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【サイケデリック学探究記】11862-11872:2024年1月15日(月)



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タイトル一覧

11862. トランスパーソナル的・非二元的問題解決

11863. シャンカラの思想を学ぶことの大切さ/今朝方の夢

11864. 今朝方の夢の続き

11865. 空海に思いを馳せて

11866. 純粋意識の興味深い性質/原典と最上級のテキストに絞った読書

11867. 苦を生み出すメタ認知/西田幾多郎先生の思想から

11868. 現象学的アプローチの重要さ/直接体験に立ち返ること

11869. 「成り切ること」の奥深さと大切さ

11870. インド哲学の探究に向かった自己/認識体験を通じて立ち現れる事物とリアリティ

11871. シロシビン・セッション翌日のジムでのトレーニングを終えて

11872. 意識哲学とAI


11862. トランスパーソナル的・非二元的問題解決 


時刻は午前5時を迎えようとしている。昨夜のシロシビン・セッションから一夜が明けて、また新たに生まれ変わった気持ちで今を過ごしている。昨日のセッションはなかなかに厳しいものであったが、その分学びも多く、今日も引き続きその学びを振り返りながらゆっくりと前に進んでいきたいと思う。セッションをしたその日の振り返りも重要であるが、翌日からの振り返りもまた重要な意味を持つ。セッションの内容を回想しながら、日々の読書の内容と絡めた形での振り返りをしていこう。そうした形での振り返りは、学術研究とサイケデリック実践を結んでくれる働きをする。両者を切り離すのではなく、両者一体で学習と実践を進めていくことをさらに意識しよう。


昨日の振り返りでは書き留めることができなかったこととして、人間社会のほぼ全ての問題は、陰陽のバランスの崩れによってもたらされているのではないかという洞察があった。例えば、母性性と父性性の偏りなどは典型的であろう。現代社会では往々にして、歪んだ父性性の過剰さが問題を生んでいる場合が多い。母性性と父性性の双方を健全に育みながら一体化させていくことが重要なのではないだろうか。母性性と父性性は共に陰陽を形成しており、それぞれが健全なものであることがまず求められるし、それらが健全なものになってくれば、それらを1つの全体として統合させていくことが求められる。仮に両者が健全なものになっても全体として1つになっていなければ意味がない。そうした二元的状態では依然として問題が生み出される。非二元としての全体を構成することが何より大事なのだ。そう考えてみると、昨日のセッションでは再三非二元の大切さを教えられたように思う。このリアリティの中で問題だとされているものは基本的に全て二元から生まれるのだ。シャドーワークの根幹である3-2-1のプロセスと同じく、分離したものを統合すること、すなわち二元から非二元に還ることが最良の問題解決かと思う。問題を解こうとするのではなく、問題となることもまた二元から非二元のアプローチであり、両者は本質的には同じことを言っている。サイケデリクスの摂取はある意味非二元を体験し、非二元を目覚めさせることでもあるので、何か社会における本質的な問題解決にも有効な手段になってくるとますます思う。トランスパーソナル的な問題解決、すなわち非二元的な問題解決があるということを直接体験を持って知れたことは大きなことであった。ここからは実際に自分が日々直面する問題に対してこのアプローチを採用してみて、どのような結果が得られるのかを検証してみよう。最初のうちは問題そのものになることは難しいだろうが、セッションで再三得られる非二元の感覚をもとにすればそれは不可能ではないはずだ。フローニンゲン:2024/1/15(月)05:08


11863. シャンカラの思想を学ぶことの大切さ/今朝方の夢


ニのない一。シャンカラの不二一元論。ウパニシャッド哲学の梵我一如から派生したシャンカラの思想を学ぶことの大切さを昨日のセッションの体験をもとに思う。全ての問題の根幹に分離があるここと。そこには二元論的発想と実際の二元的切り分けがある。それを解消していくには非二元である必要がある。非二元へ立ち還ること。それが本質的な問題解決の鍵なのだ。知恵のみが解脱の手段であるとはシャンカラもよく言ったものである。一切の行為は無明に基づいているため解脱の手段ではないと退け、知恵を通じた解脱の道は、確かに梵我一如の不二一元論の思想に基づけば当然導き出される帰結だろう。分析的観念主義の立場や唯識の思想を採用しても同じような結論に至るのではないだろうか。なぜなら全ては意識が表象として生み出しているのだから。全ての問題の解決に非二元的な知恵を活用すること。それをこれから意識したい。そのためには自分でここからさらに非二元の体験を積んでいく必要があるだろうし、シャンカラを含め、インド哲学や仏教の中で非二元がどのように説明されているのかについてさらに詳しく学んでいこう。


そのようなことを考えた後、第24回のシロシビン・セッション後に見た最初の夢について振り返っていた。


夢の中で私は、中学校時代の部活の恩師と話をしていた。周りには数人の友人がいて、彼らに見守られながら先生と対話をしていた。友人たちはみんなおとなしくしていて、先生と私の話に耳を傾けていた。先生はどうやら今食事に気をつけているらしく、笑いながらもうカップラーメンを食べるのはやめにしたと述べた。ところが、後ほどの買い物ではまたカップラーメンを買い足そうかなと述べたので、食事制限の話をこちらから再び持ち出すと、先生はハッとして、いかんいかんという具合に、カップラーメンを購入するのは控えるということを述べた。


この夢以外にもまだ夢を見ていたような気がする。確かこの夢の1つ前には、見たこともないような幻想的な不思議な世界にいた場面があった。そこでは見慣れない生物たちがたくさんいて、彼らが人間の言葉を話していたのが印象的である。それらの生物たちはこちらに襲いかかってくることなどなく、とても穏やかな性格を持っていた。それを確認した後に、私は彼らと交流を図ってみることにした。こちらが防衛本能を緩めて接してみると、彼らも心を開いてくれ、人間同士でのコミュニケーションよりも遥かに深い交流が実現されたので驚いた。彼らはこちらの心を読めるのか、はたまた心の動きに付随するエネルギーの種類や流れに敏感であるのか、本当にこちらが何か言葉を発する以上の意味を言葉のやり取りから汲み取ってくれ、このコミュニケーションのあり方は人間がもっと学ばなければならないぞと思ったところで夢の場面が変わった。フローニンゲン:2024/1/15(月)05:26


11864. 今朝方の夢の続き


時刻は午前6時を迎えた。今の気温は1度とのことだが、やはり氷点下でなければ室温は十分に維持することができ、室内では暖かさを感じる。今日は気温の推移はほとんどなく、最高気温は2度とのことである。シロシビン・セッションを終えた翌日の今日もまた、いつものように午後にジムに行き、身体を鍛えてこようと思う。こうして少なくとも週に2回はジムで集中的なトレーニングをし、毎朝アニマルフローの実践を欠かさず行っていると、身体が鍛錬され上げていくのを実感し、それが日々の学術研究とサイケデリック実践を下支えしてくれることに気づく。昨日のセッションでも、身体を鍛えているがゆえに救われた場面が何度かあった。食実践と運動の重要さを兎に角強調したい。


先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、夢にはまだ続きがあるのでその場面についても振り返っておこう。


夢の中で私は、見慣れない待合室のような場所にした。そこには偶然ながら、高校1年生の時の担任の先生と野球部に所属していた背の高いクラスメートがいた。そこで2人と少し話をしていると、夕食を一緒に食べにいこうと先生に持ちかけられた。そして、そのクラスメートの友人が店を予約した。私は久しぶりに2人と会ったので夕食に行くのもいいかもしれないなと思った。いざ2人と別れてまた後ほど店で会おうという形で解散したのだが、すると今度はまた別の先生とクラスメートから声を掛けられ、夕食の誘いを受けた。今日はやたらと夕食の誘いが入るなと思った。2人には申し訳ないがもう先約があることを伝えようと思ったが、実際には数日前にもう2人と夕食の約束をしていたことを思い出し、先ほどの2人には夕食をキャンセルしてもらわなければならないと思って少し焦った。そうこうしていると、気がつけば私は見慣れない公民館のような場所にいた。どうやらそこでは武術や日本舞踊を教えているらしかった。結局私は、その公民館の前から出ているバスに乗って、最初に会った2人が待つ店に行って直接謝り、当初に予定した2人が待つ店に行って夕食を取ることにした。


バスを待っている間に公民館の中を覗くと、そこで日本舞踊のレッスンが行われていた。受け付けにはロシアの護身術であるシステマの著名な日本人インストラクターの方がいて、その方に挨拶をして少し話をした。バスがやって来るまでまだ時間があったので、日本舞踊のレッスンの見学をさせてもらうことにした。インストラクターは男性の方で、とてもすらりとしていて手足が長く、所作がとても美しかった。生徒に骨の動きを見せるために半裸になり、特に上半身の骨の動き方をレクチャーしていた。すると、そのインストラクターの男性の上半身にはクンダリーニが炎のように上昇するタトゥーが入っていて、それもなかなかに見応えたがあった。すると、どういうわけか高校時代のヨット部の友人がその場にいて、彼もまた上半身裸でタトゥーを入れていて、インストラクターの男性に近づいてタトゥーや体の動きをまじまじと見ていた。そこで私はハッとして、そろそろバスの時間かと思った。28番のバスが間も無くやって来るはずなので外に出ると、外は小雨が降り始めていた。なんとタイミングが悪いことに、バスがちょうど行ってしまったようで、バスのお尻が道路の先の方に見えた。バスの本数は多くなかったので、これはもう夕食に間に合わないかもしれないと思い、友人には電話で謝ろうと思った。そこでふと、バスではなくそもそもタクシーを使えば良かったのかもしれないと思い、タクシーを呼ぼうと思ったが、もうそれをするのも面倒で、夕食の予定はどちらもキャンセルさせてもらおうと思った。そこで私は、もう家族以外とは絶対に夕食を共にするのはやめにしようと思った。それはこちらの生活リズムを崩されることにもなりかねないので、食事の約束を入れるとしても昼食に限定しようと思った。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/1/15(月)06:19


11865. 空海に思いを馳せて


今し方モーニングコーヒーを淹れ、その香りに誘われながら、昨日のシロシビン・セッションについて改めて振り返っていた。セッションの中では宇宙的な体験はしなかったが、セッションを迎える早朝に、宇宙は絶えず無限に分岐しながら、多元的な宇宙を構成している姿が知覚され、それでいて宇宙全体はワンユニバースなのだという直感的な知覚体験があったことを覚えている。そうした知覚体験が得られた後のセッションの中でそう言えば、空海を思うことがあった。空海の身口意が絶対的真理として知覚されたのである。セッション中の深い意識状態の中で、身口意が1つになるような体験があった。確かにセッションの中では言葉を発することはなかったが、言葉である口、肉体である身体、思いである意のそれぞれが三位一体となって1つになる瞬間があった。今ちょうど空海に関する洋書の到着を待っているところである。空海の思想とその生き方から学ばされることはきっと多いだろうという直感からその学術書を求めた。中国に渡り、中国人の僧侶たちを凌いで多くの学びを得てそれを日本に持ち帰った空海。彼の学問的功績と公共事業の功績には本当に感服する。自分はきっともう物理的に日本で生活することはないかもしれないが、学問的知見を日本に共有することは必ずやっていきたいし、それを通じて社会を良くしていく試みに本当に従事したい。この思いを身口意の三位一体を通じて形にしていこう。


それでは今日もまた旺盛な読書に従事していこう。早朝の日記で書き留めた通り、シロシビン・セッションで得られた洞察や直接体験と紐付ける形で書物を読んでいくことを心がける。今日はまず、西田幾多郎先生の“Place and dialectic: Two essays”から読書をスタートさせよう。その次に、MIT出版から出版された意識哲学に関する論文集の“Explaining consciousness: The hard problem”を読む。そこからは日本思想に関する書籍を読み進めていくか、デイヴィッド・チャーマーズの書籍を読み進めていくか、はたまた量子力学に関する書籍を読み進めていくかを検討したい。その瞬間の自分が最も心惹かれる書籍を手に取り、大いに学びを汲み取っていく。フローニンゲン:2024/1/15(月)06:44


11866. 純粋意識の興味深い性質/原典と最上級のテキストに絞った読書    

 

昨日のシロシビン・セッションを経て改めて思うのは、どうやら個人の意識そのもの、すなわち純粋意識は、何かと一体となろうとする特徴を持っているようなのだ。何かに付着し、それに成るという性質を純粋意識が持っていることは大変興味深い。ここでも注意が必要なのは、それはあくまでも純粋意識の特徴なのであって、機能なのである。ゆえに純粋意識が付着した対象物をいくら眺めていても、それは純粋意識そのものではないのである。純粋意識のこの何ものにも成れる性質というのは本当に興味深い。これこそがまさにイギリスの思想家のロイ・バスカーが述べていた「超越的一致(transcendental identification)」なのだということが昨日のセッション体験を通じて思わされた次第である。純粋意識が持つこの超越的一致の性質を活用した問題解決の方法がまさにトランスパーソナル的・非二元的な方法なのである。


この超越的一致を身近な例で説明すると、それが何か特別なものではなく、至る所で起きていることに気づく。例えば今この日記を書いている最中には書かれている言葉と自分は超越的な自己一致をしているのである。また、読書をしている際には、書物の言葉と超越的な自己一致をしているのである。日常の至る所に超越的一致を見出すことができる。逆に言えば、これを自覚し、意識的に超越的一致を繰り返していけばいくだけその力は増していくであろう。


ここのところは本当に原著を読むことの大切さを思う。もっと言えば、宗教的経典を読み込んでいくとの大切さを思う。おそらく現代の科学も哲学も、特定の宗教の経典の真髄からの派生に過ぎないのではないかと思えるぐらいに、例えば仏教やヒンドゥー教の意識論と宇宙論は精密である。そこで書かれていることの後追い検証を科学と哲学が行っているさえ思えて来る。そうした思いから自分はとりわけ仏教とヒンドゥー教の経典をサンスクリットの原語で読みたいと思っている。この試みは時間をかけて行っていくべきものだと弁えており、焦ることなく少しずつサンスクリット語の読解力を高めていき、少しずつ原典のテキストの内容理解を深めていこう。こうしたことに加え、自分の関心テーマに関する学術書を読み際にも、質の高い最上級の学術書に絞って読書を進めていくことを心掛ける。ここからは本当にその分野の最上級のテキストしか読まないというぐらいの心持ちで学術研究を進めたい。なぜなら、その他のテキストは基本的にそうした最上級のテキストの希釈的派生物に過ぎないのだから。フローニンゲン:2024/1/15(月)07:20


11867. 苦を生み出すメタ認知/西田幾多郎先生の思想から 


メタ意識やメタリフレクションでは決して問題は解決しないということ。むしろ人間の苦のほとんどはメタ意識やメタリフレクションで生まれていると言っても過言ではない。厳密には苦にも階梯があり、最初の段階の苦は無知から生まれる。あるいは、苦の対象化の不在から生まれる。その次に、苦の対象化によって生まれる苦が存在する。苦を対象化することで幾ばくかの苦は確かに解消されていくかもしれないが、苦を対象化するというのはある意味、苦と自分を二元的に切り分けていることに他ならないので、結局こうした分離マインドをいつまでも持っていると本質的な苦からの解放には至らない。ゆえに重要なことはメタ意識やメタリフレクションを超えていくことである。超えて純粋意識そのものと化すことが兎にも角にも重要なのである。ちょうど先ほど読み進めていた西田幾多郎先生の書籍の中の言葉で言えば、純粋経験というのはそうした純粋意識との一体化の経験のことを指すのだと解釈している。


人間はメタ認知ができる能力を持ってしまったがゆえの苦しみがある。一般的に人間以外の動物はメタ認知の能力は持っていないとされており、例えば4本足の犬が1本足を失った場合、痛みこそあれ、犬は3本の足になってしまったことに自覚的になって、そこから認知的に新たな苦を生成することはないだろう。一方人間は、2本から1本になってしまった足を見て、メタ認知的にそこから勝手に自分なりの意味を生成し、その意味によって苦しめられる。こうしたところにもメタ認知の根本的な欠陥を見るのだが、重要なのは純粋意識状態になるためにはメタ認知の能力を土台にする必要があるということだ。メタ認知の力を育み、どこかの段階でそれをジャンプする形で純粋意識状態を持続できるようになる段階が来る。それは意識の発達プロセスに則った現象である。発達段階としてもそうした純粋意識の持続が可能になるが、それこそ瞑想やサイケデリック実践を通じて得られる非二元の意識状態というのもまさに純粋意識との合一状態であり、意識段階と意識状態の双方からそうした純粋意識の持続能力を高めていくことが根源的な苦からの解放において重要なのだと思う。

西田先生は禅から多大な影響を受けていたが、大乗仏教の唯識思想からの影響は何か無いかを文献読解を通じて調査してみたい。また、インド哲学との繋がりも見出したいところである。そもそも仏教とインド哲学は密接な繋がりがあることから、何かしらの繋がりを見出すことができるだろう。


インド哲学の意識論において、意識そのものを純粋意識として見る見方と、見方を変えて自己顕現する光と捉える発想があることを知った。これは川面凡児先生の言葉を借りれば、表観と裏観を通じた意識の捉え方と重なるものがあって興味深い。意識そのものはある見方によっては純粋意識であり、別の見方では光として知覚されるのだろう。ここにインド哲学の意識論と神道の意識論の繋がりを見る。


西田先生の場所の論理についてはさらに深い理解を得たい。意識が生起する場としての場所と、意識としての場所の双方があるのではないかということがサイケデリック体験から直観・直感されることであり、西田先生の論を引き続き追ってみよう。フローニンゲン:2024/1/15(月)07:42


11868. 現象学的アプローチの重要さ/直接体験に立ち返ること    


どうやら意識のハードプロブレムの解決にせよ、意識そのものの本質を理解することにせよ、個人や社会の問題を解決することにせよ、現象学的なアプローチの重要性が富に増してきた。今手持ちの書籍の中にも現象学に関するものがあり、フッサールを中核とした現象学は少し奥行きが足りないように感じているので、仏教やインド哲学の現象学思想を学び、そのアプローチを通じた研究にも取り掛かっていきたいと思う。意識の解明においては兎にも角にも一人称的直接体験の解明が不可欠であり、そのための方法論として現象学という分野があることを改めて強く脳裏に刻んでおきたいと思う。近日中にまた現象学に関する書籍を読み返し、とりわけインド哲学の現象学について解説した書籍は追加で購入しておきたいと思う。


こうして日記を綴るという行為もまたある種の現象学的な試みであり、生きた経験がここに刻まれている。日々の日記の執筆を現象学的な実践であることをより意識し、その方法論をより洗練させる形で学術研究に活かせないかを検討していこう。デイヴィッド・チャーマーズもこれからの意識哲学は経験に立ち返り、直接経験をつぶさに検証していくことの重要さを今から20年以上も前に提唱していた。残念ながら意識研究は時代のフラットランド的パラダイムに飲まれ、どうしても物理主義・物質主義的な意識科学に占拠されているような状態であり、意識科学の発見事項を大切にしながらも、現在如実に欠落している直接経験に焦点を当てた意識研究を拡充していく必要があるだろう。サイケデリック研究においてもまさにそれが重要であり、現在のサイケデリック・ルネサンスはご多分に漏れず、物理主義・物質主義の観点で研究が進められていることに危機感を持つ。特殊な意識状態における特殊な知覚体験がもたらされるサイケデリック研究こそ直接体験を大切にしなければならず、自分はその研究に乗り出していく。西田幾多郎先生も述べているように、純粋経験を蔑ろにする生き方は善き生き方に繋がらない。私たちは今一度直接経験の豊かさと深さに注目するべきではないだろうか。それは学術研究においても、日々の至る所にある実践においても重要であり、日々の生活の隅々においても重要なことかと思う。フローニンゲン:2024/1/15(月)08:29


11869.「成り切ること」の奥深さと大切さ


意識の現象学的研究の成果を自分の日々の生活に落とし込んでいくこと。仮観・中観・空観の思想もまた日々の自分の生活に落とし込んでいくこと。意識哲学を通じて日々の学びと実践を進めていくこと。そうすれば、学術研究も実践もさらに進展し、意識に対する深い理解を通じたより充実した生が実現されるであろう。そのようなことを考えていた。


午前中の読書は捗り、途中で追加の購入文献リストを制作していたりしていたが、今3冊目の書籍の初読に取りかかり始めた。この書籍は、西田幾多郎先生と田辺元先生の絶対無の思想について扱っている。本書を読みながら、早速昨日のシロシビン・セッションでの知覚体験に繋がる議論がなされていた。それは西田先生の“knowing by becoming”という発想である。これはまさに自分が昨日痛感し、最も重要だと思う学びだった。対象に成り切る形で私たちは知ることができる。いや厳密には、純粋意識は常に何かになり切る性質を持っていて、私たちが意識活動を行っている最中には、ありとあらゆる対象に常に成り切っているのである。成り切ることなくしては私たちはリアリティを認識することができず、この世界で生きていくことはできない。この「成り切る」という日本語が秀逸なのは、それは英語の“becoming”にない、二元を通じた一元が言葉に内包されている点である。すなわち私たちは、純粋意識の働きによって対象をその他の対象から分節する形で切り出し、切り出した対象と一つに成るのである。例えば、目の前のパソコンを認識した瞬間に、それはパソコンが他の存在から切り出され、認知の瞬間に私たちの主体はその客体としての机に成っているのだ。だから認識が成立するのである。


言語哲学者の井筒俊彦先生が指摘するように、言葉は本質的に分節化の作用を持つ。すなわち、言葉を発することと言葉を綴ることは、成り切ることなのだ。それは世界からある対象を切り出し、それと成る形でなされる運動的認識行為なのである。


私たちは対象と成り切る形で認識活動を行い、存在しているということ。この事実は本当に興味深く、奥深い。実践的インプリケーションとしては、私たちは日頃、何に成り切っているのだろかという問いを投げかけたい。純粋意識と言葉の作用を通して、私たちは何と成り切っているだろうか。自分や他者を傷つけ、社会に害を与えるような対象と成り切っていないだろうか。自らの主体が成り切っているものをつぶさに検証していくことの大切さを提唱したいし、自らも絶えずその検証を行いたい。私たちは今というこの瞬間、何に成り切っているのだろうか。それが自己の存在と人生を決定する。フローニンゲン:2024/1/15(月)09:54


11870. インド哲学の探究に向かった自己/認識体験を通じて立ち現れる事物とリアリティ


最近は富にインド哲学に強い関心を示して購入するべき文献を調査している。また、手持ちのインド哲学の文献を再読している。それを通じて、インド哲学の射程の広さを思った。端的には、インド哲学の中に仏教哲学とヒンドゥー哲学が組み込まれており、仏教やヒンドゥー教だけではなく、ジャイナ教やヴェーダンタ学派やサーンキヤ学派なども含まれるという非常に幅の広い思想体系をインド哲学が持っていることに遅ればせながら気づかされたのである。興味深いのは、インド思想の中で正統派とされていたのはヴェーダンタ学派やサーンキヤ学派を含む六派哲学という6つの学派であった。インド哲学はそこから派生する形で初期仏教とジャイナ教を生み出したが、仏教もジャイナ教も異端派だったのである。ここからは、正統派のうちの2つの学派であるヴェーダンタ学派とサーンキヤ学派に注目し、異端派として扱われている仏教の中でも大乗仏教の思想に注目して研究をしていこう。それらを総称して自分の探究はインド哲学の探究に向かったと捉えておこうと思う。


意識哲学者のバーナード・カストラップの書籍を読みながら、また1つ新たな洞察が得られた。それは西田幾多郎先生の「対象に成り切ることを通じた認識」と繋がるものである。カストラップの認識論と存在論をもとにすれば、私たちは対象を経験することを通じて物質的なものや非物質的なものを表象として存在させているのではないかと思った。すなわち存在論的には物質的なものと非物質的な存在を認めながらにして、それは空的存在として存在可能性空間に存在しており、私たちが意識を通じて認識するという体験をもとに立ち現れる性質を持っているのではないかと思ったのである。つまりここでは認識体験のないところに存在は無しという絶対無的な思想に繋がる考え方を見出すことができる。認識体験がない時には、全ての存在は存在可能性として絶対無の場所に空として存在している。それがひとたび私たちの認識を通じて体験が生じた瞬間に存在が形取られるのである。その存在は物質的なものかもしれないし、物質的な性質を持たない純粋な概念や数式かもしれない。ここからも体験が持つ存在顕現作用の重要さを思う。どうやら私たちは、物質的な世界と非物質的な世界で生きているようでいて生きておらず、空的絶対無場の中で意識そのもの(純粋意識)に立脚する形で生きていることが見えてくる。これは存在の深みの重要な特徴だと言えるのではないだろうか。フローニンゲン:2024/1/15(月)10:52


11871. シロシビン・セッション翌日のジムでのトレーニングを終えて


時刻はゆっくりと午後5時を迎えようとしている。今日の最高気温は2度で氷点下ではなかったが、午後にコーヒー豆を購入しに珈琲屋に立ち寄り、ジムに行った際には寒さがあった。途中で霙が降る瞬間があり、外は結構冷えていることを実感した。


今日のジムでのトレーニングは、昨日のシロシビン・セッションを受けて様子を見ながら負荷量を決めていこうと思った。先週の木曜日のパーソナルトレーニングの際に、筋力が完全に回復しておらず、エネルギー量もさほど高くなかったことを受けて、今日は無理をしない形でのトレーニングをした。特に大臀筋の筋肉痛がまだ残っていたこともあり、そこへの刺激は程々にして、広背筋やハムストリングなどの大臀筋を除く体の後ろ側を意識的に鍛えた。腕においても上腕二頭筋よりも筋肉量の多い上腕三頭筋をメインに鍛えていった。しばらく筋力トレーニングをした後に、ジークンドーのシャドートレーニングをするべく部屋を変えて、鏡のある部屋に移った。ジークンドーの師匠であるロビンさんが首の怪我によって長期間稽古ができなくなってしまったので、今はもっぱら1人で稽古に励んでいる。できるだけ正しいフォームで短い時間集中するように稽古している。もちろんながら日頃人を殴ったり蹴ったりすることはなく、その分誰しもにある動物的な攻撃性が抑圧されがちな現代社会において、サンドバックを叩くことによって抑圧された攻撃性を発散させることは精神衛生上も好ましいように思う。また、こうしてサンドバックでも叩いておかないと、いざという時に護身術を発揮する場面において人に攻撃をすることができなくなってしまうのではないかと思う。そうしたことを踏まえて、今も継続してジークンドーの稽古をしている。


今日の有酸素運動はいつもと変わらずに行うことができた。筋力トレーニングをほどほどにした代わりに、ローイングマシンを10分ほど漕ぎ、ランニングマシンでは20分ほど走った。ローイングマシンでは重さを以前よりも重くしても気持ちよく漕ぐことができ、目を閉じていると自然と時間が経っている感覚があった。ランニングマシンに関しては目を瞑っていると危ないので目を開けたまま走っているが、ここでも2分に1度、時速を0.5kmほど上げることをしていき、そこからピークを迎えたら、また時間をかけて段階的に時速を0.5kmほど下げていく形で心肺に異なる刺激を徐々に与えるようにしている。これは効果的のようで、週に2回はローイングマシンとランニングマシンを活用することで、日頃の体力もさらに向上しているように思うし、学術研究上の集中力も高まっているように思う。

学術研究で言えば、今日珈琲屋に向かっている最中に、以前から気になっていたがまだ足を運んでいない古書店に再来週末にでも訪れてみようと思った。今はとにかくインド哲学への関心が高まっており、インド哲学における意識論を深く学びたいという思いがある。その古書店と、以前からお世話になっている街の中心部の2軒の古書店に足を運び、インド哲学に関する最上級の英語の学術書があればそれを購入したい。出版社としては主にイギリスの3大学術出版社のものがあれば理想である。それ以外の出版社のものについては中身を見て検討したいと思う。フローニンゲン:2024/1/15(月)16:56


11872. 意識哲学とAI   


今、インドの瞑想音楽をBGMにかけている。インド哲学に関心を持ち始めてから、インドの瞑想音楽を探し、発見して良いと思ったものはぜひ次回のシロシビン・セッションの際にかけてみようと思う。インドは風土上、歴史的にも食物が豊富にあり、気候が暑いためにあまり動くことをせずに瞑想にふけることを通じてあのような精密壮大な思想体系が構築されたのだと思う。古代ギリシャにおいても、時間的に余裕のあるエリート層たちがサイケデリクスの活用を通じて思索を深めていった形であのような神秘主義的な要素を含む高度に抽象的な思想体系が出来上がったのだと思う。ホワイトヘッドが述べているように、西洋の哲学はプラトンの脚注的な形で、当時のギリシャの思想に大きな影響を受けている。


インドに訪れてみたいという思いが高まっているが、今はあまり旅行に出かけていく気分ではない。とにかく規則正しい生活の中で読書に励み、定期的なシロシビン・セッションを自らに課すことが最優先事項である。いつか学会などの発表の機会にインドを訪れることがあればと思うし、ここから本当に本格的にインド哲学を深めていった結果として、インドのいずれかの大学に研究者として赴いて、そこでインド哲学の研究をする可能性もある。サイケデリクスと瞑想を両輪にしたインド哲学の深淵さに打たれ、心が惹きつけられている。


純粋意識の性質や普遍意識の性質、そして非二元についての解明が進まなければ、AIが人間と全く同じような意識を持つようになることは不可能だと思われる。もちろんAIは「意識のようなもの」なら獲得可能であり、すでにそれは実現の道を着実に歩んでいる。チューリングテストを通過するAIはもうすでに誕生しており、それらは意識のようなものを実装していると言ってもいいのではないかと思う。しかし、人間が持つ本質的な意識は未だ獲得しておらず、果たして物質と数式アルゴリズムといういずれも純粋意識の表象であるものから純粋意識を生み出せるのだろうか。それは原理的に可能なのか不可能なのかはさらに検討してみなければならない。今はいずれの可能性についてもオープンな状態だが、いずれにせよ今この瞬間に言えることは、まだAIは純粋意識の獲得からは程遠いところにいるということである。すでにAIは意識のようなものを獲得し、意識の機能と内容物については人間を上回る性質を持っている。ニック・ボストロムが述べるAIによる脅威は本当の意味で脅威ではなく、おそらくAIが純粋意識を獲得した時に脅威か人間との真の友好的関係が築けるかの分岐点になるのではないかと思う。意識哲学の研究はAI研究とも密接に繋がったものであるがゆえに、意識哲学を通じてAI研究とその社会実装にも貢献していきたいものである。フローニンゲン:2024/1/15(月)17:10

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