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【サイケデリック学探究記】11903-11910:2024年1月19日(金)



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タイトル一覧

11903. 純粋主体と主体について

11904. 別の地球にいる夢/縄文人のサイコアクティブな物質の活用の可能性

11905. 宇宙の知的性と言語の謎

11906. サーンキヤ学派とヴェーダーンタ学派に注目して

11907. シャンカラ以前と以後のヴェーダーンタ学派の思想変遷

11908. 幻影主義的一元論ではなく実在的一元論を採用しながら

11909. 瞑想実践の楽しみ/シロシビン・マッシュルームのマイクロドーシングの効果を実感して

11910. オランダのシロシビン・マッシュルーム&シロシビン・トリュフの法規制を改めて調べて


11903. 純粋主体と主体について


時刻は午前5時を迎えた。今の気温はマイナス1度で、少し雪がパラついているようだ。辺りが真っ暗であるし、カーテンを閉めているので外の様子は全く見えず、果たして雪が本当に降っているかはわからない。しかし、確かに氷点下の気温の影響を受けて、室温が下がっていることは確かだ。ここからしばらくの間はマイナス1度の気温のままで、正午に近づいてきた段階でゆっくりと気温が上がり、日中の最高気温は4度まで上がる。午前中は少しばかり寒さを感じるだろうが、その中でゆっくりと研究を前に進めていこう。


早朝にふと、意識哲学と発達心理学の双方から意識を捉えてみたところ、1つ大きな気づきがあった。どうやら“seer”としての自己、すなわち純粋意識としての全てを目撃する存在としての自己は発達などせず、一方で、世界を見ていると自覚している存在は構造的に発達することがわかった。両者は通常一体となっているかのような姿をしているし、一体となっているかのような感覚がするのだが、それらが完全に別の存在であることがわかったのである。それは直感的に感じ取れたことである。もちろんそれらも本質的には非二元である。なぜなら、世界を自覚的に見ている自己の背後にある純粋意識としての目撃する存在は、全ての存在と同一化できる力と性質を持った存在であるからだ。それは普遍意識とも非二元的に同一化することができるし、知覚対象の全てとも同一化でき、さらには自覚的に知覚する主体とも同一化することができる。その存在は「純粋主体」と命名することができるかもしれない。純粋主体としてのそれは、いかなる客体とも同一化できる力を持っているのである。そしてそれは発達などしない。そこには構造的な発達など起こらず、発達するのは純粋主体と通常は同一化している主体である。その主体は世界を自覚的に眺めることができる。しかし純粋意識は自覚や非自覚を超えて絶えず世界を目撃しているものなのだ。そうした両者の差異を知覚する瞬間が先ほどあった。


純粋主体ではない世界を眺める主体は、自我として捉えることもできるかもしれない。自我は確かに構造的に発達する。また、自我に付帯する諸々の知性や能力も発達する。これまでは意識の発達と称して意識の中に様々な発達領域を捉えていたが、意識について学べ学ぶだけ、意識そのものは決して発達せず、意識そのものの内容物としての自我なり何なりが構造的に発達していくことが見えてくる。また、自我の発達領域と他の発達領域を同列でこれまで議論してきたように思うが、主体を自我と捉えると、自我に付帯する様々な領域があり、その領域内の知性が発達していくと捉えた方がいいのではないかと思う。いやより厳密には、確かに認知や道徳などは自我を通じて発揮される側面があるので、それらの発達領域は自我を起点にして展開されるものだとみなしていいかもしれないが、身体意識や霊性などの発達領域における知性は完全に自我から発揮されるとはみなせない節があるので、それらは別の扱いが必要かもしれない。このように、自我との関係性から諸々の発達領域を整理してみることも大切かもしれない。そのような気づきが得られた。フローニンゲン:2024/1/19(金)05:34


11904. 別の地球にいる夢/縄文人のサイコアクティブな物質の活用の可能性


早朝の静けさに包まれながら、静かな心で佇む自己がいる。今この瞬間は瞑想をしているわけではないが、瞑想中の穏やかな心がこの瞬間に体現されているかのようだ。


今朝方はそれほど印象に残る夢を見ていなかったように思えるが、不思議な感覚があったことは確かである。端的には、夢の中の自分がこの地球ではないどこか別の宇宙の地球にいた感覚があったのだ。それはまさにマルチバースの世界の中であるかのようだった。多次元宇宙の中にあるこの地球ではない別の地球にいたという感覚があった。そんな世界の中で自分は日本語を使って物事を考えたり、話したりしていた。そこでもまた日本人としての自分が存在しているようだった。そんな自分が存在していたのは日本ではなく、現実世界のこの地球上での自分と同じく、やはりどこか別の国のようだった。しかし、その国の様子もどこかこの地球ではない感じがしており、間違いなくそこは多次元宇宙の中の別の地球だという確信があった。そのような夢を見ていた。その他にはもう何も覚えていないのが実情である。

それでは今から朝の呼吸法とアニマルフローの実践をして、温かいカカオヘンプドリンクを作ろうと思う。それを味わいながらデジタル絵画の創作と作曲実践をし、そこから朝の読書に取り掛かる。今日の読書は昨日イギリスから届けられた2冊の書籍の初読から始めようか。1冊はオックスフォード大学出版から出版された量子力学の観点で意識について論じたもので、もう1冊は日本の古代文明について論じたものである。後者については、今とりわけ縄文時代の人たちの世界観を理解したいと思っており、その目的で購入したものである。諸説あるが、縄文時代の遺跡からマッシュルームの土製品が出土しており、中には儀式で使われた用具の出土品と同じ場所から出土していることから、サイコアクティブなマッシュルームを縄文人が摂取していたことが仮説として立てられる。少なくとも縄文人と交流があったであろうカムチャツカ半島の人たちはシャーマニズムでベニテングタケを使っているし、現在でいう沖縄にはアイゾメヒカゲタケなどのシロシビン・マッシュルームが当時から自生した可能性があり、そうしたマッシュルームを縄文人が儀式の中で摂取していた可能性は十分にある。それに関する考古学的な研究資料は極めて少ないが、先日に購入して読んだ縄文人の霊性観に関する書籍の中で、やはりサイコアクティブなマッシュルームの儀式目的での使用の可能性にも触れられていた。世界の他の国々が儀式の中でサイコアクティブな物質を活用している中で、日本だけがそれを活用していないと主張するのはどうも説得力に欠ける。少なくとも縄文時代の前には大陸は陸続きだったのだから、大陸から日本列島に人間が渡ってくる過程の中で、サイコアクティブな植物やマッシュルームが日本大陸に持ち込まれ、儀式で使用されていた可能性があると考える方が自然であろう。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2024/1/19(金)05:55


11905. 宇宙の知的性と言語の謎


辺りはまだ真っ暗だが、時刻はゆっくりと午前7時に近づいている。この日記を書き留めたらモーニングコーヒーを淹れよう。毎朝その香りを楽しみながらコーヒーを淹れることと、それを味わいながら読書を進めていく楽しみがある。


先ほど、この宇宙の知的性について考えていた。宇宙に知性があるとする見方もあるが、ここでは宇宙を解釈する私たちとの関係性をもとに、宇宙が無限に言語記号を通じて描写されるという意味での知的性を内包している点に注目していた。もちろん解釈を施すこちら側に知性があるからこそそのようなことが言えるのだろうが、それにしてもリアリティが種々の言語によって無限に解釈され、無限に意味を常に開示することは驚きである。ここには言語学ではなく言語哲学と形而上学などが大いに関与する研究領域が潜んでいる。宇宙はそれそのものとして存在しており、宇宙が意味を解釈されることを望んでいると見るのは人間中心的な発想だろう。しかし、そのように考えたいほどに宇宙は私たちに無限の意味を開示してくれる。宇宙には無限の言語的意味が内包されていて、それを少しずつ人間が紐解いている印象だ。人間が何もないところから意味を創造するのではなく、絶えずリアリティとの関係性の中で言語的意味を創造する姿を見るとき、やはりリアリティ側にも存在論的にそこに無限の意味が内包されていると捉える方が自然ではないだろうか。


ここで述べている言語は自然言語にとどまることはなく、数学言語や音楽言語を含む。それらの言語を通じて描写されるリアリティ。多様な言語を通じて描写されるリアリティは、描写されることによって新たな存在として創造されてくるかのようである。意識と言語は密接につながっており、言語とリアリティは密接につながっていることから、それら三者を一体として研究していきたい。その研究は宇宙論ともつながってくるだろうし、それこそが宇宙論だと言えるかもしれない。


また別の興味深い点としては、新たな言語を学ぶとき、学習の初期においてはその言語は単なる意味を持たない記号体系にしか過ぎないが、学習の進展に応じて意味を掴めるようになってくることだ。例えばサンスクリット語などは、それを学んだことのない人から見れば全く意味のわからない記号の羅列となる。それを習得済みの言語と関連づけて理解していく中で、徐々に習得済みの言語と関連づけることなくその言語そのものとして知的解釈ができるようになってくる。そのように考えてみると、そのプロセスそのものも興味深いが、改めて人間が最初に言語を獲得するそのプロセスもまた興味深い。人間が世界を把握し、世界を創造する道具としてなぜ言語が付与されたのか。そこに深い謎と探究領域が広がっている。フローニンゲン:2024/1/19(金)07:04


11906. サーンキヤ学派とヴェーダーンタ学派に注目して    

 

つい今し方、モーニングコーヒーを淹れ、それに並行してシロシビン・マッシュルームの栽培の5周目の準備をした。栽培キットをビニール袋から取り出し、それ以上大きくならない小さいものを全て取り除き、それをマイクロドーシングを兼ねて摂取した。ほんの微量のため知覚変容は起きないだろうが、脳の働きは若干変わるかもしれない。それにも注目してみよう。いずれにせよ、ここから5周目の栽培を開始し、どれだけ収穫が実現できるか楽しみである。幸いにも明日から気温が上がってくるので、栽培に適した気温が後押ししてくれるだろう。


今インド哲学において注目しているのはサーンキヤ学派とヴェーダーンタ学派であり、インド哲学に含まれた仏教においては中観派と唯識派の思想に注目している。先日注文した13冊の書籍は基本的にこの4つの思想学派をカバーしたものである。まずサーンキヤ学派について改めて振り返っておくと、それはインド六派哲学の1つであり、精神的原理としてのプルシャと物質原理としてのプラクリティの二元論から宇宙の生成と転変を説く。サーンキヤ学派における解脱の道は、物質原理を越えた精神原理としてのプルシャを自覚することから始まる。サーンキヤ学派は漢字で「数論学派」とも呼ばれる。これは別に数について扱っている学派という意味ではなく、25の原理から真の自己に迫って熟考していくという意味でそのような名前が付けられたという背景がある。精神原理としてのプルシャは純粋意識と同じ意味であり、人の数だけ存在するという複数性を持つ。サーンキヤ学派の思想はヨーガ学派にも多大な影響を与えている。


ヴェーダーンタ学派についても簡単にまとめておくと、それはサーンキヤ学派と異なり、一元論思想を持っている。ヴェーダーンタ学派の一元論的発想は、個的存在としての私たち一人一人が持つ純粋意識であるアートマンと、普遍意識であるブラフマンが根元的に同一であることを説く。普遍意識としてのブラフマンの性質について知るために、ヴェーダのみを聖典とみなし、それを大切にすることもヴェーダーンタ学派の特徴である。ヴェーダを聖典として、『ブラフマ・スートラ(Brahmasūtra)』という経典を編纂していったことも押さえておきたい。自分がサーンキヤ学派とヴェーダーンタ学派の双方に注目しているのでは、両者の思想の本質部分に共鳴することと、それに加えて両者が対抗し合っていることである。実際に、当時有力であったサーンキヤ学派に対抗するために生まれたのがヴェーダーンタ学派だったのだ。そうした思想的対決の歴史を受けて練り上げられたのが両者の思想であり、おそらく両者はお互いに対抗し合うことによって弁証法的な思想の発達があったのではないかと思われる。そうした理由からも両者の思想に注目している。ちなみにヴェーダーンタ学派の名前の由来であるが、それはヴェーダを大切にしたところにある。「ヴェーダ聖典の終わり」「ヴェーダ聖典の極意」という意味がその学派の名前の由来なのだ。『ブラフマ・スートラ』をもとに体系化され、ブラフマンの考究を突き詰めたこの学派の思想もサーンキヤ学派の思想と合わせて深く探究していきたい。フローニンゲン:2024/1/19(金)07:46


11907. シャンカラ以前と以後のヴェーダーンタ学派の思想変遷 


ヴェーダーンタ学派を開いたのはてっきりシャンカラだと思っていたが、厳密にはシャンカラはヴェーダーンタ学派を発展させていった人物である。8世紀前半にシャンカラが誕生する前のヴェーダーンタ学派においては、純粋意識としてのアートマン、普遍意識としてのブラフマン、そして両者が織りなす現象世界を一体のものとしながらも、それらを全て実在として捉え、「実在論的一元論」としての性格が強かった。しかし、シャンカラが仏教の唯識思想をヴェーダーンタ学派に取り入れることによって、普遍意識としてのブラフマンのみが実在であり、アートマンと現象世界は幻であるとする「幻影主義的一元論」が生まれた。アメリカの思想家のケン・ウィルバーはよくシャンカラの思想を引いてくるが、ウィルバーの引用は幻影主義的一元論のものが多く、ひょっとしたらウィルバーはシャンカラが誕生する以前の実在論的一元論についてはあまり探究をしていないのではないかと思うが、思想的には純粋意識、普遍意識、現象世界の実在性を認めて思想を展開しているように窺える。


シャンカラと思想的な対決を図ったのがバースカラで、彼は8世紀後半に活躍した思想家であるが、結局シャンカラの幻影主義的一元論を覆すことができず、実在論的一元論の復活を果たすことはできなかったという歴史がある。シャンカラは普遍意識の認識こそが解脱の道であり、行為は不要であると説いた。行為を否定し、普遍意識の認識を最重要視した思想がそこから長く受け継がれていくのだが、11世紀に入ると行為の再評価がラーマーヌジャによってなされる。ヴェーダーンタ学派の思想をもう一度実在論に引き戻す試みがそこでなされたのである。ラーマーヌジャの思想は興味深く、普遍意識と純粋意識、そして現象世界の実在を認め、純粋意識と物質的現象世界を普遍意識の身体として捉えたことである。ラーマーヌジャのこの思想は「制限不二論」と呼ばれる。自分の思想と絡めてみると、自分は究極的には一元論者であるが、同時に実在論者でもあるので、シャンカラよりもラーマーヌジャの思想により共感すると言えそうである。究極的な一元論としては、普遍意識は生成変化することなく、常にありのままに存在しているという考えがあり、純粋意識と現象世界は空的な存在であるとしながらもその仮としての実在、空としての実在を認めるという発想があるという点で自分は実在論者でもある。このように少しずつ自分の思想が整理され、明確になっていくプロセスを楽しみながら、参照するべき偉大な思想家や学派の思想体系を深く研究していくことにこれからより一層励みたい。フローニンゲン:2024/1/19(金)08:01


11908. 幻影主義的一元論ではなく実在的一元論を採用しながら     


確かに人間には認識作用や言語を通じて世界を多様な形で意味解釈する。またそこには感覚も付随する。そうした形で生じた意味や感覚はかりそめのものであり、絶対不変のものではない。それは空的な存在なのだ。しかしそれを持って意味や感覚を幻影とみなしてしまうのもまた矮小化した思想のように思えてくる。この点に自分はシャンカラに批判的である。その刹那において生成された意味や感覚の実在を認めるという立場を今の自分は取っている。さもなくば私たちは何を頼りに現象世界で生きていけばいいのだろうか。その実存性が根底から揺るがされてしまうのが意味や感覚の実在性の否定であるように思う。確かに普遍意識とのつながりは実存性を支えるものになり得るが、そこで述べているつながりという意味も感覚もまたシャンカラの説を採用するのであれば否定しなければならないはずで、論理的矛盾が生じることになる。純粋意識の実在と現象世界の実在性を認めない形で普遍意識のみの実在性を認めるというのは論理的に矛盾するのではないだろうか。シャンカラの後に生まれた思想家たちがシャンカラの幻影主義的一元論をどのように批判していったのかは注目に値し、その批判の論理展開を辿る形で自分の思想はさらに磨かれていくであろう。そう考えたときに先日注文した書籍の中にはなかったラーマーヌジャの思想に関する書籍や、シャンカラが誕生する前のヴェーダーンタ学派が編纂した『ブラフマ・スートラ』も英訳の書籍を読んでみようと思う。そうすれば、シャンカラの思想を建設的に批判しながらヴェーダーンタ学派の思想を辿ることができるだろう。早速書籍を探してみよう。


仏教においても純粋意識から派生した自我が生み出す各種の思考や感覚を幻影的なものだとし、それを迷いや苦の原因とする発想がある。確かにそれはその通りだと思う。私たちは自らの思考や感覚を絶対的なものだと無意識的に思い込み、それを疑うことなく思考や感覚に振り回されて日々を生きている。重要なことは、思考や感覚を単に幻影的なものだと切り捨ててしまうのではなく、実際に思考や感覚によって影響を受ける形で迷いや苦が生じているという事実を受け止め、思考や感覚のかりそめ的な実在性を認めた上で、それらは仮のものであり、一時的なものであるからそれに縛られることの愚かさを説くことの方が受け入れられやすいように思う。思考や感覚を幻影だといくら主張しても、それが自分の内的空間に生じているのだから、思考や感覚の幻影性を説いても人々にはあまり響かず、いったんその実在性を認めた上で、その空的性質を説くことの方が親切であろう。そのようなことを考えながら、仏教を含むインド哲学の思想が、真の自己に目覚め、充実した形で人生を生きることにつながるという大きな実践的価値をそこに感じる次第だ。フローニンゲン:2024/1/19(金)08:17


11909. 瞑想実践の楽しみ/

シロシビン・マッシュルームのマイクロドーシングの効果を実感して


瞑想実践の楽しみ。最近は日常的にその楽しみに耽っている。学術研究と瞑想実践の双方が互いに良い影響を与え合い、どちらも自分の中の最大の楽しみになっている。もちろんそこにサイケデリック実践が加わり、三大実践としての楽しみが日々の生活の中にある。瞑想実践ほどお金のかからない実践はない。学術研究をするためには書籍代などのお金がかかり、サイケデリック実践にもサイケデリクスを調達するお金がかかる。ところが瞑想実践はお金が唯一全くかからない実践である。また瞑想は時間もかからない。なぜなら時間を超越できるからである。その点はサイケデリック実践も同じかもしれず、学術研究もそれに没頭していれば時間を超越できる。いずれにせよ、瞑想実践に大いなる楽しみを感じながら、この実践をとことん深めていきたいと思う。


早朝に1ミリから2ミリほどのシロシビン・マッシュルームを3つほど摂取するというマイクロドーシングを行ってみたところ、今のところその確かな効果を実感している。早朝からの思索や文献読解の中で知覚が鋭敏になっているのを感じる。2週間に1回のシロシビン・セッションが自分の中でのサイケデリック実践の核に当たるものだが、マイクロドーシングもシロシビン・マッシュルームの栽培過程の中で時々導入してみようと思う。


仏教論理学においては、対象は観念の構築物であると考える。一方、インド哲学におけるニヤーヤ学派では、対象は認識や言語を通じて生まれ、認識や言語は実在世界に即対応していると考える。このあたりの思想はパースの言語学やオブジェクト指向存在論ともつながる考え方のように思える。そうしたことから、ニヤーヤ学派の思想についても学んでみたい。特にこの学派はナーガールジュナと対決したことでも興味深いので、ニヤーヤ学派の経典『ニヤーヤ・スートラ』も英訳のものを読んでみようと思う。そうした考えをもとに文献調査をしたところ、ヴェーダーンタ学派の教典『ブラフマ・スートラ』に関する解説書と合わせて下記の2冊の良書を発見した。


1. Vātsyāyana's Commentary on the Nyāya-sūtra: A Guide

2. The Philosophy of the Brahma-sutra: An Introduction


前者はオックスフォード大学出版から出版されたものであり、後者はブルームズベリーというこれまた学術書に定評のある出版社から出版されたものだ。また、インド哲学の源流にある『ウパニシャッド』もこのタイミングで是非とも読んでおこうと思ったので、“Upanisads (Oxford World's Classics)”も購入することにした。早速夕方にこれら3冊を注文しようと思う。フローニンゲン:2024/1/19(金)09:35


11910. オランダのシロシビン・マッシュルーム&シロシビン・トリュフの法規制を改めて調べて


時刻は午後4時半を迎え、今、穏やかな夕方の空を眺めている。ここ最近は日の入りの時間も遅くなり、以前までであればもうこの時間はすっかり暗くなっていたのだが、今はまだ明るさがある。夕方の見事な薄オレンジ色の夕焼けが見える。空が澄み渡り、夕陽の美しさは見事である。


今日は午後に、サイケデリクスに関する質の高い情報を世の中に発信することを目指すメディアに携わる方々とのミーティングを行った。こちらの手違いで1時間ほどミーティングの開始時間を誤解していたことによってご迷惑をおかけしたが、非常に有意義な対話をさせていただいた。今後実際にこのメディアを通じて情報発信をし始めたらそのメディア名についても公開していきたいと思う。今はまだそのメディアが完全には立ち上がっていないため、そのメディアに携わる方々のお名前や協働させていただく大学教授の方のお名前は伏せておきたいと思う。いずれにせよ、こうした志のあるメディアが誕生しようとしていることは日本のサイケデリクス界において非常に大事なことだと思うので、できる限りの協力をこれから行っていきたいと思う。


今日のミーティングの中で改めてオランダを取り巻くサイケデリクスの話となり、その話題の1つとしてシロシビン・マッシュルームの法規制について挙がった。シロシビン・トリュフに関しては完全に合法なものとして扱われており、2019年の9月からは政府が管理する「スマートショップ」という形態の店で合法なものとして販売できるようにしたことに伴い、そこから税金を徴収することにもなった。かつてはシロシビン・マッシュルームもオランダでは所持・使用・販売も合法なものとしてスマートショプで入手できた。ところがアムステルダムでのある事件がきっかけとなり、法規制が変更され、現在シロシビン・マッシュルームは所持と販売は法律で禁止されている。ところが法律の抜け穴として、0.5gの乾燥マッシュルームあるいは5.0gのフレッシュなマッシュルームの所持は脱犯罪化の枠組みの中で捉えられ、起訴されることはない。また、菌糸と胞子の所持や販売は依然として認められており、ゆえにシロシビン・マッシュルームの栽培キットが合法で入手できるという状態なのだ。こうした事情で自分はシロシビン・マッシュルームの栽培キットを通じてシロシビン・マッシュルームを育てているという形になる。こうして改めて法規制を調べてみることによって、自分の中でも知識の整理ができた。仮にこの夏からアメリカでの生活を始めることになったら、アメリカにおいては連邦政府レベルでの法規制と州ごとの法規制が異なるのできちんと調査をしたいと思う。サイケデリクスの取り扱いにおいてはとにかく法規制について調べることが重要であり、その枠組みに従ってサイケデリック実践をしていくことが大切になる。フローニンゲン:2024/1/19(金)16:49

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