【フローニンゲンからの便り】16752-16755:2025年5月24日(土)
- yoheikatowwp
- 5月26日
- 読了時間: 13分

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タイトル一覧
16752 | 自己とリアリティをどこまでも深く知るために/心眼涵養 |
16753 | 今朝方の夢 |
16754 | 今朝方の夢の振り返り |
16755 | ゼミナールの第133回のクラスの振り返り |
16752. 自己とリアリティをどこまでも深く知るために/心眼涵養
時刻はゆっくりと午前6時に向かっている。今朝方は午前5時半前に起床したのだが、その時からもうすでに辺りは随分と明るかった。今の気温は7度と肌寒く、空にはうっすらとした雲がかかっている。今日の日中の最高気温は15度とのことで、気温の上昇は限定的である。そして、夕方から明日の朝にかけて雨が降るらしい。朝の静けさの中で、昨日に考えていたことを振り返っておきたい。現在情熱を注いでいる意識とリアリティの地動説の探究は、今後の社会実装のための基礎研究である。一方、発達心理学を応用したAIの知性の発達とAIと人間の相互作用による共進化に関する研究も基礎研究的な側面もあるが、それはすぐさま社会実装につながる内容になっている。両者の調和が取れた形で研究が進んでいることは嬉しい限りである。今取り組んでいる量子唯識観念論の探究が社会の中で具体的にどのような形で活かされていくのかは不明だが、発達心理理学を探究していたときもそれが社会に対して何の役に立つのかわからなかったのと同じく、探究が進み、自らの知識体系が確固としたものになり始めてきた頃に、きっとご縁を通じて誰かから声が掛かり、探究によって積み重ねられた知識を社会に活かすときがやってくるだろう。今の自分の世界観を理解してくれるのは、あるいは今の自分の世界観に合致するのはインド仏教思想の観念論と量子論の世界観であり、自らの世界観を説明するために、そして自らの世界観に関する理解をより精緻なものするためにそれらを探究している自分がいることに気づく。自分の世界観を理解してくれる人はこの世界にほとんどおらず、その代わりにインド仏教思想の観念論と量子論は自分の世界観の良き理解者でもある。自分を深く理解する必要性に迫られてインド仏教思想の観念論と量子論の探究が始まった。それは実存的かつ霊的な要求事項であった。なぜ自分が意識とリアリティの地動説の探究をしているのかの理由はそうしたものである。それは自分を深く知るためであり、人間存在を知るためであり、私たちを取り巻いているリアリティを知るためである。それらを知らなければ生きていけないところに自分は立っている。
それ以外に考えていたこととして、肉眼に頼りすぎないこと、むしろ心眼を養っていくための取り組みをしていくことについて考えていた。心眼の涵養には平素の瞑想実践の工夫が必要であるし、夢の体験を豊かにするための就寝前の儀式と覚醒した瞬間の在り方にも工夫が必要かと思う。AI時代に入り、AIが発揮できるようなタイプの知性を磨いていても仕方ない側面があり、むしろ思考を手放し、自由に内的表象世界を拡張させ、その世界の中に寛ぐことを楽しみたいという思いがある。探究活動の中においても、探究世界の中に寛ぐということを忘れないようにする。小学校に通い直している感じの学習リズムで、小学生が45分間の授業を毎日4つか5つ受けているのと同じく、少なくとも45分間の音読読解のセットを4つか5つ行っていく。それを自分の探究領域に対して毎日地道に続けていく。その過程の中で、自己存在とリアリティの理解がゆっくり着実に深まっていき、発達心理学の探究が思わぬ形で社会に役に立ち始めたのと同じく、現在の探究もいつか必ず社会の役に立つだろう。フローニンゲン:2025/5/24(土)06:04
16753. 今朝方の夢
時刻は午前6時を迎え、小鳥たちが囀りを上げ始めた。静かな朝の世界に彼らの美しい鳴き声が波紋のように広がっている。そんな中で、今朝方の夢について振り返り始めた。まず覚えている夢の場面として、高校時代のある友人が講師を務める授業に参加していた。そこは見慣れない教室で、どこかのビルの会議室のような場所だった。しかし、そこが日本なのか外国なのかは不明だった。ただし、受講者はすべて日本人だった。受講者の数は10人ぐらいで小規模で、友人の彼は管理会計に関する授業をしていた。現実とは違い、夢の中の彼と私は同じ大学を卒業していたようで、母校には管理会計の学術的伝統があり、何人かの知っている先生の名前が出てきたことには懐かしく思った。しばらく授業に参加しているとあるところで講師の彼が、「数学2Bの復習も少ししておきましょうか」と述べた。受講者の中にはどうやら数学の基礎教養がない人がいるらしく、高校数学の復習をすることを通して管理会計上の計算を楽に行うようにするというのが彼の狙いだった。しかしわざわざ数学2Bを復習する必要があるのかは少し疑問で、同様の疑問を持っている受講生の人が数人いた。とは言え、微分の概念と計算方法ぐらいは確かに知っておいた方がいいと思ったので、そのことを彼に伝えると、ではまず微分の復習からしていこうということになった。
もう1つ覚えている夢としては、小中高時代のある親友(SI)と城下町に出掛けていき、ある老舗の店に向かって小走りをしていた場面である。なぜ小走りをしていたかというと雨が降って来たからであり、お互いに傘を差していたが、それ以上濡れないためと早く目的地に到着するために小走りをしていた。雨脚がどんどんと強くなり、店がある歴史的な趣のある通りにやって来たとき、雨水が10cmぐらいの高さになっていて驚いた。これはもう道の上を歩けないと思ったので、道の脇の長屋沿いを歩きながら目的地に向かった。こんな雨でも店はやっており、店の扉をガラガラと開けて暖簾をくぐると、若い女性たちが元気よく出迎えてくれた。濡れた体を拭くためにタオルを差し出してくれ、体を拭きながら店の入り口で彼女たちと話をしていた。彼女たちは親切で、中にはもちろん寡黙な感じの女性もいたが、話が合いそうな女性とはゆっくり話をしたいと思った。そのような夢を見ていた。今朝方も目覚めた瞬間にしばらく仰向けになって目を閉じてみたが、昨日のように即座に明晰夢の世界に入っていくことはできなかった。ここからしばらくは、目覚めの瞬間に仰向けになって、明晰夢の世界に入っていくことを意識的に試みてみようと思う。それもまた意識とリアリティの地動説の探究の一環である。フローニンゲン:2025/5/24(土)06:21
16754. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢に対するChatGPTのフィードバックをもとに、今日もまた夢の総合的な振り返りをしておきたい。今朝方の夢の第一幕には、学術的でありながら私的な追憶の匂いが漂っているとChatGPTは述べる。高校時代の友人が「講師」という立場を帯び、管理会計という実務的学問を教えている場面は、かつて共有した青春の記憶が、今や職能や知識を媒介として新しい権威へと姿を変えたことを示唆すると述べている。会議室らしき無国籍の教室には、日本人だけが集うが、国名が定かでない点は、学問それ自体が国境を超えた抽象空間であることの暗示であり、同時に自我が拠って立つ文化的足場が揺らいでいることを映し出す。人数が十名程度に限定されているのは、共同体の親密さと排他性を同時に語る象徴である。管理会計は資源配分を可視化し、数値化し、統御する学問であるが、そこに突然「数学2Bの復習」が挿入される。高校数学、とりわけ微分は、連続変化を微視的に捉える思考の刃であり、管理会計というマクロな収支管理に対し、ミクロな変化率の洞察を補完する役割を担う。したがってこの挿入は、自分自身が「現実世界の数値管理」を遂行するに際し、より精緻な思考の基礎を再取得したいという無意識の要請を物語る。友人が教師として君臨し、旧友が学習者として列席する配置は、自己の中で「かつての横並びの関係」が再構成され、上下関係を伴う新たな秩序が生まれていることを象徴している。その秩序は過去を回顧しつつも、未来の専門性へ自らを接続する回路として機能しているのである。第二幕では風景が一転し、城下町という歴史層の厚い場へ移る。そこには古い町並み、老舗、暖簾といった時間の堆積があり、夢見手の根源的な帰属意識や郷愁が呼び覚まされる。雨は無意識の情念や浄化のメタファーであり、その雨脚が強まるにつれて路面に十センチの水が溢れる情景は、抑圧していた感情が表層へ押し寄せてくるさまを暗示する。傘は最小限の理性による防御であり、小走りは感情の奔流を前にした即応的行動である。雨水を避けて長屋沿いの高い位置を選ぶ経路は、意識が安全域を探りながらも深層へ近づこうとする葛藤の比喩である。そして老舗の扉を開く瞬間は、外的世界の混沌から内的聖域への移行儀礼である。若い女性たちの出迎えは、ユング心理学で言うところのアニマ複合がもたらす癒やしと対話の可能性を象徴し、寡黙な者と饒舌な者が並存する様子は、自分の内面に潜む多様な感情的側面を映し出す。タオルで濡れた体を拭う行為は、外界で付着した不純物を取り除き、原初の自己へ立ち返る求心運動である。同時に、雨天の訪問という受動的状況下でも「店は開いている」という事実は、どのような環境条件でも内的資源は決して閉ざされていないという肯定的メッセージを発している。こうした二幕構成は、「理性と情動」「近代的ビルと歴史的城下町」「数値管理と身体感覚」という対照的な両義性をなしている。第一幕の教室は頭脳的世界であり、第二幕の城下町は魂身的世界である。自分はまず思考と制度の秩序へ参入し、次に感情と歴史の奔流へ身を浸す。両者を貫くキーワードは「学び」と「移動」である。教室では数学を再学習し、城下町では雨を避けるために移動する。その学びと移動こそが、現実の目覚めにおいて「明晰夢へ自発的に入ろうとする試み」へ接続している。意識が夢を制御しようとする志向は、管理会計的な支配欲求と響き合い、雨水の奔流に身を任せつつ移動する態度は、無意識の動きを受容する謙虚さと共鳴する。すなわち、この夢全体は「制御と受容」「計算と感応」という二重の運動を示す地動説的模型であり、自己は自我の太陽を中心に置きつつも、無意識という広大な宇宙を周回する惑星としての自己諸相を再配置しようとしているのだとChatGPTは指摘する。さらに、友人が提案した数2Bの「微分」は、連続量を離散的に切り出し、瞬時の変化率を捉える手法である。これは「今この瞬間」に意識を澄ませるマインドフルネス的態度とも共振し、自分が目覚めの際に明晰夢へ移行しようとする瞬間集中の技法に重ねられる。対して城下町で溢れた雨水は、流動する時間と感情を象徴し、微分されうる刹那の連続的変化を物質化している。つまり夢は、微分による時間の収斂と、雨水による時間の拡散とを二重写しにしながら、意識の働きが「一点へ集束する力」と「全体へ拡散する力」を同時に必要としていることを示している。結語として、この夢は管理会計と微分、城下町と豪雨、友人教師と若い女性店員という対照的諸要素を織り交ぜつつ、「理性的統御」と「感情的受容」の統合を目指す内的航路を示唆している。目覚めの直後に明晰夢へ移行できなかった事実は、統御への志向がまだ十分な基礎——数2Bを復習するが如き——を必要としていることの証左である。同時に、雨の中でも開かれ続けた老舗の温かい迎えは、統御が及ばぬ領域にも変わらぬ庇護と対話の場があることを保証する。自分が今後、意識とリアリティの地動説を探究するのであれば、この二重の運動を自覚し、制御と受容のリズムを交互に奏でることこそが、現実と夢の両界を滑らかに往復する鍵となるであろうとChatGPTは語る。まさにそうした二重運動を自覚し、現実と夢の世界の狭間でホバリングするかのような形で日々の探究を楽しみながら精進したいと思う。フローニンゲン:2025/5/24(土)06:45
16755. ゼミナールの第133回のクラスの振り返り
時刻は午後4時を迎えた。先ほどゼミナールの第133回のクラスが終わった。今日のクラスの冒頭では、こちらの方からカート·フィッシャーの理論について少しばかりミニレクチャーをさせてもらった。それをもとに受講生の皆さんと質疑応答を含めた対話をさせていただき、ブレークアウトを実施した。今日のクラスの中で印象に残っている点はいくつもあるが、それ以外の点として、そもそも理論を学ぶときの在り方について改めて考えていた。理論というのは多様な概念が体系立ててできている。ゆえに1つ1つの概念を理解することが大事であり、1つ1つの言葉の意味を押さえていくことをしない限りは、その理論に関する理解はなかなか深まっていかない。結局のところ、どんな実践も体験に言葉を当てて、それを深めていく作業が不可避に伴うので、1つ1つの言葉の意味を押さえ、深めていくことを放棄するということは、全ての実践の放棄でもあるのだろう。さらには、言葉を通じて人とコミュニケーションをしている私たち人間にとって、言葉を軽んじるということは、人とのコミュニケーションを軽んじることであり、心の発達は言葉の発達を土台にしていることを考えると、言葉と向き合い、言葉を深めることの放棄は、自他の発達の放棄でもあると言えるかもしれない。ある発達理論を理解したいという気持ちは、その理論におけるユニークな言葉の世界を理解したいという気持ちと同義であり、であれば少なくとも言葉の理解を深めたいという気持ちを持って、毎回のクラスの予習に当たりたいと思う。それはこうしてゼミの皆さんと発達理論を学んでいることに対してのあり方ではなく、意識とリアリティの地動説の探究を含め、全ての学びと実践において大切にしたいことである。言葉にならない世界に触れるためにも、言葉を足場にして、言葉にならない世界に限りなく近づいていく。よく言葉を手放すなどという言葉を軽く使う人がいるが、そういう人に限って言葉を大切にしておらず、言葉を徹底的に学んでいない。言葉の土台がないのに、何を跳躍大にして言葉にならない世界に飛翔していくのだろうか。言葉は、言葉にならない世界に飛ぶための翼である。翼がない人に言葉にならない世界など触れようも、分かりようもない。仮に触れた気になり、分かった気になっているのは、単なる意識の状態的な現象か、高次元のものを低次元のものとして解釈するという前後の混同的な現象把握なのではないだろうか。仏教徒たちも徹底的に言葉と向き合うことを通じて、非言語的な世界に参入していく。それを踏まえると、ますます言葉を大切にして、言葉にならない世界に少しずつ参入していきたいと思う。一緒に山を登っている感覚。ゼミの皆さんとは毎回そのような感覚を持ちながら学びを共にしている。カート·フィッシャーの理論を扱う今回は確かに高い山かもしれないが、用語や文体に慣れていないだけという点があるだろうし、何か自分自身の取り組みや問題意識と繋がる点が見えてくれば、きっと学習がさらに進んでいくだろう。そのようなことを後程の振り返りの音声でゼミの皆さんに伝えたいと思う。クラス中で他の人が話すことに真摯に耳を傾けることは、自分にとって他の人の思考運動を観察することであり、話している内容と内容を生み出す構造の観察を通じて、ミラーニューロンが活性化し、自分の脳と知性がより育まれる感覚がある。人の話を全く聞かない人は、脳と知性を育む機会を最初から逸失しているのではないかと思い、それは実に惜しいことである。今日のクラスもまた刺激的な時間となり、ミラーニューロンを含めて随分と脳が活性化され、今は程よいゾーンの状態にある。フローニンゲン:2025/5/24(土)16:05
Today’s Letter
We are constantly engaged in the dance of emptiness, without exception. We are the same hovering dancer—both existent and non-existent—upon the stage of the potential quantum field. Groningen, 05/24/2025
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