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【サイケデリック学探究記】11817-11827:2024年1月11日(木)



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タイトル一覧

11817. 今朝方の夢

11818. 今朝方の夢の続き

11819. 東西の意識哲学の探究に没頭して/自然主義的な発想を持つ自分

11820. 意識に関する真理に近づくために/分析的観念主義と唯識思想の架橋に向けて

11821. 『解深密経』のサンスクリット語の原典を読むために/最小と最大の出会いを通じた意識探究

11822. 唯識思想への注目

11823. 唯識思想から見えてきた自分の世界認識方法

11824. 海のメタファーを活用した意識の説明

11825. 意識の幻想主義/唯識思想をもとにした考え事

11826. 自らの汎心論思想の見つめ直し

11827. 極寒の日を終えて


11817. 今朝方の夢


時刻は間も無く午前4時半を迎える。書斎のある2階の気温は18度まで下がっていて、外気の温度を調べてみたところ、なんと今の外の気温はマイナス8度とのことである。どおりで寒いわけである。ここから午前11時まではマイナス4度までしか気温は上がらないが、そこから午後2時ごろには3度まで到達するようなので随分と寒さは和らぐのではないかと思う。マイナスの世界から脱出した気温になるのは数日振りであり、気温がマイナスでなければ温かさを感じるぐらいだろう。今日の午後からしばらくは最低気温がもうマイナスになることはないようなので一安心である。さすがに最高気温までもがマイナスだと寒さが大変だ。


今朝方はいくつかの夢を見ていた。その中で、寒さか何かで足の指がかじかんでしまう場面があったのを覚えている。両足の指がどちらもともに寒さで動かしづらくなっていて、特に右の足の指の方がその状態が酷かったように思う。そこで一度目を覚ますと、寒さが原因ではなく、実際に足の指に痛みがあったのを覚えている。これは何を示唆している現象なのだろうか。布団の中に入っていたので寝ている時の寒さが直接的な原因ではないだろうが、起きている間に靴下を2重に履いていても指先が冷たくなる日々が続いていたのでそれが影響していたのかもしれない。夢は何かしらのサインを私たちに送ってきてくれるので、そうしたサインには敏感でありたい。


その他に覚えている場面としては、見慣れない小さな教室のような場所で、1人サイケデリック実践をしていたことである。周りには誰1人として人がおらず、自分1人であるサイケデリクスを摂取して実践をしていた。しばらくすると、サイケデリクスがもたらす深い変性意識状態となり、その意識状態の中で立ち現れた自己イメージとしての自分、言い換えればサトルボディとしての自分が再びその状態の中でサイケデリクスを摂取した。分かりやすく喩えると、夢の中の自分がサイケデリクスを摂取して、さらに深い夢の世界に入り、そこでもまたサイケデリクスを摂取するようなイメージである。そのような形で二重にサイケデリクスを摂取したことによって、私は意識の深みに到達し、そこには言葉が生まれる前の現象世界が広がっていた。それは全てが渾然一体として未分化で、混沌としながらも、言葉が与えられることを待っている存在者たちが集まった世界だった。そのような世界を眺めながら、自分という存在もまた名付けられる以前においては、この存在世界にいた未分化の一存在者だったのだと気付かされた。


それ以外にもう1つ、ゴミがたくさん浮いた水源地にいた場面を覚えている。おそらくそこは浄水場が管理しているものなのだが、それにしても水が汚く、ゴミが浮いている状況は見ていて少し悲惨であった。私は何者かにあとをつけられているようで、追っ手から逃げるためにゴミの浮いた水の中に入って向こう岸に行く必要があった。いざ水の中に入ろうとした時に、やはりこんな不衛生な水の中には入りたくはないと思ったので、別のルートを探すことにした。来た道を少し引き返せば橋があることがわかったので、その橋を使って向こう岸に行こうと思った。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/1/11(木)04:38


11818. 今朝方の夢の続き  


ここ最近はとにかく寒さが厳しかったが、ようやくそうした状態から今日の午後から抜け出せることを嬉しく思う。天気というのはまた状態であり、人生もまた種々の状態から形成されているので、厳しい状態が続いたとしても、それはいっときのことなのだと思いたい。必ず状態が好転する瞬間がやってくることを思うとき、今のその状態に対する受容度が変わってくるように思う。ここ数日間は寒かった分、天の計らいで天気はすこぶる良かった。今日から1週間は雨マークもなく、天気が安定しているのは嬉しいことである。


先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、もう1つ夢を見ていたことを覚えているので、それについても振り返っておきたい。


夢の中で私は、前職時代のオフィスのエレベーターホールにいた。もう就業時間が始まっている時間だったので、急いでオフィスのあるフロアに向かおうとした。エレベーターに乗ると、そこで偶然にも先輩の女性社員の方が後からやってきてエレベーターに乗り込んできた。お互いに遅刻をしてしまったことに幾分後ろめたさを感じながらも、そもそもうちの会社には遅刻という概念はさほどなく、そのあたりは緩やかなので問題ないだろうとも思っていた。エレベーターに乗って、今携わっているプロジェクトの話を少しした後に、雑談をした。そうこうしている内に目的階に到着した。オフィスのドアを開けて中に入ると、別の部門のパートナーの方が私を呼んでいるとのことだったので、その方の部屋に向かった。その方とは社内のフットサルのクラブ活動でご一緒したことが何度かあり、とても人が良い方だったので、何も恐れることなくその方の部屋に向かった。ドアをノックして中に入ると、ちょうどその方は電話をしている最中で、少し待つ必要がありそうかなと思ったが、すぐに電話の用件が終わったようだった。さて何の用で自分を呼んだのだろうかと気になっていたところ、特に仕事に関する用事ではないらしく、単に最近の私の様子が気になって声をかけてくださったようだった。


話の中で、日焼け止めの話題となり、ちょうどポケットに今使っている日焼け止めがあったのでそれをその方に見せると、その方は得意顔を浮かべながら、背後にあった引き出しを開けて、自分と同じ日焼け止めを見せてくれた。しかしよくよく見ると、自分が使っているものよりも紫外線をカットする成分が豊富な特別なもののようで、だからその方は満面の笑みを浮かべて得意顔になっていたのだと思っておかしくなり、クスリと笑った。その特別な日焼け止めは、ある町の祭り会場でしか入手できない貴重なもので、自分もそれを知っていたので手に取って見せてもらった。そこからは少し真面目な話として仕事の話題に触れた。ちょうどその方の部門のある社員の方が私の専門知識を必要としているようだったので、応援に駆けつけようと思った。そこでその方との話は終わり、部屋を出ると、応援を必要としている別の部門の女性社員の方と出会い、後ほど応援に駆けつける旨を伝えた。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/1/11(木)04:58


11819. 東西の意識哲学の探究に没頭して/自然主義的な発想を持つ自分 

   

時刻は午前5時半を迎えた。今日もここから旺盛な探究活動に入ろうと思う。今日もまた意識哲学に焦点を当てて、西洋の意識哲学と東洋の意識哲学を学んでいく。後者に関しては仏教を中核にしたものとなる。神道への目覚めに加えて、仏教への深層的な目覚めが最近の自分に起こったように思う。神仏習合の国に生まれた自分にとって、神道と仏教の双方に親しみを感じることができるというのはギフトかもしれない。それは知的な意味でもそうであるし、実存的・霊的な意味においてもそうである。西洋の意識哲学で現在語られている深みと東洋のそれは多分に重なる。仏教の意識哲学の射程の広さと深さには本当に感服してしまう。今のところ、バーナード・カストラップが提唱している「分析的観念主義(analytic idealism)」と仏教の唯識思想(Yogachara or Consciousness-Only Theory)とは多分に重なる部分がある。そうした共通性を見出しながら、東西の意識哲学の用語体系と思想体系に慣れ親しんでいく形で、自分もこの分野に独自の貢献をしていきたいと思う。その具体的な実践が論文を執筆するということである。それは意識哲学の学術世界への貢献であって、逆に学術世界を離れたところへの貢献としては、自分が得た知見を広く一般に共有していくことである。


意識哲学を日々学ぶ中で、自分の価値観や世界観が変容し始めているのを感じる。なるほど意識哲学の探究にはそのような作用があるのかと思わされる次第だ。特に自分が自然主義的な発想を持っていることに改めて気付かされたことは大きい。自然主義にはいろいろな意味があり得るが、自分の中でそれはこの世界はそれとしてありのままに存在しているという非常に簡潔な言葉で表現できる思想である。仏教用語で言えば、全てが如性を持ってそれとして存在しているという発想になるだろうか。こうした発想を支える直接体験として大きなものがまさにサイケデリック体験である。それを「如性」としか表現できないような直接体験を重ねれば重ねるだけ、自己もこの世界も常にありのままとして存在しているのだということを思わさせる。人間の認識作用と意味解釈機能によって、私たちは全ての対象を如何様な形にも切り取ることができ、そこに如何様な意味を見出すことができるのだが、それらは全て私たちの存在が媒介した結果生じる事柄であって、自己も世界も本質的にはそうなってはいない。つまり、自己も世界も究極的にはいかなる形にも切り取ることができない全体として存在しており、意味を超えた全体として存在しているのである。そうした意味でのありのまま性であり、そうした意味での自然主義という発想を自分は持っているのだということがわかる。繰り返しになるが、ここでは一般的に「自然」という言葉で想起される山や海などの自然物について述べているのではなく、「自らが然るべき状態で」という意味での如性を絶えず体現しているという意味での「自然」なのだ。全ては然るべき状態で存在しているということ。それが自分なりの自然主義の発想なのだと考えていた。フローニンゲン:2024/1/11(木)05:49


11820. 意識に関する真理に近づくために/分析的観念主義と唯識思想の架橋に向けて


今日もまたモーニングコーヒーの良い香りに誘われて、閃きが起こった。まず1つには、意識哲学を進めていく際の姿勢についてである。私たちが意識について何を信じようが、どのような主義を信じようがそれはその人の自由である。ある種の信仰の自由がそこにある。しかしながら、意識について学問をしようとなると話は別である。学問は少しでもその対象の真理を探る試みであるから、自らの主義を検証する姿勢や相手の主義を検証する姿勢がなければならない。日常生活でどのような形で意識を意味づけし、定義づけてもいいが、学問としてそれを扱う際には、最も真理に近づこうとする形で議論をしていこうとする姿勢が重要なのである。意識哲学の界隈を眺めていると、哲学者であっても自身の主義に固執してしまっているケースをよく見かける。彼らは確かに知性が高く、それゆえに自らの複雑な知識体系・思想体系の網の目に絡め取られてしまっている様子をよく見かけるのである。少なくとも自分はそうした状況には陥りたくはない。常に真理に少しでも近づけるように、自分の主義は常に暫定的なものとして捉え、自らの主義を建設的な批判に絶えずオープンにしておきたいと思う。そして自らの暫定的な主義を主張し、展開していく際には、少なくとも内的整合性と外的整合性の2つをできるだけ担保したいと思う。内的整合性というのは、自分の主義の論理一貫性のことを指す。提示する具体例を含めて、自らの主義がどれだけ内側で整合性が取れているのかを絶えず検証することが重要かと思う。一方の外的整合性というのは、すでに一定程度真理だと認められている他の発想や科学的発見事項との整合性のことを指す。このように内外で整合性が取れていない限り、自分の主義は真理から遠ざかっていく。逆に言えば、内外の整合性が取れてくれば来るだけ、それは真理に近づいているとも言えるだろう。これが1つ目に考えていたことである。


もう1つ考えていたのは、博士論文のテーマについてである。幸いにして、今博士論文として執筆したいテーマはたくさんあるのだが、広さを優先させた博士論文を書くのか、深さを優先させた博士論文を書くのかで迷っていた。仮に深さを優先する場合は、この世界は全て意識の中にあるという西洋の意識哲学の分析的観念主義と東洋の意識哲学の唯識思想を架橋させる研究論文を執筆したい。この研究の価値は何かと考えたところ、1つには現在両者は別個に扱われていて、そこに架け橋となるような論が展開されていないことを鑑みて、両者を繋ぐ論を提示することである。もう1つ意識哲学そのものに対して大きな貢献を果たすこととして、意識のハードプロブレムの問題の解決に向けて前進する可能性があるということだ。これは意識哲学の分野に対する大きな貢献であり、研究の価値かと思う。そのようなことをコーヒーの香りに誘われながら考えていた。フローニンゲン:2024/1/11(木)06:24


11821. 『解深密経』のサンスクリット語の原典を読むために/

最小と最大の出会いを通じた意識探究      


現在、日毎に唯識思想(Yogachara or Consciousness-Only Theory)への関心が高まるばかりである。その経典は何かを調べたところ、どうやら『解深密経(Sandhinirmocana Sutra)』と呼ばれるものらしい。こうした経典は原語で読むのが一番であり、それはサンスクリット語で書かれているようなので、サンスクリット語の学習を視野に入れたい。仮に晴れてハーバード神学大学院に入学することができたら、唯識思想に関するコースに加えて、卒業要件の1つである原文読解コースの中でサンスクリット語を履修したいと思う。これまでは日本思想の研究の観点から、日本語をその要件に当てて、母国語が日本語である日本人であるがゆえに履修を免除してもらうことを考えていたが、せっかく優れた原文読解コースがあるのだからそれを活用しない手はないと思った。サンスクリット語に関して初級、中級、上級コースがあるようなので、是非ともそれらのコースを履修することを通じて、『解深密経(Sandhinirmocana Sutra)』の中国語やチベット後に翻訳されたものではなく、サンスクリット語の原典を読み解きたい。新しい言語を学ぶ楽しさも味わいながら、同時にそれを自分の学術研究の幅と深さの拡張につなげていければと思う。


サンスクリット語の原典を読む前に英語の翻訳書を読むのであれば、チベット語から英語に翻訳された“Wisdom of Buddha: The Saṁdhinirmocana Mahāyāna Sūtra”と、中国語から英語に翻訳された“The Sutra of Explaining the Profound Secret: An English Version of the Chinese Jie Shen Mi Jing Rendered from Sanskrit by Master Xuanzang”を入門として比較する形で読んでみようと思う。ここではすでに、サンスクリット語の原典からチベット語と中国語という別の言語への翻訳が一段階挟まれ、そこからさらに英語での翻訳という二段階目の翻訳が挟まれている。まずは翻訳書を読んでみて、後に原典に当たった際にどれくらい違いがあるのかを確認してみたい。


昨日、最小と最大の出会いを通じて意識とは何かについて研究することについて考えていた。その方向性を採用している自分がすでにいることにふと気づく。最小を突き詰めていくことは量子力学の力を借り、最大の方向性はまさに意識の形而上学の力を借りる必要がある。両者が深層的な次元で出会う時、意識とは何かというその本質がさらに開かれていくのではないかという期待がある。さらには、最小方向にも最大方向にも意識を拡張させてくれるのがサイケデリクスの力でもある。本当に自分はサイケデリクスの恩恵を深く受けているようだ。とりわけ自分はシロシビン・マッシュルームを愛しており、それにはもう愛着を超えて恩義を感じる。分析的観念主義と唯識思想の探究に向けて、最小と最大の方向性に意識を向けていくための実践としてサイケデリック実践がある。フローニンゲン:2024/1/11(木)07:25


11822. 唯識思想への注目 


どうやら唯識思想では、『解深密経(Sandhinirmocana Sutra)』を経典として、そこから派生した重要な書物がいくつもあることを知った。今後はそれらの1つ1つを原典で読みたいと思う。それらを列挙しておくと、『瑜伽師地論(Yogacarabhumi-sastra)』『大乗荘厳経論(Mahayana-sutra-alamkara-karika)』『中辺分別論(Madhyāntavibhāgaśāstra)』『摂大乗論(Mahāyānasaṃgraha)』『倶舎論(Abhidharma-kosa Sutra)』『成業論(Karma-siddhi-prakaraṇa)』『唯識二十論(Viṃśatikā kārikā)』『唯識三十頌(Triṃśikā vijñapti-kārikā)』の8冊となる。これらは全て重要な書物ゆえ、英語での翻訳書であれば今すぐにでも入手できるかもしれないので、それらを読み進め、いつか必ずサンスクリット語の原著で読みたいと思う。こうした思いが新たな言語の習得に向けて知的エネルギーを高めてくれる。


現在このようにして意識哲学において、東洋に目を向けた場合には仏教の唯識派に注目しているわけだが、それ以外にも中観派の思想にも注目している。中観派では兎にも角にも空(くう)の思想が重要になる。西洋において唯識派に対応しそうだと注目しているのが分析的観念主義なのだが、中観派の空の思想に対応する思想を西洋は持っているのだろうか気になった。全ては仮の存在で、空なる存在であるというこの思想に近しい発想として西洋の意識論・形而上学に何か対応するものがないかを考えてみたいと思う。今のところすぐにパッと思いつくことができない。いずれにせよ、唯識思想は仏教が到達した最高地点の思想とも言われ、最も成熟した仏教哲学をそこに垣間見ることができるという点でも探究意欲をそそられる。


あらゆる諸存在を8種類の識のいずれかで構成されたものであるとする唯識思想において、全ては主観的な事物であり、客観的な事物など存在せず、それらは全て無常であり、仮の存在であると捉える。唯識の思想は空の思想を基盤に置いているから、全ての存在は識によって生み出される空なる存在であるとみなすことができるだろう。こうした認識を採用してみると、日々の自分の内面世界で生起する事柄に囚われることがなくなってくるし、外面世界で生じる事柄にも囚われることがなくなってくるという生き方に対する価値があることが見えてくる。唯識思想を体現させる形でこれから人生を進めていくとどのような在り方がさらに開示されてくるのか楽しみなところである。


唯識思想において、世界は各人の表象に過ぎないとされるのだが、これはショーペンハウアーが述べる表象世界とつながるものがあるだろうか。仮にそうであれば、唯識思想は分析的観念主義のみならず、ショーペンハウアーの思想とも関連づけることができる。またユング自身が唯識思想につながる発想を持っていたことはよく知られている通りであり、ユングもまた個人の意識を越えた普遍意識を想定し、全ては普遍意識の現れであるという形而上学思想を持っていた。唯識思想に関しては、このように西洋思想とのつながりを徐々に見出すことができており、探究の方向性も明瞭なものになってきている。あとは唯識思想が基盤を置く空の思想と同じような発想が西洋思想の中にないかを調査したいと思う。フローニンゲン:2024/1/11(木)08:15


11823. 唯識思想から見えてきた自分の世界認識方法


大乗仏教における唯識思想と西洋における唯心論は一見すると似たような性質を持っているように思えるかもしれないが、両者には根本的な違いがあることに注意しなければならないと思った。唯心論というのは、私たちの心、すなわち意識が全てを生み出していると考えるのだが、そこで生み出されたものの実体性を認める点が唯識思想と根本的に異なる。唯識思想においては、意識によって把握されたもの、生み出されたものは全て仮なる存在、空なる存在としてその実体を認めない。この点が両者に横たわる根本的な違いなのではないかと思う。


唯識思想の間主観性の捉え方で興味深いのは、私たちが他者と共通の世界を共有していると感じられることがあるのは、無意識である阿頼耶識の中にお互いに共通の種子(阿頼耶識の内容物)があると考えている点である。これがまさに無意識の世界で私たちは繋がっているということを示しており、その繋がりはとりわけ阿頼耶識の内容物としての種子を通じてだと考えられている点が興味深い。いやおそらくは、具体的な繋がりを感じるための媒介物が阿頼耶識の中に存在する種子なのであり、時空間に縛られない阿頼耶識を通じて全ての存在は根本的に繋がっていると考えられるのかもしれない。このあたりについては唯識思想をさらに勉強する中でより明らかにしていこう。


唯識思想の最もラディカルかつそれでいて本質を突いていると思われるのは、最終的には私たち個人の心も実体がないとする考え方である。個人の心、すなわち個人の意識もまた仮なる空的存在なのである。さてここで、唯識思想が阿頼耶識全体の実体性についてどのように考えているのか、普遍意識の実体性についてどのように考えているのかが気になるところである。それもまた仮なる空的存在とみなすのだろうか。こうした点も文献調査を通じて明らかにしていきたいところである。


唯識と物質(matter)との関係性で言えば、上述のように物質もまた識によって把握される表象現象に過ぎず、客観的存在では決してなく、仮なる空的存在として主観的なものだという考え方を採用する。これは二元論ではなく、識を起点にした一元論だと言えるのではないだろうか。今の自分は世界を捉える際に、まずは二元論的に心的なものと物質的なものの双方を認め、物質を客観的な存在としていったん認めるが、それは自らの意識が生み出した現象であるとする唯識思想を採用しているがゆえに、その瞬間から一元論に転換される。少しややこしいが、世界を認識する最初の瞬間において自分は二元論の立場を取っているようで、そこから即一元論に転換するという認識方法を採用していることが見えきた。また、究極的には自分個人の意識の実体性を認めず、それもまた仮なる空的存在であり、唯一存在するのは普遍意識のみという点で、二元論を含んで超えた「超越的一元論」という立場を採用していることが見えてきた。フローニンゲン:2024/1/11(木)08:36


11824. 海のメタファーを活用した意識の説明


物質主義的な喩えではなく、超越的一元論的観念主義的な立場で、意識を大きな海だと喩えてみるとする。そして私たちはそこに泳ぐ魚だと仮定してみる。大きな海を泳ぐ魚は海の中で様々な景色を目撃するが、海そのものを認識することはできない。生まれた時から魚は海の中にいて、海の中にいるという気づきの意識すらない状態で生活を続けている。ところが仮にあるときにどうやら自分が海の中にいると気づいた場合に、海について考え始めることが可能となり、それは人間の場合における意識そのものへの考察の出発なのではないかと思った。別の表現で言えば、海の中の様々な景色は意識の内容物であり、それらがどのように生まれているかを考えることは内容物の発生メカニズムの探求であって、海そのものの発生メカニズムの探求ではない。私たちは最初から意識を持って生まれ、意識の世界の中で生き続けているがゆえに、意識そのものを問う困難さがあるのではないかと思った。ここでは便宜上わかりやすい比喩を使うために、海という物質的なものを喩えに出したが、実際のところは海そのものも意識内に表象される内容物だとすると、海もまた究極的には意識に他ならないことが見えてくる。


そのようなことを考えた後に少しばかり瞑想実践をしていた。瞑想実践の中でふと、海そのものを普遍意識として捉え、海の中に生じる泡を個人の意識として捉えてみた。すると、個人の意識と海は同一のものであるということがわかり、それは「アートマンはブラフマンである」というヒンドゥー教における「梵我一如」の思想と合致するメタファーであると思った。ではそこに唯識の思想と絡めるとどのようなことが言えるだろうかと考えていた。唯識の思想においては、個人の意識は実体を持たず、仮の空的存在であるとみなす。確かに、海の中に生じる泡は儚き存在であり、それは仮の存在として一時的に存在しているかもしれないが、いずれ消滅する。一方、海そのものは絶えずそこにあり続けているという点で、普遍意識の実体性を認めることができるかもしれず、それは唯識思想を切り開いた無著(アサンガ)が見出していた事柄に通じるのではないかと思う。今のところ、普遍意識は仮の存在ではないが、全ての存在基盤になり得るという点では空的な存在だと捉えることができるかもしれないと思っている。繰り返しになるが、現実世界における海そのものもまた唯識思想においては仮の存在であり、空的存在で実体なきものとしてみなされる。今は便宜上、個人の意識を海の中の泡と捉え、普遍意識を海全体だと捉えてみる形で議論を進めた。そうすることによってまた見えてきたことがあるので、ここからも引き続きメタファーを駆使しながら意識哲学の探究を進めていこうと思う。フローニンゲン:2024/1/11(木)09:33


11825. 意識の幻想主義/唯識思想をもとにした考え事


午前中は随分と調べ物をしながら考え事をしていた。いずれも全て大乗仏教の唯識思想に関するものである。


唯識派の無著(アサンガ)は、自らが記した『唯識二十論』の中で、この世界は個人の表象、認識にすぎないと主張しながらも、言葉では表現することのできない何らかの実体があるとした点はとても興味深い。おそらくそうした実体こそが個人の意識を超えた普遍意識なのではないかと思う。


唯識思想では、識を含むいかなる行為も一刹那だけ存在し、過去に過ぎ去っていくと考える。ここでは、時間は現在から過去に流れていると捉えている点も注目に値する。さらには、識を含めた全ての行為が一刹那だけ存在して過去に流れ去っていく際に、阿頼耶識に余波を残し、それが種子として阿頼耶識のなかに蓄積されていき、再び様々な識が生じ、再び行為が起ってくると捉えている点も興味深く、同時にそれは意識と行為の繋がりに関する腑に落ちる説明だと感じる。


そこから大乗仏教における中観派の空の思想と近しい西洋の思想を調べてみたところ、語感として少し強く響くが、「意識の幻想主義(illusionism)」という発想がどうも近しいのではないかと思い、幻想主義に関する論文集を購入することにした。しかし今のところすでに、意識の幻想主義においては、意識の中で立ち現れる意識現象を幻想として見做しているだけで、意識そのものへの言及はないかもしれず、個人の意識そのものまた実体を持たない仮の空的存在であるとする空の思想とは少し異なるかもしれない。さらに調べてみると、論文としてプラトンの“receptacle”という考え方と、アリストテレスの“prime matter”という考え方がどうやら仏教の空の考え方と近しいということがわかった。この論文についてはまたじっくりと読み進めたい。プラトンの“receptacle”という考え方はどうやら、分割することができず、そして形を持たずに全ての存在を包摂するものを指しているようだ。そしてそれは、意識に属する存在として捉えられている。一方の、アリステレスの“prime matter”もその考え方に近く、全ての物質的存在の究極的な顕現可能性のことを指しているらしい。しかしながら、“matter”という言葉にあるように、どうやらアリストテレスのそれは、物質次元に適用される空的な存在であって、心的次元に適用されるようなものではない可能性がある。これらを含め、さらに論文を読み進めていこう。


最後に補足として、唯識思想においては、個人の心、すなわち識のみを仮に存在すると仮定し、深層意識である阿頼耶識が自らの意識も外界にあると認識されるものも生み出していると考える。これはまさに先ほど書き留めていたように、本来は海の中の泡としての意識が外側に広がって存在していると錯覚的に認識してしまう現象を説明しているように思う。また、唯識思想においては、最終的に深層意識である阿頼耶識もまた空であるとみなすという点で、個人の無意識も実体はなく、仮の存在だと捉えていることが窺える。唯識思想はこのように実に洞察深い意識論を展開していることがわかって興味を引くばかりである。フローニンゲン:2024/1/11(木)10:48


11826. 自らの汎心論思想の見つめ直し     


昨日、自らの汎心論思想の見つめ直しを行っていた。それに付随して、汎神論思想に関しても見つめ直しを行っていた。後者に関しては、学問的ではなく私的空間におけるある種の宗教的な信仰としてそれを保持しておくことによって、全ての存在に対して優しさと愛を持って接することができるかもしれないという実践的な価値があると考え、私的空間においてはその思想を採用したいと思う。前者の汎心論について言えば、全ての存在に意識のようなものを認めるのではなく、全ては個人の意識と普遍意識の中にあると発想する方がより真理に近いのではないかと思い始めている。これまでは物質にも何かしらの意識のようなものがあると考えていたが、その意識のようなものが何かというと、それは物理学用語で言えば力やエネルギーのようなものだと捉えていたが、力もエネルギーもそれを意識とみなすのは随分と乱暴に思えてきたのである。力もエネルギーもあくまでもそれは物質次元での現象であり、決して意識次元のものではなく、意識たり得ないと思ったのである。それこそ重力、磁力、原子間力、摩擦力などが意識かと問われると、やはりそんなことはなく、それは物質の作用に過ぎず、生命が持つ意識とはやはり同列には語れないと思い始めている。しかしながら、それらの力もまた人間の意識が表象する意識現象であるという見方は取れるため、分析的観念主義の立場が崩れることはない。いずれにせよ注意しなければならないのは、物質が持っているそうした力や物質が生み出すそれらの力を意識と同じものだと扱うのは控えた方がよく、その観点で少しばかり汎心論から離れた自分がいる。もちろん汎心論は様々な考え方があり、いずれも精緻な議論を展開しているので、改めて“The Routledge handbook of panpsychism”の書籍に立ち返って、まだ自分が反論を抱かないような汎心論の立場として何が残っているのかを確認したいと思う。


その他に追加で考えていたのは、このリアリティの性質を探究する形而上学が意識哲学上の研究において欠かせないということであり、その他にも認識論や存在論も意識哲学の研究上、必須の哲学分野になることを思った。それらの分野についても手持ちの書籍を駆使して理解を深めていきながら、どこまでも広く深く意識について研究をしていきたいという情熱が沸々と表に滲み出している。ここからは西洋の意識哲学の研究、仏教の意識哲学の研究、そしてそれらと絡めてサイケデリクスの多角的な研究に邁進したい。フローニンゲン:2024/1/11(木)11:12


11827. 極寒の日を終えて


時刻は午後7時半を迎えようとしている。夕食を摂り終え、寛いだひと時を過ごしている。今日もまた極寒の1日だったが、そうした寒さも今日までで、明日からは再び0度を超える気温の中で過ごすことができる。さすがに外気が氷点下だと暖房がいくら入っているとは言え、室内もかなり冷えてしまうので、明日からは快適に過ごせるかと思う。


今日も寒さの中でジムに行き、良い汗をかいてきた。今日はパーソナルトレーニングの日で、パーソナルトレーナーのエリーザに今日もまたハードなメニューを提供してもらった。ところが今日は少しエネルギー量がいつもより少なく、最初のメニューからなかなかにハードさを感じた。おそらく月曜日の自主トレーニングの際に調整と言っておきながら結構追い込んでしまっていたことと、ここ数日間の寒さが身体エネルギーに影響を与えていたのではないかと思う。いつもよりエネルギー量は少なく感じていたが、それでも全てのメニューをこなし、充実した筋力トレーニングを行えた。トレーナーのエリーザからの励ましによって自分が限界だと思っている線を少し超えることができていることにいつも有り難さを感じる。


1時間のトレーニングの前には準備運動がてら、普段のようにジークンドーの稽古をしていた。いつもよりサンドバッグを叩くセット数を多くしていたことは筋力トレーニングにさほど影響を与えていないかと思う。そこでは筋力をさほど疲弊させた印象はなく、むしろ心肺機能を鍛えるような無酸素運動が行われていたように思う。いつもジークンドーの稽古が身体を温めることに一役買ってくれていて、そこからの筋力トレーニングを速やかなものにしてくれる。筋力トレーニング後はいつものように有酸素運動を行った。今日はエネルギー量が減退しているように感じたのであまり無理をせず、ローイングマシンを5分ほど漕いだ後に、ランニングマシンで20分ほど速度を変えながら走った。後ほどゆっくりと入浴をし、身体をしっかり癒そう。こうして身体トレーニングを規則正しく自らに課すことによって、日々の学術探究が集中力高く充実したものになるだろう。今夜もまたぐっすり眠れそうである。フローニンゲン:2024/1/11(木)19:36

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