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【サイケデリック学探究記】11873-11883:2024年1月16日(火)



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タイトル一覧

11873. 今朝方の夢

11874. 今朝方の夢の続き

11875. インド哲学とオックスフォード大学

11876. 学術論文の執筆と博士号取得への思い

11877. 混沌と意識とサイケデリック体験

11878. 絶対的真理を求める旅路/死後における意識について

11879. 無と死とサイケデリクス/意識研究のための瞑想実践をより深いものにするために

11880. サイケデリクスと瞑想を活用したインド哲学の伝統的思索方法を踏襲して

11881. ヨーガ学派の奥深さ/意識の深淵な性質/探究的贅沢三昧

11882. 記憶の保存場所について/西洋哲学の限界を乗り越えるインド哲学の価値

11883. スピリットの内化の道/ヨーガへの原点回帰を果たして


11873. 今朝方の夢 


時刻は午前3時半を迎えようとしている。今朝方の目覚めはすこぶる良く、一昨日のシロシビン・セッションと昨日のジムでのトレーニングが相まってのことかと思う。心身の調子が優れていること以上に感謝するべきことはなく、今日も最高の状態で学術研究に打ち込めそうである。


それで言えば、今朝方は学術トレーニングに打ち込む夢を見ていた。そこでは自分が尋常ではない速度で次々に難解な学術書と学術論文をスーパーコンピュターのように読み解いており、そこで得られた知識をこれまたスーパーコンピュターのような高処理能力で数珠繋ぎにまとめ上げ、論文を次々と執筆している場面があった。近くにいた外国人の協働研究者もその様子を見て驚いていた。そこで私はふと、“This is not only for me and not only for you, but It’s for both of us.”という言葉を述べた。そこで行っていた学術トレーニングと学術研究はその言葉通り、自分のためでも相手のためでもなく、お互いのために行っていたのである。ここで述べている相手とは協働研究者の彼だけを指していたわけではなく、全ての人であり、社会全体だった。まずそのような夢を見ていたのを覚えている。


それ以外に覚えている夢としては、大学時代のゼミの恩師の研究室にいた場面だ。先生はとても優しく、いつもにこやかにしていたが、学術研究で手抜きなどがあると厳しく叱る先生だった。ちょうどその日はゼミの課題を提出することになっていて、卒業までに合計で6回ほど課題を提出し、先生に添削をしてもらって一定以上の点数を取得しなければならなかった。どうやら今は5回目の課題提出らしく、課題未提出者のリストが掲示されていた。先生は私たちもまた忙しいことを知っていたので、課題はいくら遅れて提出してもいいという有り難い措置を取ってくださっていた。リストを見ると、自分はどうやら夏に第2回目の課題を提出したきりで、それ以降の課題を提出していないようだった。「これはここから追い上げていかなければならないぞ」と気持ちを入れ替えた自分がいた。ゼミの他の友人たちも提出率はバラバラで、2人だけが第5回まできちんと課題を提出しているようだった。そのような場面があったのを覚えている。


それ以外には、大学時代のサークルの先輩と同期の友人が出てくる場面もあった。私たち3人は、その先輩が時々かぶるハットのような帽子について話題に取り上げていた。先輩と言えばその黒いハットが代名詞で、大学でハット文化を作った立役者なのではないかと思うほどであった。先輩がなぜそれほどまでにハットに愛着を示しているのかを尋ねるところから会話が始まり、自分もまたハットをかぶってみようと思ったが、なんだか似合いそうにないのでやめた。ところが、友人がちょうどハットを持っていて、それを自分の頭にかぶせた。実はちょうど先ほど散髪をしたばかりで、切った髪の毛がまだ頭に付着しているように思えたので、ハットにそれが付着したら申し訳ないなと思った。ハットをかぶせてもらったものの、やはり自分には似合いそうにないので大学に着けていくのはやめようと思った。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/1/16(火)03:38


11874. 今朝方の夢の続き     


昨日収穫したシロシビン・マッシュルームを引き続きオーブンで乾燥させている。今回購入した栽培キットは本当に素晴らしく、当初の予想以上に収穫をもたらしてくれている。4周目の栽培も引き続き継続しており、キットの中にはもう何本か明日にでも収穫できそうなマッシュルームがある。2週間に1度のセッションのペースを引き続き維持していこうと思うが、おそらく3月分までぐらいの収穫量が見込める。たった1つの栽培キットでおよそ4ヶ月分のセッションに相当するほどの量が収穫できたことには感謝しなければならない。そして今後もこのメーカーの栽培キットを活用したいと思う。


先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、夢にはまだ続きがあるのでそれについても振り返っておきたい。


 夢の中で私は、見知らぬ女子高生の友人の家にいた。彼女のことを現実世界の自分は知らないが、夢の中の自分は彼女のことを知っていて、彼女とは友人関係にあった。彼女の部屋には彼女の友達が数人いて、全員が女子だった。部屋にいた男性は自分だけという形であったが、別にそれを気にすることなく、全員で楽しく話をしていた。お菓子を食べながらの話がひと段落したところで、テレビゲームをしようということになった。そのゲームはRPGの要素と作曲の要素が混じった面白い内容のゲームだった。音楽を作りながらゲーム内の世界を旅し、魔物を倒しながらストーリーを進めていくという内容だった。部屋にいた女性たちはみんなオーケストラ部に入っていて、今度のコンクールで発表する曲をどうしようかと話し合い始めた。何だったら今ここでゲームの中でその曲を作ってしまえばいいのではないかという話になり、彼女たちはゲーム内で次回のコンクールの発表曲を作り始めた。そんなに簡単に曲ができるのかと気になりながら眺めていたら、ゆっくりとだが着実に素晴らしい曲が出来上がっていくのを目の当たりにして、半ば感動していた。すると、1階から彼女のお母さんが声を掛けてきた。ゲームはほどほどにとのことだった。私たちは受験生でもあったので、ゲームばかりするのではなく、受験勉強もする必要があった。また、引き続き部活動での活動も残っていたので、色々とやるべきことが多かったのである。私もはまっているゲームがあって、今は1日に3時間と決めてゲームに時間を充てているが、それはある程度集中的にゲームに取り組むことを通じて、できるだけ早くゲームを攻略し、そこからはゲームから離れて受験勉強に専念するためでもあった。しかし改めて考えてみると、1日に3時間もゲームに時間を充てているのかと思うと何か時間がもったいないような気がした。ここからは全ての時間を勉強に充てた方がいいのかもしれないと思ったところで目を覚ました。フローニンゲン:2024/1/16(火)03:53


11875. インド哲学とオックスフォード大学       


時刻は午前4時半を迎えた。今日もこれから正午まで7時間ほど読書に励もうと思う。今日はまず、昨日日本から届けられた井筒俊彦先生の“The structure of oriental philosophy: Collected papers of the Eranos Conference (vol. I)”と“The structure of oriental philosophy: Collected papers of the Eranos Conference (vol. II)”という2冊の書籍を読もうと思う。この書籍に収められている論文は、井筒先生がスイスのアスコナで長年にわたって開催されいてたエラノス会議での発表内容に関するものである。現在の自分の関心はインド哲学にあり、井筒先生の仏教に関する意識論はインド哲学の範疇でもあるので興味深く読み進めることができるだろう。これら2冊の書籍の初読を終えたら、西洋における意識哲学に戻ってきて、関連書籍を読み進めておこう。そして本日のどこかのタイミングで先日届けられた量子力学と社会科学を架橋させた書籍を読み進めようと思う。そちらの書籍はケンブリッジ大学出版から出版されたもので、オックスフォード大学はどちらかというと人文学に強みがあり、ケンブリッジは自然科学に強みがある印象で、そのスクールカラーは出版社にも反映されているかのようである。


オックスフォード大学の話をして思い出したが、世界でインド哲学の研究が最も進んでいるのはご当地のインドを除けばイギリスなのだ。その背景としては、イギリスがインドを植民地にするにあたり、インドの思想を丹念に調査する必要があったことがあることを知ってなるほどなと思った。実際に今もイギリスにおいてインド哲学の研究は盛んで、それこそオックスフォード大学とケンブリッジ大学はインド哲学に関する優れた研究をしている。とりわけオックスフォード大学の研究は世界中のインド哲学関係者からも注目されているらしい。そうした事柄を知り、自分もいつかオックスフォード大学で研究生活をしてみたいという思いが今からもうすでに湧き上がっている。オックスフォード大学には心の哲学の研究者集団もいるので、東西の意識哲学を架橋させる試みとして、オックスフォード大学は理想的な場所なのかもしれない。今からおよそ1000年前の1096年に設立されたオックスフォード大学には歴史を感じさせ、格の高さを感じる。実際にヨーロッパで生活をしながら大学機関に所属していた身からすると、やはりオックスフォード大学は格が違うということを研究者たちとの会話からも実感する。どのような教育や研究環境があるのかは、実際にそこに所属してみなければわからないだろう。オックスフォード大学には、ハーバード大学にあるようなサイケデリクスの研究グループがあって、それも非常に注目している。おそらく大学院生が有志で立ち上げたものだと思われるが、“Oxford Psychedelic Society”という団体も存在しており、こちらの団体は定期的に勉強会を行って、その内容をYoutube上で公開している。今日も先ほど新着の動画を視聴しながら朝の飲み物を作っていた。さて、ここから学術研究に打ち込む中で、きっと様々な大学に所属するチャンスが目の前に開かれてくるだろう。それを楽しみにしながら、世界の様々な大学で自分の好きな研究に従事する人生を送り続けたいと思う。フローニンゲン:2024/1/16(火)04:45


11876. 学術論文の執筆と博士号取得への思い 


今日もまたコーヒーを友として学術研究に打ち込んでいこう。最近はサイケデリック実践が他の実践と同様に完全に板につき、良いリズムで実践が行えていることを嬉しく思う。それもあってか、学術研究の進展も目覚ましい。あとはそれを論文の形として発表していく日を待つばかりである。きっと堰を切ったように学術論文を英語空間で発表していく日が近いうちにやってくるのではないかと思う。今はそのための下準備の期間であり、とにかく旺盛に自分が面白いと思う学術書や学術論文を読み進めていくことを大切にしたい。そこで得られた知識が自らの関心の方向性と相まって、論文のアイデアを無限に膨らませてくれ、自然と論文の形が出来上がってくるという自分の書籍執筆スタイルに似た現象が起こるのではないかと思う。そんな予感が日増しに強くなる。


過去に査読付き論文を執筆した際に感じたのは、確かに査読のプロセスは煩わしさがあるのは確かだが、それでもレビューアーからフィードバックをもらえることは有り難い。そのジャーナルが一流であればあるほどレビューアーはしっかりとその責任を果たそうとするはずなので、そうしたジャーナルに寄稿することを通じてレビューアーからのフィードバックを活用してさらに自分の考えを洗練させていくことができるだろう。もちろん最近は学問の細分化が日進月歩で進んでいるので、自分の研究分野についてあまり知識のないレビューアーがレビューする可能性もあるが、一応ジャーナルごとに特定の分野は定められているので、全く知識のないレビューアーが査読をすることはないだろう。いずれにせよここからは、一流の研究者たちと切磋琢磨する中で自分の思想を磨いていき、研究を前に進めることを大事にしたい。そして自分の性向に基づいて、ある分野である程度の年数の研究をしたら、また新しい研究分野に移って行って、心機一転新しい研究に打ち込んでいくということをしていきたい。今のところはサイケデリクスと絡めてインド哲学における意識論を研究し、その後に西洋の意識哲学について研究をしたいと思う。可能であれば、インド哲学に関して博士号を1つ取得し、西洋の意識哲学でまた1つ別の博士号を取得したいと思うぐらいにそれらを深めて研究したい。仮に西洋の意識哲学について博士論文を書くのであれば、1つ目の博士論文と絡めながら、すなわち東洋のインド哲学と西洋の意識哲学を絡めて両者を橋渡しするような試みに従事したいと思う。そのようなことに思いを馳せてみると、ここからの日々の学術研究がまた充実したものになるのではないかと思う。フローニンゲン:2024/1/16(火)05:14


11877. 混沌と意識とサイケデリック体験


言葉が媒介される前の状態における意識は混沌としている。それは言語哲学者の井筒俊彦先生も指摘する事柄である。今、言葉と意識との関係について考えながら、同時に、言葉が媒介しない意識の性質についても関心を持っている。それは混沌とした純粋意識のことを指すが、純粋意識が混沌としているというのは一見すると言葉の矛盾のように思えるかもしれないが、実際のところは本当にそうなのだろうということがサイケデリック体験を通じてもわかる。純粋意識は万物・万象の全てを生み出すものであり、創造に備えて秩序を形成しているのではなく、混沌として待ち構えている。秩序から何か新しいものが生み出されることはなく、新たなものはことごとく混沌から生まれるのではないかと思う。


そのようなことを考えていると、古典的サイケデリクスは、脳の活動を抑制するが、その一方で脳内の情報エントロピーを増大させるというロビン・カーハート=ハリスの研究部隊が明らかにした研究結果を思い出した。エントロピーの増大とカオスの関係については改めて手持ちの学術書を参照しておきたいと思うが、エントロピーの増大はやはりカオスの度合いの増大と言えるであろうから、サイケデリクスが脳の活動を抑制しながらにして混沌を生み出しているというのは大変興味深い。混沌というと否定的に捉える人もいるかもしれないが、混沌は決して否定的に捉えるべきものではない。上述のように、それは創造の源であり、フローニンゲン大学で複雑性科学をもとにした発達研究をしていた際に得られた知見を思い出すと、混沌は発達の導き手だと言える。私たちは混沌から秩序へ、秩序から混沌へという螺旋構造を持って発達プロセスを歩んでいく生き物なのだ。先日のシロシビン・セッションの際にも、カーハート=ハリスが示した研究通りの現象を感じられた。端的には、セッションにおけるピーク体験時において、自分の脳内の混沌度合いが極地に達した瞬間に、脳の構造的シフトが起こったような感覚があったのである。それを振り返り日記の中では、「IQ20,000になった感覚」や「脳が量子コンピューターになった感覚」と表現していた。いずれにせよ、脳内の情報処理性能と格納されている情報の双方が次元シフトを起こしたことを感じさせる体験があった。サイケデリクスが興味深いのは、そもそも意識状態にも階層構造があり、高次元の意識状態へ移行する過程で混沌度合いが高まっていき、ひとたび高次元の意識状態に到達した瞬間に秩序が形成されることである。そこからまた混沌度合いが徐々に増していくというプロセスを辿りながら、意識状態がますます高次元なものに向かって運動を続けていくという現象が観察される。言語哲学やサイケデリクス科学の観点からも引き続き意識の謎の解明に向けて研究を進めていこう。フローニンゲン:2024/1/16(火)05:35


11878. 絶対的真理を求める旅路/死後における意識について


“true enough”を求める旅路。自分はそんな旅路の過程の中にいるのだろう。絶対的な真理にはおそらく誰も到達し得ないだろう。絶対的な真理というのはおそらく無数に存在していて、到達できるのは部分的絶対真理なのだと思われる。真理もまた空なる存在であるから、それが絶対的であったとしても仮にものであり、移り変わる可能性がある。それは相対的な真理だけではなく、絶対的な真理にも当てはまる事柄で、おそらくそれこそが絶対的な真理なのだろう。自分は無数の真理世界の中に投げ込まれ、真理を求めて泳ぎ回っている。その中で、自分がある程度確証を持てる真理を掴みながら、その真理を深めたり、また次の真理の探究をするということを続けていきたい。その際に、真理の特性を考えた場合に、それが十分に真実たり得るかという“true enough”の精神を大切にしたいと思う。正直なところ相対的な真理も絶対的な真理もそれが無限に存在しているがゆえに、そしてそれらの区別も困難な場合が多いため、自分がどちらの真理を探究しているのかに対して注意深くある必要があるだろう。自分はもはや相対的真理にはほとんど関心がなく、仮の存在で、空的なものであったとしても、絶対的真理の探究に向かっていきたい。


そのようなことを考えた後に、“No death no new life”という言葉が脳裏をよぎった。サイケデリクスの摂取はつくづく最良の死の準備機会を提供してくれることを思う。確かに先日のシロシビン・セッションは過酷なものであったが、その過酷さは自我の死を突きつけてきたからである。基本的にサイケデリック・セッションにおいては、自我を司るデフォルト・モード・ネットワークの解体を通じた自我の死という現象が不可避に生じる。多くの人はその科学的事実を知らず、それに恐怖を感じてバットトリップなどと称することがあるが、自我の死は不可避であり、むしろそれが起こることは発達上は喜ぶべきことなのである。だが、現象学的には確かに過酷であることは間違いないので、うまくその発達段階の自我を手放すこともできれば、それが困難な場合もあることは念頭に置いておくべきである。まさに痛みを伴う出産とさほど痛みを伴わない出産があるように。それで言えば、一昨日のセッションは激しい産みの苦しみが伴う自我の死を経験する体験だったように思う。また、それ以外に注目するべきは、サイケデリクスは自我の死をもたらすだけではなく、肉体的な死の擬似体験をさせてくれるという価値を有する点である。今のところまだ具体的に観察・検証を進めていないが、死後における意識の姿を探究する上でこの上ない体験をもたらしてくれる。直感的に、肉体の死後、意識はますます拡張していき、最終的には宇宙大にまで拡張を続け、純粋意識と化して普遍意識そのものに還っていくのではないかと思う。そこではもはや個としての意識は存在しておらず、あるのは一者としての究極意識のみであるという状態なのではないかと思う。魂を個人の意識の最も純化された存在だとすれば、魂はおそらく肉体の死後しばらくは純粋個的意識として存在し、そこからさらに意識の拡張が進むと、それは一なる全体の意識の中に溶け込んで消失していくのではないかと思う。このプロセスが全ての人に当てはまるのか、全ての個的意識に対して当てはまるのかは定かではなく、普遍意識に立ち返るプロセスで何らかの抵抗なりが生じた場合には、魂は意識空間の中に留まる可能性がある。その他に個的意識としての魂が存続しうる可能性としては、意識空間の中に数学上の点のような形で存在するというものである。点には縦横高さ、面積がなく、点はあると言えばあるが、ないと言えばない。そんな存在として広大無限の普遍意識空間内に点として居続ける可能性もある。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2024/1/16(火)06:01


11879. 無と死とサイケデリクス/意識研究のための瞑想実践をより深いものにするために        

井筒俊彦先生のエラノス会議での発表を元にした論文を読みながら、井筒先生も無について頻繁に言及しておられることに気づく。無については西田幾多郎先生も西谷啓治先生も深く探究しておられ、三者の無の思想を比較する研究もしてみたい。三者ともに禅からの影響を強く受けているであろうから、それは禅の無の思想に集約されるかもしれないが、三者の思想の深さは何か禅という共通基盤に留まるものではなく、より広がりのあるものなのではないかと思う。その広がりに敬意を払いながら、広がり部分を汲み取る形で三者の無の思想を研究してみたい。それは自らのサイケデリック・セッションにおける無の体験の意味を紐解き、その体験を深めることにも役に立つだろう。学術研究とはこのようにして絶えず実践的なのだ。それがどれだけ抽象度合いが高かったとしても、極めて実践的なのである。むしろその研究テーマが抽象的なものであればあるだけ、実践上の価値は深まる。無の研究は死の研究でもあり、死とはどのような体験なのか、死後私たちはどうなるのかについて解明することは、これ以上にない実践的価値を有するのではないかと思う。


時刻は午前8時半を迎えようとしており、今ようやく辺りが明るくなってきた。夜明けを迎えようとしている世界の中で、読書と考察の往復運動を続けている自己がいる。ここ最近はインド哲学への関心も相まってか、ヨーガの実践の見直しをしている。アニマルフローの中にあるヨーガの要素を見つめ直し、ヨーガの動きを意識的に取り入れることを検討していて、午前中と夕方の瞑想の準備として、ヨーガの要素をより強化した形でのアニマルフローの実践をしたい。意識探究において瞑想実践は極めて重要である。瞑想実践は自分にとって心の気休めだとかリラックスのためにあるのではなく、あくまでも意識に関する研究のためにある。その目的はそっくりそのままサイケデリック実践にも当てはまる。古代ギリシャの哲人たち、そして古代インドの哲人たちのように、サイケデリクスの摂取を意識とリアリティの探究のために活用する。そして古代インドの哲人たちがサイケデリクスに加えて瞑想実践を大切にしたように、瞑想実践を通じて意識とリアリティについて研究していく。午前中の後ほどの瞑想実践はまさに実験的意識探究の場なのである。兎にも角にも定期的なサイケデリクスの摂取と日々の瞑想実践を意識とリアリティ研究のための最良の実践に位置付けて大切にしていこう。フローニンゲン:2024/1/16(火)08:24


11880. サイケデリクスと瞑想を活用したインド哲学の伝統的思索方法を踏襲して 


インド哲学の中にあるヨーガの思想や仏教の思想の中には禁欲主義的な考え方があり、物質の摂取を戒めるような発想がある。しかし、パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』には、“These spiritual attainments may be congenital in some, or they may be gained by the use of certain medicinal plants, by incantations, by fervor, or by meditation.”という記述があり、何かしらのサイコアクティブな物質を活用して霊的覚醒を実現させていた可能性が窺える。さらには、現代においては、チベット仏教のカギュ派のチョギャム トゥルンパもまたチベット仏教においてとりわけベニテングダケの活用の歴史を認めている。また、そもそもそれらの思想の源流にあるインド哲学の聖典であるヴェーダには、サイケデリクスを想起させる記述がある。それが具体的にどのような物質だったのかは定かではないが、何かしらの物質を使って宗教儀式を営んでいたことは確かである。アメリカのゴードン・ワッソンは、ヴェーダの中に登場する「ソーマ」という飲料をベニテングタケ(Amanita muscaria)に由来するものだと主張したが、テレンス・マッケナはそれを否定し、ミナミシビレタケ(Psilocybe cubensis)に由来するものだと主張した。その他には、LSDの原料である麦角菌を元にしたとする説やカンナビスを元にした飲料であったと主張する説がある。このように説が多岐にわたっており、考古生化学の研究が進むことを願うが、いずれにせよ、インド哲学の根元に何かしらの物質を用いた変性意識状態の活用があったことは疑いようのない事実に思える。それに加えて、ヴェーダを元にした思想体系から分岐した仏教を含めた各種の思想においても、密教的にサイケデリクスが活用されていたことはすでにある程度示されている。とりわけ仏教におけるサイケデリクスの活用については数冊ほど研究書が出版されており、興味深い証拠の提示と論が展開されている。常識的に考えて、仏教を含めたインド哲学のあれだけ抽象的で高度な思想が通常意識の状態における思索から生み出されるとは到底考えられず、サイケデリクスの積極的な活用があったという説明は非常に腑に落ちるし、とても自然に感じられる。インド哲学とサイケデリクスの活用についてはさらに調査を深めていきたいと思う。


おそらく現代の意識哲学の行き詰まりは、哲学者たちがサイケデリクスをうまく活用していないことにあるのではないだろうか。だから数千年も前の思想を超えられないでいるのである。仮に私たちが本当に意識の進化を遂げているのであれば、意識に関する理解も過去のそれを超克して然るべきである。それが実現できていないというのは、哲学の取り組み方そのものに問題があると言えるのではないだろうか。現代の哲学の取り組み方の問題で大きなものは、それが思考運動であるにもかかわらず、その思考運動を大きく後押しし、強力に駆動させるサイケデリクスと瞑想の活用を積極的にしていないことにあるように思えて仕方ない。そうした問題意識を持ちながら、自らはインド哲学の哲人たちが採用していたであろうサイケデリクスと瞑想の積極的な活用を通じて、過去の思想を網羅的に深く辿り、それを含んで超えるような新たな意識論の提示を行いたい。それがきっと自分に課せられた大きな役割なのだろう。サイケデリクスと瞑想を活用したインド哲学の伝統的思索方法を踏襲して歩むここからの自らの思索道は本当に楽しみである。フローニンゲン:2024/1/16(火)08:54


11881. ヨーガ学派の奥深さ/意識の深淵な性質/探究的贅沢三昧  

   

今し方、朝の瞑想実践を終えた。やはりヨガの運動的要素を取り入れ、それを準備運動がてら行った後に瞑想をすると深まりがまるっきり違う。それを受けて、身体を整え、身体を解す実践のない座禅のみの禅の幾ばくかの不親切さを思い、逆にヨガ業の奥深さを改めて思う次第だ。禅が身体実践を骨抜きにしてしまったことは残念で、インド哲学からの分岐過程でヨーガ学派は身体実践を残し、禅仏教はそれを捨象してしまったのだろう。


瞑想の中で改めて意識の性質の深淵さを思った。やはり意識はいかなるものとも同一できる性質を本質に持っているようである。もう少し厳密に言えば、意識は意識内で思考や感覚やイメージなどを如何様にも生み出すことができ、それが生み出された瞬間に、あるいはそれを生み出すプロセスの中でそもそもその対象と同一化するという働きをしているようなのだ。すなわち、意識は主体として存在していながらも、意識内で客体物を生み出した瞬間ないしはその過程で主体はすでに客体と同一化しているのである。客体を対象化したとしても話は同じであり、むしろ対象の客体化を通じて、主体はますます客体と同一のものになるのである。この意識のいかなるものにも完全にピタリと一致する形で「成る」という性質は本当に興味深い。それは意識がそもそも非二元であることを如実に物語る性質である。意識はそもそも常に絶えず非二元であろるとする性質を持っていて、同時に二元的に主体と客体を分けるような形で客体として無限のものを生じさせ、その創造の瞬間にはもう主体と客体を潜在的には非二元化しているのである。この性質は本当に恐るべきものである。


それ以外にもぼんやりと、こうして瞑想をして、読書をして、定期的にサイケデリクスを摂取して意識探究が行えていることの有り難さを思い、至福さを感じた。自分は毎日とても贅沢な時間を過ごしているのだという認識。ここから再び大学院に戻ってインド思想や日本思想を核にしながら意識哲学に内包される意識論と宇宙論を探究することは本当に贅沢なことなのだと思う。この贅沢三昧を通じて、自分はこの世の中にどのような貢献を果たすことができるのかを絶えず考えなければならない。探究的贅沢三昧を通じて、少しでも多くの人が幸福な人生を歩めるように貢献したいものである。そして社会がより寛容で、多くの人の幸福を実現する器になってくれることに貢献したい。フローニンゲン:2024/1/16(火)10:00


11882. 記憶の保存場所について/西洋哲学の限界を乗り越えるインド哲学の価値 


時刻は間も無く午前11時半を迎えようとしている。先ほど雪がぱらつき、辺り一面が雪景色に包まれている。そんな中で、記憶について考えていた。私たちの脳の細胞は数ヶ月単位で生まれ変わっており、それなのに長期的にある記憶を保持できるというのは、記憶がやはり脳の細胞に保存されているわけではないことを物語っているように思う。もちろん、死滅していく細胞が新たな細胞に記憶を受け継いでいく可能性もあるが、どうも記憶そのものはやはり意識そのものに保存されていて、細胞間で受け継がれていくのはその刺激の経路とそれに付随する物質的性質に留まるのではないかと思う。また情報量の観点から述べても、ある体験に紐づく記憶の情報量は膨大であり、その情報量を細胞が格納するとは考えにくく、やはり脳細胞は記憶を呼び覚ましたり、映し出したりする映写機的な役割しか担っておらず、記憶そのものはやはり非物質的な意識そのものに格納されているように思える。このトピックについても東西の意識哲学の議論と先端的な記憶の科学の議論を参考にしてみよう。

それ以外には、インド哲学と西洋哲学の関係性についても考えていた。すると、オックスフォード大学が公開している“West Meets East: Indian Philosophy in Oxford”という興味深いPDF資料を見つけた。昨日の日記でも書き留めた通り、確かにオックスフォード大学が中心となって、インドの思想を理解することを通じて植民地化を進めた歴史があるが、目的は単に植民地化を進めることだけではなく、純粋に学問的研究対象としてインド哲学を研究していたことが窺える。この資料で指摘されているように、現代の西洋思想はギリシャ哲学をベースにし、それは確かに多くの進歩をもたらした。それは社会的な進歩や科学の進歩のみならず、哲学思想上の進歩も含まれる。しかし、現在はギリシャ哲学をベースにした西洋哲学が行き詰まりを見せており、その背景には問題の捉え方や論理の組み立て方そのものにあることが指摘されている。こうした指摘を西洋世界のトップスクールであるオックスフォード大学が行っていることは重要である。西洋哲学の歴史を辿ると、ロックやヒュームなどはインド哲学を参考にしており、ショーペンハウアーはとりわけ高くインド思想を評価していた。アメリカにおいても、ラルフ・ワルド・エマーソンやヘンリー・デイヴィッド・ソローもまた『バガヴァッド・ギーター』の愛読者であり、インド思想を高く評価していた。しかしながら、彼らはインド哲学の奥義的な思想についてあまり理解していなかったのかもしれない。いずれにせよ、自分もまた西洋のそうした思想家たちと同じく、今こうしてインド哲学に注目をしているのは必然の流れなのだろう。現代の西洋中心主義的な社会に山積みとなっている問題を解決するためには、その問題の前提がいかなる思考の枠組みや論理で生まれているのかを把握することが重要であり、それは基本的にはギリシャ哲学に由来する西洋哲学的な枠組みで構築されていることがほとんどであろうから、同じ枠組みで問題の根元を見ていくのではなく、それとは異なる思考の枠組みであるインド哲学を通じて問題の根元を見ていくことは現代的に非常に重要な意味を持つであろう。社会課題の解決としてのインド哲学の探究というのは、今の自分がまさに情熱を傾けたい事柄である。フローニンゲン:2024/1/16(火)11:25


11883. スピリットの内化の道/ヨーガへの原点回帰を果たして


先ほど改めて、「インテグラル・ヨーガ」の提唱者シュリ・オーロビンドの書籍を読み返していた。彼の2大書籍として“The synthesis of yoga”と“The life divine”を挙げることが出来るが、先ほど読んでいたのは前者である。インテグラ・ヨーガの教えで重要なことは、スピリットは進化ではなく、内化の道を通じて顕現するということである。厳密には、進化はスピリットの完成に向かっていく運動なのであって、内化は万象にあるスピリットに還っていく運動なのだ。いずれにせよ、私たちは意識の進化の過程において、この内化の道を忘れがちとなる。現代においてもスピリットの忘却は甚だしい。プラトンが指摘するように、想起すること。叡智も真理もすでに私たちに内在していることを思い出すこと。私たちの内側には絶えず常にスピリットが内在していることを思い出すこと。その重要性を思う。

ここからまた読書を進めていき、後ほど3冊ほどインド哲学に関する網羅的な学術書を購入しようと思う。先日40冊ほどの書籍の一括注文を終えたばかりだが、インド哲学に関する学術書の購入を2月まで待っていることができない。イェール 大学出版からの“A Sourcebook in Indian Philosophy”、ケンブリッジ大学出版からの“An Introduction to Indian Philosophy”、そしてオックスフォード大学出版からの“The Oxford Handbook of Indian Philosophy”をまず購入しようと思う。それらはいずれも最上級の学術出版社から出版されている書籍のため、それら3冊を読めばまずはインド哲学の基礎的な事柄を網羅的に押さえることが出来るだろう。そこから学術機関に所属してやるべきことは、インド哲学の原典をサンスクリット語で読解していくことや、よりテーマを絞った形で執筆された専門書や論文を読み込んでいくことである。それをぜひとも旺盛に行いたい。また、パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』を丁寧に読んでいこうと思った。それについてはB.K.S.アイアンガーの翻訳書が最も優れているように思えたので、それについても合わせて購入する。

『ヨーガ・スートラ』は、ヨーガの修行による解脱を説くインド哲学の一学派あるヨーガ学派の教典である。この教典では、心の働きの止滅を最重要の教えに据え、4章195節からなる短い教説を通じて解脱の道を説く。ヨーガ学派は、今注目している六派学派のうちのはサーンキヤ学派から大きな影響を受けていて、両者を合わせて「サーンキヤ・ヨーガ」学派と呼ばれることもある。しかし両者の違いは、ヨーガ学派は一元論を取り、サーンキヤ学派は二元論を説く点にある。仏教もヨーガ学派も、人間の存在の根幹に苦があるとみなすが、苦からの解放は実現可能であり、それを可能にするのがプルシャと呼ばれる純粋意識とプラクリティと呼ばれる根本物質との関係を調和的なものにすることであり、それを可能にするのがヨーガの各種の行となる。


こうして再びヨーガの実践と思想を学び直すことになるとは思ってもみなかったことである。今から12年前にアイアンガーヨーガのインストラクターの資格をカリフォルニアで取得したことは、今日の日のためにあったのだろうか。インド哲学への導きはもうあの時から始まっていたのであるし、ヨーガに関心を持った中学1年生の時から始まっていたのだろう。フローニンゲン:2024/1/16(火)15:12

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