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【サイケデリック学探究記】11846-11861:2024年1月14日(日)



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タイトル一覧

11846. 第24回のシロシビン・セッションに向けて

11847. サイケデリック体験の共有について/今日のセッションの環境設定と目的の設定

11848. 今朝方の夢

11849. 今朝方の夢の続き

11850. ダイモーンの覚醒と憑依/記憶の保存場所

11851. 東西の意識哲学との格闘/シュレーディンガーの猫について改めて考えながら

11852. 問いの性質に自覚的であること/意識のハードプロブレム」のハードさについて

11853. クオリアの問題と意識と言葉/意識研究における一人称的・二人称的アプローチの重要性

11854. 第24回シロシビン・セッションの振り返り(その1)

11855. 第24回シロシビン・セッションの振り返り(その2)

11856. 第24回シロシビン・セッションの振り返り(その3)

11857. 第24回シロシビン・セッションの振り返り(その4)

11858. 第24回シロシビン・セッションの振り返り(その5)

11859. 第24回シロシビン・セッションの振り返り(その6)

11860. 第24回シロシビン・セッションの振り返り(その7)

11861. 第24回シロシビン・セッションの振り返り(その8)


11846. 第24回のシロシビン・セッションに向けて     


時刻は午前3時半にゆっくりと近づいている。今の外の気温は3度で、室内は21度あり、そのギャップはかなりあるが、室内はとても温かく感じる。このくらいの室温が自分にとってはちょうど良く、シロシビン・マッシュルームの発育においても望ましい。明日は少し雪がぱらつく時間帯があるようだが、来週1週間は最低気温が極端にマイナスに触れる日はないようなので何よりである。


今日は第24回のシロシビン・セッションを行う予定である。前回から2週間空けたのだが、2週間のインターバルが長く感じられた。それはこの2週間の間における探究密度の濃さゆえだろうか。セッションでの知覚体験とそこからの洞察を学術書をもとにして多様な角度から紐解きながら、新たな探究トピックを見つけてそれについてまた学術書を読みながら考察をしていくという日々を過ごしていた。シロシビン・セッションを体系的に自らに課すようになってからずっとその調子である。この調子を継続していきたいという思いが自分の中にある。というのも、意識哲学の探究上、サイケデリクスの摂取ほどに有益な直接体験は今のところ他に見当たらず、過去の哲学的・宗教的な偉大な思想家の中で意識について探究していた人たちはことごとく何かしらのサイケデリクスを摂取していた可能性があることもまたこの実践に自分を導いている。自分にとってはサイケデリクスの摂取は兎にも角にも意識研究上の実践なのであって、それそのものが実験的な意味での研究ですらある。そこでの体験の強度と得られたものの咀嚼に時間がかかるゆえに、セッションのペースは2週間に1度を設定している。もちろんここまで実験的に10日に1回や1週間に1回を試したこともあったが、無理のないペースで継続して実践する意味では、2週間に1度が最適のように思える。とにかくこれもまた実践なので継続が何よりである。継続は力なりとはよく言ったもので、本当に継続は重要だ。継続によって小さく着実に積み重なっていくものが、いつか次元の変容を起こし、大きな飛躍をもたらしてくれる。今の自分はまだ体系立った本格的なサイケデリック実践を始めたばかりなので、ここからの積み重ねがものを言うだろう。その積み重ねが意識哲学者としての自分の仕事をどこまでも広く、深く、豊かなものにしてくれるはずだ。


今日のセッションはいつもと同じように、午前10時ごろからスタートさせたい。10時にシロシビンを摂取し終えるのではなく、10時頃から調理を始める形だ。調理と言っても、乾燥したマッシュルームをまな板の上で細かく刻んで温かいドリンクに入れるだけなので準備は数分で終わる。今日もまたマサテコ族の伝統に則り、カカオドリンクを作ろうと思う。そこにヘンプパウダーと蜂蜜を加えると大変飲みやすいことに前回気付いたので、今日も同じメニューでシロシビンを摂取したい。さて、新年最初のセッションにおいてどのような知覚体験と洞察がもたらされるのか、今からとても楽しみである。シロシビン・ドリンクに祈りを捧げるような形で今日のセッションを始めていきたいと思っている。フローニンゲン:2024/1/14(日)03:33


11847. サイケデリック体験の共有について/今日のセッションの環境設定と目的の設定 


今、少し雨がぱらついている。おそらくそれは少し霙まじりのようだ。雨粒の大きさが大きく、硬さがあるように感じる。屋根にぶつかる雨音を聞いているとそう思う。


今日は第24回のシロシビン・セッションを行うのだが、少し前までは自らのサイケデリック体験をラジオやゼミの場で共有することが多かったが、今はそれはほとんどしなくなっている。文章としてこの一連の日記の中で体験を書き残すことはあっても、話し言葉ではあまり語らないようになっている。と言うのも、やはりサイケデリックセッションの体験で得られることはパーソナルなものが多く、そうしたパーソナルな体験をそのまま共有してもそれを聞いている人には伝わらないことが多々あるであろうからだ。もちろん話の工夫をすればいくらでも伝えることはできるかもしれないが、その労力を割くぐらいであれば自らの研究を進めた方が賢明だという考えがある。またそもそもサイケデリック体験で得られることは言語を超越しているものが多く、自分の場合は話し言葉よりも、ゆっくりと時間をかけながら言葉を紡ぎ出せる書き言葉での振り返りを好んでいることも関係しているだろう。今日のセッションで得られたことも、当面はこの日記で書き留めるだけにして、ラジオやゼミの中で何か共有することがあったとしても、それはパーソナルな事柄ではなく、聞き手である他者にとって役に立つ幾分普遍化された事柄であるべきかと思う。


今日のセッションにおける環境設定としては、前回は宇宙の音楽に関するプレイリストをかけ、このプレイリストは大変素晴らしかった。しかし今日もそのプレイリストをかけるかというとそうではなく、毎回のセッションは実験の場でもあるので、今日は森の音楽をかけようと思う。ちょうど今この日記を綴っている最中にもBGMとしてそれを流していて、直感的にこのプレイリストもまた深い体験をもたらしてくれるであろうという予感がする。


目的の設定としては、引き続き意識そのものの探究に焦点を当てたものにしたい。意識の本質を直接体験するような非二元体験がどれだけあるかが大切で、それに付随する形で、意識の機能に対する考察を深めるための目撃者の意識状態がどの次元でどれだけ持続するかも重要になる。繰り返しになるが、サイケデリック実践もまた紛れもなく実践であり、それを体系立てて行い、必ず内省的な振り返りを伴わせることによって、その実践はどんどんと深化していく。ここ何回かの真剣な実践を通じて、早くも実践の深まりを感じている。そしてサイケデリックの摂取がかつては宗教的な伝統儀式の中で行われたいたことを考えると、この実践はどこまでも深く無限に深められるものだということも見えてくる。今日もまた、意識の無限の深み、そして実践の無限の深みに向けて、多くのことが得られるセッションであることを願う。フローニンゲン:2024/1/14(日)03:50


11848. 今朝方の夢    


ここから今日のシロシビン・セッションまではおよそ5時間半の時間があるので、その時間をいつものように学術書の読解に充てていこうと思う。きっとそこでの読書体験もまた今日のセッションに良い影響を与えるであろうし、セッションで得られた体験の咀嚼にも繋がってくるだろう。


第24回のシロシビン・セッションを行う日の朝に見ていた夢は次のような内容だった。


夢の中で私は、日本に一時帰国しているようで、久しぶりの日本滞在を満喫していた。東京と言っても広く、まだ足を運んだことのない場所が特に郊外にはたくさんあったので、それらの場所に行ってみることにした。自分は幸いにして経済的にも時間的にも自由人なので、通勤時間を避けて、好きな時間に好きな場所に行ける贅沢を有していた。電車にぶらりと乗って郊外に向かってみることにした。しばらくすると、列車の中にコスプレをした女子大生がいて驚いた。どうやら彼女はアイドル活動もしているらしく、車内でスピーチを始めたのである。その内容は至って真面目で、日本社会の閉塞感と停滞の状況をどのようにすれば改善できるかに関するものだった。私は彼女のスピーチを微笑ましく思いながら聞いていた。すると、隣の車両から怒鳴り声が聞こえた。どうやらそれは彼女に対する野次のようだった。私は彼女のスピーチは決して野次られるようなものではないと思っていたので、いったいどこの誰が彼女に野次を飛ばしたのだろうかと思った。必要であれば自分が2人を仲裁する必要があるかもしれないと思い、スッと席を立って、隣の車両を覗いた。するとその男性はどうやら酔っ払っているようで、酔っぱらいの戯言かと思って少し安心したのと同時に、心ない野次であったことは確かなので、彼女には気落ちしないようにと伝えておこうと思った。彼女のところに行ってそれを伝えると、野次で少し気落ちしていた彼女は元気を取り戻したようだったので何よりであった。すると、どうやら目的の駅に着いたようだったので、列車を降りた。駅の改札口を抜けるときに、久しぶりにSuicaを活用し、それをかざして通り抜ける感覚がどこか懐かしさもありながら新鮮さもあった。そのような場面があった。


それ以外には、温泉が湧いている日本のどこかの地域に滞在している場面があった。父と一緒に温泉が湧き上がる場所を特定しに散策をしており、しばらくすると温泉の源泉地を発見した。父は温泉に対しても結構な知識を持っていて、地質学的にその土地の温泉にどのような特徴があり、どのような効能があるのかを知っているらしかった。源泉地からは湯気が上がっていて、見事なお湯が地下から湧いていた。どうやらそれほど熱くないらしく、触れる温度との説明が立て看板にあったのでお湯に触れてみることにした。すると、とても柔らかな質感を持った温泉だと自分でもわかった。ふと足元を見ると、そこに温泉で変色した岩があり、それを手に取ってみようとしたところ、父が突然私に向かって、「それは触っちゃダメだ」と声を荒げて述べた。どうやらその岩には温泉の成分が変化したことによる毒性があるようで、触ってしまうと手が荒れてしまうとのことだった。父が止めてくれたおかげで手のひらで岩を掴むことはなかったが、右手の人差し指の先端だけ少し触れてしまっていたので、すぐに温泉で洗い流し、これで大丈夫かなと父に心配気味に尋ねたところ、まぁ大丈夫だろうとのことだったので、事なきを得た。とはいえ、父も100%確証しているわけではなさそうだったので、もう少し念入りにお湯で洗い流し、指先の様子をこまめに観察しようと思った。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/1/14(日)04:54


11849. 今朝方の夢の続き


今朝方の夢の続きを改めて振り返っていると、夢の続きを思い出した。日本で実際に通っていた一橋大学の図書館に似た雰囲気を持つ図書館で勉強する場所を見つけようとしている場面があった。ちょうど試験週間と重なっていて、図書館には無数の学生がいた。なので席を確保するのは大変で、なかなか良い席を見つけることができなかった。席を見つけるためにうろうろしていると、大学一年生の時のドイツ語のクラスのメンバーを数人見つけ、彼らが真剣に勉強している様子が目に入った。彼らには声をかけることはなく、唯一一人だけ、後に弁護士になった友人に声をかけ、どこか席が空いていそうな場所はないかを尋ねたところ、もう少し奥の方に行けば見つかるかもしれないと教えてくれたので、さらに奥に進んでいくことにした。すると、1席ほど席が空いているように思えたので座ろうとすると、机の上に数冊の小説が置かれていて、そこもまた誰かに確保されているのだと思った。ちょうどその席を確保していた女性がやって来て、少し申し訳なさそうにそこが彼女の席であることを雰囲気から漂わせていた。彼女は特に何も言わなかったが、そこが彼女の席であることはすぐにわかったので、彼女に会釈をしてさらに奥に向かうことにした。そうすると、ようやく1つ完全に空いている席があったのでそこに腰掛けた。しかし、図書館の奥に相当来てしまったなと思った。いまだかつて来たことのないぐらいに奥まったところで、そこは古い書物ばかりが置かれた場所だった。なので、決して悪い香りではないが、古書のカビ臭い香りが辺りに漂っていた。そんな環境の中でいざテキストを開こうと思ったら、もう午後5時を過ぎていて、夕食の時間かと思った。自分はいつも比較的早い夕食を摂ることによって早めの就寝を心掛けている。試験勉強で図書館に訪れたからと言ってそのリズムを崩したくはなかったので、その場で軽食を食べることにした。本来は図書館では飲食は禁止だが、軽食程度であれば暗黙的に認められていたので、持参した軽食を食べてから勉強に取り掛かろうと思った。軽食を食べ始めたところ、その席は4人掛けの席で向こう側に2人の女性が、そして自分の右横に1人の女性が腰掛けた。その3人はどうやら中国人の留学生のようで、3人は中国語で話を始めた。自分はまだ勉強を開始したわけではなく軽食を食べている段階だったが、彼らの話し声が気になったので、特に一番声量の大きかった対角線上に座っている女性に向かって、「シ~」と述べた。その表現は万国共通のようで、彼女はその意味を理解し、黙った。そこからは3人は静かになり、自分も軽食を食べ終えたのでいざ勉強を始めようと思ったところ、図書館で勉強するのは他者の存在が気になったり、思わぬノイズがあったりと、集中して自分の世界に入るのには相応しくないと思ったので、早々と図書館を出ることにした。結局図書館に来たのは軽食を食べるためだけだったのかと自分でも思わず笑ってしまいそうになったが、図書館が自分にとっての最適な学習場所ではなく、自宅こそが最も落ち着いて、尚且つ集中して勉強できる場所なのだと再確認できたことは収穫かと思った。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/1/14(日)05:08


11850. ダイモーンの覚醒と憑依/記憶の保存場所


時刻は午前5時を迎えた。今、パソコンから流れてくる自然の音の優しいBGMが聞こえて来る。そして、淹れたてのコーヒーの良い香りが辺りに充満している。それは至福さをもたらしてくれる。そんな中でふと、今朝方の夢についていつものように先ほど振り返っていたことを含め、毎日夢日記を執筆することや、日々絶えず学術書の読解に勤しむ自分とそこから得られた考察をまた日記にしたためる自分は、間違いなく創造的霊としてのダイモーンに取り憑かれているのだと思った。それはもはや自分に完全に憑依し、自分は己のダイモーンとして日々を過ごしているようなのだ。本日行うシロシビン・セッションもまたダイモーンとしての自己の要求事項であり、ダイモーンとしての自己がそれを自分に導いていると言える。自らの存在がこうして己のダイモーンと化してみると、無限の活動力が内奥から湧き上がって来るのを感じる。それは身体的な感覚でもあり、霊的な感覚でもある。いずれにせよ、自分はダイモーンの導きと、ダイモーンの力を借りて、日々の学習・実践活動に勤しんでいるのだということがありありとわかって来る。ダイモーンは時にその人の人生を破壊しかねないほどに強力な存在であるがゆえに、安易にダイモーンを目覚めさせるべきではないと思うが、少なくとも自分はダイモーンの目覚めとその憑依、そしてダイモーンとの合一を大いに喜びたい。


先ほどいつものようにバーナード・カストラップの対談動画をコーヒーを淹れながら視聴していたところ、カストラップの対談相手を務めていたアメリカの生物学者のマイケル・レヴィンが興味深いことを述べていた。何やら、イモムシからサナギになり、サナギから蝶へに変容していく過程の中で、身体構造がガラリと変わってもその個体の中で記憶がちゃんと保存されているとのことだった。そこからも記憶そのものは物理世界には保存されていない可能性が見えて来る。確かに記憶は、脳や身体と相関関係があり、記憶は脳や身体に刻み込まれているように思えるが、記憶そのものの保存場所は物理世界ではなく、意識世界にあるのではないだろうか。脳も身体も記憶を映し出す装置に過ぎず、記憶そのものの本質は非物質的なものである可能性がますます高くなっていると感じられる。ここから意識哲学の研究を進めていくに際しては、記憶もまた非常に重要なトピックになる。記憶もひょっとしたら本質的には意識そのもので、個別具体的な記憶の形を取ると、それは固有の記憶としての意識内容とみなせるのかもしれない。いずれにせよ、西洋の意識哲学と東洋の意識哲学の中で記憶がどのように扱われ、どのような議論が展開されているのかはつぶさに追っていきたいと思う。フローニンゲン:2024/1/14(日)05:25


11851. 東西の意識哲学との格闘/シュレーディンガーの猫について改めて考えながら


東西の意識哲学の研究は、自分の中で東西の意識哲学のそれぞれと格闘するだけではなく、両者を格闘させる観点を絶えず持っておくことが重要かと思った。両者をまずは差異化し、それぞれの固有の言語体系・用語体系を通じて理解を深めていく過程の中でそれぞれとの格闘があるが、そこからは両者の思想体系を格闘させていく形でより統合的な意識理解につなげていきたいという思いがある。おそらく時代の精神のせいなのか、自分にもこれまである種のバイアスがあったのは、例えば東洋思想、すなわち東洋の宗教を通じた意識哲学の学術書を紐解くと、そこには謎めいたサンスクリット語の英語訳や日本語訳が散りばめられていて、最初は非常に取っつきにくく、「アートマン」「ブラフマン」「非二元」「涅槃」などと聞いてもあまりピンとこなかった。さらには、そうした言葉が幾分いかがわしくも思えている自分がいた。しかし今本格的に西洋の意識哲学に関する生粋の学術書を読み込む中で見えて来たのは、実際のところの取っつきにくさと用語体系の奇異さは両者ほとんど変わらないということである。それこそ今読み進めているのは、オックスフォード大学出版から出版された“Consciousness and quantum mechanics”という書籍で、この本には量子力学の観点で意識について議論している論文が多数収められており、登場する用語のいくつかを日本語に訳してみると、「意識の破れモデル」「クオリア」「参与的実在論」など、東洋の意識哲学で登場する用語体系とほとんど変わらない馴染みにくさがあるように思える。だが、それらの用語体系に親しむことを続けていると、その用語が深層的に意味することが身体的に捉えられるようになって来ることは不思議で面白い。ここで述べたかったのは、表面上の取っつきにくさや奇異さに惑わされず、それらの用語に親しむことを続けることを通じて深層的な意味に到達することの大切さである。そこには幾分の辛抱が要求されるが、そのプロセスそのものにも楽しさがあるため、楽しんで探究を続けることが何より大事であり、理解は後からついて来るという姿勢で、常に新たな用語を楽しみながら触れ続けるということをこれからも行いたい。新たな用語を知るということは、宇宙の新たな側面を知ることに他ならず、自分の内面宇宙の新たな拡張に他ならないことを常に心に留めておこう。


そのようなことを考えた後、シュレーディンガーの猫について改めて考えていた。これはとても興味深い思考実験である。確かに、箱を開ける前の私たちには、箱の中の猫が生きているか死んでいるのかの半々の確率として存在しているように思え、実際に箱を開けて中を確認するという観察を通じて、猫が半々の確率的存在から生きているか死んでいるかの状態が決定されるというのは理解できる。しかし、猫はあくまでも観察者の表象対象なのであって、存在論的に見れば、箱の中の猫は確率的な存在でもなんでもなく、すでに状態が固定されていると考えられるのではないだろうか。ある種シュレーディンガーの猫の思考実験は前提として主観的観念主義あるいは独我論を採用しているのではないかと思えて来たのである。少なくとも客観的観念主義としての分析的観念主義を採用すれば、箱の中の猫を確率的存在として私たちが勝手に表象しているだけであり、すでに状態が確定した個体としての猫を表象することも可能であれば、猫を確率的存在として表象することの双方もまた等しく真であり、同様に概念的表象に過ぎないのではないかと思う。分析的観念主義では、全てを意識内の現象や存在と見立てるが、それは物質世界を否定するわけではない。シュレーディンガーの真意については分からないが、シュレーディンガーの猫の思考実験をもって、存在が確率的な存在であるとするだけの認識は極度に狭い表象認識のように思える。フローニンゲン:2024/1/14(日)06:31


11852. 問いの性質に自覚的であること/意識のハードプロブレム」のハードさについて   


問いの妥当性。すなわち、誤った問いを立てないことと、誤った問いに取り組まないことの大切さを思う。例えば、意識哲学において、「脳がどのように意識を生み出すのか?」という問いと取り組んでいる研究者がまだ多くいるように見受けられるが、先端的な意識哲学の議論に基づけば、もはや物質主義や物理主義に基づくこうした問いがそもそも誤ったものであることが見えて来る。すなわち筋違いの問いなのである。しかしここで忘れてはならないのは、こうした筋違いの誤った問いに取り組むことを通じて見えて来た哲学的な発見事項や脳科学の発見事項もあるため、見当違いの問いに取り組むことが一概に悪いものであるとは言えないことである。そもそも、その問いが悪いものであるかどうかは既存のパラダイムに組み込まれていると気づくのは困難であり、自らの認識のパラダイムが変化したり、当該研究分野のパラダイムがシフトしないと気づけない側面がある。後になってようやく取り組んできた問いが筋違いのものだったと気づくことが往々にしてある。きっと今自分が取り組んでいる問いの中にも筋違いのものがたくさんあるだろう。そうした問いに取り組む過程で得られることもたくさんあるであろうが、意識哲学の研究分野をさらに発展させることに貢献するという視点で見た時には、既存のパラダイムや暗黙的な前提を検証する形で、筋の良い問いを立て、それに取り組んでいきたいと思う。あるいはやるべきことは、ロイ・バスカーが社会科学の分野で行ったように、既存のパラダイムや暗黙の前提を脱構築するような問いを積極的に立ててそれに取り組む組むことだろうか。いずれにせよ、ここからは自分が取り組む問いの性質についてより注意深くありたいと思う。問いの性質が自分の学問的仕事の質を決定するように思える。それくらいに問いの質と取り組むべき問いの選定は重要である。

デイヴィッド・チャーマーズが提唱した「意識のハードプロブレム」は、なぜ、そしてどのように人間や他の生命体に主観的経験がもたらされるのかということを主たる命題にするのだが、そもそもこの問いへ答えていくことの難しさに加え、意識のハードプロブレムが深層的に指し示す意識の不思議な性質を理解することの難しさもあるように思える。それに加えて、旧態依然とした認識の枠組みを持っている人にこの問題の難しさや重要性を説明することもまだ困難であるという意味でのハードさもあるように思える。「意識のハードプロブレム」は、色々な意味でハードな問題なのだとつくづく思う。


今のところ自分は汎心論からは少し距離を取っている。量子を含めた物質が現象学的な体験や主観的な体験をしているかはやはり疑わしく、そこにあるのは人間の意識が表象する客観的な運動があるだけなのではないかと思えて来ている。物質の内面領域というのは、そうした運動を促す力や働きのことを指しており、人間のような現象学的な体験や主観的な体験を物質がしているとは考えにくい。客観的な存在を超えて主観的な存在となって主観的体験を積むというのは、こちら側から世界を見る、あるいは世界を体験するということが求められ、それこそ量子がこちら側を見ていたり、スマホがこちら側を見ているということは果たしてあり得るのだろうか。今のところはその可能性はほとんど低いように思え、量子もスマホも私たちから見られる存在として存在しているのではないかと思う。今日のシロシビン・セッションでもそうだが、ここからのサイケデリック実践において、物質もまた現象学的な体験や主観的な体験をするのかどうかを検証する手がかりを得たいと思う。それにつながる直感的知覚体験を得たいと思う。フローニンゲン:2024/1/14(日)06:57


11853. クオリアの問題と意識と言葉/

意識研究における一人称的・二人称的アプローチの重要性 


赤が赤であるというその主観的感覚、甘さが甘さであるというその主観的感覚。そうしたものを西洋の意識哲学では「クオリア」と表現するが、東洋の意識哲学ではどのような呼び名になっているのだろうかと気になる。そこから名付けと主観的体験の連動について考えていた。きっと意識のハードプロブレムの解決にあたっては、意識と言葉の関係性についても考慮に入れなければならないだろう。その時に、井筒俊彦先生の精緻な言語哲学はきっと大きな力を貸してくれるだろうと展望が開ける。


赤いという感覚が先にあって「赤」という名付けがなされたのか、その名付けが先にあって赤いという体験がもたされたのかは鶏と卵の問題につながるように思えるが、おそらくは感覚と言葉は同時に生起したのではないかと思われる。感覚には最初から言葉の種子が宿っており、言葉にも絶えず感覚の種子が宿っていて、それらはどちらが先という問題ではなく、感覚と言葉は同時にこの世界に立ち現れるものなのではないかと思う。これは言葉の形而上学的な側面に踏み込んでいく話題かもしれない。言葉と主観的体験、言葉と意識そのものの関係性についてここからじっくりと考察を深めていこう。


哲学的探究を通じて、問いの立て方を学び、筋の良い良質な問いがどのようなものなのかを学んでいるような気がする。良質な問いを見極める目を養い、良質な問いを立てる立て方を学んでいきながら、意識哲学の仕事に邁進していきたい。そのプロセスを通じて、当該研究分野の筋違いの問いの方向性を正すことにもつながって来るかもしれない。ロイ・バスカーが述べるように、哲学の研究分野だけではなく、いかなる学問分野においても、日常の会話においても、まるで埃のような、あるいはゴミのような問いが存在することには注意深くあるべきであるし、それらを整理・掃除しながら真理に向かっていく姿勢を持ちたいものである。


そのようなことを思いながら、早速筋の良し悪しを問わない問いが浮上した。結局問いというのは本質的に、その人にとっては良し悪しの価値判断を超えて、まるで問いに取り憑かれたかのようにして生じる不可避の生理的・精神的現象なのだろう。浮上した問いは意識哲学的においては古典的な、なぜ自分が自分であって他の人ではないのか、というものだった。この問いの「なぜ」の部分に答えるのは難しいが、「どのように」であれば何かしらの答えが得られるかもしれないし、問いに取り組む価値があるように思えた。自分は何者でもあり得たはずなのに、なぜ別の他者ではなく自分であったかを考えることは、なぜ自分が生まれて来たのかを考えることと同じぐらいに難しい。そしてこの問いへの答えは如何様にも検証ができないように思えて来るため、なぜに答えることは保留している。しかし、どのようにして自分が自分であって、他者ではないのかというのは、直接体験の性質を紐解いていけば回答が自ずからこれまた直接体験的に得られるのではないかと思う。すなわちここでの検証方法は、科学的な三人称的なものではなく、一人称的なものであり、同様の直接体験を伴う実験を行った他者とその問いに基づく対話をするという二人称的なものが有力である。意識研究においては、もちろん科学的な三人称的な検証方法を採用することも重要だが、科学優位のフラットランド化されたこの現代社会においては、問いの検証方法や知の確立が科学的方法にしかないと思われがちだが、それは完全に誤りであり、視野狭窄である。とりわけ意識については、それが主観的な性質を本質として持っているがゆえに、科学的な方法だけではなく、直接体験を通じた一人称的なアプローチと、対話や共通体験を通じた間主観的な二人称的なアプローチを必ず採用しなければならないと思う。それらのアプローチの重要性を訴えていくこともまた自分に課せられた役割なのかもしれない。フローニンゲン:2024/1/14(日)07:29


11854. 第24回シロシビン・セッションの振り返り(その1)   

 

時刻は午後4時を迎えた。午前10時前から開始した、第24回のシロシビン・セッションを今、文章を書きながらゆっくり終えようと思っている。少しずつ言葉を紡ぎ出すことを通じて、ゆっくりと地に足を着けていこう。焦ることなく、ゆっくりと言葉を置いていくようにして、心と精神を地上に着陸させよう。サイケデリック・セッションにおいては離陸と着陸に何か重要な鍵があるような気がしている。今この瞬間は、最後の着陸のフェーズである。

毎回のセッションは確かに1つ1つ独立していながらも、それは必ず繋がりのあるもので、決して完全に独立などしていない。それらは相互依存の関係があり、お互いがお互いに影響を与え合っている。前回のセッションは今回のセッションに影響を与え、今回のセッションは次回のセッションに影響を与えている。その因果の方向性だけではなく、未来のセッションが今のセッションに影響を与え、過去のセッションにも影響を与えているということにも気づかなければならない。


前回のセッションは、人間がこのような体験をすることが可能なのかとこちらが驚かされるぐらいの深い非二元的体験が得られ、ある意味セッションの最初から最後まで至福として自己が存在していたように思う。自己が完全に至福と化し、至福との非二元の状態で時の流れぬ時を過ごすという幸運を得た。ひるがえって今日のセッションは、相当なまでに過酷であった。こんなに落差があるものなのかと思ってしまうぐらいに、とりわけ今日のセッションの前半の途中からしばらくは過酷な時間が続いた。“mind-manifesting”あるいは“soul-manifesting”とは本当によく言ったもので、こちらの事前の意図とは全く異なる形で、向き合わなければならない種々の課題を突きつけられたかのようであった。それらはいずれも学術研究上の課題などでは決してなく、自分の自我の問題であった。ここ最近のセッションでは、自我の問題に関するテーマはほとんど浮上して来ていなかったので、今回はそのギャップに驚かされた次第である。逆に、自分の自我がまだ隠蔽している種々の問題に改めて気づかされたし、それに伴って向き合わなければならないシャドーにも光が当てられた形になった。とにかく自我の問題とシャドーの問題がいくつも無限連鎖的に顕現して来た時には面を喰らいそうになり、自己が押し潰されそうになった。その過酷さがあったことがまずもって印象に残っている。


しかしそこから得られた最大の収穫は、トランスパーソナルな問題解決方法であった。それは至ってシンプルで、問題を解こうとしては決してダメであり、問題になればいいというだけのことであった。文字通り、「問題になる」のである。自己を完全なまでに100%完全に問題と重ね合わせ、同一化した瞬間に、なんと自然と問題が解決してしまうのだということに気づいた。そう、問題というのは二元的状態であるから問題のまま存在しているのであって、自己が問題と非二元的に同一化してしまえば、問題の方が勝手に自然消滅するのである。問題が再び非二元の世界に溶け還るという表現が一番しっくり来るだろう。いずれにせよ、問題は発見した時に問題が解けているというのはなかなか言い得て妙であって、さらに付け足すのであれば、問題を発見し、問題を決して解こうとしてはならず、問題と完全に同一化することができた瞬間に、その問題は自然と解決されているという表現がより正しい。そんな発見があった。フローニンゲン:2024/1/14(日)16:27


11855. 第24回シロシビン・セッションの振り返り(その2)     

 

自我の肥大化と意識の拡張が相まってか、今日もまた今日もまた奇妙な数字が降って来た。それはIQが20,000になるという感覚だった。巷ではIQの上限値が200ぐらいで語られていることが多いように思うが、セッションの最中で得られた全脳的な活性化――実際のところシロシビンは、デフォルト・モード・ネットワークを司る部位の活動を休める働きがある――は、IQ20,000を示そうとしていた。そして、それに絶えうる身体を自分が持っているのかどうか、そして身体を活用してそのIQを具現化した脳を活用することができるのかを問われる瞬間があり、それもまた過酷であった。結局、IQ20,000の状態というのは、一時的な変性意識状態下での現象に過ぎず、それを平常の意識状態で維持することはもちろんできない。そのように思っていたが、実際のところはそれが可能で、それを可能にしなければならないと自らのダイモーンに要求されたことが本当にしんどかった。正直なところ、今の自分の身体の器ではまだまだそれが可能ではなく、自分は決して自らの脳の本当の潜在能力を発揮していないということが如実に明らかになった。とにかく今日のセッションは赤裸々過ぎた。自分の諸々の至らなさを丸裸にされた感じである。逆にそれが生まれ変わりを後押ししていたことは確かだが、流石にあれほどまでに過剰に至らなさを指摘されると、精神が崩壊しそうであった。事実今回はかなり危ない橋を渡りそうになった。途中で完全に「加藤洋平」と“Yohei Kato”というアイデンティティが滅却しそうになる瞬間があったのである。ここがまた自分の至らなさで本当に辛いのは、その瞬間の自分は自らのアイデンティティを完全に滅却することが出来なかったのである。今冷静に考えれば、自分のアイデンティティなどもまた記憶とナラティブで出来た構成概念であり、仮の空的存在なのだ。自分はそんな空的なものに執着し、手放すことを極度に恐れたのである。あの恐怖は、実存的恐怖のかなり深いものなのではないかと思う。なぜあの時の自分は自分であることに固執し、これまで自分だと思って来たその仮像としての自分を滅却できなかったのだろうか。それができなかった自分の器の小ささを嫌というほどに突きつけられた瞬間だった。


自分のダイモーンはさらに追い討ちを掛けて来た。自分が自らの虚構的アイデンティティを手放すことが出来ないと見るや否や、過去の人生の全ての自らの至らなかった瞬間をことごとく見せて来たのである。脳裏に浮かぶそれらの全ての瞬間に、自分の至らなさが具現化されていて、それを目撃するのは辛かったが、目撃者の状態でずっと目撃し続けるしか手はなかった。それは本当にしんどい時間だった。そんなしんどい時間の中で、途中で目を開けることも何回もあり、トイレに行くことも何度もあった。そうした形でなおもまだダイモーンが自らの至らなさを集めた人生のシーンを次々と見せて来ることが続いたが、ずっと目撃し続けることに耐えていると、自然と嵐のような時間は去った。そこからはセッションの後半に入り、ようやく平穏な状態で気づきを得ていく時間が始まった。直近の数回のセッションとは打って変わり、今回は宇宙的な体験というのは全くなく、物理宇宙を知覚するようなことはほとんどなかった。その代わりに自我の問題と、脳の潜在能力と自らの身体の器の鍛錬の重要性などを改めて突きつけられる体験が印象に残っている。フローニンゲン:2024/1/14(日)16:45


11856. 第24回シロシビン・セッションの振り返り(その3)

 

嵐のような過酷さを伴う今日のセッションを振り返っていると、そろそろ夕食の時間が近づいて来ていることに気づいた。まだ言葉が覚束ず、もう少し時間をかけてグラウンディングした方が良さそうである。着陸は本当に難しい。飛行機でも離陸よりも着陸の方が圧倒的に難しいと聞くが、サイケデリックセッションにおいてもまさにそうである。とりわけサイケデリック・セッションにおいては、通常とはかけ離れた意識状態に飛び立ち、そこで種々の特殊な知覚体験をするがゆえに、尚更着陸が難しいのだと思う。その分、この着陸を丁寧に行うことが重要であり、着陸をきちんと果たすことが出来たらその分の実りは大きい。


セッションの途中であまりにも過酷な体験が続いた時に、20年以上の月日をかけて厳格なLSDセッションを70回以上自らに課していたクリストファー・ベイシュ教授の言葉を思い出した。ベイシュ教授のセッションの体験記を読むと、そこでは宇宙的なトランスパーソナルな体験をするセッションが続くフェーズがある一方で、集中的に集合意識のトラウマや痛みと向き合うような過酷なセッションが続くフェーズがあることが窺える。自分もまた似たような体験パターンを辿っていると思わされた次第である。


毎回セッションをして思うのだが、突きつけられる真理や課題がどれほど過酷で残酷であっても、最終的には自分の器が耐えられるものを開示してくれているのだと思う。とても印象的だったのは、今の自分の知性や能力では決して入ってはならない意識領域があるようで、そこに自分がふらりと入りそうになると、完全に拒絶される瞬間が何度かあったことである。意識空間上でそうした拒絶をはっきりと知覚したし、脳としても拒絶の瞬間には脳の運動がまるっきり変わることを体験した。それを見て、改めて意識の階層構造の奥深さを思ったし、逆に意識の階層構造の奥の奥の深淵にあるものの巨大さと強力さを思って恐ろしくもなった。ここ最近のセッションでは恐怖感を抱くことなどほとんどなかったのだが、そうした自己の傲慢さを完全に覆すかのような意識の無限に奥深い側面を突きつけられる形となった。ハッキリ言って、意識の深層にうかつに侵入することは本当に危ない。幸か不幸か、そこには結界のようなものが確実に存在していて、安易に自己ないし魂が迷い込まないようにしてくれているようなのだが、仮にその結界を超えたら本当にどうなるかわからない。下手をすると魂が死んでしまうのではないかと思う。ここで非常に難しいのは、魂もまた仮なる空的存在だと見做せば、魂の死すら恐れることはないと捉えることもできるが、そうした認知に基づいて結界を超えていくのは本当に魂の器がたくましくなってからでないと危険であると痛感した次第だ。意識を研究していると軽々しく述べていた自分が本当に情けなく、意識の「い」の字もわかっていないことが突きつけられる体験をさせてくれたことには感謝しなければならない。「結界」というのは比喩的な表現であり、自分の認識空間に芽生えた実在的概念および実在的現象に過ぎないかもしれないが、それが語る真実には虚心坦懐に耳を傾けていきたいと思う。意識について知れば知るだけ、自分は危ない世界に足を踏み入れているのだということをもっと自覚しなければならない。その自覚がない者は頓馬であり、必ず結界付近で怪我をするか、下手をすると死ぬ。その点をしっかり弁えて意識の研究に従事していかなければならない。フローニンゲン:2024/1/14(日)17:04


11857. 第24回シロシビン・セッションの振り返り(その4)


つい今し方、夕食を摂り終えた。毎回思うのだが、シロシビン・セッション後の夕食は本当に美味い。天晴れの一言である。それもそのはずで、昨日の夜から何も食べない形で1日ファスティングを実践する形式でシロシビン・セッションをするからである。正式な夕食の前にいつも昼食として食べるリンゴ1個とバナナを1本食べた。それがまた美味で、そこから夕食を摂った。夕食は基本的に毎日大豆製品と野菜しか食べていない。豆腐と納豆を和えたもので相当なタンパク質が取れており、野菜もタンパク質が多いブロッコリーを欠かさず食べている。それ以外にも緑黄色野菜あり、紫キャベツありと、栄養バランスは優れている。

今日のセッションの最中でも改めて実感したのだが、とにかく重要なのは腸である。脳も活動において重要なのだが、その脳と密接に関係している腸が大事なのだ。人間の身体の中で唯一フローラを持っているのが腸なのではないかと思う。脳を含め、その他の臓器であれだけ多様な微生物が生息している場所は腸以外にないだろう。腸は身体の中のミクロコスモスかつマクロコスモスなのだ。そのコスモスの性質がどうかが自分の身体を超えたコスモスとどこまで広く深く繋がれるかを決定する。これは誇張でもなんでもなく、腸を労わり、腸内環境を育みながらサイケデリック・セッションを実践すれば誰しもにわかることである。一歩譲ってサイケデリック実践をしない場合においても、とにかく腸は大切にするべきかと思う。今日は確かに過酷な真実と体験を突きつけられるセッションだったが、最後に自分の防波堤になっていたのは、胆力ある腸の存在だったかと思う。腸に救われる形で自分は危ない橋を渡ることなく生還できたし、進むべきところまで進むことが出来た。前回のセッションは自らの肉体の死を微塵も惜しくない形で体験に自己を完全に明け渡している自分がいて、それが功を奏してか涅槃的三昧の境地に長くいたが、今日は肉体の命への執着があった。こうした生への執着を手放したり、生へ固執する行ったり来たりする自分がまだいる。この辺りにも自分のこれからの課題を見る。


セッション後の夕食ほどにグラウンディングさせてくれるものは他にないように思える。確かに文章を綴ることによってある程度のグラウンディングが出来たが、それは十分ではなく、ゆっくりと食事を味わいながら、時間を過ごすことが最良の着陸実践なのではないかと実感した次第である。今のところ太陽のエネルギーや空気だけで生活する「ブレサリアン」になる予定はないのは、食事を通じて大事につながる感覚があるからだ。今後どうなるかはわからないが、当面は大豆と野菜を中心にしたヴィーガンで留まる予定である。


食事を一口一口良く噛んで、それを味わうことで、自分は食物と非二元の関係を結ぶ。それが胃に運ばれ、そして腸のフローラを形成する。自分の身体のコスモスを作る責任は自らにある。何を選択して飲み食いするか。自分の内側のコスモスを美しく作れないものに世界を美化などすることができるだろうか。自分はそう思わない。いずれにせよ、今夜の夕食にも感謝の念を捧げながら、食物との深い繋がりを通じてようやく着陸できたことを有り難く思う。フローニンゲン:2024/1/14(日)19:01


11858. 第24回シロシビン・セッションの振り返り(その5) 


今日のセッションの振り返りは止むことを知らない。今日は自分のうちなるダイモーンに相当に鍛えられた感じがしたが、今こうして文章を綴っている自分は完全にそのダイモーンに全てを明け渡している。ダイモーンとの関係性の構築はなかなかに難しい。こちらが何か小賢しい画策をしてはならないことを思う。ダイモーンは常に自分よりも遥かに偉大な存在なのだ。ダイモーンに服従しながら、同時に自らがダイモーンであることを忘れないようにする。


セッション中に降りかかった実体的・実効的意味を特に持たないIQ20,000という知覚体験をした時に、そうした高度な知性をどのように活用するかが本当に重要であると思った。そうした高度な知性は必ず、自己を含めたこの世界のために活用しなければならないと即座に思ったのを覚えている。IQ20,000でもこの社会や宇宙の複雑な問題を解くのはほぼ不可能である。それくらいにその程度の知性では、この社会や宇宙の複雑な問題を解くことはできない。しかしそうであっても、問題の解決を諦めない。決して諦めない自分がいる。複雑な問題の解決に向けて、自分にできることがあれば、それが微々たるものであったとしても協力をしていく。結局この社会と宇宙は問題だらけであり、ある意味リアリティは問題で構築されているのではないかと思えてしまうが――実際には、きっと純粋意識と普遍意識がなんと問題を生み出していることが見えてくる。いや、厳密には純粋意識の下位の個人的意識がそれを問題だと錯覚してしまうのだろう。問題はどこまで行っても二元的なものであり、非二元の純粋意識や普遍意識がそれを生み出しているといよりも、やはり二元的な性質を持った個的意識・集合意識が問題を生むのだろう――、それでも麻痺することなく、臆することなく問題の解決に乗り出していく。それはある意味終わりのない無謀な行為であり、自殺行為に等しいが、自らの命を賭してでもそれを行う。行い続ける。自分の命は本来そうした形で燃やされるべきものである。命をどのように活用するかの責任は自分にあり、自分はこのリアリティに遍満する難問の解決に向かっていく。サイケデリクスの研究や意識哲学の研究、そしてサイケデリック実践を含めたその他諸々の実践も全て究極的には命を賭した問題解決のためにある。


無数に存在する問題の中で自分が解くべき問題は何なのかを考えることが重要である。それは本当に自分が解くべき問題なのかの検討は要必要である。自分よりもその問題の解決が得意な人にはそれを任せ、自分よりも適任な人にどんどんと問題解決を委譲しながら、自分が命を賭して解くべき問題を見極めてその解決に向かっていく。まさか問題解決が命懸けになるなんて思ってもみなかったことである。逆に言えば、これまでの問題解決実践はなんだったのかと思う。それらは全部茶番だったのだろう。自分がやるべきではない問題解決に本当に長く従事してきたものだと思わされる。今日のダイモーンから突きつけられた諸々の事柄は本当に辛くしんどく、打ちのめされそうになったが、逆に問題解決が命懸けのものであり、自らの命を賭して解くべき問題が存在することを教えてもらったことは貴重なことであった。そして何より、解くべきだと思った問題を発見したら、その都度問題と一体化することが重要であると教えられたことは最大の収穫であった。それこそがトランスパーソナルな本質的問題解決であると突きつけられ、実際にそれをデモンストレーションするかのような直接体験を何度か得たことは非常に大きな意味を持つ。フローニンゲン:2024/1/14(日)19:14


11859. 第24回シロシビン・セッションの振り返り(その6)   

   

今日のセッションの終わり頃に、伝統を受け継ぎ、それを引き継いでいく覚悟をもたらす洞察が得られた。ゴーダマ・シッダッータ、竜樹(ナーガールジュナ)、シャンカラ、弥勒(マイトレーヤ)、無著(アサンガ)、世親(ヴァスバンドゥ)といった自分が尊敬する仏教・ヒンドゥー教の碩学者たちは、きっとカンナビスのみならず、何かしらのサイケデリクスを摂取していたであろう。当時のインドのエリート学者でサイケデリクスと無縁の人はきっといないはずである。古代ギリシャに目を移すと、ソクラテス、プラトン、アリストテレスらが参加していたエレウシスの秘儀において、そこではおそらく麦角菌と推定されるサイケデリクスの摂取が行われていた。そこから西洋においては、ショーペンハウアー、ニーチェ、ウィリアム・ジェイムズ、ベルグソンといった名だたる思想家がサイケデリック実践を通じて思想を深めていった。上述の東洋思想の名だたる思想家に続く形でサイケデリック実践を続ける形で思想を深めていった思想家としてどのような人物がいるだろうか。シュリ・オーロビンドなどの名前が浮かぶ。いずれにせよ、過去の偉大なサイケデリック学者たちの実践と叡智の伝統を途絶えさせないために、それを受け継ぎ、それを引き継ぎながら誰かにまた受け渡すこと。それが自分の使命の1つであり、自分なそんな単なる中継者なのである。あくまでも中継ぎを任された人間としてこれからの人生を送っていく。


何度も繰り返し述べるが、意識研究は本当に危ない側面がある。死を覚悟して研究に当たらなければならない。今日のセッションの中で明々白々な直接的知覚体験として感じられたあの結界現象は本当に印象的だった。自分は完全に弾かれた。今の自分には入ることを全く許されない未知なる結界の先の世界があることをまざまざと見せつけられた。この結界はおそらく哲学だとか科学だとかの範疇では語ることのできないものだと思われる。それこそ霊学が必要である。また難題を突きつけられたものである。意識空間の階層構造の奥の奥に結界があるというのは、これまでの霊学文献の中であまり明確な記述はなかったように思う。いや、どこかでそんな記述を見たことがあるような気がしないでもないが、当時の自分はそんなことを気にもしていなかったのだろう。しかしながら、結界を匂わす記述とどこかで出会っていたような気がするという潜在記憶があるのは確かだ。今の自分の自己の器の成熟度合い、学識、知的体力を総合的に考えた場合、今日遭遇した結界の中に入ったら間違いなく死ぬ。おそらく即死だろうと思われる。守護霊としか思えないような存在の導きがあって、自分はその結界の中に入らなくてすんだ。あの結界のことはここからしばらくはずっと脳裏から離れないだろうし、存在の奥底から離れることはないだろう。ここからまた出直すことを覚悟で探究と実践に全身全霊打ち込み、命を懸ける覚悟であの結界の向こう側に行ってみる。必ず行く。フローニンゲン:2024/1/14(日)19:31


11860. 第24回シロシビン・セッションの振り返り(その7)


本当に笑えてくるのだが、この2週間だけではないが、少なくとも前回のセッションから今日にかけての2週間は、生粋の学術書を徹底的に読み込む形で意識哲学の研究をしていたのだが、今日のセッションでは意識哲学に関するめぼしい洞察は何も得られなかったように思う。印象的だったのは、意識そのものについて洞察を得ようとする前に、お前は意識の機能と内容物についてもっと知れと言われる形で邪険に弾き出されたことである。意識そのものという抽象度合いが極めて高いテーマについて何か得られることがあるだろうと期待して臨んだセッションは、無残にもその期待通りにはならず、期待はいとも簡単に打ち破られ、お前にはもっと向き合うべきことがあると言われたようなセッションであった。これまでのセッションでは大いなる前進を毎回感じていたが、今回は振り出しに戻された形である。しかしそれは、前進があっての後退であるから、全然意味合いが違うことは確かである。発達とは本当に紆余曲折を経てしか実現しないのだと改めて思う。前進があり、後退があるのが当たり前なのだ。絶えず前進できることほどに物事はうまく進まない。


それともう1つ印象的だったのは、意味のない数字として浮かんできたIQ20,000という感覚が得られるその前後に、自分の脳が量子コンピューター並みの速度と処理能力で動き始めた体験であった。きっと人間の脳は本来量子コンピューターにある意味では負けないような性能が備わっているのではないかと思う。いずれにせよ、これまでの自分の脳がニュートン力学的なものだったとすれば、間違いなく量子力学的なものに次元が引き上げられた感覚が伴う直接体験があった。果たして明日から自分の脳がどのように動き始めるのかには注目している。もちろん脳はタスク依存性と文脈依存性を持つので、仮に脳が本当に量子コンピューター並みにアップグレードされていたとしても、課題と文脈によってそれは宝の持ち腐れになるだろう。少なくとも学術研究においてはできるだけ高度な問題に取り組みたいと思う。そう考えると、今日のセッションではまだ早いと言われた意識そのものと普遍意識についての研究は最適かと思う。今日のセッションではその問題に触れることから蹴り出されたが、それにめげることなく、自分はその問題に命懸けで取り組む。他のことには脇目をふらず、一心不乱に学術研究に打ち込み、そこで得られた知見を世の中に共有し、然るべき協働者と協働をしてこの世界の問題の解決に乗り出していく。


あぁ、何度思い出しても今日のセッションは過酷であった。実存的・霊的に過酷であったし、知的にも過酷であった。唯一ついていけていたのは自分の身体だけである。自分は肉体馬鹿なのだろうか。そうとしか思えないぐらいに身体より上の上部構造であるマインドやソウルはまだまだのようであった。知性を磨き、魂を磨かなければならない。磨く、磨かないの次元にないスピリットに申し訳ないし、日頃から節制・摂生・鍛錬を課している肉体にも申し訳ない。自分の知性と魂のここからの一念発起に期待する。フローニンゲン:2024/1/14(日)19:46


11861. 第24回シロシビン・セッションの振り返り(その8)      


今日のセッションの振り返りはそろそろ最後にしようかと思う。振り返りは本当にキリが無く、逆に言えば焦ってそれを進めるよりも、セッションから一夜が明けた明日からまたコツコツと進めていけばいいのである。内を省みるという意味での内省をしない限り、そしてそれを言葉を足掛かりにして、言葉を1つ1つ置きながら進めない限り、内面宇宙など微塵もわかりようがないことを弁えるべきである。


そもそも今日のセッションは予定より少し早く始めた。午前9時半を迎えた頃から読書の手を止めて準備に入った。そして、シロシビン・マッシュルームを摂取し終えたのは、09:55であったということが記録からわかる。摂取量は、完全乾燥させたシロシビン・マッシュルームを5.5gほどだった。それをまな板で刻み、カカオヘンプドリンクに合えて、よく噛んで舌下からシロシビンを吸収することを意識しながら摂取した。前回と同様に、味に関しては申し分なく、効力も狙い通りのものだったのだが、セッションで取り組みたい課題とは全く関係のない盲点になっていた、まさにシャドーというべき課題が吹き荒れる形での激しいセッションだった。とりわけ前半の途中からが最も過酷で、それを抜けて凪の状態に入るまでは本当にしんどかった。シャーマンズムの図式で言えば、まさに今回はどっぷりアンダーワールドに引きずり込まれた形になる。むしろこれまでのセッションがアッパーワールドの体験ばかりだったので、そちらの方が不自然だったのではないかと思えてくる。そうした意味でまさに今日のセッションは、“the psilocybin session”あるいは“the psychedelic session”と冠詞の“the”を付けるにふさわしい体験内容だったように思う。


最後に改めて、意識を探究するに際しては、本当に命を懸ける必要があるということを身を持って、魂を持って学んだことは大きなことであったかと思う。命がけではない中途半端な間抜けな探究は断固として避ける。魂を賭けた、魂の籠もった探究をしていく。そうでなければならない。それは自分なりの探究規範である。「なければならない」というべき論は次元があるので注意が必要だが、べき論は避けるべきであるという遂行矛盾的な頓馬にならないようにしなければならない。


兎に角、命を賭けて探究する覚悟がないと知り得ぬ事柄があることが如実に開示されたことは大きな意味を持つ。知的探究空間内に、「死の覚悟がない者、入るべからず」という門が間違いなく存在していたのである。そしてその門はきっとそこから何重にも続いていくのだろう。それだけ過酷で果てしない道を歩んでいくことを覚悟しながらも、その道にアフォードされて自然と歩んでいる自分が歴然として存在している。合理的・理性的に考えてみれば、意味がわからない。だが、超合理的・超理性的に考えてみれば、それは当たり前の行為である。アフォードに従うだけなのだ。魂にアフォードされてくるものに純粋に従うこと。それが意識の本質にある純粋意識の特性であり、それこそが純粋意識が体現された探究実践道の歩み方である。自分にとってはそれ以外に歩き方はない。確たる己の唯一の道を見出せたことに深く感謝して、就寝準備に取り掛かりたい。フローニンゲン:2024/1/14(日)20:07

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