた。後ろ側の生徒はどこに行ったのだろうかと思ったら、その時間は選択授業の時間なので、彼らは別の授業に参加したのだと思った。先ほどまで話をしていた彼女と私は席が近かったが、どうやら彼女は別の選択授業に参加しているらしかった。彼女の様子が気になったのと、別の選択授業の内容も気になったので、私は数学の授業を受けることをせず、選択授業が行われている隣の教室に移動した。教室に入ってみると、初老かつ小柄な外国人の女性が先生として教室の前に立っていた。授業はその先生の国の言葉でなされたが、不思議と全て脳内で日本語に翻訳されて、理解が速やかだった。先生はどうやら世界の地理と歴史を教えているらしく、先ほどの旅の話もあり、非常に興味深い内容だと思った。先ほどまで話をしていた彼女も、自分の旅を振り返る目的とここからの旅に向けて、熱心にノートを取りながら授業を聞いていた。授業が終わったら、彼女のところに行って授業の感想をまた聞いてみたいと思った。そのような夢を見ていた。今朝方はその他にも夢を見ていたように思う。ほぼこの夢と陸続きの夢で、そこでも学校の教室が舞台になっていた。高校時代の小柄な友人がいつの間にか有名な俳優になっていて、彼と教室で少し話をした。そこから脳内に音楽が流れてきて、気がつけば自分の体はダンスを踊っていた。それはモダンなダンスで、即興的に体が動き、見事なタップをしたり、自分でも自らのダンスの才能に驚いた。突如として開花したダンスの才能を元に、ダンスに関心のある周りの友人たちにダンスを教えたいという気持ちになり、隣のクラスにタップをしながら移動した。その時の自分はとても楽しげで、とても嬉しげだった。フローニンゲン:2025/6/5(木)07:06
16797. 今朝方の夢の振り返り
オックスフォード大学に提出するための2つの目のライティングサンプルを執筆する前に、今朝方の夢に対する総合的な振り返りをしておきたい。今朝方の夢の舞台は「学び」と「旅」という二重のモチーフを中核に据えた心理的劇場であるとChatGPTは述べる。まず、欧州と日本が混淆した郊外の新しい学校は、日常と非日常、既知と未知、さらには個人的伝統と外来文化とを接合する心的空間である。学び舎という枠組みは成長と自己変容の象徴であり、そこに自然が隣接している点は、知性の営みと生命的活力の調和を示唆する。夢の時間帯が授業開始前であることも示唆的で、まさに「これから始まる」内的カリキュラムの序章に立っている心境が映し出されている。旅を続ける同級生NIの登場は、自分の内部に潜む若いアニマ像の活性化を告げる。彼女は2020年――世界がパンデミックという閉塞へ傾いた年――に逆行するかのように外界へ船出した。現実には移動が制限された時期に、彼女はあえて国境を越える。ここには「閉鎖状況を突破する創造的欲動」が投影されている。中学生という幼さと大胆な単独行動の取り合わせは、自分自身が自覚していない素朴な衝動と老獪な行動力の融合を示す。ラトビアのリガという具体地名は、バルトの歴史層と多言語都市という交錯を想起させ、複数文化を縫い合わせる無意識の工房を象徴するとChatGPTは述べる。他の生徒たちが海外経験を持たない設定は、夢見手とNIが共有する「異邦人としての特権的視座」を際立たせる。これは個人的無意識の深部から立ち現れた探検者原型が、未だ作動していない大多数の心的領域――クラスメートたちはその化身である――と対照をなす構図である。そこへ数学教師が現れる。彼女は若作りの衣装をまとい、論理と思考の学科にエロス的ニュアンスを導入する。これは自分の理性的側面(ロゴス)が、活力と感覚性(エロス)との再統合を志向している兆しだとChatGPTは指摘する。空席の多い教室は、「合理的学習」というこれまでの座標に欠落や空白が生じていることを示す。自分はそこで既定路線を離脱し、選択授業の扉を開ける。分岐は自由意志の自覚であり、アイデンティティの再編である。隣室にいた小柄な外国人女性教師は、歴史と地理――時間と空間――を教える。彼女の言語が自動的に日本語へ変換されるイメージは、「外側の知」が即座に内面化される精神的柔軟性を表す。彼女が初老である事実は、古層の叡智を携えていながらも身体は小さく、権威を誇示しない賢者像を示す。NIが熱心にノートを取る姿は、自分のアニマが世界経験を理論的知識へ昇華しようとするプロセスであり、行動と理解の統合が進む場面である。後続する夢片では、高校時代の小柄な友人が俳優として名声を得ている。これは「等身大の自己像」が公共的評価を受ける未来可能性を映し出す。そこで流れ込む音楽と即興ダンスは、抑制されていた身体的·芸術的本能の爆発であり、タップ音は大地とのリズミカルな交感を刻印する。ダンスを教えたいという欲求は、獲得した創造エネルギーを共同体へ循環させる利他的衝動だ。隣のクラスへ足を運ぶ移動は、個人的才能を「隣人」へ橋渡しする意志であり、学び舎全体を舞台へ変える拡張運動である。総じてこの夢は、パンデミック以降の閉塞感を転倒させる形で、外界への旅·異文化の内面化·理性と感覚の和解·個的創造性の共同体への奉仕という四重のテーマを織り込んでいる。舞台装置としての学校は、生涯学習のメタファーだけでなく、自分の内部協議体を示す。ロゴスの教室、エロスの衣装、賢者の言語、旅人のノート、俳優の仮面、ダンサーの靴音――これらはすべて相互に呼応し、多層的自己が同時進行で刷新を遂げるための象徴言語である。この夜の幻想は、世界との交通を恐れず、論理と情動を並走させ、私的才能を公的次元へ解放する準備が整ったことを告げている。その過程で鍵を握るのは、幼き旅人NIというアニマの導きであり、彼女は2020年という歴史的転換点に生まれた「逆境を糧に飛び立つ精神」の具現である。数学教師の若い装いは、厳格な知性に歓喜を織り込む布石であり、小柄な外国人教師は、縮尺を超えて広大な時間空間を抱擁する知の原型である。最後のダンスは、内的四元素のうち「火」と「風」が合奏する祝祭のリズムであり、自己をして「学びの場」を「表現の舞台」へと変換させる。ゆえに、本夢は自我が次なる成長段階へ登壇するための壮大なリハーサルであり、閉ざされた教室の扉を押し開けて隣室へ、さらには世界都市リガへと歩を進める心的ドラマであるとChatGPTは述べる。このドラマの結末は未だ描かれていないが、タップの残響が示すように、そのステップは確かに未来へ向けて刻まれつつあるのである。フローニンゲン:2025/6/5(木)07:42
16798. 2つ目のライティングサンプルのドラフトを執筆し終えて
時刻は午後4時半を迎えた。天気予報の通り、午後には激しい通り雨が降った。しかし幸いにも、ジムに行く際と帰る際には雨は降っておらず、折り畳み傘を差す必要がなかった。フローニンゲンは年間を通して、一日中雨が降るという日がほとんどない。その代わりに通り雨が降る時間帯や一時的に雨が降る時間帯がある日がある。今日はまさにそのような日だった。夕方の穏やかな空を眺めながら、今日の充実したジムでのトレーニングを振り返っている。昨日、トレーナーの早田航さんに、懸垂について相談事をした。今のところ、ゴムバンドなどの補助具なしには自分の体重を懸垂で持ち上げることができず、その原因についての相談だった。それに対して航さんが返信をしてくださり、「ショルダーパッキング」という肩甲骨に関する動作をあまり意識していなかったことに気づかされた。また、ラットプルダウンの重量に関して、反動を思いっきりつけて体重の80%~90%が一回できるかも重要とのことで、それを試したことがなかったので、本日のジムのトレーニングで試してみることにした。反動をつければなんとかできそうだったが、そもそもまだラットプルダウンの器具を用いて広背筋や僧帽筋を鍛えることが不足しているような気がしたので、今日から重量を上げる形でより筋肉量をつけていくことにした。
ジムに行く前に今日は、オックスフォード大学に提出する予定の2つ目のライティングサンプルを執筆していた。他のイギリスの大学院は1つのライティングサンプルの提出を要求しているだけなのだが、オックスフォードは要求基準が一段高く、もう1つライティングサンプルを要求している。1つ目のライティングサンプルがある意味研究企画書であり、その企画書にあったように、2つ目のライティングサンプルでは、実際に良遍の『観心覚夢鈔』の序章と第1章の註釈を試みた。厳密には、分量の制限の都合上、解釈を施すまではしておらず、翻訳に留まったが、本書の背景と意義に関する文章を2つのセクションに分けて執筆し、翻訳を無事に執筆し終えた。ドラフトの執筆の際に、手持ちの文献をあれこれと引っ張り出して呼んでいると、日本法相唯識思想の研究に関して、なんとも面白い無数の埋もれた漢文文献があることに改めて驚いた。これは量子論の哲学の研究を本格的に始めるのは随分と後になりそうで、日本法相唯識思想に関して博士課程を取得しても、しばらくは当該分野の漢文文献を註釈研究していくことに従事したいと思わせるほどである。それは嬉しい誤算であった。一旦今日完成したドラフト原稿を1ヶ月ほど寝かせ、また来月に加筆修正をしたいと思う。そして、実際にイギリスの大学院に行くまでに、できるだけ手持ちの日本語の唯識関連の文献を綿密に読み解き、日本法相唯識思想と唯識全般に関してより専門知識を獲得したいと思う。正直なところ、仏教の探究分野はまるで宇宙のように広く深いので、自分は日本法相唯識思想の専門家になることをまず目指し、そこから日本法相唯識思想の原点であるインド唯識思想についても探究を深める形で瑜伽行唯識学派に関する専門知識を拡張させていこうと思う。フローニンゲン:2025/6/5(木)17:02
Today’s Letter
Is a dream world physical? If not, then our self exists not in the physical but in the mental. The world that the self perceives is fundamentally mental rather than physical. The physical world is merely what we believe it to be. Groningen, 06/05/2025
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