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【サイケデリック学探究記】11838-11845:2024年1月13日(土)



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タイトル一覧

11838. 意識哲学の探究上において注目したインド哲学

11839. 今朝方の夢

11840. 今朝方の夢の続き

11841. 意識と脳の関係性について

11842. 意識の脳への着装現象について/今朝方の夢のさらなる続き

11843. 意識研究における自らの主義の変遷を眺めて

11844. 自由意志と意識/インド哲学とサイケデリクス

11845. インド訪問への思い/サンスクリット語の学習意欲の高まり/東西の意識哲学の往復運動


11838. 意識哲学の探究上において注目したインド哲学 


時刻は午前3時半を迎えた。今の気温は2度で、今日の最低気温となるが、この気温でも本当に暖かさを感じる。先日のようにマイナス8度ぐらいまで下がっている時には、室内に暖房がかかっても底冷えするような感じがしたが、それと比べれば10度も外気が高いので、室内にいてもその違いを感じる。外気がマイナスの時には室温も18度まで下がる時があったが、今は21度なのでとても快適である。これくらいの温度がとてもちょうど良く、21度ぐらいであれば湯たんぽを必要とすることもさほどない。今日の日中も5度まで気温が上がるようなので何よりである。ここからしばらくは、最低気温がマイナスになったとしてもマイナス1度や2度ぐらいなので、室内の気温が落ちすぎるということはないと思われる。テクノロジーの恩恵を借りながら、暖房の働きに感謝して、できるだけ快適に過ごしたいものである。


昨日、どうやら意識哲学の難問を解く鍵は、インド哲学にありそうだということが見えてきた。特に、六派学派のうちのヴェーダーンタ学派とサーンキヤ学派の思想に注目している。どちらも過去に何度か参照することがあったし、すでにそれらの学派に触れた学術書を購入して読んでいたのだが、意識哲学の難問を解くためという意識では読んでおらず、自分が意識哲学者としての仕事に従事していくという思いで読んでみると、それらの学派が本当に重要な役割を果たすことに気づいたのである。


そもそもヴェーダーンタ学派とは、アートマン(自己の本質)とブラフマン(宇宙の本質)の究極的な同一性を説く思想で有名であり、この学派を切り開いたのはシャンカラである。個人の意識そのものと普遍意識そのものの究極的な同一性を様々な角度から説く思想は注目に値し、それ以外にも重要な思想をヴェーダーンタ学派は持っているのでそれらも参照したい。


一方のサーンキヤ学派は、かつてヨガインストラクターの資格取得を目指したコースの中で知ったものである。この学派の重要な思想は、意識と非意識の二元論を立てることである。付け加えると、この世界の根源に、精神原理であるプルシャと物質原理であるプラクリティを立てるという特徴がある。これら2つの実体原理を中心にこの世界を説明していくのがサーンキヤ学派の特徴である。前者のヴェーダーンタ学派は一元論の発想を取り、後者のサーンキヤ学派は二元論の発想を取るという違いがある。両者の思想を行ったり来たりすることによって、両者の差異を通じた意識理解がさらに深まることが期待される。現段階では、確かにアートマンとブラフマンは究極的に一致するという発想を採用しながらも同時に、この世界はプルシャの観照を通じてプラクリティが展開して生じていくという発想も採用するという立場を取っている。アートマンは個人の意識であり、ブラフマンは普遍意識であり、今のところの理解だと精神原理としてのプルシャをアートマンやブラフマンと対応させ、プラクティティを物質の原理だと見立てれば、両者はさほど矛盾なく統合できるのではないかと考えているが、この点も踏まえて2月に入ったら両学派に関する学術書の良書をいくつか求め、両者の統合の道を探りながらインド哲学を適用した意識哲学の研究に乗り出していきたいと思う。フローニンゲン:2024/1/13(土)03:59


11839. 今朝方の夢 

   

時刻は午前4時を迎えた。暖房のおかげで快適な生活が実現できていることには本当に感謝しなければならない。外部環境がどのような性質を持ったものなのかの重要性を気温という要因1つから考えさせられる。


今朝方の夢についていつものように振り返っておこう。まず1つ覚えているのは、外国のテーマパークを舞台に展開された夢である。


夢の中で私は、見慣れない外国の町の郊外にある大きなテーマパークにいた。周りには特に友人もおらず、自分はどうやら1人でこのテーマパークにやって来たようだった。しかし、テーマパーク内には友人が数名いることを知っていたので、彼らと出会えることを期待して中に入っていった。しばらくテーマパーク内を歩いていると、敷地の真ん中に異様な美術館を見つけた。そこは美術館と名乗っているが、お化け屋敷のようでもあり、何とも奇妙なアトラクションだった。おそらく美術館かつお化け屋敷の双方の役割を担っているのだろうと思って興味本位で中に入ってみることにした。どうやらそこは別途入館料が必要らしく、入り口のチケット売り場でチケットを求めた。その時に、窓口の係員の英語が聞き取りづらく、何と言っているのか少しわからない箇所があったが、それを明確にせずに適当に相槌を打ってチケットを購入した。そのチケットを持って中に入る前に後ろを振り向くと、そこにかつてサッカー日本代表で活躍していた黄金世代と呼ばれる世代の選手たちが入れ替わり立ち替わり現れた。どうやら彼らはサッカー選手を引退した後にこのテーマパークで働いているらしく、サッカー選手の仕事からテーマパークでの仕事に切り替えるというのは随分と大きなキャリアチェンジだなと思って、しばらく彼らの仕事の様子を眺めていた。すると、彼らは一様に仕事熱心で、真剣に働いている様子が伝わって来て好感を持てた。


そこからいざ美術館兼お化け屋敷に入館すると、どちらの要素も含まれていて興味深かった。中に入ってしばらくは誰とも合わなかったが、しばらくすると巨大なスペースに行き当たり、そこでは子供たちが遊具を使って遊んでいた。楽しそうに遊ぶ子供たちの様子を眺めながら、私は2階に進むことにした。すると突然、いつの間にかお化け屋敷の外にいて、2階以降の記憶が消失していた。もう十分とそのテーマパークを見たと思ったので、出口に向かうと、そこにもチケット売り場があり、どうやらそこで初めてテーマパークの入場料を払うのだと気づいた。確かに入り口ではチケットを購入することがなかったように思え、一般的なテーマパークとは料金の支払い方法が随分と違うなと思った。早速チケット売り場でテーマパークを楽しんだお礼として入場料を払おうとすると、先ほどの美術館で購入したチケットが何と、帰りはテーマパーク内の湖から出口までヨットで送迎されるサービスを含めて購入していたらしく、そんなサービスは必要ではないので返金してもらうことにした。チケット購入の窓口は機械での自動対応だったが、チケットボックスの向こうには人がいて、係員の男性が出て来た。その男性がとても親切に対応してくれ、その男性の背後から中南米系の女性が現れ、男性は別の客の対応に向かい、女性の係員が返金処理に対応してくれた。その女性も大変親切で、英語が聞き取りやすかったので助かったと思った。無事に返金処理を済ますことができ、その女性には深い感謝の念を伝えた。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/1/13(土)04:19


11840. 今朝方の夢の続き


今日もまた静かで穏やかな朝の世界が目の前に広がっていることを嬉しく思う。書斎の窓の外には闇しか広がっていないが、闇の平穏さに心が打たれる。光と同じぐらいにそれは自分の心を深く包んでくれている。その安心感に満たされた自分がいる。光に包まれる心地良さだけではなく、闇に包まれる心地良さを味わうことができて初めて、光と闇の外の超越世界に向かっていけるのではないかと思う。そこは光と闇の二元論的な世界ではなく、光と闇を超越した一元論的な世界である。そこでは全てが一なる存在として存在している。その世界に入る時、自分もまた一なる全体と合一することができるゆえに超越的な絶対的安心感が得られるのだと思う。光と闇を越えていくことの大切さをそこからも思う。


先ほど振り返っていた夢の世界に関して、夢にはまだ続きがある。それらについても振り返っておこう。


夢の中で私は、ウォータースライダーの出発点にいた。そこはとても高い場所にあり、そこからの眺めは確かに素晴らしかったが、今からウォータースライダーを滑っていく際にはその高さが逆に恐怖を助長するのだと思った。つべこべ言わず、そしてあれこれ考えず、物は試しということで、早速ウォータースライダーを滑ってみることにした。出発地点での加速度は低く、むしろ出発地点付近は水の流れが弱かったので、数人の人が詰まっていた。しかし、ひとたび加速度が上がり、水圧が強くなると、そこからは途轍もないスピードが出始めた。出発地点から少し進んだ所で2人の若い夫婦と会話をしたのだが、会話のきっかけは、速度が急に上がり始めた瞬間に、ウォータースライダーの端をつかもうとしたら、誤ってその夫の方の足を掴んでしまったことがきっかけだった。2人の夫婦はとても優しく、物腰も低かったので、話をしていてとても気持ちが良かった。いざ速度が上がってからは、もう話をする余裕などなく、前だけを見てウォータースライダーを滑って行った。途中で何回か傾斜が一段と激しくなる箇所があり、そのたびにスリリングな気持ちを味わった。


そのような場面の後に、まるで大学の食堂のような場所にいた場面が現れた。そこで私は昼食を食べようとしていて、食堂には小中学校時代の女性友達が働いていて、彼女が自分のために料理を作ってくれた。彼女が作ってくれた料理の中にはヴィーガンの自分には食べられないものがあったが、気持ちを込めて料理を作ってくれた場合には、出された料理をちゃんと食べるようにしているので、彼女が作ってくれたコロッケと餃子を食べた。それらを最後に食べたのはいつだったのか思い出せないぐらいに前のことで、久しぶりに食べたコロッケと餃子は彼女の気持ちが籠もっていたぶん、尚更に美味しく感じられた。全ての料理を食べ終えた後、彼女にお礼を伝えると、彼女はとても嬉しそうな笑みを浮かべた。フローニンゲン:2024/1/13(土)05:15


11841. 意識と脳の関係性について      


時刻は午前5時半を迎えた。今日もまたつい今し方モーニングコーヒーを淹れ、その仄かな香りに誘われて考え事をしていた。


昨日、個人の意識と物質の関係性を映画館の喩えを用いて説明したように思う。それについて少し補足する考えが浮かんだ。ここで述べる物質をわかりやすく脳と見立ててみよう。究極的には自分はシャンカラが説く不二一元論者なのだが、意識に立ち現れてくる存在としての物質の実在も認めている。なので意識と脳を非物質的(純粋に精神的)なものと物質的なものに分けることは一貫性を壊していないだろうと思われる。それで言えば、映画館で上映されるスクリーンそのものがまず脳であり、映画は意識の内容物であり、意識そのものは映画のコンテンツを生み出している存在である。現実世界においては、映画のコンテンツを生み出しているのは制作者であったり、コンピューターであったりと、物体的・物質的なものを連想しがちだが、私たちの意識に生成される各種の表象は、非物質的な自らの意識そのものや普遍意識から生まれると自分は考えている。この比喩からわかるのは、脳は決して各種の表象を生み出しているのではなく、意識からそれを受信する存在だということである。決して誰も映画のスクリーンそのものが映画のコンテンツを生み出しているとは思わないだろう。スクリーンはあくまでも映画を映し出す存在に過ぎないのである。実際のところの脳は背後で、意識から受信したものをスクリーンに映し出すために電気信号を脳内で送り合う働きをしている。まさにウィルバーのインテグラル理論で言うところの、物質の内と外を考えてみると、その関係性がすっきりするだろう。すなわち、鑑賞者側から見えている映像を映し出すスクリーンは脳の外側の様子で、実際にスクリーンは電気信号を受け取る働きを内側でしているのである。そうした内外の性質を持っているのが脳ではあるが、脳はどこまで言っても映像コンテンツそのものを生み出しはしない。それは意識が生み出しているのであって、スクリーンとしての脳が生み出しているのではないのだ。しかしながらここで大変興味深いのは、意識が脳に着装する現象である。もう少し言葉を付け足すと、意識がスクリーンとしての脳と関係性を結び、ある特定のコンテンツをそこに映し出すことがとても興味深い。意識はスクリーンとしての脳を欲する性質があるのか、スクリーンとしての脳が意識を呼び込む力があるのか。後者を想定してしまうと、それは汎心論的な考え方になるかと思うし、物質的な脳が非物質的な意識を呼び込むというのは少し発想に飛躍があるように思える。今のところ自分は、非物質的な意識が自らの存在顕現のために脳を必要とするというベクトルを考えたい。


このようなことを考えながら、今後さらに考えるべき点は、やはり意識が脳に着装する現象だろうかと思った。東洋の意識論を探究すればするほどに、脳が意識を生むという考え方はてんで的外れだということがわかってくるが、一応その可能性も検討するために、最先端の脳科学の調査結果は追いたい。だが、そこでなされる研究も結局は、物理主義あるいは物質主義のパラダイムの中での研究なので、大した成果はあまり望めないかもしれない。これからの意識科学に期待するのは、物理主義や物質主義のパラダイムを超えて、少なくとも汎心論や観念主義(とりわけバーナード・カストラップが提唱する分析的観念主義)の発想で研究をしてみることである。新しい発想の枠組みに基けば、研究の前提も変わるだろうし、仮説も変わり、調査方法も変わるだろう。その時に初めて意識の本質を解く鍵が科学の側からも提示されるのではないだろうか。旧態依然としたパラダイムに立脚した意識科学の研究は成果に乏しいが、科学には固有の価値と力があることは確かなので、新たなパラダイムに立脚した研究を期待したい。フローニンゲン:2024/1/13(土)05:52


11842. 意識の脳への着装現象について/今朝方の夢のさらなる続き 


それにしても意識が脳に着想する現象はとても興味深い。引き続きこの現象について考えていた。なぜ意識が物質的な脳に着想するのかについて言えば、意識そのものはそもそも非二元の性質を持っているが、意識が現実世界で機能を果たす瞬間には分化が起こり、主体と客体に別れ、主体と客体を明確なものとするために脳に着装するのではないかと思った。すなわち、意識そのものが非二元の状態というのは、ある種悟りの意識状態であり、日常生活を送る私たちは大抵そのような意識状態ではなく、通常の意識状態においては意識はあえて二元性を取って存在を保っていると言えるかもしれない。いや、その説明は正しくなく、意識そのものは何があっても絶えず非二元的なのだが、意識内容を私たちにもたらす時に脳の力が必要で、脳内に表象として世界を映し出すために意識は脳に着装するのではないだろうか。意識は、目を開けた物理世界の種々の現象をスクリーンとしての脳内に映し出し、目を閉じていてもそこで浮かび上がる想念や内的イメージとしての表象現象をスクリーンとしての脳内に映し出す。意識がなぜそのようなことを私たちにもたらすのかについては、科学では説明できないものなのかもしれない。その説明をもたらすのは哲学や宗教だろうか。科学的には、自我の存在保持のために映像が必要だと言えるかもしれないし、固有の存在である自己が自己の固有性を確証するために映像が必要だと言えるかもしれないが、夢を見ない深い眠りの世界においては映像はもはや存在せず、その時には今の説明はあまり妥当ではない。しかしそれでも個人の意識そのものは存在し続けているのである。そう考えてみると、意識そのものが存在し続けることの不思議を思う。この問題は脳死の問題や死後の世界の問題とも関係してくるであろう。


そうしたことを考えていると、今朝方の夢のさらなる続きを思い出した。そう言えば、小中高時代の親友の3人(NK & HS & YU)がサイケデリクスに関心を示し、次にシロシビン・マッシュルームを摂取するのはいつなのかを自分に尋ねて来た夢の場面もあったことを思い出した。どうやら彼らは私と一緒にそれを摂取したいようだった。彼らがサイケデリクスに対して社会的なバイアスを持っていないことを嬉しく思ったし、自分の関心領域に彼らもまた関心を示してくれたことが嬉しかった。実際に、3人のうち2人は先週末にもシロシビン・マッシュルームを摂取していたらしい。しかし、その時には調理方法がイマイチで、効果があまりなかったそうだった。なのでシロシビン・マッシュルームに関する専門知識を持っている自分の指導の下にそれを摂取したいとのことだった。私は喜んでそれを引き受け、実際に摂取する日時を決めることにした。彼らがシロシビン・マッシュルームを摂取することを通じて、生の意味や人生の意味に関して何か新しい発見を得てくれればと思ったし、自己や世界について何か1つでも気づきを得てくれればと思った。フローニンゲン:2024/1/13(土)06:04


11843. 意識研究における自らの主義の変遷を眺めて


極寒の気温が和らいだこともあり、栽培中のシロシビン・マッシュルームが再び地上から頭を出し始めてくれた。実際に昨夜にはいくつかのマッシュルームを収穫することができ、それらを今も引き続きオーブンで乾燥させている。本当にマッシュルームは気温に敏感なようで、そこに命を感じさせてくれる。


現在意識哲学の研究を日々進めていく中で、自分の思想が日毎に更新されていく姿が面白い。かつて信奉していた主義から脱却し、また新たな主義に着装し、そこから考えを深めて、次の主義に向かっていく現象が起きている。人は必ず何かしらの世界観を持っていて、世界観がなければこの世界できていけない生き物なのだ。なので意識について特定の世界観としての主義を持つのは当然のことであり、不可避なことなのだ。仮に意識研究を通じて自らの世界観を育んでいきたいのであれば、絶えず自らの世界観を客体化し、検証していく姿勢を持たねばならない。こうして自らの思想が日々変化している様子を見ると、思想の脆弱性を見る。いや、思想そのものは確かな一なるものとして常に揺るぎなく存在していながら、思想の表象現象としての主義が絶え間なく変化していく性質を持っているのだと思う。思想は確かなものとして存在しながら、同時に変化を所与とし、根幹部分での変化が表象としての主義に影響を与え、主義は変化に大きく開かれたものとして本来存在しているのだろう。ところが、多くの人はある特定の主義に固着する。これはおそらく、社会で広く流布する文化的世界観からの影響を強く受けているからだろうと思われるし、1つの特定の主義を信奉してそれを疑わないで生きる方が楽な場合が多いからだろう。主義を検証するのは手間のかかる作業であるし、ひとたび主義が変化するというのは、在り方や生き方そのものの変更を迫られる可能性があるぐらいに実存性が揺さぶられるのである。そうしたことを考えると、尚更この社会の中で飼い慣らされた人たちが自らが暗黙的に信奉する主義に目を向けず、その主義に基づいて日々を生きているのも頷ける。


さて、意識哲学の研究に再び目を向けると、そこには実に多種多様な主義があることにまず驚く。自分も今はそれを整理している段階で、あえて特定の主義を採用してみることによって見えてくるものは何か、盲点や限界は何かを検証しようとしている。主義の付け替えをまるで洋服の着替えのように楽しむ姿勢を忘れないようにしたい。主義の付け替えを楽しむことができていると、特定の主義に囚われることがなくなってくるだろうし、自分の意識哲学思想が様々な主義を通して磨かれていくはずである。意識哲学の泰斗のデイヴィッド・チャーマーズがかつて大学院生だった頃、「意識の研究者はまずは物質主義から出発し、その次に脳と意識の二元論者になり、その次に汎心論者になり、最終的には観念主義者になる」という言葉を聞いていたそうだ。興味深いことに、自分もまた完全にその流れに従っている。ここからは先端的な観念主義の考えである「分析的観念主義」と大乗仏教の唯識論にまずは思想のベースを置きながら意識について探究していく。その過程の中で、自らの主義について絶えず客体化し、自らの知性でそれを検証する試みをしていく。それをしない限りは意識の真理に到達することはできないだろうから。フローニンゲン:2024/1/13(土)06:39


11844. 自由意志と意識/インド哲学とサイケデリクス


時刻は午後1時半を迎えた。今の外の気温は3度で、やはりそれくらいの気温であれば室内ではとても暖かく感じられることがわかる。暖房の働きに感謝しながら、先ほど仮眠を取る前に考えていたことを書き留めておきたい。


先ほどは意識哲学におけるテーマの1つの自由意志について考えていた。先ほど芽生えた考えは、意識そのものは無限の可能性そのものであり、普遍意識と合一したものでもあるので、それは究極的な自由意志を体現しているのではないかというものだった。自由意志を体現しているから幸福かどうかは話が別であり、自由意志ゆえの暴力性や残虐性も発揮されうることには注意が必要である。世界はそれそのものとしてただありのままに存在しており、そこでは如何様なことも起こりうる。自由意志の決定として、世界のそのような様相の一端が選び出される可能性もあることを考えたとき、自由意志による帰結が全て幸福なものだと考えることはめでたいお伽話に過ぎないかと思う。そもそも自由意志の選択の全てが幸福につながるものであることのどこに完全な自由さがあるだろう。完全な自由は善悪を超越しているがゆえに、当然ながら善だけではなく悪の帰結をもたらすこともあるのである。


そこから、記憶とナラティブの構築物としての自我は限定的な自由意志を持つと言えるのではないかと考えていた。限定的であるがゆえに真に自由と呼べない可能性もあるが、いずれにせよ感覚記憶を含めた記憶とナラティブの構築物である自我は、ある程度の決定の自由を持つが、完全な自由を体現した形での意思決定ができないという縛りを受ける。それゆえに限定的な自由意志を持った存在と言えるだろう。このように、私たちには限定的な自由意志とある種の悪も暴力性も含めた形での完全な自由を体現した自由意志が意識そのものに備わっているのではないかと考えていた。この考え方を応用すれば、自由意志を体現した意識そのものは非決定論に従い、限定的な自由意志を持つ自我はその個人の自我の性質に応じて、決定論と非決定論の要素の度合いが異なる形でそれに従うことになるのだろう。


それでは今からインド哲学に関する書籍の続きを読んでいこうと思う。続きの再読が終われば、『バガヴァッド・ギーター』を読み返そう。『バガヴァッド・ギーター』において、個人の意識そのものと普遍的な意識の違いが明確に説明されており、それは意識研究において非常に参考になるだろう。インド哲学の奥深い思想を見るにつけ、インド哲学は本質的にサイケデリック哲学なのではないかと思えてくる。きっとインド哲学の創始者と発展者たちは、カンナビスやシロシビンあるいはイボテン酸の含まれるマッシュルームの摂取を行い、それを通じて得られる目撃者や非二元の意識状態によって獲得された洞察をもとに緻密な哲学体系を作っていった可能性が大いにあり、そこにも魅力を感じる。それが自分に大きな共感と共鳴を引き起こしている。フローニンゲン:2024/1/13(土)13:56


11845. インド訪問への思い/サンスクリット語の学習意欲の高まり/

東西の意識哲学の往復運動


この日記を書き終えたら、本日の午前中に行われたゼミナールの第62回のクラスの振り返りの音声ファイルを作成し、受講生の皆さんに共有しておきたいと思う。それと合わせて、最近視聴したお勧めたのNetflixの作品についても紹介した音声ファイルを共有したいと思う。


ヴェーダンタ学派の始祖であるシャンカラの思想は大乗仏教の唯識派の説く万法唯識・阿頼耶識の思想などと類似があるとのことなので、インド哲学と仏教に関する比較宗教学的な研究もこれから行えそうだと期待が高まる。いつか学会を兼ねてインドを訪れたら、シャンカラが生まれたカラディ(Kalady)という町を訪れたいし、ガンジス川のほとりのヒンドゥー教・仏教の聖地ヴァラナシ(Varanasi)に行ってみたい。どちらの町もアムステルダムから直通便が出ておらず、乗り換え時間を含めて結構時間がかかってしまうので、何かの縁があったときにインドを訪れた際に訪問したいと思う。


翻訳に伴う無意識的なバイアスや政治性を考えたとき、やはりどのような文献も可能な限り原典で読みたいというのが自分の考えである。厳格な学術研究を行う際には尚更それを徹底させたい。そうした考えがあるゆえに、仮にここからインド哲学を本格的に研究していくのであれば、必ずサンスクリット語で文献読解を行いたいと思う。サンスクリット語で書かれた聖典を自由自在に読み解くことができるようになったらどれだけ楽しいだろうか。時空を超えて、その聖典を執筆した著者と対話をしている感覚が得られるのではないかと思う。翻訳書を読むというのは残念ながら、どこまで行っても翻訳者との対話に次元が引き下げられてしまい、著者との完全なる対話は実現されない。そうしたことを踏まえて、サンスクリット語の読解力を今後高めていきたいと思う。そのトレーニングを始める日が今から楽しみだ。ひとたびサンスクリット語の学習を始めると、サンスクリット語の文献に係りっきりとなり、一息つくために英語の文献を読むようになるかもしれない。そんな日の到来を期待する。


来週水曜日のラジオの収録に向けて、課題図書の続きを読み進めることも夕方に行いたい。1章ずつ扱うことに慣れてきたら、2章ずつぐらいのペースで進めていくことも検討しよう。3章ずつになると、ラジオの時間の都合上、それぞれの章を扱う深さが減退してしまうであろうから、最大2章ずつのペースをどこかで試してみることを検討したい。それと気が早いが次の課題図書は、インド哲学を扱うと面白いかもしれない。これからのラジオでは、東西の意識哲学を行き来する形で課題図書を選定していくことを念頭に置く。そうした行き来を行えば、東西の意識哲学への理解が螺旋構造的に深まっていくであろう。東西の意識哲学の往復運動をしていき、それを通じて両者の理解が相互に発展していくであろう楽しみがこれからのラジオにはある。フローニンゲン:2024/1/13(土)14:48

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