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【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】12352-12358:2024年3月22日(金)

⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指したサイケデリック唯識ラジオの配信をしています。


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。

タイトル一覧

12352. 昨年の今頃の探究的関心を振り返って

12353. 慢の煩悩を示す夢

12354. 勉強法と給食に関する夢

12355. 哲学ではなく宗教としの仏教

12356. 宗教としの仏教について補足

12357. 絶対的な真理・相対的な真理について

12358. 無明な存在としての自己認識を出発点として


12352. 昨年の今頃の探究的関心を振り返って       


時刻は午前4時を迎えた。辺りは闇と静寂さに包まれている。そんな中、毎朝と同じく、今日1日を始められたことにまずもって感謝している自分がいた。こうして昨日からの自分を受け継いで自分が自分という認識で生きていられるのも末那識と阿頼耶識のおかげであろう。それは本来は善悪どちらでもない無記なのであって、とりわけ末那識は有覆無記という形で、主煩悩である我痴・我見・我慢・我愛に覆われているため、それらの煩悩を滅却することを通じて、自分は自己同一性を保ちながらもより清らかな存在になっていくことができるだろう。


早朝4時の今の気温は10度と意外と高い。しかしながら今日の気温はここから夜までほぼずっと横這いで、就寝時間の午後9時頃から気温が下がり、4度ほどまで深夜に下がるようだ。明日から3日間は10度に満たない冷たい日が続くようである。


昨日はジムでトレーニングに励んだこともあり、今日はアクティブレストとして朝のアニマルフローの実践に加えて、午後に書籍の受け取りがてら買い物に出かけようと思う。今週末に第29回のシロシビン・セッションが控えていて、毎回セッション後にいつものように夕食を作っていたが、夕食を作る時間があれば振り返りの時間に充てたいと思ったので、今回から夕食は近くのスーパーのサラダと植物性タンパク質が豊富なクラッカーにしようと思っている。なので今日は書籍を近所の玩具屋で受け取った後、日曜日の夕食を購入しにスーパーに立ち寄る。そんな計画がある。


昨日、ジムからの帰り道に歩きながら、1年前の今頃の自分の探究的関心は何だったのかと思い出そうとした。しかし、当時何に関心を当てて探究をしていたのか覚えていないぐらいに、この1年間の自分の探究は変貌を見せた。昨年の今頃に自分が何に対して関心を示していたのかは全く覚えていないが、きっと昨年の今頃もまた今の自分と同じように何かに対して探究に没頭していたはずである。それはテクノロジー哲学だったか神道だったかは、はたまた何か別の対象だったか。少なくとも昨年の今頃はまだサイケデリクスの研究には目覚めていない。唯識学の研究はいわんやである。そうなってくると、この1年間の自分の探究の遍歴は実に大きなうねりを見せたものだったことがわかる。おそらくここからは長きにわたって唯識学の研究に打ち込むことになるだろうが、それもまた何かのきっかけで方向転換を見せるかもしれない。方向転換を見せたとしても、今の学びは自分にとっての財産となり、唯識学に触れることは今後一生を通して継続されていくであろうと思われる。全ては諸行無常なのであるから、自らの関心がそのように絶えず変貌を遂げることはおかしくはなく、むしろ自然なことかと思う。ただ今はとにかく唯識学の研究を大切にし、まるで阿頼耶識のように絶えず自分の内側で流れ続ける関心の水流として存在し続けて心の成長を後押ししてくれることを願ってやまない。今日もまた自分のペースで一歩一歩前に進んでいこう。フローニンゲン:2024/3/22(金)04:31


12353. 慢の煩悩を示す夢


阿頼耶識に収められた種子から生み出される夢。それは毎日変化に富み、何かを自分に伝えてくれている。絶えず自分の心のあり様の何かを映し出し、過去の行いについて示唆する教師のような存在でもある。阿頼耶識に収められている種子は生得的なものと後天的なものの2つに分かれることを考えると、前者からもたらされる夢は自分の過去生にまつわるような内容を内包しているだろう。後者についてはこれまでの人生の行いによってもたらされた夢であるから、自分の過去の行いを懺悔するにふさわしい内容を持ちうる。とりわけここから善行を積んでいくための懺悔は非常に重要であり、夢に対してもまた唯識学の煩悩や随煩悩の分析に加えて、唯識学で推奨される懺悔的内省を行っていきたいと思う。それを通じて阿頼耶識に収められている種子の現行を伏していったり、滅却していったりすることができるだろう。


今朝方は夢の中で、見慣れない教室の中にいた。そこは雑居ビルの一部屋のようで、そこにはちらほら小中高時代の友人もいたが、見慣れない人も多くいた。そこで私は、日本の最難関大学群である東京一工の入試対策について講師の話を聞いていた。私はすでに「東京一工」のうちの「一」を卒業していたので、その大学入試に関する講師を任されるかと思っていたら全くそうではなく、単なる一受講者としてその説明会に参加していた。周りの参加者たちはどうやらこれから入試を受けるようだった。まず数人の講師が参加者に紹介された。その中に、東大法学部を卒業した知人の女性がいて、仕事が忙しいであろう彼女が講師としてその場にいることに驚いた。そしてさらに驚いたのは、彼女がなぜか卒業した東大の入試対策を担当するのではなく、一橋大学の数学の入試対策の説明を担当したことだった。黒板には円に関する問題が書かれ、与えられた2点に関する中点をまず求めるところからアプローチするというのは誰にでもわかるような問題だったが、たかが中点の算出と思って侮っていると痛い目を見る問題だった。実際に、私の横にいた参加者は中点の計算ミスをしていた。いやそれは計算ミスというよりも発想ミスであり、それが計算を狂わせていたのである。その問題は中点の本質が何かを捉えておかないと計算が間違うような仕組みになっていた。知人の彼女はその問題の解説を終えた後、現役時代には一橋法学部を志望していたが、社会と数学の入試問題が3ヶ月真剣に勉強しても手も足も出なかったので志望大学を変え、東大法学部を目指すことにしたと語っていた。東大の社会も数学も十分に難しいだろうと思ったが、彼女にとっては東大の方が比較的解きやすい問題が出題される傾向にあったのだろうと思われた。そのような夢を見ていた。


この夢が示唆することは何であろうか。夢の中に現れた知人はおそらく過去一度も夢に出てきたことはなかった。夢から覚めてシャワーを浴びている最中にふと、彼女は元気にしているだろうかと考えた。そう言えば夢の中で、自分が卒業した大学の講師として教壇に立つことなく、別の中年男性が教壇に立ったことに対して、なぜ自分が講師ではないのかについて考えていた瞬間があった。そこには一瞬「慢」の煩悩が見え、彼と比較した場合、自分の方が間違いなく講師にふさわしいと思ってしまったのである。その気持ちを察してか、隣にいた小中高時代のある友人(YK)がわざと自分の感情を揺さぶるために、その教壇に立った男性を持ち上げるような発言をし、それによって彼の思う壺のような形で自分の感情に波が立ったのを覚えている。悟りの直前まで慢の煩悩は存在すると言われる。この煩悩とは長い目で向き合っていかなければならないと改めて思う。フローニンゲン:2024/3/22(金)04:52


12354. 勉強法と給食に関する夢      

時刻は午前5時半を迎えた。朝の呼吸法とアニマルフローの実践を終え、ヘンプカカオドリンクも飲み終えたので、ここから本格的に今日の唯識学研究を始めていこうと思う。その際には、後ほどモーニングコーヒーを淹れて、コーヒーを友として研究を進めていきたいと思う。唯識学の最重要テキストである『唯識三十頌』の英訳書の読解も板についており、もう完全に朝と午後の習慣となった。これは非常に良い習慣かと思う。朝と午後のそれぞれ30分の音読によって脳が活性化され、同時にテキストの内容が徐々に自分の存在の奥に体現されていく感覚がある。ここから長きに渡ってこの習慣を継続していこう。これもまた阿頼耶識に対する良き種蒔きであり、諸縁を受けていつかきっと良い結果をもたらしてくれるだろう。


今朝方の夢についてまだ振り返っていなかったものがいくつかある。1つには、母と勉強法について話していた場面があったことを覚えている。夢の中の私は小中学校時代を過ごした社宅の自分の部屋にいて、襖を開けて、廊下に立っている母と話をしていた。私は畳の上に座っていて、母は立ちながら会話をしていた。話の中で、かつての大学入試の際の自分の勉強はかなり我流であって、我流を通じて回り道をしたことが結果的には今の自分固有の学習方法につながっている点では良かったと思うが、もっと効率的な学習が当時にできたのではないかと母に伝えた。母は優しい笑みを浮かべながら自分の話に耳を傾けてくれており、そこからも引き続き自分の勉強法に関する振り返りの話をしていた。そのような場面があった。


その他に覚えているのは、学校の給食当番をしている場面である。自分の身体はもう随分と大人のそれであったが、小学校時代の給食着を来てクラスメートに配給をしていた。昼食時間が終わりに差し掛かった頃、まだ随分とおかずが残っていることに気づき、食べ残してはもったいないと思った。クラスメートのみんなの食事の様子を見ていると、彼らは一様におかずを残していた。いつもであれば給食の時間の終わりの頃にはみんなご飯を食べ終えているので今日はどうしたのだろうと思った。食べ残しは良くないことかと思ったので、ひょっとしたらもうみんなお腹一杯かもしれないが、全員で残ったおかずを分配することを通じて食べ残しがないようにしようと思った。すると、いつもはよく食べるある友人(RK)がおかずを追加で器の中に入れられると突然怒り出した。どうやら彼はもうお腹一杯で、それ以上食べることができないようだった。私ももう十分にご飯を食べたので、それ以上はいらないと思っていたこともあり、クラスメートのみんなに無理をさせてはいけないなと思った。それでは残ったおかずはどうしようかと考えていると夢から覚めた。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/3/22(金)05:44


12355. 哲学ではなく宗教としの仏教         


ここ最近の観察をもとにすると、朝の6時頃から薄明るくなってきて、そのタイミングで小鳥たちが鳴き声を上げ始める。今日もまさにそのようで、今、午前6時を迎えた朝の世界に小鳥たちの鳴き声がこだましている。空もダークブルーに変わり始め、夜明けがやって来るのは後少しだ。


早朝に、「サイケデリック唯識ラジオ」と改名したラジオのアプリを開いたところ、先日の放送に対して2通のレターが届けられていた。1通目のレターを読むと、そこにはここからの自分の歩みを祝福してくださるメッセージが書かれていて、温かい気持ちになった。自分でもどのような道を歩いているのかわからず、ここからどのような道が広がっていくのか見えない中で、どのような道を歩いていようが、どのような道をこれから歩もうが、その歩みを尊重して祝福してくださる方がいることに感謝である。


その方からの質問として、自分が仏教を哲学ではなく宗教だと捉えている背景にはどのようなものがあるのかという問いをいただいた。この問いに対しては、そもそも自分が「宗教」の定義あるいは特性としてどのようなものを認識しているかが回答の鍵になるかと思った。哲学との対比で言えば、宗教の欠かせない要素として、「救済」と「解放」というものがあるように思う。もちろん哲学の中にも救済と解放を目指した分野や哲学者もいるだろうが、哲学者の大半は救済や解放というよりも真理に到達することを目指しているように思う。科学もまた真理を扱うが、哲学と科学はそれぞれ手続的な骨格は共通していながらも、真理に至る際に活用する道具は幾分異なる。哲学でも論理学のように記号を活用するものもあるので、道具立ても非常に似通っていることは確かだ。哲学・科学・宗教の差異を明らかにする際に、真善美という観点はあまり意味をなさないように思う。哲学・科学・宗教のいずれも何からの形で真善美の全ての領域を扱うからである。そうなってくると、哲学と宗教の違いがますます見えにくくなるが、少なくとも宗教は救済と解放を目的にしている点を見逃してはならないだろう。もう少しわかりやすい言葉で言えば、人々の幸福や安寧の実現に向けた教えの体系が宗教なのではないかと思う。「宗教」という言葉にあるように、「宗」は大元や祖先を示し、宗教には大元になる教えがあるのだ。仏教で言えば、釈迦の教えに該当する。神道確かに特定の教えに遡ることはできないが、それでも古事記などの立ち帰れる教えが詰まった文献がある。一方哲学は、何か1つの大元になる教えに立ち返ることはできない。ここでも、西洋哲学はソクラテスはプラトンに立ち帰れるではないかという批判が来そうだが、重要なことは絶えず大元に立脚して学びや実践を進めていくのが宗教であり、哲学に従事する人たちが常にソクラテスやプラトンを参照するかというと決してそうではないだろう。とりわけ現代の哲学者にとっては、ソクラテスやプラトンは過去の偉大な哲学者のワンオブゼムなのであって、彼らの教えに逐一立ち返りながら哲学探究を進めているわけではないだろう。そのように、「宗教」という語源としての大元の教えがあるかどうかも宗教の定義の重要なことかと思う。


さらには、宗教においては「信仰」あるいは「信」というものが重要になる。よく言われるように、キリスト教は信仰の宗教であり、仏教は信仰の宗教ではないと言われる。しかし、仏教においても釈迦の教えを信じるという要素は不可欠であり、哲学に従事する人は別に超越的な存在者に信仰する必要はなく、また特定の人物の教えを絶対的に信じるということも要求されない。仏教においては、釈迦が説いた真理に疑いを持つというのは「疑」という煩悩の一種であり、そこからも仏教が信を大切にしていることが窺える。


レターの中にあったように、仏教を「臨床哲学」や「実践哲学」とみなすのは、現代社会の宗教離れと宗教アレルギーを受けて、「宗教」という言葉を意図的に避けてのことなのではないかと思う。またそれは、本来の仏教の目的としての救済や解放の実現、さらには善行を通じた生きとし生けるものの幸福の実現という目的を骨抜きにしてしまう危うさが仏教を哲学思想と見る考え方に内包されているように思う。その他にも細かな点で指摘したいことがあるが、自分が仏教を哲学に矮小化させることなく宗教として見ることの考え方は上記のような内容になるだろう。確かに仏教には哲学や科学の要素はあるが、それは表層的なものであって、本質的なものではない。おそらくそれを考慮して、欧米では仏教はやはり「宗教学(religious studies)」の分野に帰属させられているのだと思う。この点、日本では分類があやふやでなぜか文学部に仏教研究が位置付けられている大学もあり、この点についても色々と問題が孕まれているように思う。フローニンゲン:2024/3/22(金)06:31


12356. 宗教としての仏教について補足


小鳥が鳴き声を上げ始めてから1時間が経ち、彼らの鳴き声は午前7時を迎えて幾分勢いを増しているように感じる。外はもう随分と明るい。気がつかない形で夜明けを迎えていた。闇の中にいて、その中で自分の取り組みに没頭しながら前に進めていくことを通じて気がつけば、闇を抜けていたというのは理想の闇からの脱出になるだろうか。ここでは別に闇を否定的に扱っているわけではないので、闇を闇として享受しながら闇を通過する方法として、自分なりの理想な通過の在り方がそのようなものになると言い換えることができるかもしれない。闇の中にいる自分は闇に押し潰されることなく、闇を闇として受け止め、それを味わいながら、自らの取り組みに没頭専心する形で気づけば闇の世界を抜け出して光の世界にいるということ。それが日々繰り返されているように思うし、人生全体を鳥瞰すると、人生の闇の時期もまた同様の向き合い方で過ごすことを通じて光の時期に入っていくことができるのではないかと思う。


先ほど、ラジオのリスナーの方からいただいたレターについてあれこれと考えていた。それは仏教は宗教ではなく哲学ではないかという問いである。自分としては、仏教の本質は宗教であり、仏教の表層的な側面に哲学的なものがあるとする立場を今のところ採用している。現代社会の宗教離れと宗教アレルギーに触れながら、仏教には哲学的な側面がありながらもやはり本質的には救済や解放を目的にする点と信の要素ゆえに哲学に還元してはならないものだという考え方を展開していた。そこからさらに、宗教としての仏教を科学に還元してはならないという問題も浮上してくる。科学と宗教は明確に異なるという認識の極がある一方で、両者は究極的には同じものであるとする極があり、とりわけ後者の曲を採用する場合、科学が宗教に歩み寄る形で、宗教を呑み込んでしまうリスクがあるかもしれないと考えていた。例えば、仏教の修行法のごく一部のマインドフルネス瞑想を切り出して、それを科学的に研究する流行が欧米の大学機関の中で見られる。瞑想の効果を科学的に検証することは批判されるものではないし、むしろ科学の力を通じて、新たな発見事項があることは喜ぶべきことである。しかし問題なのは、本来宗教としての救済や解放の実現を目的にする仏教の本質が骨抜きにされ、仏教が科学に還元されてしまう危険性があることだ。とりわけ宗教離れがグローバル規模で進む現代社会の中で、そして社会が客観的なデータを盲信する傾向が加速する中で、仏教が科学に取り込まれてしまう危険性が日増しに強くなっているように思える。唯識学を学べば学ぶほど、そこには確かに哲学的な思索の深さと科学的とも言える心の精緻な分析が見られるのだが、それらの側面はあくまでも本来の目的である救済と解放、及び善行を通じた生きとし生けるものの幸福の実現という考え方があるのであり、それを見過ごす形で哲学や科学に仏教を還元することは非常に怖いことであると思う。仏教が持つ哲学な側面や科学的な側面は、あくまでも宗教的な本質の上に成り立っている表層的なものであり、本質を見失うと、仏教から救済と解放の力が剥奪され、幸福の実現をなし得ないように思えて仕方ない。そのようなことをつらつらと考えていた。フローニンゲン:2024/3/22(金)07:19


12357. 絶対的な真理・相対的な真理について   


小鳥たちが美しい鳴き声を奏でており、彼らの音楽に包まれる形で引き続き考え事をしていた。それは、ラジオのリスナーの方からいただいたレターに関する内容についてである。先ほどあるリスナーの方からいただいた問いについて考えていたが、今度はまた別のリスナーの方からいただいたレターの内容について考えている自分がいた。その方のレターには質問はなく、感想を送ってくださっていたのだが、その感想から色々と考えさせられることがあったので、それについても備忘録として考えを書き留めておきたい。


まずは、真実の自分というのは存在するかどうかという点である。そもそも仏教においては、自分という我を否定し、非我を説く。端的には不変固定の我など存在せず、存在として認めうるのは関係性によって刹那刹那に変化する存在としての仮置きとしての自己である。つまり、真実としての自分と真実ではない自分はおろか、仏教ではその自分というものを徹底的に批判していくのである。それを通じて自他の境界線を超えていくのだ。


そこから真実というものを真理に置き換えるのであれば、真理など存在しないというのはまた危険な発想かと思う。真理には相対的な真理と絶対的な真理があり、相対的な真理においてはそこに深さの階梯がある。物や心について内省を深めれば深めるだけ、これまで見えていなかったそれらの深層的な側面が開示されてくることは科学や哲学を待たずに明らかである。ゆえに真理など存在せず、全ては相対的であるというのは「グリーンの病理」あるいは「相対主義者の病理」とインテグラル理論で言われるような発想かと思う。そこでは本来真理にも深さがあることを見誤り、全てを平面的にフラットに、まさにフラットランドとして捉えてしまうのだ。


真実のあるなしではなく、全てには真理が必ず内包されており、それは絶対的な真理を根底に置きながら、無限の階層を持つ相対的な真理を内包しているのだ。それに気づけて初めて、真の意味での平等性智が獲得されたと言えるのではないかと思う。自我執着心としての末那識が浄化された後に広がる平等性智とはきっと、相対的な真理の質的差異と絶対的な真理の双方を見据える形で自他の境界線を超えて全ての存在を平等に扱える境地なのではないかと思う。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2024/3/22(金)07:40


12358. 無明な存在としての自己認識を出発点として


私たちは悟りの境地に辿り着くまでは、物事をありのままに見ることはできない。それは対象を仏教としてみても同じであり、仏教という存在をありのままに全て把握することはやはりほぼほぼ不可能である。私たちは無知ゆえの部分情報で仏教というものを捉える。仏教が持つ哲学的な側面に無知であったり、科学的な側面に無知であったり、宗教的な側面に無知であったりするという種々の無知が仏教という対象を限定的かつ歪んだ形で捉えることを生じさせる。自分を振り返ってみると、まさに唯識学を通じて仏教を本格的に学んでいこうと発心する前の自分は、非常に表面的な仏教理解しかなく、仏教が持つ豊かで深淵な側面はほとんど見えていなかった。今こうして日々唯識学を通じて仏教に触れながら、少しずつ仏教の様々な顔が明らかになっている状態であり、依然として自分は仏教に対して無知だという自覚がある。そうした自覚を持って、無知さを少しずつ超克できるように日々の探究活動に励みたいと思う次第だ。


そのようなことを考えてみると、仏教が私たちの苦や悩みの根本原因に無知としての無明を置くというのは実に慧眼かと思う。私たちは自分を含めてありとあらゆる事柄に対してそれをあるがままに見てないにもかかわらず、それをあるがままに見ていると思い込む。しかも、その対象を実体化し、執着するという問題も生む。全て無知さに起因した誤認識が苦や悩みを生むのである。仏教ひとつの捉え方からも自らの無知さを絶えず内省するべきだろう。そしてこれは仏教のみならず、日常触れる全ての現象が存在に対して行っていくべきかと思う。無知さに関する観法を徹底させ、習慣化していくことを通じて、私たちは少しずつ無明を離れ、苦や悩みから解放されていくのではないかと思う。とにかく自分は無知であること。無明の権化であるという自己認識から始めよう。この自己認識があればあるだけ、悟りの直前まで存在すると言われる煩悩の「慢」に陥ることを防げる謙虚な在り方を維持できるのではないかと思う。徹底した無明さの自己認識が、慢という煩悩を焼き尽くしてくれるだろう。そのような考え方から、徹底的に自己の無明さを明るみに出す形での自己省察と観察行を実践していきたい。フローニンゲン:2024/3/22(金)10:04

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