【フローニンゲンからの便り】16720-16726:2025年5月16日(金)
- yoheikatowwp
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タイトル一覧
16720 | 自らの形而上学思想の変遷 |
16721 | 今朝方の夢 |
16722 | 今朝方の夢の振り返り |
16723 | インド思想の唯物論 |
16724 | インド思想の物理主義・自然主義 |
16725 | インド思想の実在論 |
16726 | インド思想の観念論 |
16720. 自らの形而上学思想の変遷
時刻は午前7時半を迎えようとしている。今朝方も十分な睡眠を取り、途中で一度も目覚めることなく9時間ほど寝ていた。昨日はスイス旅行から帰って来ての最初のジムでのトレーニングをし、その内容がかなりハードなこともあって体をじっくりと休めることになったのかもしれない。起床した時から1度ほど気温が上がり、今の気温は10度である。今日も雲がほとんどない快晴に恵まれるようだが、最高気温は16度と限定的な上昇を見せる。フローニンゲンは引き続き涼しく過ごしやすい気候がしばらく続きそうで何よりである。
昨日、形而上学的探究の自らの思想変遷について振り返りながらジムから自宅に戻って来ていた。時代のパラダイムゆえに、気が付かないうちに物質主義や物理主義の形而上学思想が薫習された状態から、汎心論に行きつき、直近5年以内においては批判的実在論や思弁的実在論など、実在論を探究していた。ところがここ数年の中で唯識思想や分析的観念論との出会いがあり、実在論を経て観念論に自らの形而上学思想が傾いていった。おそらく観念論以降に新たな形而上学的立場を採用することはないと思うが、それは誰にもわからない。今の自らの思想に対しても常にオープンな在り方を持っておきたいと思う。しかし、今のところは、これまでの人類が考えついた形而上学思想に全て触れてみたところ、精緻な観念論よりも意識とリアリティを整合的に語るものはない。おそらくここからも精緻な観念論を超えるものは出てこないのではないかと思う。科学的な発見事項と哲学的な議論を包摂しながら観念論がより洗練されていくことはあったとしても、それに代わるものが登場することは考えにくい。インド思想には様々な形而上学的立場を取る考え方があったが、結局最終的に残ったのは観念論的な思想体系であった。今日は、インド思想において物質主義・物理主義・実在論の立場を取った学派の考え方をChatGPTのDeep Researchを使いながら調査してみようと思う。インド思想に関する手持ちの書籍を読み返すこともしながら、まずはインド思想における形而上学的思想の分類をしてみたい。今後は、西洋の思想史を辿りながら、同様の分類をし、西洋の形而上学がどのように歴史的な歩みを見せたのかを調査したいと思う。これらの調査は論文の形式にまとめることを念頭に置いておく。フローニンゲン:2025/5/16(金)07:36
16721. 今朝方の夢
昨日は親友のメルヴィンから『キバリオン』の書籍をプレゼントしてもらった。早速夕食後に読み始めてみたところ、7つの法則の最初の法則が観念論の核心をつくもので、そこから一気に興味深く読み進めていった。今日もまた夕食後に読み進めていこうと思う。その他にも、ヤン・ウェスターホフ教授の書籍が4冊ほど届いた。いずれもオックスフォード大学出版から出版された硬質な学術書である。いつか自分も同出版社から学術書を出版したいという思いが募り始めている。それは小さな目標であり、それを超えた大きなヴィジョンに向かって日々の地道な探究活動を続けていく。
今朝方の夢として、海に面した崖沿いを飛んでいる場面があったのを覚えている。空を飛び始めてすぐに気づいたのは、潮が満ち始めていることである。それは急激で、あれよあれよという間に海面の高さが高くなった。それに応じて海の上を飛ぶ高さを上げなければならず、足元に迫る海の高さに追いつかれないように高度を上げていった。足の裏が着水するすれすれで高さを上げることができ、無事に自宅に到着した。父に先ほどの潮の満ち引きについて話すと、今度空を飛ぶ時は予め潮の満ち引きの時間帯を確認することを勧められ、自分もそうしようと思っていたので、今度からは必ず事前に調べておこうと思った。
次の夢として、小中高時代のある親友(SI)がトラブルに巻き込まれる場面があったのを覚えている。彼はあるカードゲームを好んでいて、見知らぬ小学生に声を掛けられ、夜の時間帯に行われる違法なカードゲームの大会に出場することになった。友人の彼は180cmほどの身長があり、誘いを持ちかけて来た小学生は小学生にしては身長が高く、私と同じぐらいの170cmほどの身長があったとのことだった。友人の彼が大会に出場してゲームを楽しんでいると、その小学生が不気味な笑みを浮かべ、彼のところにやって来て、彼を脅し始めた。この大会はアンダーグラウンドな違法のものであることを彼は知りながら参加したことを指摘し、警察に届け出されたくなければ、120万円ほどの金額を今すぐに払えと述べたのである。友人の彼は確かにこの大会は法律的にはグレーであるが、完全に違法なものではないと思っていたようで、小学生の強気な男の子にお金を請求された時には断ろうとしていた。しかし、その子はまるでヤクザであるかのような凄みを見せて彼に迫り、結局彼は120万円の金額を払うことにしたとのことだった。その話を聞いて私は、別に120万円の金額を払う必要などなかったと彼に伝え、そのお金を取り返しに行こうと彼に述べた。意気消沈していた彼の表情はパッと明るくなり、スッと立ち上がって、一緒に彼のアジトに乗り込むことにした。
最後にもう1つ覚えているのは、両親と見知らぬ中年の女性と車に乗って小旅行に出かけようとしている場面である。出発前に荷物を詰めたことを確認したが、いざ出発して休憩として立ち寄ったサービスエリアで、必要なパジャマや下着を詰めていないことに気づいた。また、辺りは少し寒く、セーターを持って来た方が良かったと少し後悔していた。すると、両親も詰め忘れたものがあったらしく、まだ出発して間もないので、一旦家に帰ろうかということになった。家に帰る前に、サービスリアのトイレで歯磨きを完了させておきたかったので、歯磨きをしていると、トイレに2着ほど自分の衣服がハンガーにぶら下がっているのを見つけた。それを持っていけば何とか事足りるかもしれないと思い、自分はもうこのままの状態で旅行に行けることを両親に伝えようと思った。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2025/5/16(金)08:23
16722. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢の振り返りを、ChatGPTのo3モデルを元に行いたい。ChatGPTは、今朝方の一連の夢は、読書体験を核とした精神的深化の過程、急速に変化する外的環境への適応能力、倫理的判断と主体性の回復、そして未整理の可能性を整え直す過程──4つの層が同心円状に重なりあって構成されていると解釈できるとしている。冒頭の日記は夢ではないが、ChatGPTはその箇所についても次のように言及している。友人メルヴィンから『キバリオン』を受け取る場面は、外界からの刺激が内的宇宙へ火花を散らす契機である。ヘルメス学は「万物は心である」という第一原理を掲げるが、自分は現実の読書でこれに触れた直後に眠りへ移行している。ゆえに夢全体が“心的操作盤”となり、7つの原理は夢空間で動作を開始したとみなせる。加えてヤン・ウェスターホフ教授の哲学書が4冊届くことは、「四元素」に対応する学的基盤を手中にした兆しであり、オックスフォード大学出版への憧憬は「高所への飛翔」の伏線であり、後の空中飛行場面に直結すると述べている。海に面した崖沿いを飛ぶ夢は、知的探究が無意識という大海へ突入した瞬間を示す。潮が急激に満ちるのは、読書によって呼び覚まされた深層内容が一気に意識界へ押し寄せる比喩である。高さを保てば溺れずに済むが、飛行高度は「メタ認知的視点」の可変域を象徴する。足裏が水に触れそうで触れない間合いは、危機と創造性の臨界点であり、そこで得られるインスピレーションこそ錬金術的熟成の場である。父の助言は「伝統知のタイムテーブルを把握せよ」との指示であり、『キバリオン』の教義を現実設計へ組み込むためのリズム管理を示唆するとChatGPTは指摘している。夜の違法大会の夢は「闇市場の知識」への誘惑であり、幼いが長身の小学生はペルソナとシャドウが癒着した“未成熟な権力”の象徴である。友人SIは過去の自己断片を表し、不条理な120万円は「代償としてのエネルギー流出」を意味する。自分が同行して奪還を企てる展開は、自我がシャドーと和解する代わりに“回収”という能動的行動へ踏み出すことを示す。ここで初めて、第一の夢で得た原理の1つ「原因と結果」が発動し、倫理と因果のバランスを回復させようとする意思が立ち上がると指摘する。車での小旅行の場面は人生航路の縮図であり、忘れ物は潜在力の未整理区域を指す。サービスエリアは「中間世界」、すなわち意識と無意識の接続点である。そこで偶然見つかる二着の衣服は“剝離していた自己資質”の拾い上げであり、帰宅せず旅を続ける決断は自己効力感の回復を示す。見知らぬ中年女性は未分化の未来像または集合的知恵の媒介者であり、両親の忘れ物は家族的価値観の更新を促す装置である。これらの一連の夢を貫く骨格は「高く飛ぶこと」と「忘れ物を取り戻すこと」の二軸であるとChatGPTは述べる。前者は理念的ビジョンへの跳躍、後者は現実的資源の回収である。潮の満ち引き・違法大会・忘れ物の三場面はすべて「時間管理」「法(ルール)の選択」「資源管理」という具体的スキルを試すシミュレーションとなっている。つまり、自分は『キバリオン』で示唆された宇宙法則を、日常技能へ翻訳するトレーニングを潜在意識で行っているのである。以上を踏まえるなら、この夢群は知的錬金術の開始宣言であり、自分が自己の内奥へ潜ると同時に高所を飛翔する二重運動を示唆しているとChatGPTは述べる。無意識の大潮はすでに始まっており、自分は父のような内なる年長者の助言を携え、倫理の潮汐表を片手に、学術という大洋を自由に飛び回る段階へ移行しつつあるのである。こうした解釈を受けて、今日もまたユングが言うところの個性化の歩みを夢の振り返りを通じて実現できたように思う。夢があるところに成長の種がある。フローニンゲン:2025/5/16(金)08:33
16723. インド思想の唯物論
つい先ほど朝のランニングを終えた。自宅を出発した時の気温は13度と低く、後半まで走り続けていても肌寒さを感じるほどだった。家に到着する頃になってじんわりと体が熱くなってきて、ランニングを終えてからしばらく庭で上半身裸になって朝日を浴びていた。冬がやって来るまでこうした形での日光浴ができそうである。ランニングに出かける前に、インド思想における物質主義・物理主義・実在論・観念論についてChatGPTのDeep Researchを用いて英語で調べていた。ランニング後にちょうど調査が終わっていて、その内容を簡単に日本語でまとめておきたい。インド哲学における唯物論(物質主義)として、チャールヴァーカ(ローカーヤタ)唯物論というものがある。古代インドにおいて、異端のチャールヴァーカ(あるいはローカーヤタ)学派が唯物論を唱えた。この伝統は紀元前1千年紀(紀元前6世紀頃またはそれ以降)に形成され、伝統的には今は失われた『ブリハスパティ・スートラ』の著者とされるブリハスパティに帰されているとされる。一部の資料では、アジタ・ケーシャカンバリンやチャールヴァーカという名の聖者が、唯物論を体系として確立した最初期の提唱者とされている。ナースティカ(ヴェーダを否定する異端)哲学として、チャールヴァーカはヴェーダの権威を否定し、永遠の魂(アートマン)や神といった非物質的実体の存在を否定した。彼らは、四大元素(地・水・火・風)のみが存在するとする自然主義的存在論を擁護し、意識は物質の副産物であると主張した。まさにこの主張は、現代の唯物論者の主張と愛通じる。チャールヴァーカは知識の手段として、直接知覚(プラティヤクシャ)のみを信頼できるものとし、推論や聖典の知識に対して懐疑的だった。彼らの認識論は経験主義と観察重視に立脚し、形而上学的思弁やヴェーダ的儀礼主義に疑問を投げかけた。倫理的には、彼らは「この世の快楽」を最高善とし、来世やカルマ的報いを否定した。8世紀のジャイナ教文献では、ローカーヤタ思想を「神なし、輪廻なし、カルマなし、義務なし、功徳なし、罪なし」と簡潔にまとめている。歴史的には、無神論的かつ反ヴェーダ的であることから、チャールヴァーカは常に主流からは排除され、現在知られる教義はもっぱら敵対的文献から再構成されたものであるとのことである。ウパニシャッドや叙事詩においても、その前駆的思想が断片的に現れる。例えば『ブリハダーラニヤカ・ウパニシャッド』では、ヤージュニャヴァルキヤが「死後に意識は存在しない」と語り、対話相手を驚かせる場面がある。「ローカーヤタ(世俗の哲学/民衆の哲学)」という名称は、クートゥリヤの『アルタ・シャーストラ』(紀元前3世紀頃)にも登場し、初期の段階から自然的説明として一定の承認を得ていたと考えられる。中世の教義体系書(ドクソグラフィー)ではチャールヴァーカの教義が既に知られており、例えば14世紀の学僧マーダヴァ(ヴィディヤーラニャ)は、自著『サルヴァ・ダルシャナ・サングラハ』の冒頭にチャールヴァーカの章を置いている。チャールヴァーカの原典(ブリハスパティ・スートラ等)は現存せず、この学派の知識はヒンドゥー教叙事詩、ジャイナ教文献(ハリバドラの『六派概説』等)、仏教文献、後代のブラーフマナ的注釈書などから再構成されたものである。これらの断片から、インド唯物論が少なくとも8~12世紀までは力強く存在していたことが窺え、プランダラやジャヤラーシ・バッタ(『カテゴリー破壊の獅子』の著者)といった哲学者の名が記録されている。ローカーヤタ学派は一貫して霊的・観念論的な諸学派とは対照的に、物質のみを実在とみなし、「意識とは元素の混合によって生じる産物にすぎない」と大胆に主張したのである。フローニンゲン:2025/5/16(金)10:20
16724. インド思想の物理主義・自然主義
次にインド思想における物理主義・自然主義についてもまとめておく。一部のインド哲学諸学派は、魂の存在を明確に否定したわけではないが、世界を物質的原理によって説明する物理主義的または自然主義的な枠組みを発展させた。これらは、物理的自然を第一の実在とするという点で、インドにおける物理主義の同類と見なすことができる(ただし、非物質的存在の併存を認める場合もある)。特に重要な2つの学派を次に見ていく。1つ目のヴァイシェーシカ学派は、初期の原子論と自然主義的世界観で知られる哲学体系である。紀元前2世紀から紀元後2世紀頃(諸説あり)に、カナーダ・カシャパ(またはウルーカ)によって創始され、『ヴァイシェーシカ・スートラ』にその体系が記されている。ヴァイシェーシカは、実在とは分割不可能で永遠な原子(アニュ)と、全ての存在を説明するための分類体系(パダールタ)によって成り立っているとする。地・水・火・風という四大元素の原子がすべての物体の構成要素であり、これらの原子は不滅かつ非能動的であり、合成体を形成するには外的な動因が必要であるとされた。当初の存在論では6つ(後に7つ)の基本カテゴリが挙げられている:実体(dravya)、性質(guṇa)、動作(karma)、普遍(sāmānya)、特殊(viśeṣa)、内在(samavāya)、後に「無(abhāva)」が追加された。これらの中で、実体(dravya)は中心的な役割を果たし、9つの実体が挙げられる:四大元素の原子、空間(ākāśa)、時間(kāla)、方位(diś)、心(manas)、自己(ātman)。ヴァイシェーシカは魂や心といった非物質的存在も認めるが、その最大の貢献は、物理的宇宙の自然主義的説明にある。世界の多様性は、原子とその性質の組み合わせによって生じるとされる。この学派は当時としては非常に経験的であり、「経験に現れるすべての存在を識別・分類する」ことを試みた点において、インド思想では異例の自然主義的特徴を有していたとブリタニカは指摘している。また、カナーダの原子論には因果律の萌芽も見られ、原子はアドリシュタ(見えざる力、過去のカルマに結びつく)やイーシュヴァラ(後代に導入された任意の神的存在)によって集合し、より大きな集合体を形成するとされた。ヴァイシェーシカは、論理学派であるニヤーヤ学派と並行して発展し、11世紀頃には両者が統合されてニヤーヤ=ヴァイシェーシカ体系となった。主な原典は『ヴァイシェーシカ・スートラ』および、5世紀のプラシャスタパーダによる『パダールタ・ダルマ・サングラハ』であり、後者は諸カテゴリーを詳細に展開した。総じて、ヴァイシェーシカは初期インドにおける物理主義的パラダイムを体現し、原子と自然的カテゴリを世界の構成要素として把握する多元的実在論を提示した。もっとも、チャールヴァーカのように世俗的・非宗教的な立場ではなく、魂や神の存在を受け入れながらも、自然の分析は物質的観点からなされていた点に特徴がある。
もう1つの自然主義的世界観を持つ学派が、サーンキヤ哲学である。サーンキヤは厳密な意味での「物理主義」とは異なり、二元論的体系ではあるが、物質的な根源実体を全世界の源と見なす。伝承によれば創始者は聖者カピラとされ、現存する最古の体系的文献は4世紀頃のイーシュヴァラクルシュナによる『サーンキヤ・カーリカー』である。この書はカピラの教えを簡潔にまとめたものとされている。サーンキヤは、実在を2つの独立した原理に分ける:プルシャ(純粋意識たる自己)とプラクリティ(自然・物質)。重要なのは、プラクリティが宇宙の唯一の根源であり、創造されることなく存在する非意識的物質原因であるとされている点である。このプラクリティが進化することで宇宙が顕現する。まず仏(buddhi)、続いて心(manas)、感覚器官、そして粗大元素が現れ、すべては原初物質の変化(pariṇāma)として理解される。古典的サーンキヤでは創造神の関与は想定されず、『サーンキヤ・カーリカー』は明確に非神論的(ニリーシュヴァラ)な立場を取っている。プルシャはただの観照者にすぎず、プラクリティの変化には関与しない。したがって、サーンキヤは「無神論的実在論」あるいは「無神論的二元論」とも呼ばれることがある。物質(自然)と魂(意識)の両方の実在を認めるが、唯一神やブラフマンのような統一的実体を否定するという特徴を持つ。サーンキヤの思想は古く、仏教以前に成立した可能性もあり、『マハーバーラタ』(とりわけ『バガヴァッド・ギーター』や『モークシャダルマ』)などにもその思想の痕跡が見られる。古典サーンキヤでは、プラクリティから進化した24の原理(tattva)が存在し、プルシャは第25の原理として完全に独立して存在する。姉妹伝統であるヨーガ学派と共に、サーンキヤは自然(プラクリティ)を物理的・心理的現象の基盤とする自然主義的宇宙論を提示した。ここでは、プラクリティが根本実在であり、グナ(性質)によって世界を構成する一方で、意識(プルシャ)は非物質的である。このように、形而上学的には二元論でありながら、世界の生成論的には「物理主義的」特徴を持つ独自の立場を取る。なお、16世紀のヴィジュニャーナ・バイクシュなど一部の後代注釈者はサーンキヤにイーシュヴァラ(神)の概念を統合しようとしたが、古典的サーンキヤの立場は非神論的である。フローニンゲン:2025/5/16(金)10:27
16725. インド思想の実在論
次にインド思想における実在論を見ていく。ここでいう実在論(Realism)とは、私たちの知覚や概念とは無関係に、実在する外的世界があるとする哲学的立場を指す。すなわち、外界の物体・性質・普遍などが客観的に存在するとみなす思想である。インド哲学においては、仏教の観念論や虚無論に対抗する形で、力強い実在論を展開した諸学派が存在した。中でも重要なのは、ニヤーヤ学派、ヴァイシェーシカ学派、ミーマーンサー学派、ドヴァイタ・ヴェーダーンタ学派である。
ニヤーヤ学派(およそ2世紀頃、ゴータマ・アクシャパーダにより創始)は、インドにおける直接実在論の代表的例である。基礎文献は『ニヤーヤ・スートラ』(紀元後200年頃)であり、これに対するヴァーツヤーヤナ(5世紀)、ウッディヨータカラ(6世紀)、ウダヤナ(10世紀)らの注釈によって、実在論的形而上学と厳密な論理学・認識論が体系化された。ニヤーヤは、世界は心とは独立に存在する実体や性質によって成り立っており、人間の認識はそれらを正当に捉えることができると主張する。認識の正当な手段(プラマーナ)は4つ:知覚(pratyakṣa)、推論(anumāna)、類推(upamāna)、証言(śabda)である。これらを通じて、人は外的世界を直接に、信頼性をもって把握できるとされる(素朴実在論)。形而上学的には、ニヤーヤは普遍(sāmānya)、自己(ātman)、実体(dravya)などを含む強固な実在論を擁護した。例えば、「牛であること(牛性)」は個々の牛に共有される現実の性質であり、「自己(ātman)」は持続する実体であると主張された。ヴァイシェーシカとの連携により、ニヤーヤは多元的存在論を築き、関係性や不在(abhāva)といった抽象概念までも実在と見なした。さらに、ニヤーヤは神(イーシュヴァラ)の実在を論理的に証明しようとした最も高度な有神論学派でもある。ウダヤナは、仏教の無神論やミーマーンサーの非神論に対して、神の存在を理性的に擁護した。ニヤーヤの実在論は他学派にも大きな影響を与え、ミーマーンサーやドヴァイタ・ヴェーダーンタなどもこれを基盤に論を展開した。正しい知覚が外的世界と接触するという立場は、仏教の懐疑論や観念論に対抗する正統派インド思想の礎となった。14世紀のガンゲーシャによる中世ニヤーヤ(ナヴァ・ニヤーヤ)改革に至るまで、ニヤーヤの実在論哲学は長きにわたって存続した。
プールヴァ・ミーマーンサー学派(通称ミーマーンサー)は、紀元前2世紀頃のジャイミニによって創始され、『ミーマーンサー・スートラ』にその体系が記されている。ヴェーダの注釈と儀礼的義務(ダルマ)の哲学が中心だが、哲学的には極めて強固な実在論と多元論を展開している。クマーリラ・バッタ(7世紀)によるバッタ派と、プラバーカラ(7~8世紀頃)によるプラバーカラ派の両者が存在し、どちらも外界とヴェーダ的真理の独立した実在性を主張した。ミーマーンサー哲学では、ヴェーダの命令が意味を持つためには、世界と行為の結果が実在でなければならないとされる。両学派とも仏教の観念論や虚無論に反論し、意識外に実在がないという見解を激しく退けた。ブリタニカ百科事典も「両学派は形而上学において実在論者であり、仏教の観念論・虚無論を批判した」と述べている。ミーマーンサーは法則に支配された恒常的実在を擁護し、カルマの法、ダルマ(見えないが現実的な原理)、感覚対象などの実在性を主張する。例えば、クマーリラ・バッタは、物体や他者の存在は知覚と反証の欠如によって確認されると論じ、常識的実在論の立場を取った。存在論的には、バッタ派はヴァイシェーシカと同様、実体(dravya)、性質(guṇa)、行為(karma)、普遍(sāmānya)、不在(abhāva)という5種の実在項目を列挙した。プラバーカラ派はやや異なる8分類を用いたが、いずれも個別性と普遍性の両方を実在と認めていた。バッタ派は「闇(暗黒)」までも実体として扱い、光の不在さえ実在として把握した。認識論的にも、ミーマーンサーは厳密であり、ジャイミニやシャバラは、知覚・推論・類推・証言という手段による知識理論を確立し、それによってヴェーダの無謬性と、そこに記された儀礼の成果(アプールヴァと呼ばれる見えざる力)を擁護した。総じて、ミーマーンサーは保守的な実在論哲学として際立っており、道徳法や儀礼的有効性に実在世界が必要であるという前提に立っていた。クマーリラは、マハーヤーナ仏教の観念論に論理的実在論で対抗し、「正統ヒンドゥー実在論の復興者」として後のドヴァイタ学派へと道を拓いた。
ヴェーダーンタ(ウパニシャッド的教義の解釈体系)の中でも、強い実在論を擁するのがドヴァイタ・ヴェーダーンタ(=二元論的ヴェーダーンタ)であり、別名「タットヴァヴァーダ(真理の教え)」とも呼ばれる。13世紀南インドにおいて、マーダヴァーチャーリヤ(1238–1317年)によって創始された。この学派は、シャンカラによるアドヴァイタ(不二一元論的観念論)に対し、真っ向から対立した。マーダヴァは、究極実在(ブラフマン=人格神ヴィシュヌ)と個々の魂および物質との間に、妥協なき二元論を主張した。彼の教えでは、ウパニシャッドや『ブラフマ・スートラ』は、統一性ではなく実在の多元性を説いているとされる。すなわち、アートマン(個我)はブラフマン(神)とは永遠に異なるものである。実在は本質的に2種:自立実在(svatantra)=ブラフマン、および依存実在(paratantra)=ジーヴァ(個々の魂)とジャダ(無意識的物質)である。依存実在はブラフマンの意志によって存在するが、それでも実在である。この「依存」という関係そのものが、神と被造物の永遠の差異を保証するのである。マーダヴァは、世界を「幻影(マーヤー)」とするシャンカラの立場を鋭く批判し、それは感覚経験や常識に反すると述べた。ドヴァイタ哲学では、「差異は実在である」と断言され、魂同士の差異、魂と神の差異がすべて実在とされる。彼とその弟子たちは、自らの立場を「タットヴァヴァーダ(実在論)」と呼び、アドヴァイタの「誤った単一論」に反論することを明確にした。マーダヴァの体系においては、ブラフマンは属性を持つ人格神であり、魂はそれぞれ独自に存在し、物質もまた実在である。この3者は永遠に存在するが、魂と物質は神に依存する。ドヴァイタ学派はこの実在的解釈に基づく注釈を多数生み出し、アドヴァイタ学派との間で活発な論戦を展開した。感覚的世界の実在性と多様な実在の肯定により、ドヴァイタはヴェーダーンタ内部での最も明快な実在論的対抗軸となった。ある要約では、「マーダヴァは世界を幻だとする立場を完全に否定した」と述べられる。すなわち、ドヴァイタ・ヴェーダーンタはインド実在論の伝統を神学の領域にまで拡張し、「世界と魂を実在と見なすことは、哲学的に妥当であり、神と信者の関係性においても重要である」と論じたのである。フローニンゲン:2025/5/16(金)10:37
16726. インド思想の観念論
最後に、インド思想における観念論についてもまとめておく。ここまでのところ、インド思想と一括りにすることができないぐらいに形而上学的思想の立場が違うことがわかる。上述の実在論とは対照的に、インド思想における観念論(Idealism)とは、「心・意識・霊的実在こそが根源的な現実であり、物質世界は独立した実在ではない(あるいは幻想にすぎない)」とする立場を指す。インドにおける代表的な観念論的潮流には、ヒンドゥー哲学のアドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)と、大乗仏教の瑜伽行派(唯識派/ヴィジュニャーナヴァーダ)がある。これらの伝統は、物質世界が最終的には「心の表れ」あるいは「霊的実在の仮象」であるとする点で一致しており、非物質的な一者(ブラフマン)や純粋な意識(識)こそが究極の実在であると主張する。
アドヴァイタ・ヴェーダーンタは、アーディ・シャンカラ(8世紀頃)によって体系化された、インドにおける絶対観念論あるいは一元論の古典的モデルである。アドヴァイタ(Advaita)とは「二ではない」の意であり、最終的には「ただ1つの実在(ブラフマン)」しか存在しないと説く。この学派は、ウパニシャッドや『ブラフマ・スートラ』を根本聖典として用い、個別的自己(アートマン)と宇宙的実在(ブラフマン)が本質的に同一であると主張する。シャンカラは、「アートマンとはすなわちブラフマンである(ayam ātmā brahma)」という命題を軸に、個人存在と宇宙の統一性を説いた。経験的世界に現れる多様な物や現象は、究極的には「無明(avidyā)」によって生じた仮象にすぎず、それ自体には独立した実在性はない。このような世界観は、批判者たちから「幻影説(māyāvāda)」とも呼ばれた。ただしアドヴァイタの立場では、世界は「全く存在しない」のではなく、「依存的な存在(mithyā)」である。すなわち、夢が目覚めた後に現実ではなかったと気づかれるように、経験世界も真理の知識(jñāna)を得た時には「ブラフマンのみが実在であった」と明らかになる。アドヴァイタでは、現実には2つの次元があるとされる。(1)ヴィヤーヴァハーリカ(俗諦):日常経験における実在。因果律やカルマが機能する世界。(2)パーラマールティカ(勝義諦):究極の実在。そこではブラフマンのみが存在し、他のすべては否定される。この観点から、解脱(mokṣa)とは、自我や世界の多様性が仮象であり、自己はもともとブラフマンであったという認識に目覚めることに他ならない。アドヴァイタの根本聖典には、以下のような記述がある。「この世のすべてはブラフマンである(『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』)」「世界は意識の振動にすぎず、夢の都市に喩えられる(『マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド』)」。シャンカラは、これらの文献を基に、「世界の多様性は誤認(adhyāsa)にすぎず、真の知識によって解消される」と主張した。この立場は、西洋の「主観的観念論」とは異なり、「世界は私の心の中の観念である」とは言わず、「世界は唯一なる普遍意識(ブラフマン)の現れにすぎない」とする。したがって、アドヴァイタ・ヴェーダーンタは、物質と多様性を現象的なものとみなし、唯一真に実在するのは霊的意識(ブラフマン)であるとする、インド思想における代表的観念論である。
インド仏教における最も明確な観念論学派は、瑜伽行派(Yogācāra)、または唯識派(Vijñānavāda/Cittamātra)と呼ばれるものである。グプタ朝期の4~5世紀に、アサンガとヴァスバンドゥ兄弟によって体系化された。この学派の中心教義は「唯識(vijñapti-mātra)」であり、「存在するものはすべて表象(表現)にすぎない」というものである。すなわち、私たちが外的物質世界と考えるものは、実は心による投影にすぎず、意識から独立して存在するものはない。ヴァスバンドゥの代表作『唯識二十頌(Viṃśatikā)』では、「すべての存在は知覚上の現れにすぎず、外部に独立した実在はない」と論証される。夢や錯覚を例にとり、感覚的現実も本質的には心の構成物にすぎないとする。根本文献には以下がある:アサンガの『大乗集諦論』『瑜伽師地論』、ヴァスバンドゥの『唯識三十頌(Triṃśikā)』『唯識二十頌』、『解深密経(Saṃdhinirmocana Sūtra)』:法輪三転を教える最初の唯識系経典とされる。唯識では、「色(rūpa)」すなわち物質的形態も、実は意識の構成であり、意識から独立して知覚されたことは一度もないとされる。すべての実在は「法(dharma)」としての心的過程であり、外的対象は推定されるにすぎない。この思想を支える理論には以下がある。(1)三性説(三自性説):遍計所執性(幻想)、依他起性(因縁的生成)、円成実性(真実)により、世界の仮象が生じていることを説明。(2)阿頼耶識(ālaya-vijñāna):深層意識の層であり、カルマの種子が蓄えられ、外的世界の幻想が生まれる根拠とされる。唯識派はナガールジュナの中観派(空思想)との論争の中で発展し、一部の後代解釈者は中観と唯識の統合を試みた。中観派が「あらゆる存在は空である」とするのに対し、唯識派は「物質的実在を否定し、意識のみを真実とする」観念論を展開した。ただし、唯識の内部でも「意識を最終実在と断定すべきか」「最終的には意識さえも空であるべきか」といった議論があり、形而上学的観念論か認識論的観念論かについては諸説ある。それでも、ヴァスバンドゥの外的対象否定論は、インド仏教思想において最も一貫した観念論として受け継がれた。中国・日本では法相宗・唯識宗として展開され、長期にわたり大乗仏教の主流哲学となった。フローニンゲン:2025/5/16(金)10:49
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There is a seed for further development where a dream appears. I constantly reflect on the dreams I have in the morning. Dream journaling is essential for me to continue the process of individuation that Jung described. Groningen, 05/016/2025
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