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【サイケデリック学探究記】11919-11925:2024年1月21日(日)



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タイトル一覧

11919. 理論仮説の宝庫としてのインド哲学

11920. 今朝方の夢

11921. 東西の意識哲学の深層的な対話の実現に向けて

11922. 無限に小さいものと無限に大きいものへの関心

11923. サイケデリック体験の見取り図を提供する東西の意識哲学/ダイモーンの疼き

11924. 確からしさの放棄を通じた新たな世界認識の獲得へ

11925. 唯識派と分析的観念主義/内面探求遊戯としての瞑想実践


11919. 理論仮説の宝庫としてのインド哲学        


時刻は午前4時を迎えた。気がつけば今週もまたもう日曜日がやって来て、明日からは新しい週を迎える。毎日が充実しているがゆえに時の進行が早く感じるのだろうか。実際のところは時が流れているとはさほど感じられず、振り返ってみたときに曜日が変化しているという感じである。時間というのは構成概念であり、1日24時間というのもまた人間が作り出した虚構の概念である。時間は時間をある対象の変化と見立てた人間が作り出したものなので、形而下の世界では便宜上時間を設けているが、形而上の世界では決して時間などはない。今の自分は肉体としては形而下の世界で活動しながらも、精神活動はもはや完全に形而上の世界で行っているのかもしれない。


午前4時を迎えた今の気温は1度である。今日から最高気温が比較的高くなる日が続くので、外の世界の雪はきっと溶けるだろう。今日は正午までは今の気温のままで、そこから夜にかけて6度まで気温が上がり、深夜も気温を維持しながら明日の午前6時頃には9度まで気温が上がっているらしい。それくらいの気温であれば室内においては相当暖かく感じられるだろうし、外出する際にも暖かさを感じられるのではないかと思う。ちょうど明日はジムに行く日でもあるので、外出の際の暖かさを楽しみにしたい。


昨夜、理論的推論あるいは理論仮説を立てることの大切さについて考えていた。とりわけ意識哲学を通じて自分が行いたいのはそれであるし、それを後押しするヒントがインド哲学にあるように思える。インド哲学には意識に関する豊富な理論仮説が眠っているという直感がある。それは理論仮説を立てる上での宝の宝庫である。そもそも自然科学においては、理論仮説を基にして実証研究が行われ、その仮説が理論となっていくというプロセスがある。実証研究が先ではなくて、理論仮説が先であることを思う時、意識に関してもやはり誰かが理論仮説を立てなければならないのだ。その役割を担う存在としてもちろん意識科学者も重要だが、理論家として意識哲学者が大きな役割を果たしていく必要があるように思える。現在、意識科学者のみならず意識哲学者も物質主義や物理主義に堕ちっている者も多く、意識哲学者側にも自らが立脚するパラダイムの検証が求められ、より成熟したパラダイムに基づいた形で新たな理論仮説が立てられることに期待したいし、自分もそこに貢献していきたいという思いがある。今日の探究もまたそこに向かっての歩みとなるだろう。意識哲学における理論仮説の創出にきっと多大な貢献を果たすであろうインド哲学の研究に今日も没頭したい。とても充実した日曜日になる予感がしている。フローニンゲン:2024/1/21(日)04:13


11920. 今朝方の夢  


静かな日曜日の朝の世界の中で、今朝方の夢について振り返っている。今日は2つほど夢を見ていた。まず覚えているのは、日本人の高校生と少数の学者が集まる学会に自分も参加していた場面である。その学会自体は外国のどこかの街の郊外で行われていたが、参加者は全員日本人だった。なので基本的に学会は日本語で行われたが、最後に発表した日本のどこかの名門大学の教授は少しばかり英語を交えて発表を行っていた。その教授の発表に対して、最後に少し噛み付くかのような質問をする人がいた。それは高校生ではなく、かなり年配の女性の学者だった。その女性は発表者の教授が述べた4つの点に同意しながらも、それら4つがどこか並列列挙であったことに不満のようで、実際にはそれら4つは全て繋がっており、さらに深い理由が隠されていることを指摘していた。その論拠として、その女性が先日ある大企業を訪れた時に、その会社のトップから聞いた話を引き合いに出していた。その女性の指摘はかなり真っ当のように思えた。すると発表者の教授もその女性の指摘に賛同し、そこからもう少し説明を加えた。その場にいた高校生には少し議論のレベルが高かったようで、多くの高校生たちはキョトンとしていた。そもそも、その場の最前列にいた高校生が、なぜ最近企業内でもキレる人が増えているのかという質問をしたことからその議論が展開していた。質問をした生徒もそこからの2人の教授のやり取りにキョトンとしているようだった。


その他に覚えているのは、オランダの見慣れない街で生活をしていた場面である。その街で私は、書籍の受け取りのために書籍の保管場所に向かっていた。オランダには幾つかの運送会社があり、今回はDHLという運送会社から書籍を受け取ることになっていた。正直なところ、その日に書籍の受け取りができるのか定かではなかったし、今から向かう場所に本当に自分の書籍があるのかも定かではなかった。ここ最近は断続的に書籍を注文していて、どの書籍がいつ届けられるのか自分でもよく把握しておらず、とりあえず近くの保管所に向かった次第だ。


保管所に到着すると、そこは介護施設のような雰囲気で、果たして本当にここが保管所なのかと一瞬疑ったが、いくつかの運送会社の荷物を扱っていることを示す張り紙が貼ってあったので正しい場所にいることを確認した。保管所の中に入ると、すぐさま男性が対応してくれた。住所と名前を伝えると、すぐに荷物を取りに行ってくれ、手に1冊の梱包を持って戻って来た。やはり書籍が届けられていたかと思ったが、荷物の住所と名前をよくよく見ると、少しかすれて見えにくく、自分の住所ではないように思えた。再度目を凝らして本当にそれが自分の荷物かを確認しようと思ったところで夢から覚めた。フローニンゲン:2024/1/21(日)04:29


11921. 東西の意識哲学の深層的な対話の実現に向けて  

   

時刻は午前5時を迎えた。今日はオランダ時間の午前11時から1時間ほど両親とZoomで話をする。2ヶ月に1度のお互いの近況を報告し合うようになって久しく、こうしたことが実現されるのもテクノロジーのおかげであり、テクノロジーの多大なる価値を感じる。両親とのミーティングまでの時間はもっぱら読書に明け暮れる。今日はまず最初に、昨日受け取った新プラトン主義とインド哲学を絡めた書籍を読み進めようと思う。そこから仏教の無意識論に関する書籍を読み進める。前者はニューヨーク州立大学出版の書籍で、後者はルートリッジ出版の書籍である。どちらもよくお世話になっている学術書に定評のある出版社だ。そこからさらに、オックスフォード大学出版から出版されたインド哲学に関するハンドブックシリーズ、すなわち論文集を読み進めていこうと思う。それら3冊は昨日届けられたばかりのもので、今日の午前中の間に初読を終えることができるだろう。それらの初読を終えたら、日本思想の無に関する論文集を読み返し、仏教の現象学に関する学術書を読み返す。このように現在はもっぱら東洋思想に軸を置いて意識の探究をしている。これまでの自分は実際に欧米社会に身を置いて、欧米の大学機関に所属することを通じて研究をしていた都合上、気がつかない形で西洋思想を基盤にした形で意識研究をしていたのである。今はそれを浄化しながら、新たな思想的枠組みとしての東洋の意識哲学を自分の中に取り入れることをし、自分の内側にすでにある西洋の意識哲学を磨いていくことをしたい。再三強調していることであるが、宇宙と同様に謎を多く残す意識について少しでも新たな真理を発見し、さらに深い真理に到達するためには、東西の意識哲学は手を取り合わなければならない。両者が手を取り合い、そこで深い対話が実現された時、きっと意識に関する新たな真理が発見されるだろう。意識哲学の分野でそのような対話を実現する架け橋になれたらと思う。もし仮にそんな大それた存在になれなかったとしても、自分の内側で両者が手を取り合うようにし、両者が建設的な対話ができるようにしたい。自分の内側では毎日東西の意識哲学の対話が行なわれているのだ。すでにそれは始まりを見せており、ここからさらに両者が固く手を取り合うようにしたいし、さらに充実した対話が実現されるようにしたい。そのためにはとにかく勉強あるのみ、研究あるのみである。そして何より、意識研究においては自らの直感と直観を研ぎ澄ませるための直接体験が重要であり、それを行うのが瞑想実践とサイケデリック実践であって、実践あるのみである。東西の意識哲学の絶え間ない深層的な対話の実現に向けた運動が自分の中で動き出している。フローニンゲン:2024/1/21(日)05:29


11922. 無限に小さいものと無限に大きいものへの関心 


早朝に、ステファン・ホーキングを指導教官に持っていた数学者かつ宇宙物理学者のバーナード・カーと哲学者のバーナード・カストラップの対談を聴いていた。2人は分野こそ違えど意識について深い関心を寄せており、同時に深い洞察を持っている。そんな2人が共通見解として持っているのは、やはり脳が意識を生むのではなく、脳はあくまでも意識のフィルターに過ぎないという発想である。この発想をもとにした具体的な理論仮説が提示され、それに基づく実証研究が進むことを期待する。ひょっとしたらそうした理論仮説を提示していくことにも自分が貢献できるかもしれない。サイケデリック研究の隆盛と相まって、意識研究にも大きな地殻変動が起きている印象である。これまでの物理主義・物質主義的なパラダイムから解放されるのかどうかに注目が集まる。仮にこのタイミングでそのパラダイムを超克することができなかったら、次にどのタイミングでそれが実現するのだろうかと思ってしまう。それぐらいに今は重要な時期に差し掛かっているし、サイケデリック研究の進展と相まって、意識研究が大きく飛躍する可能性もこのタイミングに内包されている。


無限に小さいものと無限に大きいものへの関心。そしてそれらに関する内的ビジョンの知覚。両者はともにサイケデリック実践によってもたらされている。サイケデリック体験の中で、無限に小さい世界を覗き込みながら、同時にその対極にある無限に大きな世界を眺めるということを行うことは引き続き続けたい。どちらも意識拡張現象の中で起こることは興味深く、無限に小さいものに関しても意識の縮小ではなく、意識の拡張を通じて体感される点は興味深い。本来意識は縮小も拡張もせず、絶えず無限の広がりを持っている。それが脳のフィルターを通った瞬間にある程度の収まりを持ってしまうだけで、本来意識はどこかでも限りなく広く、深い。ゆえに本来の意識の本質に立ち返ることができれば、無限に小さいものや無限に大きいものが知覚されうるのである。


サイケデリック実践を継続する中で大小の無限にアクセスする頻度を増やしながら、瞑想実践によってその感覚をさらに定着させていこう。そうすれば自分の思考は自由自在に無限に小さくする形で極小のものを捉えることができるようになってくるだろうし、無限に大きくする形で極大のものを捉えることができるようになってくるはずだ。微細なものと極大なものを捉える思考が涵養されればされるだけ、意識哲学の研究においても重要な仕事ができるようになってくるのではないかと思う。フローニンゲン:2024/1/21(日)06:07


11923. サイケデリック体験の見取り図を提供する東西の意識哲学/ダイモーンの疼き


意識がなんたるかを知らず、意識の地図を持たない形でどのようにしてサイケデリック体験を紐解いていけると言えるのだろうか。そんな問題意識から今こうして東西の意識哲学に半ば駆り立てられるような形で探究する日々を過ごしている。東西の意識哲学を架橋させると、意識の壮大な見取り図が構築されるだろう。それを作っていくのは自分の知的創作活動としての最大の楽しみとなった。またそこに大きな喜びを見出している。サイケデリクスが私たちにもたらす体験は無限に広く、底知れず深い。そうした体験を各人によって意味のあるものにしていくための補助輪としての、あるいは道先案内人としての地図を制作していきたいという思いが日毎に増す。そうした地図は自分のサイケデリック体験を咀嚼する際にも大きな役割を果たしてくれるであろうから、自分にとっても意味がある。


ダイモーンの疼き。内なるダイモーンが破壊と創造をこれ以上にないほどに欲している。その衝動的疼きと切望を感じながら学術研究に打ち込んでいる。東西の意識哲学の研究に仕向けたのはそのダイモーンである。ダイモーンの導きによって、今自分は東西の意識哲学の探究に全身全霊をかけて取り組んでいる。東洋の意識哲学に含まれるインド哲学の研究はその具体的な現れであり、ダイモーンの衝動と切望のエネルギーを受けて、引き続き探究を前に進めていく。その存在の後押しがなければ自分の探究は成り立たないであろう。


午前7時半を迎えた段階で、すでに2冊ほどの書籍の初読を得た。1冊目の書籍を通じて、プロティノスを代表とする新プラトン主義の思想がインド哲学の思想と重なり合う部分が大きいことに気づけたことは意味がある。重なりがあるというよりも、前ソクラテス時代のギリシャの哲学者、ソクラテス時代のギリシャの哲学者、そしてソクラテス以降のギリシャの哲学者はインド哲学から大きな影響を受けていたのである。そう考えれば、新プラトン主義の思想とインド哲学の思想が重なり合うのは当たり前である。以前トルコに旅行に出かけた時、そこでイスラムの思想がどれだけ西洋哲学に影響を与えたのかを知った。上記の話とそれを絡めると、西洋の思想はインド哲学なしには成り立たなかったであろうし、イスラムの思想なくしては発展しなかったのではないかと思う。今の自分の最大の関心である東西の意識哲学は、実は歴史上最初から分離などせず、互いに影響を与え合っていたのだと思う。地理的な区分でそれらが後に分割されたに過ぎず、歴史的には絶えず両者は思想的な交流と対話をしていたはずなのだ。現代において再びその交流と対話を促進するような試みをこの分断時代において実現したい。自分はその媒介役となる存在である。自分の学術研究は、絶えず東西の意識哲学の交流と対話を見据えたものにしていかなければなるまい。そこに自分の使命を見出し、そこに沸々と湧き立つ使命感を感じる。フローニンゲン:2024/1/21(日)07:33


11924. 確からしさの放棄を通じた新たな世界認識の獲得へ


現代の科学主義が蔓延る社会においては、確からしさはほぼ全て科学的なものによって担保されていると信じている人が多いように思える。実際のところは科学の確からしさがどのような前提条件や手続きを通じてもたらされているのかについてはほとんど知らず、科学を通じて得られたものであれば確からしいと信じるのは極めて危うい態度ではないだろうか。こうしたところにも科学主義的な現代人の在り方が如実に反映されている。


ハーバード教育大学院(HGSE)の哲学者キャサリン・エルギン教授は、かつて分析哲学者のネルソン・グッドマンの協働者でもあり、認識論に精通している。そんなエルギン教授は大胆にも、確からしさを求めることを放棄することを通じて、私たちはさらに広い世界認識を獲得する機会を得ると主張する。2018年にHGSEを訪れたときに、エルギン教授のクラスを聴講させていただき、その後に研究室で一対一で少しばかり話をさせていただく機会に恵まれたのだが、その時のクラスの中では芸術が科学とは違った形で私たちに自己や世界の真理を認識させてくれる機会を提供してくれることを話題として取り上げていたことを思い出す。エルギン教授は“Considered Judgment”という書籍の中で、メタファー、フィクション、感情といったものがしばしば科学や芸術と同様に私たちの世界認識を促進させてくれることを指摘している。きっとこの指摘は、サイケデリック体験を理解する際に不可欠であろうし、サイケデリック体験の意義や価値を見つめる際に重要かと思う。サイケデリクスを通じてもたらされる変性意識状態というのはある意味特殊な世界認識を可能にしてくれ、そこで得られた知識・洞察・真理を単に科学的な確からしさの基準で議論することが非常に限定的なものであることがわかる。現代の科学における認識論をアップデートしていかない限りは、サイケデリック体験がもたらす真に豊かな世界認識を十分に紐解くことはできないだろう。科学における認識論のアップデートに期待しながらも、同時にサイケデリック哲学の側から科学に働きかけていく形で、新たな知の獲得方法があることを示唆・提示していくことも重要だろう。現代社会における世界認識が変容していかない限り、学術の進歩もあり得ないだろうし、世界に山積みの問題解決も実現しないであろう。現代は認識論的な限界に直面しており、サイケデリック哲学の研究はそこに一石を投じるものでなければならないし、それは意識哲学が果たすべきことも同じかと思う。


また、今読み返しているエルギン教授の“True Enough”では、インド哲学的なAとNon-Aの弁証法的思考を活用するような形で、理論モデルや概念の不正確さは即対象の描写の不正確さを表さないと述べている。言い換えれば、真理から逸脱したそれらの理論モデルや概念が私たちの世界認識を促進する力があると述べているのである。また別の表現で言えば、不正確さがその対象や現象の輪郭を逆にはっきりと浮き彫りにさせる可能性があるということである。まさにAを正攻法的にAを正確に定義づけようとするのではなく、あえてAから逸脱する不正確な描写を通じてAを浮き彫りにしていくという弁証法的な世界認識の方法は確かに存在しているし、その重要性は極めて高い。現代の科学一辺倒の世界認識方法が蔓延る中において、不正確さを通じた世界認識の方法があることを共有したいし、その方法を通じて世界を把握する実践に乗り出してみることを自分にも課したい。フローニンゲン:2024/1/21(日)09:12


11925. 唯識派と分析的観念主義/内面探求遊戯としての瞑想実践


時刻は午後4時を迎えた。今、ようやく気温が4度となり、昨日まで残っていた雪が少しずつ溶け始めているのがわかる。ここから深夜にかけて気温が上昇していくという珍しい気温の推移を見せ、明日の朝には8度ほどの気温に達する。それに伴って今夜から明日の朝にかけては雨が降るようなので、気温の高さと雨のおかげで雪が完全に溶けるのではないかと思う。そう考えると、今目の前に見える雪景色が儚き存在であることが知覚され、より美しさが増す。しばらくは雪景色を見ることがないであろうから、まだ明るい今のうちの雪景色を眺めておきたい。


今日は午前中に両親と2ヶ月ぶりのZoomミーティングを行った。2人とも元気そうで何よりであり、こうやって2ヶ月に1度お互いの安否を確認しながら近況報告をするのは望ましいことかと思う。両親の話から色々と知らないことや考えさせられることがあり、依然として2人からは多くのことを学ぶ存在としてあり続けたいと思う。


ここから夕食準備の時間まで、引き続き仏教の現象学に関する学術書の再読を進めていこうと思う。ルートリッジ出版から出版された“Buddhist phenomenology: A philosophical investigation of Yogacara Buddhism and Ch’eng Wei-shih lun”という書籍を今再読しているのだが、これは内容が濃く、大著な力作である。本書を読み返しながら、著者は唯識派は観念主義でも物質主義でもなく、唯識派はどちらも共に頑なに否定しているとのことである。自分の中で唯識派は、確かに観念主義と言っても幅が広く、著者が否定している3つの観念主義に唯識派は該当しないことには賛同するが、バーナード・カストラップが提唱した分析的観念主義には十分に該当するのではないかと思う。もちろん完全に合致しないまでも、意識とリアリティの捉え方に関して重要な思想を唯識派と分析的観念主義は共有しているので、その合致度合いが如何程かをこれから詰めていこうと思う。


最近は内観的瞑想に大きな楽しみを見出している。それは学術研究目的の読書に匹敵するぐらいの楽しさがある。先ほども少しばかり瞑想実践をしていたのだが、その気持ち良さや心地良さに合わせて、集中力の増大と内面が整う感覚が得られることに改めて注目していた。さらには、瞑想実践の中で湧き上がる思考や感情にここからさらに注意深くなれば、そうして湧き上がってくる対象に対してシャドワークを施すこともできる。内観的瞑想実践を実践として肩肘張るのではなく、内面探求の遊びとして行うという意識で取り組んでみるとどのような進展があるだろうか。楽しみの中にきっと大きな学びがあるであろうから、かつてのように修行僧的に瞑想実践をするのではなく、シャドーワークにもつながる楽しい内面探求遊戯として瞑想を日々実践したいと思う。フローニンゲン:2024/1/21(日)16:23

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