top of page

【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】12544-12550:2024年4月20日(土)

⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指したサイケデリック唯識ラジオの配信をしています。


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。

タイトル一覧

12544. 訓読文の読解力の向上に向けて

12545. 実践思想としての瑜伽行唯識学への誤解

12546. 今朝方の夢

12547. 自らの家系と日本の法相唯識学との繋がりに想いを馳せて

12548. ハイデガーが現れる印象的な夢

12549. 今朝方の夢の続き/訓読文を自由自在に読み解けるようになるために

12550. 時空を超えて蘇る良遍の『唯識空観』


12544. 訓読文の読解力の向上に向けて


時刻は午前6時を迎えた。今、辺りはうっすらと明るくなり始めている。今朝は朝からポツポツと音を立てて雨が降っている。そんな中、庭側とキッチン側の両方の木々に小鳥たちがやって来て、澄み渡る鳴き声を上げている。どうやらこのくらいの雨であれば小鳥たちは何も問題とせずに鳴き声を上げにやって来てくれるようだ。彼らはこうした雨の中で何を目的にして鳴き声を発しているのだろうか。世界に届けなければならない声がある。自分もまたそんな気持ちである。昨日届けられた唯識学の専門書のうち、6冊は大正時代よりも前のもので、それらに触れると背筋が正される思いとなった。また、古書であればあるほど、それらに触れたときの感動はひとしおで、唯識学を自分はどこまでも深く探究していこうと改めて誓った次第である。自分が生まれる1300年前に活動していた学僧の残した書物に触れる時、唯識学という日本が誇る文化的・精神的遺産としての叡智の集積である教えを絶やしてはならないと思った。それを受け継ぎ、次の世代に渡していく責務のようなものをひしひしと感じ、それに使命感を燃やしている自分がいる。確かに書き下し文ではなく訓読文で書かれた文章を読み解いていくのは大変である。しかし英語学習を継続し、英語がスラスラと読めるようになった自分が今ここにこうして確かにいることを励みとし、訓読文に習熟していきたいと思う。そのための実践として、今日から『唯識三十頌』の漢訳の音読に加えて、昨日届けられた良遍の残した書物のうち、どれかを選んで、その訓読文を音読していこうと思う。音読を継続していくことを通じて、少しずつ訓読文の読解感覚が養われてくるだろう。英語でも理解しながらの音読や時には理解を伴わない素読としての音読を過去にしてきたが、それらを通じて英語の文章を英語のまま理解する力を養うことができた。それを思い出しながら、漢字というある程度意味が連想される訓読文であれば、地道な音読実践を継続していけば、必ずや英語の文章と同じくスラスラと読めるようになってくるはずである。まるで言語パズルを解くかのように、唯識学の訓読文の文献を読解することを楽しみたい。もしかしたら訓読文の読解に習熟すると、いつか漢文のままで文献を読めるようになるかもしれない。そうしたら研究の幅はさらに広がる。中国語の文献をそのまま読解することができたら、きっと唯識学の研究はさらに充実したものになるだろう。そうした未来の楽しみを見越して、目下足元では訓読文に対する地道な音読実践をしていきたいと思う。フローニンゲン:2024/4/20(土)06:23


12545. 実践思想としての瑜伽行唯識学への誤解


雨がポツポツとした音を立てながら、小鳥たちが美しい鳴き声を上げている朝の世界に佇んでいる。まだ完全な夜明けはやって来ていない。今の気温は6度で、日中の最高気温は9度までしか上がらないようだ。今日は朝から夕方まで雨が続くようで、午前中からは雨足が弱くなり、小雨となるようである。


瑜伽行唯識学が単なる哲学思想であると誤解をしている人が多いかもしれないという懸念事項について昨日考えていた、「瑜伽行」という言葉が示唆するように、唯識学を開拓した人たちは瑜伽師と呼ばれる実践者集団であった。彼らは観法行を通じて、日常に地に足の着いた実践をこそ大切としていた。日頃私たちが生きている生活世界の中で直面する心の問題をこそ彼らは扱っていたのである。自分一人でいる時にも、他者と接する時にも、私たちの心は何かしら必ず動く。その心の微細な動きに注目し、彼らは心の働きとメカニズムを詳細に分析し、分析で留まらず、どのようにすれば心の問題を解決できるのかの実践方法を無数に編み出していった。それは多様な観法行に結実していくわけであるが、このように、唯識学が単なる理論体系であるとか思想体系であるとか、そういった誤解を解くことにも貢献していきたい。そのためには自分自身が唯識学を通じた実践を日々行うことであり、その実践過程を共有し、他者や組織が抱える心の問題の解決に乗り出していくことである。その在り方は、心の問題を扱うコーチやコンサルタントのようなそれに近いかもしれない。自分はセラピストの資格は持っていないので、あくまでも唯識学をかつてコーチングがコンサルテイングを行っていた時の知見と組み合わせながら、他者や組織の心の問題の解決と心の成長の実現に寄与していきたいという思いが芽生えてくる。唯識学の単なる研究者ではなく、常に自分はやはり実践者なのである。実務家としての側面があるのである。そのことを片時も忘れないようにする。


瑜伽行唯識学が重視する観法実践は非常に重要だと毎日思う。真理とは事物と離れたところには存在していないのである。私たちが日常何気なく接している全ての事物の背後に絶えず真理は存在しているのだ。煩悩や執着心で濁った私たちの心には、単に真理が見えなくなってしまっているだけなのだ。そうした煩悩や執着心といった汚れを取り除いていくことに観法行は力を発揮する。真理は現実世界や現実存在を離れたところにあるのではなく、全ての事相に内在しているのである。真理と事物が不離不即というのはそういう意味である。ゆえに唯識学の観法行は、日常の些細な事柄の中にも真理を見出すことを目的にしていると言えるだろう。そして私たちが真理に触れれば触れるだけ、心はさらに浄化され、心の成長がさらに実現していくという点も見逃すことはできない。フローニンゲン:2024/4/20(土)06:36


12546. 今朝方の夢        


天気予報に変化が見られ、早朝から降っていた雨が午前7時を迎えた段階で止んだ。そのおかげか、小鳥たちも楽しげに鳴き声を上げている。雲がかった朝空を眺めながら、今朝方の夢について振り返っている。


まず印象に残っている夢として、小中学校時代に過ごしていた実家の社宅に小中学校時代の友人たちを招待していたことである。10人ぐらいの友達がうちにやって来て、かなりの賑わいを見せており、母にあまり気を遣わせないようにするために、自分の方で彼らに飲み物などを出そうと思った。その時にお茶がいいのか水がいいのか、はたまたジュースがいいのか悩んだが、うちにはあまりジュースなどは置いてないぞと思ったのでお茶を出すか水を出すかの2択かなと思った。同時に、友人たちがくる前にお茶を全て飲んでしまっていたような気がしたので、改めて新しくお茶を作る必要があるかもしれないと考えた。その日は夏日だったこともあり、熱いお茶を作り、その出来立てのものを出すと彼らも嫌がるだろうと思ったし、お茶が冷めるまで待てないだろうと思ったので、とりあえず水を差し出すのが賢明かと思った。すると、友人たちは喉はさほど乾いていないようで、早速テレビゲームをしようということになった。1時間ぐらいテレビゲームをしたら家のすぐそばの学校のグラウンドに行ってサッカーをしたり、バスケをしたりしようということになっていた。いつも私たちはテレビゲームから遊びを始め、それをほどほどに切り上げて、そこからはサッカーやバスケなどの運動をするというとても健全な遊びをしていた。テレビゲームばかりに没頭しないということが私たちの遊びの特徴だった。


いざテレビゲームを始めてみると、友人の1人(KM)がニンテンドー64のコントローラーを根元から引っこ抜いた時に、根元を手で押さえながらではなく、雑に引っこ抜いてしまったのでコントローラーの根元の部分が壊れてしまった。彼はそれについてとても悪いことをしたと反省しているようだったが、実際には元々コントローラーの根元は緩んでいて、いつ壊れてもおかしくない状態だった。なので彼には気落ちする必要はないということを伝えた。そもそもニンテンドー64というゲーム機器は過去の遺産になっているぐらいに古いものなのだ。そうしたことを考慮し、全ては諸行無常で固定不変のものはないのであるから、そうしたゲーム機器もいつかは故障するという達観したものの見方を私は持っていた。

友人たちに先にゲームを楽しんでもらっている間に飲み物の準備をしようと思った。冷蔵庫を開けてみると、驚いたことに冷凍室ではなく冷蔵室にアイスクリームがびっしり並んでいた。それは母が友人たちに差し出すように購入したものなのか、はたまた自分で食べようと思って購入したものなのか定かではなかったが、自分で食べるにしてはとても多い量だったので、友人に差し出せということなのかと思った。しかし、どちらかが明確に判明するまではアイスクリームは冷蔵庫にしまったままにしておいて、とりあえず飲み物を出そうと思った。すると、冷蔵庫の奥に1Lのお茶のパックが未開封であった。それを友人たちに提供する案も思い浮かんだが、今度はそれは父が楽しみにとっておいたもののような気がして、友人たちにそれを提供すると、10人という人数からあっという間になくなってしまうと思った。なので当初の考え通り、友人たちにはとりあえず水を差し出すことにした。そう決断した時に、どういうわけか私は自分の部屋に戻っていた。すると、2人の親友(NK & YU)が部屋にやって来て、それぞれが500円の支払いを私に要求してきた。片方の友人は先日彼が主催したイベントのマネジメント料として、もう1人の友人は先日貸したお金として、それぞれが500円の支払いを主張した。2人の主張に対して特に異議はなかったが、片方の友人のイベントのマネジメント料の支払いというのは少し腑に落ちないこともあったが、確かに彼の貢献がないとそのイベントは成り立たなかったと思うし、500円というのは微々たる金額だと思ったので、2人にすぐさま500円を支払うことにした。しかし、500円硬貨は1枚しかなく、あとは100円玉や50円玉をかき集める形でもう1人の友人への支払いをすることになった。支払いが無事に完了すると、1人の親友(HO)が部屋の前の廊下にやってきて、ものすごく日焼けして真っ黒になった肌で立っていたのでどうしたのかと尋ねた。すると彼は微笑んで、先日家族と海に遊びに行ってこのように真っ黒になってしまったのだと述べた。これからまた外でサッカーやバスケをすると、彼の肌はさらに黒くなりそうだなと思ったところで夢の場面が変わった。フローニンゲン:2024/4/20(土)07:36


12547. 自らの家系と日本の法相唯識学との繋がりに想いを馳せて  


運命。偶然の余地を挟まず、必然の運命。そのようなものに想いを馳せる。唯識学、あるいは仏教全般においては偶然を否定し、全ては何かしらの原因によって生じると考える。あるいは、全ては必ず何かしらの縁によって生じると考える。かつての自分は偶然というものを信じていたように思うが、今こうして唯識学の探究に精を出してみると、ますます偶然が偶然ではなく、何かしらの原因や縁によって生じた必然の産物だと思えてくる。そのようなことを考えながら、加藤家と唯識学の繋がりにつて改めて考えていた。世界文化遺産の興福寺は、加藤家の起源である藤原家の支援を受けていた。パトロンとして藤原家が存在していたという点に、そして興福寺が藤原家の氏寺だったという点に自分との縁を感じるを得ない。唯識学の探究に加えて、そもそも興福寺についてもっと知りたいという思いが湧いてくる。その思いはまずは今年の秋の一時帰国の際にある程度満たされるであろう。一時帰国の際に奈良にはゆっくりと滞在し、滞在期間中に興福寺を含めて、様々な寺に足を運びたい。また、奈良駅から少し足を伸ばして、深く敬愛する良遍の墓がある竹林寺には必ず訪れたい。

興福寺について調べてみると、興福寺は元々は京都山科の藤原鎌足私邸に建立された山階寺が前身となっているそうだ。710年の平城京遷都に伴って藤原不比等によって現在の奈良の地に移転され、その際に興福寺と名付けられたそうだ。こうした歴史に触れながら、日本の過去の歴史の上に立ち、歴史を背負う形で唯識学の研究に打ち込みたい。日本の法相唯識学の研究に目覚めたのは、加藤家と密接につながる藤原家を起点いした興福寺の存在がきっとあるに違いない。自分の阿頼耶識に眠る祖先から受け継がれた種子が自分の眼と存在を開かせ、唯識学の研究に導いたのである。これは偶然ではなく、必然だったのだと思わざるを得ない。日本の法相唯識学の研究に目覚めさせてくれたおかげで、研究で使用する言語の幅が広がったことにも感謝している。これまでは日本語を一切介さず、英語しか探究で用いることができない状況であった。ところがどうだろう。今となっては日本語の古文書を通じて、日本語を通じて唯識学の研究に従事している自分がいるのである。以前より母国語の日本語を大切にしたいという秘めた思いがあったが、それは秘められたままで、学術研究上においては日本語は一切活用することができず、むしろ邪魔な言語でさえあったぐらいだ。それが今となっては、研究上なくてはならない生命線のような存在になっている。これもまた諸縁と条件の変化によってもたさられた事柄なのだろう。いずれにせよここからは、大いに日本語、とりわけ訓読文時代の古典的な日本語を通じて旺盛に研究を進めていく。その研究の成果についてはもちろん現代日本語で話し言葉や書き言葉の形で日本人の方たちに共有していきたいが、学術研究の成果については日本語ではなく、英語で発表をしていく。それが欧米の地に骨を埋める覚悟をした自分がなすべきことなのだと思うし、欧米の土地に導かれた自分のなすべきことなのだろう。自分は決して玄奘三蔵や空海のような存在ではないし、遣唐使たちのように海を渡って異国の地で学問を修め、それを母国に持ち帰るという存在ではない。自分は異国の地で一生を過ごしていく形で、母国と世界の双方に対して学びを共有するような存在であり続けたいと思う。その実現に向けて、今こうして日本語、とりわけ古典日本語と深層的に邂逅することができたことを心底喜びたい。自分の探究活動の新たな幕が激しい情熱と共に今静かに開けた。フローニンゲン:2024/4/20(土)08:18


12548. ハイデガーが現れる印象的な夢


雨の降る中鳴き声を上げてくれていた小鳥たちも、今少し休憩に入っているようだ。午前8時半に近づこうとしている現在、彼らはどこかで休んでいる。


先ほど今朝方の夢の中で印象に残っているものを1つ書き留めていたが、まだその他にも印象的な夢を見ていたのでそれについても書き留めておきたい。つくづく自分の第六織はまだまだ発達の余地があり、夢の中では間断を挟み、自覚的な意識を夢の世界の中で保つことができない。このあたりはチベットのドリームヨーガの技法についてどこかで修練する必要があるかもしれないと思う。第六織が間断しているがゆえに、夢の中の自分はまだそれが夢だと決して自覚できていないのだ。それはまるで多くの現代人が覚醒した状態の中で依然として虚妄的夢の世界の中に微睡んでいるのと同じことである。自分の心の成長はまだまだ未熟であり、夢の世界の中でそれが夢だと絶えず気づけるような意識が涵養して初めて、現実世界での観心覚夢が実現できるのではないかと思う。


夢の中で私は、見慣れない背の高い外国人の男性と、これまた見慣れない街の通りで話をしていた。立ち話に興じていると、さらにまた見知らぬ小柄な男性が私たちのところにやって来て話に加わってきた。私たちは哲学思想についての話をしていたのだが、そこにその男性が加わって来たことによってまた思わぬ展開を見せた。なんとその男性は、かのマーティン・ハイデガーだったのだ。見かけからしてまさかあのハイデガーだと全くわからず、随分と細身になっていて、現代風の格好をしてことから彼がハイデガーだと全く気づかなかったのである。ハイデガーは私たちの話に加わる形で、私たち2人に励ましの言葉を送った。彼曰く、自分の思想を超えていけということだった。ここで述べている自分の思想というのはハイデガーの思想のことを指す。私たち2人は確かにハイデガーの思想に影響をかなり受けていたので、ハイデガー当人はその点を少し気掛かりにしていたようだった。ハイデガーの主張としては、自分の思想もまた後に続く人たちの足掛かり程度のものでしかないので、そのような思いから自分の思想を足場として、踏み台としてさらなる思想の飛躍を遂げて欲しいということだった。そのようなことを述べると、ハイデガーは無邪気な笑顔を浮かべ、私たち2人に肩車をすることを要求してきた。私たちのどちらかがハイデガーを肩車するのではなく、2人でそれを行うことになったのである。よいしょと掛け声を上げて肩車をすると、ハイデガーは両手を点高く上げ、万歳をした。そしてそれぞれの足を私たちの方のそれぞれに掛けながら、ぶらりと頭と上半身を地面の方に垂れて、地面を見つめた。ハイデガーが私たちの肩から落っこちてしまうことを私たちは心配したが、ハイデガーは器用にも私たちの肩にうまく足をかけていたので、その心配は杞憂に終わった。ハイデガーは垂れた頭を通じて、私たちの目線とは上下逆さまな状態で世界を楽しそうに眺めていた。すると突然、私たち2人の中にそれぞれ思想体系の飛躍が生じ、これまで学んできた事柄が1つの巨大なシステムに統合されていく感じがあった。その感覚が芽生えた時、ハイデガーは役目を終えたと言わんばかりに私たちの肩から降りて消えていった。そのような印象的な夢を見ていたことを思い出す。フローニンゲン:2024/4/20(土)08:33


12549. 今朝方の夢の続き/訓読文を自由自在に読み解けるようになるために


小鳥たちが休息を終え、再び清澄な鳴き声を上げ始めた。それは朝の世界にさざ波のように優しくどこまでも遠く響き渡っている。自分の心の世界にもそのさざ波は届けられ、それを活動の根源として朝の活動に取り組んでいこうと思う次第だ。


先ほど、ハイデガーが登場する夢を見ていたが、それ以外にもあと1つだけ記憶に残っている夢がある。夢の中で私は、オンライン越しに見知らぬ女性と英語で話をしていた。声の質感から、顔の見えない向こうにいる女性はアジア系の女性だと思った。発音からしてシンガポール人かと思ったが、話の途中でその女性が日本語をポロリとこぼし、その瞬間に彼女が日本人だと知って驚いた。私はその瞬間に英語から日本語に切り替えて、「日本人の方ですか?」と尋ねた。すると一瞬間を置いて、「はい、そうです」と優しい声でその女性は答えた。そこから私たちは英語ではなく日本語で会話を楽しんだ。英語から日本語に切り替えてみると、彼女の性格の良さ、とりわけ心の綺麗さが伝わって来て大変好感を持った。話を進めていくと、どうやら彼女は今シンガポールで、朝から晩までは銀行で働き、夕方からはクンダリーニヨーガをスタジオで教えているそうだった。フルタイムの銀行勤めは実は表の顔ではなく、本来の表の顔はクンダリーニヨーガのインストラクターとのことで、ますます彼女に関心を持った。私もアイアンガーヨーガのインストラクターの資格を取得しているし、瑜伽行唯識学への関心から、今度世界のどこかで実際に会って話をしてみようということになった。そのような夢を見ていた。


この夢を振り返りながら、今後の唯識学の研究における中国語の文献の読解に向けて、中国語の漢字の数について調べていた。何やら現代の「漢語大字典」には6万字を越すほどの漢字があるらしいが、常用漢字は4千個ほどで、そのうちの1/4は日本語でも用いられている文字とのことである。そうしたことからもやはり中国語は日本人にとって親しみやすく、習得もしやすい言語なのかもしれないと改めて思った。とは言え文法構造の違いなどもあるから、きちんと継続的に学習を進めていくことが重要であろう。中国語で話すことや書くことは傍に置き、唯識学の研究の観点から、中国語を読む力を高める訓練はどこかで本格的にスタートさせたい。


昨日届けられた唯識学の研究書10冊の書籍のうち、6冊が全て漢文の訓読文しか記載がなく、その読解のために中・高校時代に習った訓読文の読み方を思い出す必要性を切に感じている。そのための勉強を別途行うのではなく、自分が読みたいと思う良遍の作品を実際に読んでいくことにした。その際に、手を動かしながら訓読文の読解感覚を身体に染み込ませたいと思い、かつてコピー機がなかった時代に学僧たちが行なっていたように、手元のノートに一言一句鉛筆で写本していくことにした。その最初の試みとして、良遍の『唯識空観』という短い作品を取り上げることにした。そこからもどんどんと鉛筆で良遍の作品をノートに写本していくことを朝の音読行に加えて短い時間でいいので少しずつ地道に進めていくことにした。訓読文の読解もこの際新たな外国語を学ぶような新鮮な気持ちで取り組んでいきたいと思う。どれくらいの歳月を要するかわからないが、今英語の学術書を自由自在に読みこなすことができているほどに漢字だらけの訓読文を自由自在に読み解けるようになりたいと思う。そのようなことを昨夜考えていたのだが、まずは写本するよりも先に訓読文を何度も音読することを通じて、身体感覚に訓読文のリズムや質感を流し込んでいきたいと思う。そうした言語的シャワーを意識的に浴びせていくことによって、訓読文に関する自らの言語阿頼耶識を目覚めさせ、訓読文を自由自在に読み解ける下地を形成していこうと思う。フローニンゲン:2024/4/20(土)09:02


12550. 時空を超えて蘇る良遍の『唯識空観』


古典日本語の訓読文から中国語の唯識学の文献を読むために中国語へ、そこからチベット語の文献を読むためにチベット語を学び始めるか、サンスクリット語の原典を読み解くためにサンスクリット語を学び始めるのかを決めていく。今はそれを決定する必要はなく、まずは日本の法相唯識学の研究のために古典日本語の訓読文の読解力を高められるだけ高めることに専念していく。その他の外国語の学習を始めるのはそれからでよく、訓読文に慣れ親しむことによって、中国語の学習の下地も自然と形成されていくのではないかと思う。訓読文から訓点を外したらもう漢文となるので、漢文固有の文法構造さえ学べば、中国語での唯識学の研究書を読み解くこともそう遠くない将来に実現しそうである。訓点はあくまでも日本人が漢文を読みやすくするために付したものであり、日本人の日本語の言語阿頼耶識の感覚に基づくものであると考えると、訓点が付されるパターンを把握し、訓読文に仮に訓点が付されていても、自分でそれを付しているかのようにして読めるようになってくれば、訓点のない漢文と愛対峙した時にも随分と読解が捗るようになっているのではないかと思う。そうしたところまで見据えながら、良遍の残した訓読文を音読する朝の読経行を意識的に実践していこうと思う。それを単なる音読のための音読して行うのはもったいなく、良遍の思想を味わい、感じるための実践かつ、訓読文を自由自在に読む解くための読解力の向上の実践かつ生の漢文を自由自在に読み解けるようになるための鍛錬の場としたい。読み解ける言語の数が増えれば増えるだけ、自分の心の世界はより豊かになっていく。ある言語による制約を他の言語の学習を通じて解放していくことができる力に注目し、複数の言語を通じて心という言語に強く立脚した内面世界をどこまでも豊かにしていこう。


そのようなことを思った後に、良遍の『唯識空観』という非常に短い訓読文を音読した。音読後、iPadから「モジナビ」という非常に便利な漢字検索サイトを用いて、読み方や意味が分からない漢字を1つずつiPadのタッチペンを用いて手書きで画面に書いて検索していくということを地味にやっていったところ、なんと全ての文字の読み方と意味が分かり、良遍の『唯識空観』が今ここに自分の心の世界の中でありありと蘇ったことに対して強く深い感動を覚えた。これまでの自分の研究は古文書の解明とは無縁のものであったが、古文書と向き合う学者たちの喜びや楽しさがどういったものなのか身を持って目の当たりにする瞬間であった。古文書がこうして時代を超えて自分の心の世界に甦り、心を感動させ、心の成長を促進してくれる記念するべき原体験を良遍の『唯識空観』はもたらしてくれた。「モジナビ」というとても便利な漢字検索サイトに感謝をし、これを用いながら明日からも少しずつ良遍の残した書物の読解を進めていこうと思う。フローニンゲン:2024/4/20(土)10:23

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page