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【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】12346-12351:2024年3月21日(木)

⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指したサイケデリック唯識ラジオの配信をしています。


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タイトル一覧

12346. 唯識学に関する今朝方の夢

12347. 13年の月日の経過から

12348. まだ見ぬ心の世界を求めて

12349. 能と唯識、紛争解決と唯識に関する夢

12350. 心のOSを磨く唯識学/誓言

12351. 週に2回の筋力トレーニングの効能を改めて感じながら


12346. 唯識学に関する今朝方の夢   

   

時刻は午前5時を迎えた。こうして今日も素晴らしい目覚めと共に起床し、1日中唯識学研究に没頭できることを嬉しく思う。確かに今日は午後にジムに出かけるが、その時でさえもが唯識学の実践の場であり、心の成長の場となる。とりわけ外に出かけて様々な人の姿を見かけ、そこで人々と交流することがあれば、そこは心の成長道場と化す。寝ても覚めても唯識学の探究をしているというのは言い得て妙であり、今朝方の夢にも唯識学に関する事柄が随所に現れていた。まず覚えている場面として、見知らぬ男性に唯識学の概要について話をしているものがあった。ひょんなことからその男性と唯識学の話を始めたのだが、例えば私たちは歯磨きをしている際に自分の歯を見ているようで見ていないことについて具体例を挙げながら唯識学の思想について紹介していた。仮に自分の歯を1本1本しっかりと認識して歯磨きをしていたら、本来は虫歯になどならないはずなのだが、虫歯になってしまうのは歯に対する意識が希薄であり、歯をあるがままに捉えることに失敗しているからだと伝えた。もちろん悟りを開かない限りは歯ですらもありのままに完全に見ることはできないが、少なくとも歯全体を漠然と捉え、意識散漫に歯磨きをするのではなく、意識を集中させてできる限り歯の1本1本を意識して歯磨きをすることが虫歯予防のみならず、精神の鍛錬としても有効であると伝えた。このように、私たちは認識していると思っているものが実は全く認識しておらず、自分の過去の経験や知識などによって認識のレンズが汚れた形で対象を部分的にしか見ていないことを伝えたのである。このあたりの考え方は唯識学で強調されていることであり、その点に言及しながらその男性に話をすると、その男性は随分と納得したようで、歯磨きの例だけではなく、認識していると思っていたものが実は全く認識できていなかったものとして他にもたくさんのことが思いつくと述べて、それらのいくつかを紹介してくれた。まずはそうした場面があったのを覚えている。


唯識学を学び始めて日は浅いが、すでに毎日の輝きと充実感の質がこうもより深いものになっていることに驚く。その質的増大は本当に目を見張るものがある。心の成長に焦点を当て、悩みや苦しみからの脱却を仏の目線ではなく凡夫の目線から説いてくれるのが唯識学の良さの1つであり、凡夫から仏への道のりが明瞭に記されている点も素晴らしい。自分が今悟りへの歩みの中のどこにいるのかも確認することができ、唯識学には発達測定の要素も含まれている。悩み、苦しみ、そして迷う人間として、それらを軽減させながら、より軽やかにかつ穏やかに毎日を生きさせてくれる絶え間ない手助けをしてくれるのが唯識学の大きな魅力であり、ここからさらに研鑽を続けていくことおによって、日々の生活の輝きと充実感はさらに増していくだろう。フローニンゲン:2024/3/21(木)05:27


12347. 13年の月日の経過から   


何気なく日付を確認すると、今日は3月21日だ。ちょうど今から13年前の今日、関空からサンフランシスコ空港に飛び立ち、西海岸での大学院留学を始めたことをふと思い出した。あれから丸13年経った。途中に1年間ほど日本に一時帰国していた時期を除けば、もう丸12年欧米で生活していることになり、今年の8月からは13年目の生活に入る。ここまでの歩みを静かに振り返りたい気持ちである。それで言えば、昨夜もふと入浴後にこの13年間の歩みを回想していた。自分の中ではまだ13年という感じでもあるし、13年も経ったのかという感じでもある。年数で言えば、小中高を卒業したのと同じ年数であるから、やはりそれなりの時間の経過である。干支も1周し、その点にも時の流れを感じる。時の流れに応じて積み重ねてきた経験を唯識学の観点から考えてみるとどのようなことが言えるだろうか。この13年間に積み重ねてきた経験は、阿頼耶識にしっかりと薫習され、それが現在の刹那において現行する形で自分の思考や言動を形作っていることに気づく。やはり欧米での13年間の生活とそこでの学びがなければ、今のような形での自分は存在していなかったことに気づかされる。ここから自分はまた日々どのような学びを得て、どのような事柄を日々自らの阿頼耶識に薫習させていくか。それがここからの人生の方向性と質に決定的な影響を与えるであろうことを思う。


唯識学の教えがあれば、いつどこで何をしていても穏やかな心で幸せに生きられるという確信がある。どこで生活をしていようとも、唯識学がそばにいてくれるだけで、自分は幸せを感じられるはずだ。どんな場所においても、どんな瞬間においても心が穏やかで心が満ち足りた状態で生きられるように唯識学の教えを徹底的に学び、存在の底の底にまで薫習させていき、その香りが存在全体に満ち溢れるようにしていきたい。そして、その香りをできるだけ多くの他者に共有し、他者もまた心穏やかで幸せな日々を過ごしてもらいたいと願ってやまない。1年1年、1ヶ月1ヶ月、1日1日、1刹那1刹那を大切にしていくこと。そこには常に無限の学びが詰まっている。心の成長機会が無尽蔵に眠っているのである。とにかく今を大切にし、今自分に起こっている事柄を出発点にして、それを唯識学の教えと照らし合わせながら観法を継続させていくこと。そうすれば、上記のような自利即利他の幸福な日々を生きることがより実現されていくであろう。その実現に向けてであれば、自分は何も惜しまない。時間もエネルギーもカネも惜しまずに、その実現に向けて勉学精進したいと思う次第だ。フローニンゲン:2024/3/21(木)05:38


12348. まだ見ぬ心の世界を求めて


時刻は午前6時半を迎えた。辺りはもう随分と明るくなっている。ここ最近は就寝時間が早い状態が続いており、昨日は入浴に向けて1階に降りて行ったところ、まだ少し明るさが微かに残っているような状態であった。気温はまだまだ低いフローニンゲンだが、日照時間は着実に変化を見せている。このように諸行無常として自分を含めて全てのものが変化していることにより敏感となり、何事にも囚われず、常に軽やかな気持ちで変化を楽しむ形で毎日を生きたいものである。昨年の秋のボストン旅行を最後に、今のところ旅行には出かけていない。旅行に出かけずとも、日々が変化という彩りで満ちていることにもう気付いてしまっているのである。確かに以前から日々の生活の中に変化を感じ取っている自分がいた。だが、その感度はより高まりを見せ、もはや旅行のような形で外部から刺激を入れずとも、日々の何気ない生活の中に多様な変化を感じ、それが自分の成長につながる刺激として存在していることに気付いている。毎日起床すると、新しい映画がそこに展開されているようなイメージである。自分の認識も在り方も日々の過ごし方も、唯識学を本格的に学び始めてから随分と変わった。唯識学の学びのおかげで、外部に刺激を求める必要が希薄となり、日々の探究生活の中で十分に変化を感じ、それを糧として心の成長の歩みを着実に進めることができていることを実感する。今この瞬間に聞こえてくる1羽の小鳥の清澄な鳴き声もまた昨日とは違って聞こえる。それは小鳥自身の変化と自分自身の変化、さらには環境世界の変化という3点の変化がもたらしてくれている。その中でも一番重要なのは自分自身の心の変化だろう。心が毎日1歩の歩みで成長しているという実感がある。その1歩はとても小さなものかもしれないが、それは着実に自らの内側に種子として薫習されている。


おそらく今年は秋に数週間ほど日本に一時帰国するだけで、その他には旅行に出かけることはないのではないかと思う。この8年間のオランダでの生活において、コロナ禍を除いて、基本的には毎月か2ヶ月に1度はどこかに旅行に出かけていた。フローニンゲン大学に在籍していた時ですら、学期が変わる3ヶ月に1度は欧州内のどこかに旅行に出かけていたように思う。もちろんまだ見てみたい場所があることは確かだが、その魅力はもう随分と減退している。世界の風光明媚な場所や街を訪れるよりも、自分の内面世界のまだ見ぬ場所を見たいという思いの方が遥かに強い。心の内側に無限に隠された場所を見るためにわざわざ外面世界で旅行に出かける必要はなく、唯識学の探究をしながら心の観察をしてみればいいのである。日々の何気ない活動の最中や他者との会話の中で心の内側のまだ見ぬ世界が開示されるそのチャンスを逃さないようにするのだ。少なくとも今年1年は秋の日本への一時帰国を除いて、どこかに旅行することはなく、フローニンゲンを拠点にして唯識学の探究と実践に明け暮れたいと思う。フローニンゲン:2024/3/21(木)06:52


12349. 能と唯識、紛争解決と唯識に関する夢


先ほどモーニングコーヒーを淹れ、その香りに誘われながら、コーヒーを片手に今日もまた唯識学の研鑽に打ち込んでいく。昨日に“Seven works of Vasubandhu: The Buddhist psychological doctor (2nd. ed.)”に掲載されている『唯識二十論』を音読したのだが、著者の翻訳と自分の感覚があまりフィットしておらず、一旦本書の音読を離れることにした。朝と午後の30分間の読経行としての音読実践は、“Inside Vasubandhu's Yogacara: A practitioner's guide”に掲載されている『唯識三十頌』を主眼にし、同著者の“Vasubandhu's 'Three Natures': A practitioner's guide for liberation”に掲載されている『三性論』も合わせて音読していくことにした。唯識学を構成する要素として八つの識と三性を挙げることができ、それらを理解することは非常に重要なので、当面はこの2冊の音読を徹底させていこうと思う。


先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、その他に見ていた夢も全て唯識学が絡むものだった。まず覚えているのは、かつて進学塾で講師として働いていた時の教え子の女の子の兄が唯識と能を合わせて学んでいるということを知り、彼女の兄と話をしてみたくなった。彼女の兄は能のお家元に通っていて、高校に進学することなく能の世界に入っていた。そんな彼はもちろん能について造詣が深いのだが、それに加えて唯識思想についても独自に研究しているとのことだったので非常に興味を持ったのだ。すぐさま彼と会って話をする機会を得たところ、実際に彼と話をしてみてすぐに彼がとても面白い人物だと分かった。しかし、彼はまだ若く、私よりも一回り以上に年下だったこともあり、年齢を重ねていないことによる深みに欠ける点が見られたのは確かである。しかしながら、能に関する知識には素晴らしいものがあり、彼から能について色々と教えてもらう中で、唯識思想との繋がりが自然と見せてきたことは有り難いことであった。そのような場面があった。


もう1つ唯識学との関連で言えば、元サッカー日本代表の中盤の選手2人がロッカールームで言い争いをしている場面に遭遇し、そこで唯識学の観点から見事に調停を図った場面があった。2人は往年の名選手で、経験も技術も優れていて、片方の選手は特に代表選手としてのプライドが高かった。もう一方の選手は物腰が穏やかで、生活が優しいことでも知られていた。そんな2人が中盤での動き方について口論をしていたので、私はその間に入って、問題の分析から解決方法までを全て唯識学の観点から行った。その時に、唯識学の小難しい言葉を一切使わなかったことが功を奏したように思う。平易な言葉で問題の根源とそれに対する解決策を示したところ、2人は分析と解決方法の明瞭さに思わず笑っており、無事に問題が解決した。この体験をもとに、唯識学は個人の心の成長を実現させるだけではなく、対人間における問題や紛争解決にも十分に活用できる実践思想体系なのだと改めて感じた。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/3/21(木)07:03


12350. 心のOSを磨く唯識学/誓言


時刻はゆっくりと午前10時に近づいている。今、小鳥たちの鳴き声が依然として朝の世界に響き渡っているその味を噛み締めている。


先ほど朝の瞑想実践を終え、再び脳が生き生きとし、高い集中力を持って正午までの唯識学研究に打ち込めるだろうと思う。早朝からの読書は捗っており、2冊の未読の書籍の初読を終え、今から3冊目に取り掛かる。初読の段階でその書籍の全体像を把握するだけではなく、その書籍が唯識学研究における基礎・標準・応用のどれに該当するのかの難易度の判断を行い、初読が済んだ段階でそれぞれのカテゴリーごとに書籍を積んでいる。こうすることで今後それぞれのカテゴリーの書籍を一気通貫して読みやすくなるはずである。


今の自分はもはや心の成長に関する表面的なアプリケーションの獲得には関心がない。確かにアプリケーションは具体的な実践活動を営む際に重要になるが、すでに自分にはそれに足る十分なアプリケーションがある。とにかく今の自分がやるべきことは再び原点回帰をし、心の成長に関するOSを磨くことなのだ。まさにそのニーズに合致したのが唯識学の実践思想体系である。唯識学の奥の深さは、その中に無数の具体的な実践を示唆するアプリケーションの紹介の要素がありながら、同時にそれを超えて、心のOSそのものを磨き上げる理論と在り方を指南している点である。とりわけ後者に対して強い魅力と意義を感じている。日々の唯識学研究は、単に学問上における研究なのではなく、それそのものが自らの心のOSを磨き、深めてくれる修練になっている。それをここから徹頭徹尾意識的に行っていき、それがもはや意識せずとも行えるような状態にまで持っていきたいと思う。


また、先達が命をかけて伝承していった唯識学の教えを絶やしてはならず、現代のコンテクストに照らし合わせながら伝承する役割を担うことも非常に重要である。日本の社会の中で唯識学の紹介をしていくだけではなく、こうして欧米で生活をし続けている身として、欧米社会の中で唯識学の叡智を共有していくことも自らの課せられた使命かと思う。この使命を大切にし、それを日々実現していく試みに小さく着実に従事していく気持ちを新たにする。こうした誓言を毎日立てていこう。フローニンゲン:2024/3/21(木)09:54


12351. 週に2回の筋力トレーニングの効能を改めて感じながら


時刻は午後7時を迎えた。この時間帯でもまだかすかに明るさが残っていて、日の入りも随分と遅くなったものだと感じる。1日を終えるに当たって、今こうして日記の筆を取って静かに今日を振り返っている。今日もまた早朝の夢の振り返りから夜の1日の振り返りまでの時間の中で着実な歩みがあった。ライフワークの一歩一歩の進展に充実感を感じていた。こうして一瞬一瞬の一歩を楽しみながら、その足取りを味わって前に進んでいくことをこれからも続けていきたい。一歩の一味に大変満足している。自分はもうこうして一瞬の一味に心底寛ぎ、そこに安住し、そこに満足感を覚えるようになれたのだと嬉しく思う。何か特別なことがあったわけではなく、ただ自分の使命をまっとうする一歩を進められたことが幸福の源泉として輝いているのである。


今日は午後にジムに出かけ、パーソナルトレーニングを受けてきた。毎週木曜日のパーソナルトレーニングは毎回新たな発見がある。そこにはいつも新鮮さがある。それはパーソナルトレーナーのエリーザの創意工夫のおかげがあるだろう。しかしそれに加えて重要なのは、やはり自分の心のありようなのだ。全ては唯識なのである。私たちの心の在り方が世界の見え方を変え、世界の経験の仕方を変えるのである。毎回のトレーニングをいつも初心の気持ちで新しく捉えられる心を自分が有しているのである。いや、自分がそれを所有しているというのは唯識学の観点からすると間違いであり、自分という存在は仮の空的存在として、その瞬間の全てを新鮮に捉えられる心として存在しているのだ。


やはりジムでのトレーニングはいいものだ。八つの識のうちの前五識と第六識の双方が涵養される感覚がいつもある。それは日中の唯識学研究の集中力の度合いと持続時間を決定するものであり、隔週のシロシビン・セッションの深さを決定するものである。継続的な筋力トレーニングによって少しずつ着実に身体に変化が見られ、それは精神上の変化をもたらしている。筋力トレーニングの有酸素運動もなくてはならない実践となり、そこで爽快な汗を流すことによってまた翌日からの自らの取り組みの質を高めてくれている。明日もきっと充実した1日になるだろう。そこには至福さが満ち溢れているはずだ。フローニンゲン:2024/3/21(木)19:16 

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