top of page

【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】12291-12296:2024年3月11日(月)

⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指したサイケデリック学・唯識学ラジオの配信をしています。

⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。

タイトル一覧

12291. 智慧と慈悲を持って宇宙と真理のために

12292. 宇宙の恵みを享受して

12293. 古書を用いた日本の法相唯識教学の研究に向けて

12294. 東日本大震災が起きた13年後の今日に思うこと

12295. 真理の登山家として

12296. 自利・利他の実践と観法


12291. 智慧と慈悲を持って宇宙と真理のために


時刻は午前3時を迎えた。昨日の第28回のシロシビン・セッションを終えて一夜が経った。昨日のセッションは過去のものの中で最も印象に残るうちの1つであった。振り返りの日記の数としてはそれほど多くなかったが、数の問題ではなく、質の問題として、これからの自分の在り方や生き方をさらに決定付けるような深みを持つセッションであった。今日からはまた新たな誓願と共に生きていこうと思う。結局のところそれは、「智慧」と「慈悲」と「宇宙」に尽きるように思う。そこに「真理」を加えてもいいかもしれない。いずれにせよ自分は、宇宙と真理として、宇宙と真理のために智慧と慈悲を分け与えられる存在でありたいと思う。全ては宇宙と真理のためである。自分のためだとか他者のためだとか、社会のためだとか、それらは確かに一理あるし、今後もそのような物言いをあえてするだろうが、それらは全て方便である。本当の自分はそれら全てを含んで超えた宇宙と真理のために生きる。ただそれだけである。ただそれだけのシンプルな生き方をこれから徹底透徹していこうと思う。


新たな週を迎えた今週は、どうやら曇りがちな日が多いようだ。今日も曇りのようで、最高気温は9度、最低気温は5度とのことである。明日も全く同じ気温のようだ。明後日からは少し気温が上昇し、最高気温は10度を超え、最低気温も10度近くになる。おそらくそこから季節の相転移が行われるのではないかと思われる。そして今週は何よりも、おそらくハーバード神学大学院からの結果が届く。例年の様子を見ていると、ひょっとしたら本日のボストン時間の朝9時、すなわちオランダ時間の午後3時に結果が出るかもしれない。それもあって今日は早めにジムに行き、早めに自宅に帰ってくる形で結果発表を待ちたいと思う。どちらの結果であったとしてもここからの自分の人生は大きく動き出す。特にご縁があった場合においては、色々とやることが出てくるので、今日結果を知れるのであれば、今日結果を知りたいと思う。


ジムに行く前の時間は、今日もまたいつもと変わらずに唯識思想の研究を進めていく。先日受け取った6冊の専門書のうち5冊の初読をすでに終え、今日は最後の1冊の初読に取り掛かる。残り24冊ほどの書籍は後日到着予定だ。昨日読み進めていた龍谷大学の研究者の方々の専門書は本当に秀逸で、彼らの研究には本当に頭の下がる思いだった。また、彼らが研究で用いた鎌倉時代の文献についても思うことがあった。当時はコピー機などなく、基本的にある一定期間の時間が経ったら、学僧たちが書写をして貴重な文献を残していった。そのことを知って、とても神妙かつ敬虔な気持ちになった。手書きで文書を残していったというその歴史的事実に深く心が打たれたのである。時間をかけ、丁寧に手書きされた文献がこうして数百年、あるいは千年近くの時を経ても現存しているということに感動を覚えた。自分の仕事はそうした過去の人たちの仕事の上に成り立っているということを忘れたくはない。フローニンゲン:2024/3/11(月)03:28


12292. 宇宙の恵みを享受して       


昨日のシロシビン・セッションを終えて、心身ともに生まれ変わった感じがする。これはいつも感じることだが、2週間に1度のセッションは自分を再生させてくれる効能がある。骨の髄から、精神の髄から自分を生まれ変わらせてくれる効能がシロシビン・セッションにはある。それに加えて、2週間の唯識研究の内容を咀嚼し、自らの体験を通じて検証・確証していくための実践の場でもある。自分にとっては半日接心のような意味合いもあり、シロシビン・マッシュルームの力を借りて深い禅定体験の中で唯識教学の内容を検証・確証していく実践が行えることはそれ以上ないほどに有り難いことである。それを含めて、自分は本当に恵まれていると思う。宇宙の恵みを最大限に享受させてもらっている自分がいる。そんな自分が行うべきことは、この宇宙のために働くことである。正直なところ、昨日の体験に基づくと、「自分は」や「自分が」という表現はもう使えないほどに自分は宇宙であると知っているし、それらの用語は基本的に末那識が使わせているだけだという認識を心の奥に持っておこう。本来自分などいないのである。少なくとも自分は自分が思っているようには存在していないのである。まさしく非我である。宇宙としての自分は、宇宙の歴史規模の時間軸で見ると、ほんのわずかの仮初の時間に立ち現れているホログラム映像に過ぎないのである。自分という存在は種々の縁によって宇宙の中で立ち上がるホログラフィックピクチャーなのだ。そしてそんな宇宙的表象としての自分は、また宇宙に溶け還っていく。阿頼耶識に蓄えられた種子が、業が、また違うホログラフィック映像を立ち上げる。それを輪廻転生と呼ぶ。


今朝方の夢の世界は総じて穏やかであった。まるで涅槃の世界のように静寂で平穏であった。同時に、絶対無が体現されているかのような宇宙時空がそこに広がっているように思えた。そんな中、1つ覚えていることがあるとすれば、小中高時代の友人(YU)が現れていた場面があったことである。夢もまたホログラムなり。そんな夢を見る自分もまたホログラムなり。ホログラムもまたホログラムで、全ては全てとしてあるがままに宇宙の表象なり。そのようなことを思う。フローニンゲン:2024/3/11(月)03:39


12293. 古書を用いた日本の法相唯識教学の研究に向けて


時刻はゆっくりと午前5時に近づいている。ここから昼食までの時間を唯識思想の研究に充てたいと思う。現在、日本の法相唯識教学に注目をしているのだが、その研究を進めていくにあたっては、そもそも奈良時代から明治時代にかけての手書きの文書は希少であり、入手困難であることを鑑み、さらにはそもそも字体として読み解くことが難しいと思われるので、まずは翻刻されたものがあるかどうかを確認し、そこから翻訳と解説を加えていくような研究に従事してみたいと思う。原本は貴重でそれを使って研究を進めていくのは難しそうなので、翻刻されたものをもとに、仮にそれが漢文のままであれば訓読をし、そこから英語に翻訳して解説を加えていくということを特に古書をもとにした研究に対して行いたいと思う。そのようなことを考えてみると、いつの間にか自分の研究の中に歴史学・文献学的な要素が入り込んでいることを興味深く思う。自然発生的に生じたそれは、学者としての自分の幅を広げる意味でも有り難いことである。これまで自分が従事していた発達心理学や発達科学は、わりかし日の浅い学問分野であったから、古書を扱うことはなかった。古いものと言ってもせいぜい今から100年ほど前のジェームズ・マーク・ボールドウィンの書籍を扱うぐらいだったように思う。それに比べて、日本の法相唯識教学を研究しようとなると、最も古いものは1300年ぐらい前の文献になるのではないかと思う。奈良時代に残された文献に触れる日がやって来るかはわからないが、そのような日がやって来たら感動もひとしおであろう。歴史のバトンが次々と受け渡されて、自分もまたバトンの受け渡し人になる。その責任を受け止め、そうしたご縁に感謝したい。


奈良時代の文献を扱うことはすぐには実現しないかもしれないので、その前に着手しやすそうな研究としては江戸時代や明治時代の文献を活用することだろうか。それくらいの時代のものなら写本も現存しているだろうし、翻刻もなされているものが多いように思う。ただ残念なのは、明治時代に行われた悪名高き廃仏毀釈運動によって、仏教関係の貴重な文献が随分と消失してしまったことである。これは完全に日本の精神的文化遺産を日本人が自らの手で抹殺した暴挙だったように思う。それは我執に囚われた形での歴史的過ちだったと言えるのではないだろうか。こうしたことが二度と起こらないようにするためにも、心の成長を社会一丸となって行えるような実践的提言につながる研究をしていきたい。今から読み進める研究書からの学びもそれにつながるものとなる。フローニンゲン:2024/3/11(月)04:58


12294. 東日本大震災が起きた13年後の今日に思うこと      


結局やはり自分の研究テーマは宇宙なのであり、真如としての真理の研究なのだということが明らかになって来る。昨日の第28回のシロシビン・セッションは、そうした自らのライフワーク的研究の方向性を決定付けるものだった。自分はこの意識宇宙の真如としての絶対的真理を探究する。それは言葉を超えた言語化不可能的なものだが、それを伝えるためには言葉の形にする必要がある。その瞬間に確かにそれは相対的真理に変転するが、変転した相対的真理は絶えず絶対的に真理に貫かれている。相対的真理の仮面の奥には絶えず絶対的真理が存在しているため、その仮面をうまく剥ぎ取る導線を作りながら、絶対的真理へと人々を誘っていくことができたらと思う。全ては、意識宇宙の全ての存在が救済され、幸せになるために。


本日は3月11日。東日本大震災から丸13年経った。あの日自分は、デロイトの大阪事務所のオフィスにいた。そしてその数日後に会社を辞め、震災の被害状況がわからないままに震災から10日後にアメリカ西海岸での留学生活を始めた。昨日のセッションの体験の中、宇宙とは時としてとても残酷なことをすると思った。それはもちろん人間の目からそう見えるだけなのだが、あの震災は多くの命を奪った自然災害として、あるいは原発が絡む人災でもあった。それらを引き起こした原因が必ずこの意識宇宙にはある。唯識思想の観点からすれば、原因のない結果などこの意識宇宙には何一つとしてないのである。宇宙から見れば、全てが自業自得という形で時に残酷な現象を引き起こす。その現象もまた意識宇宙におけるかりそめのホログラム的表象なのだが、今という時代を生きる私たちからすれば、それは単に宇宙的表象であると片付けることはできない。意識宇宙は人間が美しいと思うものも汚いと思うものも残酷だと思うものも、ありとあらゆることを表象として生み出す。それは何が生み出しているか。そう私たちの日々の行いがそれを生み出しているのである。自然災害は一見すると人間の手を離れて生じる不可避のように思えるかもしれないが、それは否である。確かに人間が影響を与える度合いは限りなく小さいかもしれないが、ゼロではあり得ない。地殻変動を通じた地震もまた欲にまみれた人間の行為の積み重ねとしてそれが引き起こされる可能性があるのである。恐ろしいほどに自業自得な真理的世界を私たちは生きているのだ。しかしながら、自業自得が真理であれば、今日から、今この瞬間から私たちは私たち自身を変えることができ、世界を変えることができるとも言える。とにかく善行を積むのである。何があっても善行を積むのである。すぐに結果が出なくても、忍辱して良い結果が出るまで善行を積み続けるのである。そしてその結果をもとにして、また善行を積んでいくのだ。人間のためだけではなく、全ての生きとし生けるもののため、意識宇宙全体のために善行を積んでいくのだ。あの震災から13年経った今日、そのようなことを思わずにはいられない。あの震災の出来事を風化させないためにも、そして私たち自身が変容し、この世界を良い方向に変容させていくためにも、13年前に起こった震災から私たちは多くのことを学び、今日から今この瞬間から行える善行を小さく積み続けていくことが大切なのではないだろうか。フローニンゲン:2024/3/11(月)05:53


12295. 真理の登山家として         


真理には諸々の段階がある。最高の真如に至るまで、真理はまた意識宇宙の全ての現象と同様に階層性がある。ここからの継続的な唯識思想の探究とシロシビン・セッションを通じて、一歩一歩真理の山を登っていく。真理の登山をすることが自分のライフワークなのであり、登頂過程の景色を逐一報告・共有していくことが自分のライフワークなのだ。


意識宇宙の真如と絶えず一体化している自分。ふと意識を離すと、真如との一致から離れるように思えるが、それでも自分の内側には絶えず真如が貫かれている。というよりもむしろ、私たちはいっ時たりとも真如から離れることはできないのだ。なぜなら私たちの存在は真如そのものであり、絶えず真如としての意識宇宙の中に意識宇宙として存在しているからだ。真如と私たちは不可分の非二元的関係性を結んでいることがここからもわかる。昨日のセッションはその繰り返しの確認作業だった。真如を知覚し、真如を体得・体現するための繰り返しの体験の波が絶えず起こっていたと言える。そして、上述のように、絶対的・究極的な真如は種々の真理を階層構造的に内包している。それらの階層構造はどれも相対的真理なのであり、それぞれの真理の内側にも究極的真理が貫かれている。通奏低音としての究極的真如が絶えず相対的真理の全ての背後にありありと存在している。


昨日のセッションでの体験の中で一番重要だったのはやはりそれを覚知することだったように思う。自分の内側に真如が体現されていて、自分自身が真如であるということ。宇宙的表象としての、すなわち意識宇宙のホログラムとしての万物に真如が体現されているということを触知することが何よりも印象的な体験だった。自らが絶えず真如の具現者であり、自分は常に真如そのものであることを忘れないためにも、そして他者がそれに目覚めるためにも、自分は真理の山をどこまでも登っていく。その点において、自分は真理の登山家なのだろう。フローニンゲン:2024/3/11(月)06:16


12296. 自利・利他の実践と観法


時刻は午後4時を迎えた。つい先ほどジムから帰ってきて、シャワーを浴びてさっぱりしたところである。今日は昨日のシロシビン・セッションを受けて、あまり無理をしないようにトレーニングをした。セッションは半日接心のような形で体をあまり動かさないので、翌日にいきなり体を動かすと負荷が強すぎる場合があり、怪我を避けるために適度に筋肉に刺激を入れるようにした。前回の木曜日のパーソナルトレーニングでかなりハムストリングを鍛えていたこともあり、そこに筋肉痛があったので、そこは無理をせず、程よい刺激を入れて木曜日に備えることにした。それでいうと腹筋も同様の状態であった。最近はエリーザとの木曜日のパーソナルトレーニングはまた一段とチャレンジングな内容になっていて、着実な筋肉の成長を実感する。


昨日のシロシビン・セッションで得られた洞察を内省するかのように、筋力トレーニング中のインターバルでは目を閉じて、色々と回想をしていた。具体的に集中して何かを考えている時もあれば、集中力を身体のある一部に当ててみたり、身体全体にまるで波のように流してみたりするような実験をしていた。昨日のセッションで行っていたように、細胞と会話をすることを今後はより一層心掛け、細胞が喜ぶような意識の言葉掛けができたらと思う。それ以外に重要なことは、ジムの中でも、そしてジムの行き帰りでも、仏教における悟りに至る必須の実践である自利・利他の実践についてまるで念仏を唱えるかのように自分に言い聞かせていた。悟りに至るためには、智慧を獲得するという意味での自利の実践と、慈悲を全ての存在に降り注ぐという意味での利他の実践の双方が必要になる。これまでの自分はどうしても前者を優先しがちであることを自覚しているため、とりわけ後者の利他の実践を強く自分に言い聞かせることをこれからも行っていきたい。当然ながら、ここでも極端に走ることは避けなければならず、慈悲を分け与えるという利他の実践ばかりでも悟りには至らない。とにかく智慧の獲得と慈悲の提供の双方が重要だということを肝に銘じておこう。

瑜伽行唯識学派においては、観法を兎にも角にも大事にする。それは智慧を得るためにも、そして慈悲を与えるためにも重要な実践である。具体的には、存在対象と心に対する合計100個の項目を具に観察していき、それらが全て固定不変なものではなく、空的なものであることを確認していく実践が観法である。今こうして自分が書き留めている考え事もまた観法を実践してみると、移りゆくものであり、明日は小さく前進したより深い考えになっているだろう。日々観法を心掛け、強く意識して自利・利他の実践を継続させていく。いつかそれはもう意識せずとも自由自在にいつでもどこでも、誰に対しても何に対しても行えるようになっているだろう。フローニンゲン:2024/3/11(月)16:15

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page