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【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】12386-12392:2024年3月27日(水)

⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指したサイケデリック唯識ラジオの配信をしています。


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。

タイトル一覧

12386. 真理に関する興味深い夢

12387. キノコに関する興味深い夢

12388. 真理の開示と覚夢/今朝方の夢の続き

12389. 法施の実践/唯識学に関する日々の取り組みについて

12390. シロシビン・セッションと唯識学の研究に打ち込むことを要求した阿頼耶識/夢を見ない深い睡眠中の世界で起こっている事柄

12391. 菩薩の誓願/唯識学・成人発達理論・インテグラル理論が生み出す智慧と慈悲に溢れた光の輪

12392. 森有正先生と自己の歩みの重なり


12386. 真理に関する興味深い夢    

   

小鳥たちが美しい鳴き声を高らかに上げている。時刻は間も無く午前6時を迎えようとしており、小鳥たちの鳴き声がとても活発になってきた。今日も元気一杯の鳴き声を聞けることはとても有り難く、小鳥たちから活力を分け与えてもらっているように思う。その返礼として自分は今日の取り組みに専心したいと思う。自他衆生の救済と幸福の実現に向けた唯識学研究に今日もまた全身全霊で打ち込んでいきたい。その他に取り組むべきことは今の自分にはない。それだけ集中して唯識学の研究に全力投球するだけだ。小鳥たちへの返礼、諸縁をもたらす諸存在への返礼はそのようにして初めて実現される。


今朝方はいくつか印象に残る夢を見ていた。まず覚えているのは、小中高時代のある友人(YK)と高校3年生の時のクラスメートの友人と電車の中で話をしていた場面である。3人で最初何気ない話をしていた。それは学校生活のことであったり、勉強のことであったりと、何気ない会話をしながら電車の中に乗っていると、荷物を置く棚の上にレモン味のガムのパッケージと新聞が置かれていることに気づいた。ガムのパッケージは紙の箱の形式を取っており、比較的大きさがあった。私には透視能力のようなものがあり、その箱の中にまだ手をつけられていないガムがいくつかあることを知った。ちょうどガムを食べたい気分だったので1枚ガムをいただこうと思ったが、誰が置いたのかもわからないそのガムに仮に毒でも入っていたらどうしようと思ったので食べるのはやめた。すると自分の体がふわっと宙に浮かび、ガムの横にあった新聞を一瞥した。特に変わったニュースもなく、取り上げられるべきニュースが取り上げられていない新聞に対して価値を見出すことができず、隣の車両の方をちらりと見た。そちらの方が空いてそうだったので、3人でそっちの車両に移動しようとした。すると突然、私たち3人は瞬間移動し、見慣れない国道沿いにいた。そこをふらふらと歩いていると、空き地のような場所があり、そこで少し休憩しようということになった。私たちは空き地の地べたに腰掛け、そこからなぜか瞑想実践の話をし始めた。小中高時代の友人がちょうど今朝方に瞑想を通じて不思議な体験をしたらしかった。その体験の話を聞いてみると、彼が興味深いことを述べた。


彼:「なんか体がとても軽くなり、身体感覚が徐々に無くなって、暖かい光に包まれるような気持ちいい感覚になったんだよね。そしたら後ろから真理に話掛けられたんだ」


別の友人:「真理に話し掛けられる?どういうこと?」


そこから3人で、彼が述べた背後に真理がいて背後から真理に声を掛けられる体験について詳しく聞いた。私は彼の話を聞いた瞬間に、「彼も体験してしまったか。いや、彼も体験したんだ」と思った。それはまさにサイケデリック体験中にも起こる真理との接触体験であり、彼の場合はその持続時間が長く、真理がまるでそばにいるかのような明瞭さを持って感じ取れていた点が興味深かった。真理というのは実在しており、森羅万象のそれぞれに個別の真理が内包されている。そしてそのことは絶対的な真理として存在している。彼がどのような個別具体的な真理を知覚したのかはまだ定かではなく、そこからさらにその内容を詳しく聞いていこうとしたところで夢の場面が変わった。まさに真理の探究は唯識学においても重要視されている事柄であり、この夢が示唆することは途轍もなく大きいように感じる。フローニンゲン:2024/3/27(水)06:11


12387. キノコに関する興味深い夢   


時刻は午前6時を迎えた。今、辺りが明るくなり始めており、引き続き小鳥たちが鳴き声を上げている。先ほどの大合唱のような声量ではなく、今はチチチと1羽の小鳥の鳴き声が聞こえるぐらいであるが、また数羽の小鳥が清澄な鳴き声を上げるのも時間の問題だろう。今の気温は7度とそれほど低くなく、日中には11度まで気温が上がるが、今日は曇りがちの天気のため、太陽の姿を拝むことは難しそうだ。ここからの週間天気予報を確認すると、しばらくは今日のような気温の日が続くらしい。まだまだ完全に春がやってきたとは言えず、その点は例年通りだろうか。


先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、夢にはまだ続きがあるのでそれらについても振り返っておきたい。先ほど振り返った真理に関する夢は大変示唆深いものだったが、次の夢もまたどこか示唆深いものがあった。


夢の中で私は見慣れない一軒家の中にいた。どうやら自分はそこで生活をしているらしく、しかも数人のルームメイトと一緒に集団生活を送っているようだった。洗濯をしようと思って洗濯機の方に向かうと、洗面所にあった椅子の下に大きな蜘蛛がいるのを見つけた。最初私はその姿にギョッとしたが、蜘蛛がいるおかげで他の虫が部屋の中に跋扈しない状況が生み出されていることを思い、そのままにしておこうと思った。しかし、他のルームメイトが驚いてしまうかもしれないなと思ったので、蜘蛛を外にそっと逃すことにした。手に持っていた紙切れで蜘蛛を誘導し、蜘蛛をその上に乗せて窓から外に逃した。すると、足元に何か特定できない物が落ちていることに気づき、それを拾い上げると、別の蜘蛛の死骸だった。それを洗面台に流すと、死骸は見る見るうちに形を変えながら溶けていった。最終的にはキノコの菌核のような姿になった。すると驚いたことに、菌核が分裂し、無数のキノコの頭が現れ始めたのである。洗面台の上は小さなキノコの頭で覆われ、不思議なことが起こっているぞと思った。しかもそのキノコは単一種類ではなく、少なくとも3種類ぐらいのものが確認された。色はとてもカラフルで食べたことのないキノコであり、知覚変容を起こすようなものなのか、はたまた毒キノコなのかなどは一切わからなかった。いずれにせよ、しばらくキノコが生えてくる様子をじっと眺めながら、お湯をかけてみるとどうなるかを試してみたところ、お湯によってキノコは消滅しながらもまた新しいキノコがすぐさまに生えるという生成消滅を繰り返していた。ふと気づくと、何かの拍子に左手に付着した菌糸が自分の左の首に付着していたらしく、自分の首からもキノコが生え始めたので驚いた。私は慌ててキノコを引き抜き、身体に付着した菌糸を全て洗い落とそうと思った。そのような場面があった。


この夢は隔週で行っているシロシビン・セッションの影響を何か受けているかもしれない。毎日椎茸を夕食に食べ、朝と午後には複数のマッシュルームが配合されたサプリメントを摂取している。そしてシロシビン・マッシュルームに対する愛情を常に持ち続けていることもあって、そんな自分の姿を映し出す形でキノコが主題となる夢を見たのかもしれない。この夢が示唆することについてはもう少し考えを巡らせてみよう。フローニンゲン:2024/3/27(水)06:26


12388. 真理の開示と覚夢/今朝方の夢の続き


時刻は午前7時を迎えた。今日は午後に「サイケデリック唯識ラジオ」の収録があり、今日は課題図書の第3章を扱う。午前中にもう一度該当箇所を読み返し、収録中の対話が有意義なものになるように準備をしておきたい。今日もラジオの中でどのような対話が展開されるかが楽しみである。きっと今日もまたそこでしか開示されない真理が紐解かれていくだろう。諸行の内奥に存在する真理は、観法や内省的対話を通じて紐解かれていく。今日のラジオの場が、また1つ新たな真理の発見につながるものであることを祈り、それが絶対的な真理の一端を担っているという明確な気づきの意識を喚起してくれればと思う。


早朝より今朝方の夢についてあれこれ振り返っていたが、もう1つ覚えている夢の場面がある。それについても振り返っておこう。こうして毎日夢を振り返るだけでも自己に気づきがもたらされ、夢を振り返るという行為そのものとそこからもたらされる気づきが自らの阿頼耶識に浄化の種子として薫習されていく。そしてそれがいつか思わぬ形で諸縁を通じて現行する姿をこれまで何度も目撃している。とりわけ最近は体系立ったシロシビン・セッションのおかげで無意識の浄化が進み、覚醒状態においてもかつての夢の記憶が流れ込み、現在の知覚認識に肯定的な影響を与えている。それはより創造的な知覚認識が可能になったということである。私たちは寝ても覚めても夢の世界の中にいる。寝ている時だけが夢の世界の中にいることを意味しないのだ。夢から覚めてからは今度は8つの識が織りなす夢の世界にいるのである。それに気づき、それに目覚めない限りは苦しみや悩みからの解放はなしえない。


もう1つ覚えている夢というのは、見慣れない高層ビルの上層階で小中高時代の親友(NK)と見知らぬアフリカ系アメリカ人の中年女性と一緒にコーヒーを淹れていた場面である。コーヒー豆を自分たちでコーヒーミルで挽き、それをコーヒーメーカーに入れてコーヒーを作った。使用したのはフレンチプレスではなく、コーヒーメーカーであった。適量のお湯を注いで談笑を始めると、すぐさま良い香りが漂ってきた。その香りを嗅いだだけで、もうそのコーヒーは美味いに違いないと思った。淹れたてのコーヒーを片手に窓辺に行って、上層階からの眺めを堪能しながらのコーヒーは格別であった。そのような夢を見ていた。この夢を振り返るとコーヒーが飲みたくなったので、今からモーニングコーヒーを淹れ、それを片手に今日もまた唯識学の研究に打ち込んでいこうと思う。フローニンゲン:2024/3/27(水)07:10


12389. 法施の実践/唯識学に関する日々の取り組みについて


今日の午後のラジオの収録が終わったら、そこからはゼミナールの方で唯識学を探求していくことに向けての解説動画を今日も作成していこう。無理をせず、毎日数本ほどの動画を作ることを継続していきたい。昨日は3本ほどの動画を作った。動画コンテンツを作成するにあたって、PPTスライドを用いているのだが、久しぶりにPPTスライドを作ることは創造的な活動の一環になっている。書物の内容を自分なりの言葉でまとめていくという作業そのものに意味があり、同時にそれを視覚的にわかりやすくしていくための工夫を凝らしてスライドを作るというのは自分の勉強にもなる。そしてそれがゼミの受講生の方々の学びや成長に何かしらの意味があるのであれば、尚更嬉しくなる。まさに自利即利他の取り組みとして、今日もまたPPTスライドの作成と動画の作成を行っていきたい。それは唯識学の智慧を出し惜しみなく共有するという意味での法施になる。今日のラジオの場で行われることも法施であり、ゼミの場で行われることも法施なのだ。今後は智慧を共有するという法施の中により慈悲が体現されたものとなってくれるのであればなお良しである。慈悲と智慧の双方を体現した人間になれるようにこれからも精進あるのみである。


唯識学の書籍を読みながら、自らの、そして他者の心の成長につながると思ったらその都度備忘録として日記の形にまとめていきたい。さらには、その項目を1枚のスライドにまとめていくということを地道に毎日行なっていきたい。もちろん全ての項目についてそれを行うのではなく、ある程度のまとまりを持つ洞察について、その洞察に付帯する考えを整理する必要があって、同時に自分の心を動かすものに対して備忘録を残し、スライドにまとめていくということをしていきたい。そしてひとたびスライドを作成したら、短くていいのでその1枚のスライドを解説する動画を作成していこう。このように備忘録を通じた書く実践、考えを整理するスライドの作成、そしてそれを話し言葉として言語化する動画の作成を通じて、少しずつ唯識学の叡智を自らに体現させていきたい。こうした地道な実践が、いつか欧米の大学で唯識学のコースを提供することにつながってくるはずである。そのコースでは今作っているスライドが直接・間接的にきっと役に立つはずである。そんな未来の展望が開かれている。そうした未来に向けた種蒔きを、今この瞬間の学びを楽しみながら愚直に行なっていく。もう自分はそれにしか従事するつもりはない。自分の全てを捧げる気持ちで唯識学の研究と実践に従事し、慈悲と叡智の共有に励んでいこう。フローニンゲン:2024/3/27(水)08:09


12390. シロシビン・セッションと唯識学の研究に打ち込むことを要求した阿頼耶識/

夢を見ない深い睡眠中の世界で起こっている事柄


天気予報と異なり、雲が晴れていき、清々しい朝空が広がっている。小鳥たちも早朝と同様に鳴き声を上げ続けている。朝日が降り注ぐ地上を眺めながら、今年もまたオランダで生活することになったことの意味について閃くものがあった。それは隔週のシロシビン・セッションを可能な限り深めていくことに加え、唯識学の探究に没頭する意味があったのだと思う。仮に今年の夏にアメリカに戻り、秋から大学院でのプログラムが始まっていたら、その双方を今のようなペースで前に推し進めていくことはできなかったはずである。天は、いや自分の阿頼耶識は、きっとそれらの双方に専心没頭して果実を実らせることを自分に要求したのだと思う。オランダという土地の恩恵を思う存分享受しながら、隔週でシロシビン・セッションを実施することを通じて得られる深い禅定・三昧の体験を積み重ねられるだけ積み重ねていき、その直接体験を宝物として、そうした体験に立脚する形で唯識学の研究に明け暮れることを自分の深層意識である阿頼耶識は要求したのだと思う。それは運命と言えるかもしれないし、宿命と言えるかもしれない。自分はもう宿命に逆らうことなく、宿命の流れを通じて生きていく。それが最良の生き方なのである。宿命の流れに逆らわないとき、安らかな心がもたらされる。そして、深層的な心の成長が自ずから有機的にもたらされる。宿命の流れと共に生きるということにはそのような意義があるのだ。とにかくここからの1年間は、シロシビン・セッションと唯識学の研究の2つを核にして、自分にできる限りのことをしてそれらを最大限に深めていくことだけに集中したいと思う。それが今の自分の心からの願いである。


夢を見ている際には第六識が働き、その識によって認識対象が立ち現れる。識と対象は常にセットで存在する。では夢を見ない深い睡眠状態においてはどのような識が立ち現れ、その識は何を対象にしているのだろうか。端的には、夢を見ない熟睡状態においては前六識は働いておらず、その代わりに第七識の末那識と第八識の阿頼耶識が働いている。末那識は阿頼耶識を対象として働き、阿頼耶識は種子・身体・環境世界を対象にして働いている。寝ている間にも自分が自分としていられるのは前者の働きのおかげである。また、寝ている間に体温調整が自然となされ、身体のホメオスタシスが保たれているのは後者の働きのおかげである。後者についてさらに精密に見ていくと、熟睡中の意識の中で深い治癒が実現されるとよく言われるように、阿頼耶識に蓄えられた種子が熟睡中に治癒をもたらすものとして現行したり、病理を生み出す種子が滅するという現象が無意識化で生じているのではないかと思う。夢を深い睡眠中において阿頼耶識が環境世界に対して働きかけることはあるのだろうか。その点についてはもう少し考えてみなければなるまい。フローニンゲン:2024/3/27(水)09:02


12391. 菩薩の誓願/唯識学・成人発達理論・インテグラル理論が生み出す

智慧と慈悲に溢れた光の輪


菩薩というのは何も私たちの手の届かないところにいる存在を言うのではなく、ある発心によってもたらされる人の姿なのである。ある発心とは端的には、智慧を磨き、慈悲を与えようという誓願である。そのような誓願を立て、発心を起こした人のことを菩薩と呼ぶのだ。それは難しいことでもなんでもなく、その意志が湧き上がるかどうかが重要なのである。智慧と慈悲を与える存在として生きていくと誓ったその瞬間から、私たちは菩薩として生きていけるのだ。一刹那一刹那を菩薩として生きているかどうかを観察・確認しながら生きていくこと。そんな在り方を大切にしたい。その在り方を絶えず持っていれば、菩薩道の歩みは自然と進んでいき、気がつけば心の成長が深く実現された境地に行き着くであろう。日々の一歩である。その瞬間の自分の心の在り方である。智慧と慈悲が体現された在り方をその瞬間にしているかどうかを厳しい目で見つめていきたいと思う次第だ。


時刻は午後3時半を迎えた。つい今し方午後の瞑想実践を終えた。こうして日々こまめに瞑想実践をすることは良き習慣となり、瞑想実践を通じた心の成長の実現につながっているだけではなく、純粋に脳疲労を除去するという効能を実感している。


午後に行われた「サイケデリック唯識ラジオ」の収録内容について振り返ってみたときに、東洋の心の成長理論としての唯識学と、西洋の心の成長理論としての成人発達理論・インテグラル理論が架橋される見通しが一気に開かれたことは福音的な出来事であった。同時に、自分がなぜ欧米の地でそれら2つの理論を学び続けていたのかについての宿命的意味についても悟らされるような気づきがもたらされたことは大きなことであった。成人発達理論とインテグラル理論が持つ質的差異、すなわち深さを大事にするという思想を唯識学に適用することによって、唯識学はさらに輝く。また逆に、唯識学に内包された詳細な心の分析は成人発達理論とインテグラル理論が持つ心の成長理論をさらに輝かさせるだろう。これまでの自分は西洋で生まれた2つの光としての成長理論を学んできたのであって、ここから東洋で生まれた光としての成長理論の唯識学を修めることを通じて、3つの光を数珠つなぎに架橋させたい。そうすれば三位一体の豊かで巨大な光の輪が生まれるだろう。智慧と慈悲に溢れたそうした光の輪を社会に共有すること。自分はそれを行うためにこの世に生を受け、今まで生きてきたのだと思わざるを得ない気持ちで一杯である。それに対してただただ感謝の念と使命感が湧き上がってくる。フローニンゲン:2024/3/27(水)15:44


12392. 森有正先生と自己の歩みの重なり       


時刻は午後7時にゆっくりと近づいている。今、夕涼みをする小鳥たちが早朝と同じように清澄な鳴き声を上げている。なんと美しい鳴き声だろうか。なんと澄み渡る鳴き声だろうか。彼らの鳴き声を聞いているだけで自分の煩悩が雲散霧消していき、心が清らかに美しくなっていくような気さえする。


夕食を取りながらNetflixのモーゼを扱った3話から成るドキュメンタリー的映画を見ている最中にふと、森有正先生と自分の歩む道の重なりがパッと知覚された。森先生は敬虔深いキリスト教信者であった。そんな森先生は哲学者として、絶えずキリスト教の教えと自らの内面の問題を照らし合わせ、自らの内面世界を育む道を歩んでおられた。そんな森先生は晩年に仏教の思想にまで関心を広げて思索探求を深めておられた。その歩みの中で宗教としてのキリスト教の深い思想と絶えず自己の内面世界を照らし合わせていた姿が、今の自分の大乗仏教瑜伽行唯識学を通じた内面探求とどこか重なって思えたのである。先生とは宗教は異なるが、自分が拠って立つべき宗教思想との深層的な出会いを受け、今こうして内面をこれまで以上に深く深めていく歩みを始めた自分がいる。


この丸8年間のオランダでの生活において、何度森先生の全集を紐解き、その思索日記に励まされたことだろうか。そこにはキリスト教への信仰心をもとにした熱く、同時に苦悩に満ちた内面探求の足取りが克明に刻まれている。先生の日々の漸次的な歩みの過程を辿りながら、どれだけ大きな励ましをもらい、それをもとにどれまで遠くまで歩いてこられただろうか。今の自分はまだまだ道半ばどころか、ようやく内面探求の本格的な歩みを始める場所にやってきたと言ってもいいかもしれない。大乗仏教瑜伽行唯識学というこれ以上にない支えと共に、ここから自分はさらなる成長を遂げていく。その変貌の歩みは遅々として進まないかもしれないが、それでいいのである。一歩一歩の着実な歩みを日々実現させていきたい所存である。唯識学の研究の合間にまた森先生の全集を紐解き、励ましをいただきながら、自分なりの速度と足取りで、智慧と慈悲を社会に共有できる自己の実現に向けた歩みを着実に進めていきたい。フローニンゲン:2024/3/27(水)18:47

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