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【サイケデリック学探究記】11884-11893:2024年1月17日(水)



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成人発達理論とインテグラル理論を基礎にして、様々な学問領域からサイケデリクスやその他のテーマについてお話しさせていただくチャンネル「インテグラル・サイケデリックラジオ」はこちらからご視聴いただけます。

タイトル一覧

11884. 発想や前提の枠組みを問う哲学的な在り方/インド哲学に関する書籍を追加購入して

11885. 今朝方の夢

11886. 世界遊戯としての学術研究/デカルトの二元論とサーンキヤ学派の二元論

11887. サーンキヤ学派の思想から考えさせられること

11888. インド哲学と関連づけたサイケデリック研究/イギリスによる植民地化を通じたインド哲学の発展

11889. 意識哲学の研究の方向性/法則の実在性/意識哲学の実践的・社会的な意義と価値

11890. 瞑想実践の大いなる効能を実感して/集合的叡智を汲み取る方向へ

11891. 西洋哲学の前提と発想の枠組みを捉え直すための東洋哲学/真人として/発達的否定

11892. 学びや実践のライフサイクル/学問的修練・修養への渇きと飢え

11893. 「インテグラル・サイケデリックラジオ」の第50回の収録を振り返って


11884. 発想や前提の枠組みを問う哲学的な在り方/

インド哲学に関する書籍を追加購入して


時刻は午前3時半を迎えた。今の気温はマイナス1度で、今日は再び氷点下の時間が長く続くようだ。ここから午前11時にかけてもう1度ほど気温が下がり、午後4時頃になってようやく1度まで気温が上がるらしい。昨日の段階ですでに雪がぱらついており、どうやら今日は雪が降らないらしい。明日からまた3日間は晴れ間が見えるようで、気温も4度まで上がるようなので暖かさを感じられるだろう。


発想の根元、前提の根元を検証していくことを意識哲学の領域で行っていくことを昨夜改めて考えていた。発想や前提の枠組みそのものを検証していくことが哲学的な実践のはずである。現代社会においては、発想や前提の枠組みを問うことなく議論や問題解決に乗り出していることを頻繁に見かける。現代の閉塞的な状況を生み出している要因の1つにはそうした姿勢がありそうである。先日のシロシビン・セッションで得られた問題解決上の洞察のような在り方を社会が体現するのは随分と先かもしれない。問題に成ること。自己を超越して、主体と客体を超えた形で問題そのものと合一化するというトランスパーソナル的な問題解決の在り方を体現する日は果たして社会に訪れるだろうか。意識の発達段階的にそれは非常に厳しいように思う。少なくとも、そうした問題解決の在り方の存在に気づいた自分がそれを体現し、社会の問題解決に当たっていこうと思う。


昨日は、先日の40冊ほどの書籍の購入に加えて、さらに追加で下記の13冊の書籍を購入した。


1. A Sourcebook in Indian Philosophy

2. An Introduction to Indian Philosophy

3. The Oxford Handbook of Indian Philosophy

4.Light on the Yoga Sutras of Patanjali 

5.Neoplatonism and Indian Philosophy

6. Indian Philosophy and Meditation: Perspectives on Consciousness

7. Nagarjuna's Middle Way: The Mulamadhyamakakarika

8. Early Advaita Vedanta and Buddhism: The Mahayana Context of the Gaudapadiya-Karika

9. Making Sense of Mind Only: Why Yogacara Buddhism Matters

10. The Buddhist Unconscious: The Alaya-vijñana in the context of Indian Buddhist Thought

11. Consciousness in Indian Philosophy: The Advaita Doctrine of 'Awareness Only'

12.Perceiving Reality: Consciousness, Intentionality, and Cognition in Buddhist Philosophy

13. An Introduction to Indian Philosophy: Perspectives on Reality, Knowledge, and Freedom


これらの書籍はどれもインド哲学に関するもので、第一線級の学術書である。出版社と書籍の中身の双方を吟味し、今後学術論文を執筆するに際して引用に足る硬質な学術書を購入した。ここ最近はこうした品格が担保された学術書に絞って購入することを意識している。さもなければ購入する書籍の量がさらに膨大なものになってしまうし、そもそも大半の一般書はこうした第一線級の学術書を希釈させたものが多いので、最も濃度の濃い学術書を最初から読む方が賢明かと思う。そのような思いから最近は厳選した形で書籍を購入するようにしている。インド哲学に関する書籍で購入したい書籍は確かに細かなテーマに関するものを挙げればキリがないが、全体感を掴め、尚且つ自分の関心である意識哲学に絞れば随分と必要なものを揃えることができたので、当面はこれらの書籍を繰り返し読み進めていければと思う。フローニンゲン:2024/1/17(水)03:42


11885. 今朝方の夢


今日もまた栽培中のシロシビン・マッシュルームを収穫した。一昨日にもとても大きくなったものを1本収穫し、今朝方も1本ほど収穫した。最も大きくなると、1本分を完全乾燥させれば0.5gほどになるので、それが10本あれば英雄の服用量に至る。栽培キットの中にはもう4本ほど大きくなりそうなものがあり、明日あたりにはまた収穫ができるほどに大きくなっているであろう。こうして栽培が継続して順調に進んでいることを嬉しく思う。


今朝方はそれほど印象に残る夢を見ていなかったように思う。 とは言え夢日記を書き始めたら何か思い出すことがあるかもしれないので、それに期待して覚えている夢を書き留めておこう。


夢の中で私は、見慣れない部屋の宙に浮かんでいた。そこは確かに1つの部屋なのだが、床から天井までやたらと高く、20m近くあった。普通の家ではそのような部屋は基本的にない。そんな部屋で私は、硬いゴムボールを天井から床に向かって落とし、力強く跳ね上がってくるそれをまた床に落とすということを何度も行っていた。私の脳内では友人とコミュニケーションがなされており、友人はその場にいなかったが、新たな人類が獲得する超能力のようなものを自分は兼ね備えているらしく、それを使って友人との話を楽しんでいた。友人と私はその場にいなくてもコミュニケーションができるだけではなく、友人はこちらの様子が見えているらしく、ゴムボールの叩きつけ方について助言をしてくれた。これはどうやら武術鍛錬の一環のようで、実際にジークンドーの著名なインストラクターの方とその方の生徒数名が床で同じことをしていた。彼らは私の存在に気づいていて、時々天井を見上げては微笑んでくれた。また彼らは私が相当に力強くゴムボールを叩きつけることをすごいと思っているようで、私から何かを学び取ろうとしている様子も伝わってきた。


すると、私は突然天井からゆっくりと床の方へと高度を降ろし始めた。それは自分の意思ではなく、何か自分を超えた力の働きだった。自分はそれに抗うことなく、ゆっくりと床の方へと向かっていった。すると、4人のバンドメンバーが床から数メートルほどの高さのところにいて、これから床に降りて歌を披露することになっているようだった。彼らは1人1人がボーカルとベースの両方を担当することが出来るらしく、それぞれがリレー形式にソロで歌を歌っていくということをこれから行うようだたので楽しみだった。いざ彼らが床に足を着けて歌い始めると、全員見事な歌唱力で、その場に集まってきていた人たちは彼らの歌声に聞き入っていた。そのような夢を見ていた。


夢について書き留めてみると、やはり夢の続きを思い出すことにつながるようで、また別の場面の記憶が蘇ってきた。夢の中で私は夢を目撃する者として、見慣れない体育館の中にいた。そこでは、元サッカー日本代表のエースが小学生たちにサッカーを教えていた。どうやらその選手はまだ高校生の若かりし頃のようで、高校生の時からしっかりとした物言いをする選手だったのだなと改めて思った。彼のサッカー指導は興味深く、器械体操とサッカーを組み合わせていた。なので体育館の中にはマットを含めて、様々な道具が置かれていて、子供たちは体操の要素を取り入れながらサッカーの練習を楽しんでいるようだった。彼を含めた高校の部活の選手たちと小学生たちが楽しくサッカーをしている様子はとても好印象を与えた。フローニンゲン:2024/1/17(水)04:10


11886. 世界遊戯としての学術研究/デカルトの二元論とサーンキヤ学派の二元論

     

今日もこれから旺盛な読書に励みたい。それは毎日の最良の楽しみである。読書を通じて考察を深め、また新たな読書に取り掛かっていくこと。書物や論文を読むというだけではなく、自らの頭で考え事をするということを組み合わせる形での円環的な行為に最良の楽しみと喜びを見出している。学術研究というのは自分の中で最も大事にしている世界遊戯だと言えるだろう。この世界の中で、世界のために行う最善の遊びとして学術研究がある。学術研究に対しては以前のような禁欲的な修行僧的在り方ではなく、今はもっと肩肘の力が抜けた自然体のリラックスした状態で取り組めているように思う。だからこそ毎日喜びと楽しさの感情に駆動される形で長時間に渡って学術研究に励むことが出来ているのである。


今日は午後に「インテグラル・サイケデリックラジオ」の第50回の収録がある。節目の今日は、前回に引き続き、意識哲学に関する書籍の第2章を扱う。今日のテーマはデカルトの二元論的な意識研究の功罪についてである。デカルトの洞察とその限界の双方を汲み取りながらの対話ができればと思う。デカルトは脳と意識を分けた形で双方の研究を進めていったわけだが、この二元論的な発想と、インド哲学におけるサーンキヤ学派の二元論とはどのような関係になっていると言えるだろうか。サーンキヤ学派は、純粋意識であるプルシャと物質の根本原理であるプラクリティに分けて世界を捉える厳格な二元論を展開する。デカルトが脳の物質性についてどこまで細分化して探究をしていったのかは定かではないが、当時の科学技術も相まって、デカルトが見ていたのは主に目に見える脳の各部位に限定されていたのではないかと思う。一方で、科学技術も発展していない数世紀におけるインドで物質の内奥を捉え、物質の根幹原理に注目した思想が生まれたことは大変興味深い。この物理世界は、プルシャの観照を契機として、プラクリティから展開発展していくというのはどこか、観察を通じて確率的な波が素粒子になるという量子力学的な発想を思わせる。サーンキヤ学派のこの二元論はヨーガ学派にも大きな影響を与えており、確かにヨーガ学派の教えの中にもプルシャやプラクリティという言葉が出てくる。


プルシャの考え方で興味深いのは、意識空間内に生成された思考や感情などもプラクリティとしての心理器官から生まれた物質的なものとみなす点である。そこでは物質というものを広く取っており、意識空間内の思考や感情などは「心理物質」とでも呼べるだろうか。プルシャはそうした心理物質を超えて、純粋に意識的な存在としてそれらを眺めているような存在である。まさにプルシャは海そのものであり、海に生じる様々な現象ではないのである。ここからもう少しサーンキヤ学派とヨーガ学派の思想について調べてみよう。フローニンゲン:2024/1/17(水)05:14


11887. サーンキヤ学派の思想から考えさせられること 


サーンキヤ学派は純粋に精神的なものとしてのプルシャと、物質の根幹原理であるプラクリティの二元論的な立場を取り、両者の実在を認めることから、実在論的二元論であることがわかる。サーンキヤ学派において解脱の証は、プルシャとプラクリティが異なるものであるという認識を持ち、現象は全てプラクリティの展開であり、プルシャはそれを観照する存在であるという認識を獲得することにある。ここで興味深いのは、現象を生成しているのがプルシャではなく、プラクリティであると考えている点だ。この点については実際に文献を読んでから判断しないといけないが、今のところは純粋意識が心的・物質的現象を表象させるという分析的観念主義や唯識思想とは少し異なる印象である。あくまでも純粋意識であるプルシャは観照者として存在しているのであり、現象を生起させることには加担していないという発想があるように思えるが、この点は実際にはどのようなことが経典で書かれているのか調べてみる必要がある。


サーンキヤ学派の実在論的二元論の発想を適用すると、人間の苦が無知によるものだということが改めて見えてくる。苦というのが心理的なものにせよ、肉体的なものにせよ、それはプラクリティの展開によって生じているのだから、それを止滅させるべく、プルシャによる観照を行うことが重要であろう。ところが現代人はプルシャとプラクリティの同一化が起こってしまっていて、苦を純粋意識によって対象化することができず、それと同一化してしまっているのである。喩えると、テレビゲームの中のキャラクターは本来の自己ではないはずなのに、そのキャラクターが苦しんでいるとあたかも本質的な自己が苦しんでいると錯覚することと似ている。ここではゲーム内のキャラクターとの未分化的同一化が生じており、それが苦しみの原因になっている。同様に現代人は、本来はプルシャが観照する意識内遊戯世界で生じることを対象化できずにそれと一体となってしまっているのである。インド哲学にはそうした状況からの脱却を導く実践的叡智がある。


ここからサーンキヤ学派についてさらに学んでいくためには、改めて手持ちの『バガヴァッド・ギーター』を読み返していこう。ここにサーンキヤ学派の諸概念が詰まっている。改めてプルシャとプラクリティの関係について調べてみると、プラクリティには3つの構成要素があり、それら三者が相互作用して平衡状態にあるときにはプラクリティは何も生成作用をもたらさない。しかし、プルシャの観照作用によってその平衡状態が破れると、プラクリティは様々な原理や現象を生じさせる。こうした生成原理の説明は大変興味深く、ここでも三者間が鍵を握っていることが窺える。3という数字にはやはり何か真理が内包されているのだろう。フローニンゲン:2024/1/17(水)05:41


11888. インド哲学と関連づけたサイケデリック研究/

イギリスによる植民地化を通じたインド哲学の発展   

 

モーニングコーヒーをすすりながら、引き続きサーンキヤ学派の思想について調べながら考え事をしていた。まさにサーンキヤ学派が指摘するように、人間の苦の原因は純粋意識が心理的実体や物理的実体に固着してしまうことにあるように思う。本来純粋意識としてのプルシャは観照のみを役割として持っているはずで、観照機能が正常に働いていると、囚われもなく、心身共に健全な状態でいられるはずである。ところが私たちは純粋意識とプラクリティの展開活動によって生じる種々の実体と癒着してしまうゆえに心身のバランスを崩し、苦しむことになる。純粋意識は最初から解脱が完了したものなのであり、それを思い出すことと純粋意識の観照行為を通じて生きることの大切さを思う。


サーンキヤ学派が述べるところの涅槃の状態は、サイケデリック体験中に起こることと多分に重なる。そこではプルシャがプラクリティに囚われることがなく、プラクリティを観照することが出来るのだ。プラクリティの暴走やそれが生み出す実体に私たちが囚われてしまう背後には自我の存在があるだろう。その自我を一時的に溶解させる働きをしてくれるのがサイケデリクスであり、プルシャの本来の機能を取り戻す上でサイケデリクスの活用は大きな役割を果たすことが見えてくる。このように、インド哲学と結びつけた形でサイケデリクスについて考察を深めていくことをこれからさらに意識していこう。


サーンキヤ学派のプルシャは個人の純粋意識を示すものであることはわかるが、それは普遍意識まで含んだものなのだろうか。インド哲学の興味深い点は、根元の思想から分派していく形で発展を繰り返し、経典への注釈書がどんどんと充実していくことである。今のところサーンキヤ学派でいうプルシャが普遍意識を含んだものなのかは不明で、ヴェーダンタ学派のブラフマンのように明確ではない。この辺りもまた調査対象となる。


オックスフォード大学を中心として、インドの植民地化の実現に向けてイギリスではインド哲学の研究が進んだが、幸か不幸か、それはインド側にとっても恩恵があったようである。インド側にとってみれば、自国が誇るヨーガの文化的価値をイギリスに示すために、当時実はすでにヨーガに関する深い学識を持つ人たちが衰退の一途を辿っていたインドにおいて、再びヨーガ学派の経典である『ヨーガ・スートラ』が見直され、思想的な研究が進んだという歴史がある。戦争とテクノロジーの発達が足並みを揃えて行われ、戦争のために研究開発をして発展したテクノロジーが私たちの生活に後に役に立つという構造と似たようなことがインド哲学の思想研究で見られることに改めて気づかされる。フローニンゲン:2024/1/17(水)06:10


11889. 意識哲学の研究の方向性/法則の実在性/意識哲学の実践的・社会的な意義と価値


学術研究の方向性を少しずつ微修正しながら、自分の関心をピンポイントなものに練り上げていく試みが続いている。大きな枠組みで言えば、自分の最大の関心は意識にあり、学術領域としては意識哲学にある。意識哲学の射程は広く、東西の意識哲学を横断的に研究し、それらを佳境する試みに従事したい。東洋の意識哲学においては、今のところインド哲学を根幹に据えている。これまでは神道を前面に出した研究に早く着手したいと思っていたが、神道の意識論を表に出していくのはもう少し先のことになるかと思った。それが何年後になるかわからないが、東西の意識哲学に習熟する過程の中で、神道が持つ意識論を発見し、それを深く探究する形でその叡智を東西の意識哲学に接続していく試みをしたい。本来神道もまた東洋思想に含められるべきであり、そこに重要な意識論が展開されているはずなのだが、学術研究上は完全に蚊帳の外である。そうした状況を鑑みて、また自分の出自と源流に関わる神道の研究にどこかのタイミングで必ず本格的に乗り出していく。


部派仏教の1つの説一切有部は、アートマンは空であると説くが、現象世界を構成する法は過去・現在・未来にわたって実在するとしている。これは私たちが肉体的な消滅を迎えても、世界は回り続けることを示唆しているように思える。また、ロイ・バスカーの批判的実在論の観点を用いれば、私たちが肉体的な死滅を迎えて経験世界が消失しても、その上位にある現実世界と実在世界は存在し続けるのであり、とりわけ実在世界に存在する法則は過去・現在・未来にまたがって存在すると言える。ここで注目するべきことは、世界の法則と構造の関係性である。構造は過去・現在・未来の中で変容する可能性があるが、法則は基本的には不変かつ普遍である。しかし、パラダイムの抜本的な変化に伴って法則の捉え方が変わる可能性は十分にある。そうなってくると、法則もまた究極的には空的な存在なのではないかと思えてくる。そして法則にも階層構造があり、不変性と普遍性の度合いに差異があることには注意しなければならないだろう。


パタンジャリの『ヨーガスートラ』の冒頭では、ヨーガの目的として、「ヨーガとは心の作用を止滅させることである」と明確に記されている。意識哲学の研究が実践性を持つのはまさにここにあるかと思う。もちろん純粋意識そのものの探究は極めて重要で、それこそ意識研究の最大の謎がまだまだ隠されている研究対象だが、意識の諸機能や内容物についてつぶさに研究していくことを通じて、人々が心の使い方を獲得し、心との良好な関係性を築くことにつながってくるのではないかと思う。そうした極めて実践的な要素かつ社会的な意義が意識哲学の研究において存在することを忘れないようにしたい。フローニンゲン:2024/1/17(水)06:47


11890. 瞑想実践の大いなる効能を実感して/集合的叡智を汲み取る方向へ


つい今し方、朝の瞑想実践をした。ここ最近は朝の瞑想、夕方の瞑想、寝る前の瞑想と、1日に3回の瞑想が板についている。さらに回数が増えれば、それはまるでイスラム教の1日5回のメッカへの礼拝に似ている。瞑想実践の素晴らしさをここ最近改めて感じている。過去にも10年近く瞑想実践を生活に取り入れていたことがあるのだが、そこから一度瞑想実践から離れた。当時瞑想をしていた頃は、早朝に起床して比較的すぐに30分から1時間程度の瞑想を行なっていた。そこから日中において瞑想をすることはなく、たった1回の瞑想を比較的時間を取って行うことをしていた。筋力トレーニングにおいてはまとまった時間を取ってトレーニングすることで効果を実感しているが、瞑想は10分から20分ぐらいの短いものを1日に何度かに分けて行う方が効果的に感じている。もちろん瞑想の目的によってその長さと頻度を考えていく必要があると思うが、自分の場合は学術研究で疲労した脳の機能回復と学術研究と自己探求につながる洞察の獲得がある種瞑想の目的になっている。そこでは別に悟りの境地を開くだとかそのような大きな目標を掲げていない。とにかく意識研究につながり、自己と人生を深めるような何かしらの洞察が得られればという思いで瞑想をしている。これは今のところ効果覿面で、瞑想を通じて実際に種々の洞察が得られるし、脳もしっかりと休まり、瞑想後の学術研究が大いに捗る。ここからは1日に3回だけではなく、必要に応じてもう少し回数を増やしてもいいかもしれない。それくらいに瞑想には効果がある。決して心身が疲弊してから休息するのではなく、その前にこまめに休息を取ることの大切さを思う。自分の性格上、ついつい長時間学習や実践に打ち込みがちなので、疲れる前に細かく休息を取ることを肝に銘じておきたい。


先ほどの瞑想の中で得られた気づきとしては、これまでの自分の思想探究はある特定の個人の思想体系を追いかけていくことが多かったように思うが、ここからは集団が生み出した思想体系を追うことに力を注ぎ、それを通じて自らの思想体系を深めていきたいということだった。実際にそれはすでに形として現れており、インド哲学の様々な学派は確かに開祖がいるが、その弟子たちが学派を形成する中で思想を錬磨させていったという歴史がある。そうした歴史ある集合的な叡智に与する形で意識哲学の探究をしていくということをインド哲学の研究を通じて行いたい。西洋においても集合的に叡智を紡ぎ出していくという流れも当然あるが、特定の思想家に注目して研究されることが多いように思う。特定の個人に焦点を充てて研究していた時の自分の意識段階がどういったものかについておおよそ見当がつくし、今現在集合的な叡智を汲み取る方向に意識のベクトルが向かっている自分の意識段階もなんとなく見当がつく。また、学術研究に従事する姿勢に関しても、論文アドバイザーの協力や協働研究者からのフィードバックをもとに論文の執筆を含めた学術研究をしていきたいという思いを強く持っているところにも、他者に開かれ、集合に与する形での自己の新たな在り方を見る。フローニンゲン:2024/1/17(水)08:50


11891. 西洋哲学の前提と発想の枠組みを捉え直すための東洋哲学/真人として/発達的否定


ここからの自らの意識哲学研究は、インド哲学を中心に据えて、西洋の意識哲学でフレームされ、提唱されたハードプロブレムを東洋の意識哲学でフレームし直し、問題の解決に向かっていきたいと思う。そのためには東西の両者の意識哲学への習熟が不可欠になる。また、西洋の意識哲学で前提となっている発想の枠組みと前提条件を精密に理解した上で、東洋の意識哲学をその問題の適用に向けて応用できるだけの力を付けていく必要がある。その道のりは長いかもしれないが、焦ることなく着実に歩みを進めていきたい次第である。日々の学術研究と瞑想実践、そしてサイケデリクスの定期的な摂取の三位一体があれば、それを実現させることがいつか必ずできるだろう。


「阿羅漢」は本来、真実の自己に目覚め、真実の自己として生きることを体現した「真人」という言葉に由来するらしい。この社会で真人としての阿羅漢が増えてくることになんとしても貢献したい。そして自らが真人としての阿羅漢としてさらに目覚めを深くしていくためにも、日々の学術研究に打ち込み、瞑想とサイケデリクスの摂取の実践を大切にしたい。それら三位一体があって初めて真人への目覚めが起こり、その深まりと定着が実現するのだと考えている。


「仏」という言葉は元来、「佛」と書く。この文字を構成する「弗」という字には否定の意味がある。仏とはつまり、人間でありながら、人間にあらざる者であるという意味があるらしい。そこでよく喩えに出されるのは水の例である。水は沸点に達すると、水蒸気に変化するが、水蒸気は元々は水であるが、水にあらざるものである。にんべんに「弗」と書いて「佛」という文字になり、さんずいに「弗」と書いて「沸」となる点に仏と水の類似性を見る。おそらくそれは仏と水の関係性だけではなく、他の事物にも当てはまるのではないかと思う。森羅万象には陰陽の両側面があり、片方を否定することを通じてもう片方の側面があらわになり、両者の全体へ至るという弁証法的な性質があるように思える。発達とは健全な自己否定の道とはよく言ったもので、まさに対極を見出すための否定は発達において不可欠かと思う。


それ以外にも、ここからの論文執筆の方法について考えていた。どのような学術書や学術論文を選び、それをどのように数珠繋ぎをさせて論を展開させて論文を執筆するかに自分のユニークさが現れる。それらは自分という固有の存在を通じた創作・創造行為に他ならなず、そこに最上の喜びと楽しさを見出している自分がいる。にもかかわらず、まだ具体的に形としての論文の執筆に取り掛かっておらず、それを旺盛に行い始めるのは再び学術機関に所属してからになるだろう。学術機関という環境が今の自分には不可欠であり、人を含めた環境資源を活用させてもらう形で、自己の固有性が体現された創造的行為としての学術論文の執筆に明け暮れたい。そんな思いで一杯である。フローニンゲン:2024/1/17(水)09:04


11892. 学びや実践のライフサイクル/学問的修練・修養への渇きと飢え   


書物や論文を読んで瞑想し、また書物や論文を読んで瞑想するという生活。そしてそこでの学びと実践を通じて得られたことを社会に還元していく生き方。今、それが少しずつ習慣として定着していることを大いに喜ぶ。学びや実践にもライフサイクルがあるようで、自分は定期的に自らの学びや実践を見直し、軌道修正をしながら双方を深めている。おそらくそうした検証と改善がなければ、学びや実践は間違いなく固着し、そして形骸化する。それを防ぐためにも学びと実践のライフサイクルとそれらが持つ生命力には敏感でありたいと思う。

日々西洋と東洋の意識哲学を行き来する探究をしていると、西洋の意識哲学に対しては、東洋の哲学を用いれば、問題の捉え方そのものを見つめ直し、問いの形をより正しく修正することができるのにと思う一方で、東洋の意識哲学に対しては、西洋の哲学を用いれば、もう少し痒いところまで手が届くような精緻な議論ができるのにと思うことがある。ここからも東西のどちらかではなく、両方の意識哲学を学び、それらを架橋することの重要性が自然と浮かんでくる。こうしたことに気づいた者の宿命として、それを天命として研究に没頭しよう。それらの架橋を実現するためには、まず両者を本当に広く深く修めなければならない。その意味での「修士」「博士」としての学術研究機関での鍛錬を積みたいものである。


学問的修練・修養への渇きと飢えを受けて、学問的修練・修養を自らに深く課したい。これまで取得した3つの修士号もまた、本来は学問的修練・修養を意味していたはずであるが、当時の自分にそのような意識は希薄であった。深く修練・修養するべきは、無限の広さと深さを持ったインド哲学である。それが自分の思索上の起点になるようにまず深く修める必要がある。そうした起点が形成されて初めて、インド哲学の眼を通じて日本思想の意識論や神道の意識論をより広く深く捉えることができるだろう。今の自分はそうした眼を獲得していくプロセスの只中にある。


先ほど本日4冊目の書籍の初読として、西田幾多郎先生の“An Inquiry into the Good”を読み始めた。その中で、西田先生が提唱した純粋経験は純粋意識のことを指していることがまず見えてきた。そしてその気づきをもとにして、西田先生がいう意志と直観の性質を紐解こうとしている。意志に関してはショーペンハウアーやニーチェの意志論との比較の観点が重要であり、西田先生独自の意志の意味づけに注目したい。上述の通り、確かにインド哲学の観点から日本思想を捉え直すことに重要性を見出しているが、日本思想を日本思想として単体で学ぶことからも大きな学びを得ている。日本思想と一口に言ってもその射程は広いので、まずは意識論に焦点を当てた研究を進めていきたい。フローニンゲン:2024/1/17(水)11:12


11893. 「インテグラル・サイケデリックラジオ」の第50回の収録を振り返って


時刻はゆっくりと午後4時を迎えようとしている。窓の外を見ると、辺りは一面雪景色で、外の世界の寒さを思うが、室内はとても暖かい。今自動で動いている暖房には感謝である。

今日は午後に、早田航さんとの「インテグラル・サイケデリックラジオ」の第50回の収録があった。前回に引き続き、今日もまた自分の中の意識哲学の探究が進む充実した回となった。とりわけ前回の内容である物理主義・物質主義との対比で今日のデカルト的二元論を捉えてみると、両者の違いが鮮明となり、両者の理解がさらに進む感覚があった。私たち個人には信仰の自由があり、日常生活において意識についてどのような考え方を採用しようが問題はない。しかし、哲学という学問の分野で議論を展開したり、その分野で仕事をするとなると話は別で、より真理度合いが高い主張を展開していくことに努める必要がある。少なくとも意識哲学の哲学者がやるべきことはそれだろう。


航さんに問いを投げかけていく過程の中で、それと同じ問いを自分にも投げかけ、自分であればその問いにどのように答えるかについても同時並行で行っていた。問いを投げかける主体と問いに答える主体の一致をそこで行っていたわけである。対話の良さは単に相手に問いを投げかけたり、相手の話を聞くだけではなく、常にそこで主体が能動的に問う存在であり、同時に問われる存在であるということだ。それは対話のターン変更で切り替わるのではなく、常に同時にそれら両者の存在として話をし、話を聞いているのである。そのような2つの存在モードが同時に生起することを実感する回であった。


前回から話題の共通土台となる課題図書を扱って本当に良かったと思う。これまでのラジオの対話以上に対話が深まっている感じがする。特に抽象性の高い意識とはなんぞやについて扱うに際しては、立脚する書籍がないと対話が必ず行き詰まってしまうであろうから、対話のきっかけを豊富に提供してくれるこうした学術書の存在は大きい。まさに対話のスキャフォールデングとして課題図書が存在している。


それでは今から夕食準備に取り掛かるまでの時間をまた読書に充てたい。ラジオの後に部屋の掃除をし、そこから少々瞑想実践をしたこともあり、また脳がフレッシュな状態で読書を行うことができるだろう。フローニンゲン:2024/1/17(水)16:10

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