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【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】第29回のシロシビン・セッションの振り返り(12364-12374)2024年3月24日(日)

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タイトル一覧

12364. 自己構築的世界内に生きる存在としての私たち

12365. 今朝方の夢

12366. 今朝方の夢の続き

12367. 不可知の阿頼耶識の中にいるサメ

12368. 今日のシロシビン・セッションにおける実験/オレゴン州とカリフォルニア州のサイケデリック規制の路線修正の様子を見て

12369. 唯識瑜伽行としての今日のシロシビン・セッションに向けて

12370. 第29回シロシビン・セッションの振り返り(その1)

12371. 第29回シロシビン・セッションの振り返り(その2)

12372. 第29回シロシビン・セッションの振り返り(その3)

12373. 第29回シロシビン・セッションの振り返り(その4)

12374. 第29回シロシビン・セッションの振り返り(その5)


12364. 自己構築的世界内に生きる存在としての私たち


時刻は午前5時を迎えた。先ほど雨が降っていたが、今はいったん雨が止み、静けさが辺りを包んでいる。今日は午後に強風を伴う雨が降るらしい。ちょうど今日は午前10時から隔週でのシロシビン・セッションを行うことになっている。セッションの途中では雨音が聞こえてくるかもしれない。そうした環境の中でセッションを行う。屋根にぶつかる雨音がセッション中の体験にまた一つの味を加えてくれるだろうか。そんな期待がある。シロシビン・セッションを開始するまでは、いつものように唯識学の研究に勤しむ。それは研究即実践である。唯識学の研究をすることの最大の楽しみは、そこでの学びが即実践となり、自らの成長に向けた取り組みにつながることである。「瑜伽行唯識学派」と言われるだけあって、 瑜伽行という成長の実現に向けた実践を希求する瑜伽師たちの手によって生み出されたのが唯識学なのである。彼らのような実践者集団が自らの実践体験をもとに生み出した非常に広く深く実践思想体系としての唯識学の探究に今日も没頭していきたい。そこでの学びは即座に今日のセッションの体験咀嚼に活かされるだろう。またそもそも、そこでの学びが体験の質を深めてくれるという良い方向で働いてくれるに違いない。このように、唯識学の研究とシロシビン・セッションがまるで合わせ鏡のようにお互いを反射し合いながら双方の質を深めていくという循環構造が見えることはとても喜ばしい。この2つの取り組みは自分にとってライフワークになるだろう。ひょっとしたら今後はシロシビン・セッションの頻度をどこかのタイミングで下げる可能性もあるが、今は隔週のペースを維持し、それを良いペースメーカーとしながら、禅定体験としての深い意識状態の中で真理に触れる体験をできるだけ豊富に積んでいく。その体験が豊かであればあるほどに、そしてそれが蓄積されればされるだけ、唯識学の理解がしやすくなり、理解も自ずから深まっていくであろう。


私たちは自らの心が作った自己構築的世界内に生きる存在である。客観的な対象世界というのは存在せず、常に私たちが知覚するのは私たちの八つの識が改変した主観的世界なのである。私たちの外に事物は存在していても、それを認識した瞬間にそれは私たちの八つの識による脚色から逃れることはできず、全て主観によって色付けられた形での対象把握となる。私たちが環境の中にいるのではなく、環境は私たちの識の中にいるのである。環境もまた八つの識による改変から逃れることはできず、私たちの識が構築するものとして存在する。まさにそれはヴァーチャルワールドと瓜二つである。私たちはまさに八つの識のフィルターとそれぞれの識の働きによって作り出されたヴァーチャルワールドの中に生きているのである。それに気づくことが夢から覚めることである。そしてその目覚めから出発すること。そのようなことを唯識学から日々繰り返し教わっているような気がする。フローニンゲン:2024/3/24(日)05:22


12365. 今朝方の夢


第29回のシロシビン・セッションを控えた朝に見ていた夢について振り返っている。いくつかの夢がそこに広がっていて、それらが1つの大きな物語の中にあるような気がした。私たちは物語的存在であることからもそれは納得できることかもしれない。私たちは物語を語り、物語の世界の中に生きているのである。それは八つの識が生み出す物語と言えるかもしれない。


夢の中で私は、あるアニメ映画に出てくる2人の姉妹の女の子を見守る存在として存在していた。2人は宿泊している大きな旅館の中を駆け回っていて、とても元気一杯だった。特に妹の方はまだ小さく、5歳ぐらいで一番活発に動き回りたい年齢のようだった。その旅館は確かに和風だが、場所としては外国にあったので、外国人の宿泊客が多かった。そんな中、2人は外国人に物怖じすることなく積極的に会話をしていた。2人から話しかけていたわけではないが、外国人観光客が物珍しそうに2人にしょっちゅう話しかけていたのである。そこからも2人の様子を観察していると、驚いたことに、妹の方が突然手のひらに乗るぐらいの大きさに変わってしまった。突然のことだったので一体何が起こったのか最初わからなかったが、とにかく妹の方がそのような大きさになってしまったのだ。それを見た姉は冷静な心で妹の姿を受け止め、元の大きさに戻す方法を求めてまた旅館の中を散策し始めた。とても小さな大きさになっても妹の方はまだ元気一杯にあちこち駆け回っていた。すると、ある部屋で猫に襲われそうになった。猫にとっても小さい人間が興味深かったのだろう。猫に食べられそうになった妹を見て、姉は慌てて助けに向かい、壁を駆け上がって天井にひっついている妹を手のひらに乗せ、そこからは姉の安全な手のひらの上で妹はおとなしくすることにしたようだった。そのような場面があったのを思い出す。


この場面において、手のひらの上で寛ぐ妹はどことなく活発に日々探究活動に取り組む自分のように思えてきた。そしてそんな自分は仏の手のひらの上で生かされているという感覚があることからも、夢の中の姉は仏なのかもしれない。仏とは、目には見えない諸縁の諸力である。自分はそんな諸力の手のひらの上で毎日生かしてもらっている。そのようなことをふと思う。


それ以外に覚えている夢としては、サッカー日本代表の一員として国際試合に挑む場面があった。私はてっきり自分が中盤のポジションでスタメンとして出場すると思っていたら、元日本代表の自分と同じ歳ぐらいの監督が私をスタメンに起用せず、若い選手を抜擢した。総じてスタメンは若手が多く、そこからも監督が路線変更に舵を切ったのだなと思った。きっとそれは世代交代の意味があったのだろう。しかし、世代交代がなされたとしても後半にはきっと出場チャンスがあると思っていたので、念入りにそれに向けた準備をし、試合の戦況を絶えず分析的に見つめておこうと思った。そのような場面があった。フローニンゲン:2024/3/24(日)05:36


12366. 今朝方の夢の続き       


いよいよ欧州は来週の今日からサマータイムに入る。それもあってか、ここのところは日の出が早く、日の入りは随分と遅い。その証拠に、朝6時を迎えた今この瞬間において随分と辺りが明るくなっている。今日は早朝に小雨が降っていたこともあってか、小鳥たちの鳴き声はあまり聞こえてこない。彼らもまたきっとどこかで雨を防いで過ごしていたのだろう。

先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、まだ全ての夢を振り返ったわけではないので、残りについても振り返っておこうと思う。そう言えば昨日に、平安時代に始まった「三一権実論争(さんいちごんじつろんそう)」に端を発する「応和宗論(おうわのしゅうろん)」の論争過程を辿っていると、全ての衆生は悟りに至ることができるという論陣を張る天台宗側が夢のお告げを引用し、それを法相宗側が単なる夢だという理由で退けていた箇所に目が止まったのを思い出した。もちろん法相宗側の主張として、そのお告げが夢によってもたらされたからという理由だけで退けたわけではないが、自分としては結論部分については法相宗側に肩入れをする一方で、夢の内容を議論の素材に活用した天台宗側のアプローチを評価したいと思う。鎌倉時代前期の華厳宗の僧侶である明恵上人は、ある種自らの夢を克明に記す形で仏道修行に励んでいたのであり、夢が開示する内容とその力は蔑ろにできない。心理学者のフロイトもユングも夢を非常に重要な洞察資源としていたことを待つまでもなく、夢は私たちの識の世界について非常に重要なことを教えてくれる最良の教師であるし、私たちの八識の権化でもある。


そのようなことを考えていると、今朝方の夢の中でホテルのレストランでビュッフェ形式の朝食をこれから食べようとしている場面があったことを思い出した。辺りはまだ真っ暗で、夜と間違えてしまいそうな雰囲気があったが、朝食会場にはすでに何人もの外国人がいた。印象として家族連れが多かった。そんな中、ヴィーガンである自分にとっては自分で食べ物を選べるのは嬉しく、様々な食材を選んで栄養豊富なヴィーガン食を食べる楽しみがあった。その楽しみを享受しようと思った瞬間に場面が変わり、気がつくと海岸線を走るスポーツカーの中にいた。運転手は見慣れない若い外国人の男性だったが、どうやら私たちは知り合いのようだった。海沿いにはリゾートホテルが立ち並んでおり、運転中の彼が一際立派なリゾートホテルの横を走りながら、その設備の数々を指差して説明してくれた。ビーチサッカーができるコートの横を通り過ぎるときに、2人の筋骨隆々のボディビルダーの男性がこちらに向かってにこやかに笑ってポーズを取った。なぜビーチサッカーのコートにボディビルダーがいるのかは不明だったが、彼らの肉体美は見事で思わず感心をしてしまった。海に到着すると、今から少し泳ごうということになり、私たちは波打ち際に駆け出していき、服を脱いで海に飛び込んだ。波はそれほど高くなく、泳ぐのには不便はなかった。しかし私は、海の中にサメがいないかどうかが心配になり、あまり遠出することなく、浅瀬で泳ぐことをしていた。サメに対する恐怖心が浅瀬にいてもムクムクと湧いてきたので、海から上がることにした。するとサメへの恐怖心はどこかに消え、清々しい風と心地よい太陽の光が自分の体を包んでいた。フローニンゲン:2024/3/24(日)06:33


12367. 不可知の阿頼耶識の中にいるサメ   


今日もまたいつもと変わらずにすっかり習慣と化した“Inside Vasubandhu's Yogacara: A practitioner's guide”に掲載された『唯識三十頌』の音読から探究活動を始めていきたい。シロシビン・セッションに向けた準備を開始するのは午前10時からであり、今日は半日接心のような形でシロシビン・セッションを通じて寛ぎたいと思う。2週間に1度、午前中から夕方にかけて自分の内面世界と深く向き合う時間をただただ過ごせることを有り難く思う。それは再生と涵養をもたらしてくれる。何よりも、自分の煩悩の一部を滅却する働きをある種強制的に行ってくれる機会となることは、心の成長を希求する自分にとっては願ってもないことである。それと同時に、今日のセッションの中で、深層意識である阿頼耶識からどのような現象や真理が開示されるのだろうかと思う自分がいる。そこにはもはや恐怖心はないが、何が起こるかわからないなんとも言えない感覚が常に付き纏うことは確かである。未知に開かれ、未知に飛び込んでいく際の命がけともいるような行為の際に芽生えるなんとも言えない感情があることは否定できない。それは死に向かう喜びだろうか。今の自分を死ぬことに対する恍惚感だろうか。いずれにせよ、そのような類のものであることは間違いない。そうした名指しの難しい吸引力を持つ感情と感覚があるからこそ、こうして組織立った形で隔週でセッションを行い続けているのだと思う。


空を覆う雨雲。それは間違いなく雨雲である。今実際に小雨がポツポツと降っているようだ。いや、それは霧のような雨だと形容した方が正しそうである。雨雲を眺めながら、先ほど振り返っていた最後の夢の場面で登場していたサメへの恐れについて振り返っている。それは上述のように、今日のシロシビン・セッションに対する深層的な気持ちの現れかもしれない。私たちの心の中には、サメのような存在がいる。それは私たちの深層意識としての阿頼耶識に業種子として蓄えられる形で存在している。夢の中の自分はサメと対峙することなく海から上がった。仮に砂浜が表層意識なのであれば、海はやはり深層意識と捉えることができそうだ。夢の中の海は、澄み渡っているというよりもむしろ逆に、海の中を見ることは全くできなかった。汚れていたわけではないのだが、海中を見ることが一切できなかったのである。そこからも阿頼耶識が不可知だと言われる性質と合致することを思わせる。唯識学でいう深層意識は、フロイトやユングが述べるような無意識と違い、私たちにはアクセスすることができない不可知の領域として広がっている。私たちが捉えることができるのはあくまでも表層意識に現れる現象に過ぎないというのが唯識学の考え方である。そうなってくると、夢の中の海は不可知の領野であり、そこにサメのようなものがいるということだけは認知できたこととは一歩の前進だと言えるだろうか。今日のセッションで、何かそのサメが姿を表すだろうか。いずれにせよそのサメが現行する際には、結果としてのそれは善悪どちらでもない無記なのである。ゆえにそれを恐れる必要はなく、無記として現れたそれの背後にある真理を捉えることを心掛けたいと思う。今日のセッションも何か大切なことがもたらされ、何か重要なことが起こりそうである。そんな予感がする。フローニンゲン:2024/3/24(日)07:04


12368. 今日のシロシビン・セッションにおける実験/

オレゴン州とカリフォルニア州のサイケデリック規制の路線修正の様子を見て


確かに今日は曇り空で、今にも雨が降りそうな空模様だが、それでも朝の世界の深くに体現されている穏やかさと落ち着きを感じる。そのように世界を捉えているということは、自分の心がそのような状態なのだろう。外界は客観的な形で存在しているのではなく、常に私たちの主観によって色付けられた形で存在しているのだ。世界は私たちの心が生み出しているのである。言い換えれば、外界として存在していると思っている世界に裏書きする形で、私たちの心は画師としてそれぞれ思い思いに世界に色付けをする形で世界を作り直し、それをありのままの世界だと認識しているのだ。まずはそうした虚妄に気づくことが大事であろう。そこで始めて自らの心によって生み出された脚色された世界の真実に目覚め、観察行を積みながら徐々に世界を純粋に捉えることができるようになってくる。


今日のシロシビン・セッションで実験してみたいことは、ここ最近の一連のセッションは日本語で構築された自己としてそれに臨んでいたが、今日は英語で構築された自己としてそれに臨んでみようと思う。準備の段階から日本語で思考することを一切やめ、完全に脳を英語モードに切り替えて、セッションの準備からセッション中の体験をできるだけ英語脳の状態で進めていこうと思う。直感的に今日はそのような形でセッションに臨みたいと思ったのである。特に深い意味はないと顕在意識では思っているが、潜在意識には何か深い意図があるのかもしれない。いずれにせよ、今日は実験的に英語脳の状態でセッションに取り組む。そのように決めた。


先ほどサイケデリクスに関するニュースサイトの記事を眺めていると、これまでサイケデリクスに対して友好的な規制を打ち出していたオレゴン州とカリフォルニア州が少し慎重路線に向かい始める動きを見せていることを知った。どうやらサイケデリクスではなく、フェンタニルなどの中毒性の高いハードドラッグが両州で蔓延し、中毒者が増加していることを受けての方向転換のようである。一般人のドラッグリテラシー・サイケデリックリテラシーというものが向上していかない限りは、せっかく規制を緩めてサイケデリクスへのアクセスの門戸を開こうとする動きも頓挫してしまう。一般人は、自ら学ぶことをせずに規制が良い方向に変わって欲しいと願うのは随分と他人行儀であり、そのような姿勢を私たちが持ち続けている限りは、サイケデリクスを日常的に活用するような規制が敷かれる日はやって来ないのではないかと思う。あくまでも医療目的に留まり、アクセスできる人はごく一部の限られた人に留まってしまう状況がこれからもしばらく続く国が多いのではないかという見通しが立つ。そのようなことを思わせる記事だった。フローニンゲン:2024/3/24(日)07:32


12369. 唯識瑜伽行としての今日のシロシビン・セッションに向けて


時刻は午前9時半を迎えようとしている。ここまでのところ、今日もまた唯識学の探究は順調に進んでおり、後ほどのシロシビン・セッションに大きな弾みをつけてくれるのではないかと思う。それに加えて、セッション後の体験の咀嚼にここまで獲得した知識は非常に力を貸してくれるだろう。それは有力の増上縁として自分を支えてくれている。有形無形の諸縁に支えられながら毎回のセッションが成り立ち、これ以上ない成長機会をもたらしてくれる。そのことに深く感謝の意を捧げる。


今日のセッションもまた前回と同様に、仏教音楽を流そうと思う。前回の体験が非常に印象的かつ真理の深さも実に見事だった背景には、仏教音楽の力の恩恵があったと言えるだろう。今回もその恩恵に授からせてもらうという思いで同様のプレイリストを流す。本日摂取するのは、「英雄の服用量」である完全乾燥させたマッシュルーム5.0g以上を想定している。5.0gから5.3gの間の服用量にしようかと思う。前回は5.1gであった。前回と同じく空腹状態でクエン酸量を増やすと体験があまり望ましいものにならないので、クエン酸を加えた後にカカオパウダー、ヘンプパウダー、蜂蜜を少々加えて飲みやすくしたいと思う。前回はこの摂取方法が功を奏した。基本的に摂取方法と服用量、さらには音楽という変数は前回と同様のものとする。変数設定を変える箇所は体験前と最中の言語脳を日本語から英語に切り替えることだ。いずれにせよピーク体験中は言語機能が遮断されるため、その時には深い禅定状態をただただ味わって真如と一体化することに住したいと思う。こうした体験は貴重であり、その体験そのものが阿頼耶識に善の種子として薫習されていくはずである。もちろんその体験を不善ではなく善の種子にするためには、善行に向けた意志に基づく内省と意味付けが重要になる。その点を肝に銘じておこう。


隔週で実施するシロシビン・セッションは良き習慣として板に付いている。そして日々の唯識学研究もまた最良の研鑽として習慣化されている。ここからは、唯識学に内包される全ての用語体系を自らの瑜伽行的サイケデリック体験と紐付けながらさらに理解を豊かなものにしていきたい。用語体系を習得していく過程は複雑化の方向に向かうものであるが、そこから単純化への道も念頭に置いておく。日々の観法行としての実践に教えとしての概念を適用する際には、それがシンプルであればあるほど適用性が向上する。この複雑化と単純化の道の双方を行き来する形で菩薩に至る修行道を歩んでいきたいと思う。フローニンゲン:2024/3/24(日)09:35


12370. 第29回シロシビン・セッションの振り返り(その1)


時刻は午後6時を迎えた。第29回シロシビン・セッションを終え、今、夕食を摂り終えたところである。「観心覚夢」まさに心を観ずることを通じて夢から覚めるというセッションだった。尊敬すべき鎌倉時代の法相宗の僧侶良遍(りょうへん:1194-1252)の主著『観心覚夢鈔』が真っ先に脳裏に浮かぶようなセッションだったように思う。ここからゆっくりと今日のセッションを振り返っていこう。まずどこから振り返ろうか。


端的には、今日のセッションは前回と同様に、とても平穏でそれでいて非常に深い体験をもたらしてくれるものだった。テクニカルな点で言えば、クエン酸豊富なレモン汁、カカオパウダー、ヘンプパウダー、蜂蜜の配合量に関してようやく最適なものを見つけたという感じである。今日は5.1gほどの完全乾燥させたシロシビン・マッシュルームを用いた。品種は“McKennaii”というもので、これは旧栽培セットの“Golden Teacher”と同等の効力を持つものだ。この品種は品種改良されたもので、育つ速度が早く、収穫量も多い。そんな品種の完全乾燥させたマッシュルームを5.1gほどをよく刻み、それをコップに入れ、その上に少々のレモン汁を垂らした。前回は少々レモン汁が多いように思えたので、今日は気持ち少なめにした。感覚的には、刻んだマッシュルームの全体がじんわりと満遍なく浸るぐらいの量である。そこに白湯を加え、その上にカカオパウダー、ヘンプパウダー、蜂蜜を加えていった。前回は加えたオーガニックの100%カカオパウダーの量が少々多かったので、蜂蜜を加えても渋みがある感じだった。なので今日は小さいスプーン1杯だけ加えることにしたところ、非常に飲みやすかった。ヘンプパウダーによってさらに味わいがまろやかになり、蜂蜜によって甘さも加わったので大変飲みやすくなった。今回それは大成功だったので、次回以降もこの組み合わせと配合量でいこうと思う。


テクニカルな話をしたついでに言えば、やはりクエン酸豊富なレモン汁を加えることは重要なのようである。シロシビンがサイコアクティブな作用がより強いシロシンに迅速に変換されていることを体感的にも感じた。マッシュルームの細胞壁の内側にあるシロシビンをシロシンに変換させるためにも引き続きクエン酸豊富なレモン汁は賢く活用したい。シロシビンが効率的かつ迅速にシロシンに変換されたことによって、今日も体験の入りが早かった。摂取後、わずか15分で知覚変容を感じ、速やかに1階の寝室に向かってセッションを始めた。クエン酸は体験の入りを早くさせ、体験から覚めるのも早くさせると言われるが、自分の場合には後者については当てはまらないようだ。確かにピーク体験は2時間半後ぐらいにパッと終わりを迎えたのだが、そこからも引き続き相当に深い意識状態が続き、結局今日も6時間強ほどのセッション時間となった。 その6時間の体験はいつもながら、言葉にし難いものであった。とてもとても深く、とてもとても慈悲と慈愛に満ちた体験であった。フローニンゲン:2024/3/24(日)18:36


12371. 第29回シロシビン・セッションの振り返り(その2)


今日のセッションの中で印象に残っているのは、なぜか幼稚園の時の思い出が突然思い出されたことである。自分は母が作ってくれたお弁当を食べるのがいつも遅く、教室の友達はみんな早々と弁当を食べ終え、外に遊びに出かけているような状況が毎日の光景だった。しかし、教室の中に残っていたのは自分だけではなく、自分と同じぐらいにマイペースにお弁当を食べている女の子がいた。毎日彼女と2人で教室に残って、楽しげに会話をしながらゆっくりとお弁当を食べている自分がいたことを突然のように思い出したのだ。この思い出は自分にとって福音的な救いをもたらすものだった。自己の本質に誰のペースにも惑わされず、自分が望む速度で事に当たる自分がいることを思い出させてくれたのである。今こうして唯識学と出会い、それを自分のライフワークとしながらゆっくりと歩みを進めている自分が絶対的に肯定されたかのような感覚があった。自分は自分のペースで歩んでいけばいい。そして他者に対しても決してこちらのペースを強要することはせず、その人がその人なりのふさわしいペースで歩んでもらえるように支えたいと思わされた。その人を支えるというよりも、その人のペースを優しく包むような感じで。あるいは包む必要もなく、慈悲の心で見守るような感じで。


智慧と慈悲。それも今日のテーマであった。自分の命は灯る1本の蝋燭である。その蝋燭は光と温もりを持っている。光。そうそれが智慧である。温もり。そうそれが慈悲である。智恵と慈悲の双方を内包した蝋燭として生き続けていきたいという思い。必要な人に必要なだけの光としての智慧を。必要な人に必要なだけの温もりとしての慈悲を。その双方を出し惜しみなく与えられる人になりたい。いついかなる時もどんな人に対しても。人を超えて生きとし生ける全てのものに対しても。


仏教において慈悲は、他者の幸福を願う心としての「慈」と他者が苦しみや困難から解放されることを願う心としての「悲」の双方の意味を持つ。「悲」は決して悲しいという意味ではなく、他者から苦が取り除かれ、楽になることを願う心を意味する。なんて素晴らしい意味であり、言葉であろうか。その言葉に思わず感銘を受けてしまう。とにかく自分は他者の幸せを願いながら、他者が苦しみから解放されることに向けて尽力したい。そんな思いで一杯である。自分自身の智慧をより一層育てていきながら、慈悲心もより育んでいきたい。その過程の中で絶えず自分にできる限りの光と温もりを生きとし生けるものに共有していきたい。本当にその思いでただただ一杯である。フローニンゲン:2024/3/24(日)18:54


12372. 第29回シロシビン・セッションの振り返り(その3)     

 

無性に「ありがとう」と伝えたい気持ち。誰か特定の他者へというよりも、全ての存在者に対して。無性にお礼とありがとうという言葉を伝えたい。そんな気持ちで一杯である。

今日のセッションの中でも、ピーク体験を過ぎてからの後半において、両親と親友への感謝の念が溢れていた。前回は確かそこに小中学校時代の恩師への感謝があったように思う。高校時代の先生たちに感謝の念を持てるようになるためには、あともう一歩乗り越えていかない何かがあるようだ。それも全て自分の心の問題である。先生たちに非は一切ない。非は自分の識にある。高校時代全体に対しての記憶と体験と向き合って種々の問題を解決するには今しばらく時間がかかりそうだ。しかしそれでいい。それもマイペースで取り組んでいけばいいのである。友人たちにも先生たちにも学校にも一切責任のなかったあの高校時代に1人格闘していた自分を心の底から認め、抱擁している自分がもう芽生えている。あの1人もがきながら前になんとか進もうとしていた高校時代の自分に優しい言葉をかけたい。本当に頑張っていたと思う。それ以上、あれ以上の頑張りを求めることはしない。頑張る必要などなく、とにかく安らかになってもらうようにあの時の自分に声を掛けよう。ゆっくり休んでいいのだと。ゆっくり休んで、自分のペースで楽しみながらゆっくり歩けばいいのだと。高校時代の自分にそんな言葉を掛けたことは未だかつてなかったように思う。自分で作った地獄の中で天国を目指して蜘蛛の糸を懸命に登ろうとしていた自分。とても我が強く、まるで自分だけが助かればいいと思っているような自分がいた。そんな自分ですらも今の自分は深い赦しの念と労いの念を持っている。あの時の自分が安らかに眠れますようにと。あの時の自分の苦しみが取り除かれますようにと。


積年の課題として存在していた高校時代の自分に心底慈悲の気持ちを今日初めて持つような体験がもたらされたことは、本日のセッションの最大の贈り物だったのではないかと思う。もちろん高校時代の自分はまだ癒しを求めている。まだ言えぬ深い心の傷を負っている。彼の心の傷を彼と一緒に癒していこう。今後のセッションはそのためにある。きっとこれからのセッションで、必要なタイミングで必要な分の癒しが彼にもたらされるだろう。自分はそのためには全てを捧げるつもりである。彼にも智慧と慈悲を出し惜しみなく降り注げたい。彼の思い、言葉、願いに虚心坦懐に耳を傾けていくこと。明日からの日常生活の中で彼の声が聞こえたら必ず話を聞き、声が聞こえなくてもいつも自分は優しく見守り続け、彼の心の傷が少しずつ癒されていくことを静かに祈ろう。フローニンゲン:2024/3/24(日)19:15


12373. 第29回シロシビン・セッションの振り返り(その4)


今日のセッションでは、予定通りに言語脳を最初から英語に切り替え、セッションに向けた準備からセッションに入るまで全て英語脳の状態を保っていた。シロシビンドリンクを摂取後、わずか15分で体験が始まり、1階の寝室に入ってアイマスクをしてすぐさまベッドの上に仰向けになってからは速やかにピーク体験に誘われていった。今日は本当に究極的な浄化が起こった。あれほどまでに全存在が浄化されたのは未だかつてなかった。生まれ変わるというのはああいうことをいうのだという体験だった。脳の浄化、心の浄化、身体の浄化の全てが異次元であった。その時の体験は筆舌に尽くし難い。とりわけ印象的だったのは、英語脳に切り替えていた自分の頭がおよそ人間が操る言語であればいかなる言語も一種にして習得できてしまうぐらいに、まるで赤ん坊の無垢な脳の状態にまで戻るような体験があったことだ。成人の脳がまっさらな無垢の脳に立ち返ることは可能なようである。確かに数日前に読んだシロシビンのアンラーニング効果に関する論文にあるように、シロシビンは成人に対しても言語を含めて学習臨界期を解除してくれるような驚くべき効果がある。今日は「英雄の服用量」を摂取したこともあり、そのような効果の恩恵に浴した形となる。もう少しあの体験を言葉にすることができないだろうか。まさにジョン・ロックが述べた「タブラ・ラサ」状態である。「何も刻まれていない石板」となり、そこからまたいかなるものでも刻めるような状態になったことは本当に驚愕に値する。繰り返しになるが、あれはなんだったのだろうか。あんなことがあっていいのだろか。良いも悪いもなく、それは自分の身に確かに起こったのだから、それはそれとして受け止め、むしろそんな有り難い体験をさせてもらえたことに感謝しなければならない。脳がタブラ・ラサとなり、いかなる智慧も速やかに刻まれ、智慧を自由自在に迅速無尽に活用できるような状態に浸っている時間が随分とあった。

肉体としての生まれ変わりについて。こちらもまた言葉を絶する。言葉を拒むほどの体験があった。もともとシロシビン・セッションの日は1日ファスティングをするようなものなので、胃腸が十分に休まっており、デトックスしやすい状態にあることは確かだ。また常日頃からオーガニックの食材しか口にしておらず、肉も魚も乳製品も一切摂取しないヴィーガン食を徹底していることもあって、尚更身体の浄化が進みやすい状態にあることは間違いない。シロシビン・セッションの体験を深めていくことに関して言えば、おそらく食実践ほど重要なものはないように思う。それに続く形で日頃の筋力トレーニングなどの身体実践が来る。シロシビン・セッションを他者に提供してきたこれまでの経験からすると、日頃の食実践と身体実践の質がセッション体験の質を決定していることはほぼ確実である。今日の自らの身体に起こった印象的なことは、腸が深く寛ぎ、深く喜び、新たに生まれ変わることを通じて、全身が百閃光の眩い白い光に包まれたことである。あの筆舌に尽くし難い祝福に満ちた白い光に包まれる体験は、これから一生忘れることはないだろう。フローニンゲン:2024/3/24(日)19:34


12374. 第29回シロシビン・セッションの振り返り(その5)  

   

観心覚夢!観心覚夢。観心覚夢!観心覚夢。こんな素晴らしい言葉はやはりない。良遍僧侶に感謝して止まない。実は数日前に、太田久紀先生が翻訳解説した良遍の『観心覚夢鈔』を読んでいた。その時の感動は今でも忘れない。心を観じて、唯だ識のみであると悟ることを通じて夢から覚めること。それは本当に可能なのであり、それ以上に重要なことはもはやないようにさえ思えてくる。未だ眠りの世界にいる人を乱暴に目覚めさせるのではなく、静かに見守りながらそっと優しく目覚めるための手助けをしていくこと。この世界の大半の人は夢の世界で眠っていることに気づかない形で毎日を生きているのである。眠りの世界から目覚めた時、人は初めて命を輝かせ始める。この世界をありのままに見つめ、自利利他円満の存在として命を輝かせ始める。夢から覚めることの意義と価値はそれに尽きるだろうか。

夢の世界で眠っていても地獄、夢から覚めても地獄と述べるペシミストは本質的に夢から覚めていない悪取空者なり。そう思う。そんな人間の言い分に耳を傾けてはならない。彼らもまたまだ眠った住人なのだから。そして空(くう)を取り違えているのだから。


今日のセッションで思い出された幼稚園の頃の1つの記憶。自分と一緒にお弁当をマイペースに食べていた女の子への感謝の念が尽きない。彼女の名前はもう忘れてしまっているが、彼女がいてくれたこと、そして毎日一緒に話を楽しみながらゆっくりとお弁当を食べていたことが良き思い出として存在の奥に染み込まれている。彼女は今の自分を形成する有力増上縁なり。なんだか本当に感謝が尽きない。感謝の念の円環構造の中を順繰りしている自分がいる。あぁ、依他起性というのはそういうことなのだ。それは単に存在は諸縁によって存在し、生成消滅しているだけではなくて、依他起性そのものが本質的に円環構造を持っているのである。それは円状のダイナミックネットワークなのである。感謝の対象を抱かずにはいられない諸存在の網の目の向こうに円成実性(えんじょうじっしょう)の世界が広がっている。それは円満と成就と真実との三義を具有する不生不滅の無為の真如である。そんな真如を感じながら、そんな真如と化していた豊かで幸福な時間が今日のセッションの後半にあったことを思い出す。その時はもうピーク体験は過ぎていたのだが、それでもあれほどの至福体験があった。今日のセッションの中で何度も自分はこれ以上にないほどに恵まれていると思った。その恵みを少しでも他者に共有していかなければならない。光と温もりとして。智慧と慈悲として。これからも自分は自らの名前を名乗り、肩書きを持ってこの社会の中で生きていくだろうが、自分はもはや名前も肩書きも超越した存在である。今日は名無しの体験もした。その時に分かったのが、自分は光と温もりして生きていけばいいのだということだった。自分は智慧と慈悲として存在し、ただそれとして生きていけばいいのである。自分に付与された名前と肩書はあくまでも仮のラベルである。もちろん両親から付けてもらった名前には最大の感謝をしているし、名前による大きな後押しがあることは間違いない。事実、今日のセッションの中でも、自分の名前に込められている太平洋のような全てを包む広く穏やかな心の状態を体験し、全ての存在を平等に眺める平等性智を体現した自分がいたことは間違いない。ただそれでも自分は自らの名前を含んで超えていく必要がある。光と温もりとして、そして智慧と慈悲として生きていくためにも。そして何よりも、全ての生きとし生けるものから苦を取り除き、幸せになってもらうためにも。フローニンゲン:2024/3/24(日)20:01

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