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【サイケデリック学・意識哲学探究記】12196-12205:2024年2月25日(日)



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タイトル一覧

12196. 今朝方の夢

12197. 第27回のシロシビン・セッションに向けて

12198. 今朝方の夢の続き/修行としての学術研究

12199. 唯識に関する学術研究と紹介の自分なりの貢献の展望

12200. 第27回のシロシビン・セッションにおける言語的実験

12201. 第27回のシロシビン・セッションの振り返り(その1)

12202. 第27回のシロシビン・セッションの振り返り(その2)

12203. 第27回のシロシビン・セッションの振り返り(その3)

12204. 第27回のシロシビン・セッションの振り返り(その4)

12205. 第27回のシロシビン・セッションの振り返り(その5)


12196. 今朝方の夢 


時刻は午前3時半を迎えた。今朝方の起床も速やかで、目覚めたときの爽快さは素晴らしいものがあった。今日もまたきっと充実した日になるに違いない。今日はいつものように午前10時から第27回のシロシビン・セッションを予定しており、それまでは学術研究に没頭したいと思う。今日もまた唯識思想に関する書籍の再読を旺盛に進めていく。


今朝方の夢の中で、母と話をしながら涙を流す場面があったのを覚えている。母と何を話していたのかというと、過去自分が行なってきたスポーツに関する思い出についてだった。過去行ってきた様々なスポーツの中で一番悔しかった出来事について母に尋ねられた時、いくつかの情景がすぐに思い出された。サッカーをしていた時の思い出とバスケをしていた時の思い出の双方が思い出されたのである。それらの出来事について母に話をしている最中に、自分は他者と競って勝ち負けをつけることが根本的に嫌いなのだと分かった。誰かと競うことなく、自分のペースで深く対象を味わったり、楽しんだりすることを自分は心の底で望んでいることに気付かされたのである。当時の自分はそうした自分の本当の願いには気付いておらず、それを無視する形でスポーツに従事していたのだと分かった時、涙が流れてきた。それは後悔の涙ではなく、むしろ今こうして自分の本質的な思いに気づけたことに対して感動の涙を流したのである。その涙は自分の心を浄化し、温かい気持ちにさせてくれた。そんな場面があった。


それ以外に覚えているのは、自分が一番サッカー観戦にハマっていた時代の元サッカー日本代表の選手たちとチャリティーマッチに参加したことである。彼らはみんなもう現役からは引退しており、それぞれの人生を過ごしている。そんな元代表選手たちと大きなスタジアムで試合を一緒に行えたことはとても感慨深く、思い出に残るものだった。ロッカールームでは色々な方とコミュニケーションを取り、話が弾んだ。中にはシャイな人もいたが、往々にして代表でプレーしていたこともあり、皆さんオープンな性格だった。ロッカールームでは皆さん現役を引退しているということもあり、怪我をしないように念入りにストレッチをしていた。私はある方に話しかけ、その方が以前のチャリティーマッチの際にどこを痛めてしまったのかを尋ねた。すると内転筋とのことで、自分もそこを柔軟にストレッチしておこうと思った。いざ試合の時間がやってきて、ロッカールームからピッチに向かう時、スタジアムの観客席から盛大な拍手と声援が送られてきて、それを浴びるだけでもう感激であった。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/2/25(日)03:52


12197. 第27回のシロシビン・セッションに向けて   


時刻は間も無く午前4時を迎える。今日は第27回のシロシビン・セッションを予定しており、それに向けてのセット・セッティング・服用量の3つについて考えている。セッティングの要素に含まれる音楽選定に関しては、今日は禅仏教の音楽を流そうかと思う。それは数回前に2回ほどかけていて、その時の体験はとても平穏で、同時に宇宙的な気づきに溢れるものだった。如何せんここ2回過酷なセッションが続いていることもあり、少しばかり平穏な体験内容を求める自分がいる。自らの心の成長を考えた時にはどちらも一長一短と言えるだろうか。ひょっとしたら、末那識を平等性智(びょうどうしょうち)に転換していくためには、自分の煩悩や執着を真正面から突きつける体験の方がいいのかもしれない。結局のところ、自分が望むようにはセッションは進行していかないので、どちらの場合でも受け入れるしかないのである。セットにおける目標設定・目的設定はあくまでも仮のものであり、確かにそれがあることによってある程度の体験進行の道筋は出来上がるが、基本的にセッションは当初の意図を大きく上回る形で進行していく。仮に今日のセットをもう1つ挙げるとすれば、それは唯識思想に関する理解の深化を挙げることができるだろう。それを通じてさらに自己理解を深め、煩悩と執着から少しでも脱却できるようにしていきたいというのが今日のセッションの目的としてある。元々この一連のシロシビン・セッションは、自己治癒や自己変容のためではなく、あくまでもそれらは結果的に起こってくれればそれでいいぐらいのものであって、当初は兎にも角にも意識についての学術研究実践としてセッションを位置付けていた。唯識思想を学び始めて、専門書に記述されている内容を直接体験を通じて理解していくためにセッションを位置付けているが、それに加えて最近は治癒や変容の目的に対しても原点回帰している状況だ。すなわち、唯識思想を学べば学ぶだけ、心の成長の重要性に改めて気付かされ、それを実現していくためには必然的に治癒と変容が必要だと気付かされたのである。この直近数年間は、「心の成長」という言葉を使うのに躊躇するぐらいにそれと距離を取っていたように思う。しかし、今自分はさらに心を育んでいかなければならないのだという人生上の課題と発達課題に直面し、その課題と照らし合わせたときに、この一連のセッションが治癒と変容をもたらしてくれるように意識づけをしていくことが重要になった。今日のセッションを通じてどのような真理が開示されるのかは予想できないが、どのようなものが開示されようとも、それは必ず自分の心の成長につながるはずである。フローニンゲン:2024/2/25(日)04:10


12198. 今朝方の夢の続き/修行としての学術研究


時刻は午前5時を迎えた。昨日から3日後までは最低気温が2度ぐらいまで下がるので、少し寒い日が続く。今日は午前中に少し小雨が降るかもしれない。そんな中で今日の第27回のシロシビン・セッションを始めていければと思う。


先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、そう言えばもう1つ印象に残っている夢を見ていたことを思い出した。夢の中で私は、大きなスクリーン画面を見つめていた。すると突然、タッチパネル式のスクリーン上にドラムや鍵盤を含めた様々な楽器が映し出された。なんだろうと思ってそれぞれ楽器に触れてみると、触れた楽器から音が流れた。とても面白いと思って、そこから即興演奏をすることにした。特にドラムやシンバルの音が自分の耳に新鮮な感覚を与えており、それらの楽器を鳴らす際にはとりわけ爽快感を感じた。音楽を即興的に奏で、音楽と一体になる体験に没頭していると夢がまるで溶けていくかのような形で場面転換を迎えた。そのような場面があったのを思い出す。この一見何気ないように見える夢もまた大切なことを色々と教えてくれているように思える。1つには音楽と一体化するという体験である。これは別に音楽に限らず、それこそ今日のシロシビン・セッションにおいては体験そのものとなること、あるいは世界そのものになることが重要になる。その「成り切る」という体験がうまくいけばいくほどにセッションは深いものになる。それともう1つは改めて音楽の力、あるいは音楽を形成するそもそもの音の力に気付かされたということを挙げることができる。今日のセッションも実に様々な音に導かれる形で体験が進展していくであろう。毎回予想を遥かに超えることが起きるのでなんとも言えないが、今日もまた必ずや実りあるセッションになるだろうと確信している。あとはその体験内容をひたすらに唯識思想の観点から紐解き、咀嚼していくだけだ。今の自分にはシロシビン・セッションを無限に深めてくれる羅針盤かつ道先案内人としての唯識思想があるだけでもう感謝の気持ちで一杯である。


昨日、改めてハーバード神学大学院(HDS)での学びについて考えていた。自身にとって、欧米の大学院での博士課程の進学前最後の修士課程となり、それは自分にとって4つ目の修士号となる。これまでの学術的鍛錬を振り返ってみると、修士課程というのはある学問対象に関する研究活動という「行」を通じて、その分野の学びを「修める」という意味で「修行」の場なのだと改めて思った。学術研究もまた修行なのであり、その内容と取り組み方によって自らの心の成長につなげることができる。自分は幸いにも、心の成長を真正面から扱う唯識思想を主たる研究テーマに掲げていることもあり、それを大学院で修士課程と博士課程を通じて研究することができたら、どれだけ心の成長を促す修行になるだろうか。それを思うだけで喜びに溢れてくるし、感謝の念で溢れてくる。兎にも角にも多くの人が健全で豊かな心の成長を実現し、幸福かつ充実した人生を日々歩んでほしいという思いで一杯である。自分にはただその思いしかないし、逆にその思いがあるだけで自分の内側から無限の力が湧いてくる。フローニンゲン:2024/2/25(日)05:29


12199. 唯識に関する学術研究と紹介の自分なりの貢献の展望

       

日本に過去も今も唯識研究に関して素晴らしい仕事をしておられる方が何人もいる。自分もここから修士課程と博士課程においては唯識研究に没頭したいと思っており、その際にそうした先人が残した日本語の文献を参照することは必ずあるだろう。むしろ唯識研究をすることを通じて初めて欧米の大学院での研究で日本語の文献を引用することができるようになるのではないかと思う。これまでの12年間の欧米での学術研究の中で、日本語の文献を引用することは自分の専門分野の都合上一度もなかった。しかし、唯識思想の研究に関しては、英語よりもむしろ日本語での研究に分厚い堆積があり、自分は幸いにも日本語を読めるのだから、日本語文献をうまく活用しない手はない。欧米での唯識研究において、自分が日本語の文献を引用しながら英文論文を執筆していくことは大きな貢献になるだろう。


もう1つ重要なこととして、唯識思想は兎にも角にも心の成長を最大の目的にしており、尚且つ一般の人の成長実践に直結する内容がわかりやすく説かれている。自分はこれまで心の成長を扱う発達心理学や発達科学を扱っていたからか、難解と言われがちな唯識思想について一度も難解だと感じたことはない。漢字表記の日本語が難しいことはあれど、概念そのものの意味内容は本当にスッと肚落ちしてくるのである。それはそもそも、釈迦が悟りを開いたその世界観をそのままに表現しようとした華厳思想のような難解さはなく、唯識思想はことごとく凡夫としての私たちの目線で悟りへの道程と心の性質や機能が詳述されている点が肚落ちしやすさの要因だろうか。そんな唯識思想に関する学術研究に勤しむことに並行して、この思想の叡智を現代を生きる多くの人たちに共有したいという思いで一杯である。仮にハーバード神学大学院(HDS)に進学したら、唯識思想に関する読書会を立ち上げる予定で、HDSに所属する学生や教授、あるいはHDS以外のハーバードコミュニティの人たちが参加できるような読書会にして、そこで唯識思想について紹介したいと思っている。そこで取り上げる内容と経験は、今後欧米の大学で唯識に関してコースを受け持つ時に役に立つだろう。日本の人たちに唯識思想について紹介する時には、すでに唯識思想を紹介しておられる素晴らしい仏教研究者や実践者がいらっしゃるので、そうした方たちとは異なる切り口で唯識思想を紹介していければと思う。その時に要になるのは、やはりこれまで培ってきた発達心理学・発達科学・インテグラル理論の三本柱であり、さらにはサイケデリクス体験を紐解き、そしてその体験を成長に導く最良の羅針盤かつ道先案内人としての性質を唯識思想は持っているので、サイケデリクスとも絡めて唯識思想を紹介できればと思う。このように学術研究においても紹介の仕方においても、自分なりの独自の貢献が唯識を通じて社会に行えるであろうという展望が今開かれている。フローニンゲン:2024/2/25(日)05:52


12200. 第27回のシロシビン・セッションにおける言語的実験   


時刻は午前7時を迎え、昨日と同様に今朝方もまた小鳥たちが澄み渡る鳴き声で合唱を奏でている。それはどこまでも深く心に染み渡ってきて、心の襞に付着しているものを浄化してくれる。そんな恵みの音のシャワーである。きっとこうした小鳥たちの美しい鳴き声を感謝の念を持って味わうこともまた心の成長につながるのだろう。小鳥たちの鳴き声を聞いている時には、不思議と容易に我執の手放しが起こる。それは末那識の働きを緩め、言葉による分別を超えた依他起性の世界に誘ってくれる。先ほどはその状態で朝の瞑想を行っていた。この行は毎朝の楽しみの1つである。これからもできるだけ小鳥たちがそばにいて、静かな環境で生活をしたいものだ。


朝の瞑想を終えて、あと3時間弱に迫った第27回のシロシビン・セッションに向けて少し考えていたことがある。実験的に、今日のセッションはできる限り最初から最後まで英語人格としての自己を保持してみようと思う。前回か前々回に実験的にセッションの途中で日本語人格から英語人格に変えてセッションを進めて行ったところ、英語という言語が言語阿頼耶識に深く染み渡っていく体験と、英語運搬に関する脳機能の変化を感じるという体験をした。今日もその体験をさらに深めるために、セッションの始めから終わりまで日本語を脳内で介在させることをせず、できるだけ英語脳の状態と英語人格を保持してみたいと思う。それによって体験内容や開示される真理にどのような変化があるかを観察してみたい。自分の人生のうちのおよそ3分の1以上が欧米での生活となるが、半分以上は依然として日本語で構築された記憶と自己が存在している。セッションで開示される真理の内容と体験内容の度合いのばらつきは、どちらの言語で構築された自己を主とするかによってもたらされているように思えてくる。そうした事柄を確認する意味でも、セッションの準備段階から日本語脳を緩め、英語脳を活性化させる形で準備を進めていこうと思う。このようん毎回のセッションはいつもながら色々と試行錯誤する事柄で溢れている。そこに楽しみを見出す自分がいて、それがさらなる心の成長をもたらしてくれていることを実感する。フローニンゲン:2024/2/25(日)07:19


12201. 第27回のシロシビン・セッションの振り返り(その1)   

   

「あぁ、午後5時半を迎えてもまだ明るいのだな。そんな季節になったのだ」そのようなことをふと思った。時刻は午後5時半を迎え、今、フローニンゲンの夕方の空には夕日が顔を覗かせている。今日の今日まで気づかなかったが、この時間でもまだ日暮れにならない季節になっていたことに驚く。3月を目前に控えており、季節は着実に進行していて、日の入りの時間も遅くなっていたのである。日の出の時間が早くなっているについては既に気付いていたが、どういうわけか日の入りの時間については今日まで意識を向けてこなかった。「意識を向けるということ」それは今日のシロシビン・セッションでも重要なテーマであったし、シロシビン・セッションを超えて日常においてそれは常に大事になる。最近はめっきり集中力が高まっているのを実感しており、それは定期的なシロシビン・セッションと毎日数回に分けて行っている瞑想の実践のおかげだろうし、さらには色々と工夫をして目の前の取り組みに集中することができるように環境を整えて、いかなる実践にも集中して従事していることの積み重ねだろう。


いつものように、本日実施したシロシビン・セッションについてゆっくり振り返っていこう。端的には、ここ2回と同じくまたしても過酷な体験だったのだが、セッションの終わり頃にふと気付いたことがある。それはもう笑ってしまう気づきであった。確かに親友のメルヴィンが述べるように、クエン酸はシロシビンをシロシンに転換する速度を早め、またマッシュルームの細胞壁の中にあるシロシビン を分解することに役立っていることはここ数回の体験を通して身を持って知った。しかしながら、小学校で習った理科の知識を思い出す必要があることに気づいたのである。単純な話、それは酸性とアルカリ性の話である。毎回シロシビン・セッションをする日は、前日の夜から1日ファスティングをする形でセッションに臨むのだが、その時の胃の状態について考慮するのをこれまで完全に失念していたのである。なんと基本的なことか。より具体的には、前日の夜からファスティングをしていることから、胃の中は当然空っぽであり、その状態でクエン酸が豊富なレモン汁をシロシビン・マッシュルームに和えると胃を不快な形にしてしまうことになり、それが今日を含めた過去3回の体験の過酷さを生んでいるのではないかと思ったのである。胃の状態は馬鹿にできず、胃が酸性過多であると腸にも影響を与え、腸は感情を司る部位でもあるから、感情が否定的なものになればそれは体験が過酷になるのも当たり前である、というよくよく考えてみたら当たり前に思えることに気づくのに今日を含めて3回の過酷なセッションを要した。この失敗談及び注意事項はぜひ多くの人に共有したいと思う。


この反省を受けて、空腹時にクエン酸豊富なレモン汁をシロシビン・マッシュルームに和えるのではなく、原点回帰をし、マサテコ族の伝統に則り、次回からはアルカリ性に寄った胃腸に優しいオーガニックのカカオパウダーと蜂蜜を和える形でマッシュルームを摂取しようと思った。必要であればそこにヘンプパウダーを加えてもいいかもしれない。いずれにせよ、確かにクエン酸は効果的なのだが、自分のようにファスティングと組み合わせてシロシビン・セッションを行う場合にはお勧めできず、クエン酸と和えるのであれば、それは空腹状態ではない時の方がいい。自分は今後も空腹状態でシロシビン・セッションを行っていくことは変えないので、カカオパウダーと和える形に立ち戻りたい。進展しては後退し、後退しているようでいて進展するセッションが行われている。フローニンゲン:2024/2/25(日)17:40


12202. 第27回のシロシビン・セッションの振り返り(その2)


原点回帰。再起動。シロシビン・セッションの意義と価値はそれに尽きるのではないだろうか。とにかくそれは大切なことに原点回帰させてくれ、再び日々を生き直すという意味での再起動を実現させてくれる。あまりコンピューターと人間を同列に並べたくはないが、シロシビン・セッションはやはりデフォルトモード・ネットワークとセイリエンス・ネットワークの解体を通じた脳内・身体再起動をもたらしてくれる。それはコンピューターの再起動とどこか似ている。コンピューターをシャットダウンさせるのではなく、再起動させるのである。コンピューター内のバグの除去やバグの修正のために定期的にコンピューターを再起動させることがコンピューターにとって重要なのと同じく、私たち人間もまた再起動が必要なのだ。本来は休暇やリトリート、さらには祭りなどはそうした再起動の役割を果たしていた。シロシビン・セッションは自分にとってそれらを遥かに凌駕する形での脳内と身体の再起動を実現させてくれる。前者はデフォルトモード・ネットワークとの兼ね合いで、後者はセイリエンス・ネットワークとの兼ね合いで実現される。両者の再起動を通じて、脳と身体の恒常性維持機能が再び健全なものとして活動を始める。


そうした再起動体験を今日もしたわけだが、セッションを終えた午後3時半過ぎに真っ先に行ったことは、ファスティングを終えるべくリンゴとバナナを食べるといういつもの行為ではなく、なんとトイレ掃除だった。しかも徹底的なトイレ掃除だった。セッションを終えて2階の書斎に戻る前に1階のトイレに入ったところ、いつも便器は綺麗にしているが、トイレの足元の壁の汚れやタイルの汚れが気になったのである。それらは掃除機では取り除けない汚れであり、なんと説明したらいいかわからないが、壁の窪みにホコリが随分と溜まっていることに気づいたのである。自分でも驚いたが、この家に引っ越してから、便器の掃除や室内に掃除機をこまめにかけることはしていたが、それらのホコリや壁の汚れには気づかなかったのである。これまで完全に見落としていたことに気づかせてくれたのも、当然ながらシロシビンによるデフォルトモード・ネットワークの解体による視点の枠組みの変化が起こったからに他ならない。善は急げと言うことで、ファスティングを終えるために果物を摂取する前に、徹底的にトイレ掃除をした。気持ち良いほどに徹底的にトイレの室内を掃除してみると、気分が晴々としたし、神道的な意味でのケガレがハレた気がした。水回りを綺麗にすると運気が上がるとよく言われるが、トイレを徹底的に綺麗にしてみて、すぐさま自分の身体の気の巡りも良くなったような気がした。自分の身を置く家の状態は、自分の心身の状態と相似形を成しているように思える。心身の状態を良くしたければ、家を綺麗にしておくことの大切さを教えてもらった。これもまたとても基礎的なことだが、意外と忘れがちなことではないだろうか。トイレを綺麗にしてみると、今度は階段や2階の壁の汚れも気になったので、明日からまた時間を見つけて家全体を少しずつ綺麗にしていこうと思う。何か今日はシンプルで忘れがちな大切なことを教えてもらうセッションだった。フローニンゲン:2024/2/25(日)17:57


12203. 第27回のシロシビン・セッションの振り返り(その3)


今日のセッションの振り返りはまだまだ続く。セッションまでの過ごし方と今日の服用量や音楽設定、さらにはセッション中の格好についても細かいが次回のために振り返っておきたい。


今日のセッションを始めたのはいつもより早く午前9時半だった。それまでに唯識思想に関する和書の専門書を2冊ほど再読した。有意義な学術研究ができたなと思ったところで早々とセッションの準備を始めた。なのでセッション前に行っていたのは早朝3時半に起床してからの2冊の書籍の再読と途中に休憩がてら行った10分ほどの瞑想実践、さらには朝の日課としてのアニマルフローの実践と創作活動といういつも通りの過ごし方であった。何か特別なことをしていたわけではない。


旧栽培キットの6周目に収穫して乾燥させたものを全て使う形で今日のセッションを行った。これまでは基本的にテレンス・マッケナが提唱した完全乾燥させたマッシュルームを5gほど摂取するという「英雄の服用量」でセッションを実施することが多かったが、今日は実験的かつ手元に残っているものとの兼ね合いで、2.9gほどの完全乾燥させたマッシュルームを摂取した。50度ほどのオーブンで20時間を超す形で乾燥させると完全乾燥が実現され、冷蔵庫での保存がよく効く。また、完全乾燥させていることもあり、まな板で微塵切りにすることも容易である。そうしたことからそれくらいの完全乾燥を勧める。しかし勧めないのは、仮にファスティングと絡めて、空腹状態を通じて摂取することでシロシビンの効力を高めたい場合には、クエン酸が豊富なレモン汁とマッシュルームを和えない方がいいことは既に述べた通りである。実は味としてはそれが一番摂取しやすいのだが、とにかく空腹の場合には胃を酸性で荒らさないためにもカカオや味噌と和えるなどして摂取した方がいい。


英雄の服用量からは随分と抑えた形での服用量だったが、空腹時におけるクエン酸の摂取の影響を受けて、今日もまた途中からかなり過酷な体験となった。いつも出だしはいいのだが、後半戦からがきつくなる。それは兎にも角にも胃の状態が腸の状態に影響を与え、それが感情に影響を与えてセッション全体の体験内容に影響を与えるという因果連鎖による。しかし、今日の過酷な体験においてもいくつも洞察が得られた。どうやら自分が体験していることは人間の根源的な苦であることに気づき、それを味わうことを通じて、どうすれば人間がそうした根源的な苦を克服し、苦から解放されるかを考えるきっかけになったのである。それ以外にも、今日はやたらと死について思いを巡らせる時間があった。今日は服用量の影響もあって、究極的な目撃者の意識状態や非二元の状態に入ることはほぼなく、入ったとしてもコーザルの意識状態であり、基本的には深いサトルの意識状態とコーザルの意識状態の2つの帯域に留まっていたように思う。そんな中で、やたらと死について取り憑かれかのように考えている自分がいて、途中で少しまずい精神状態に入りそうだったので音楽を変えるなどしてなんとか想定される危険な状態を避けることができた。ここからも音楽選定は改めて重要かと思った。フローニンゲン:2024/2/25(日)18:15


12204. 第27回のシロシビン・セッションの振り返り(その4)


今日のセッションでは、Spotifyから“Zen Music”というプレイリストをかけた。これは久しぶりにかけたプレイリストで、数回前にこれを使って2回ほどセッションを実施したところ、宇宙的かつ平穏な体験が得られたことにあやかって今回このプレイリストを用いたのだが、体験内容と深さを左右するのは音楽だけでも服用量だけでもなく、何とシロシビン・マッシュルームを和えるかという問題があり、今回はクエン酸豊富なレモン汁と和えたこともあり、このプレイリストをかけることを通じて以前のような体験が得られたかというと決してそうではない。再三述べるが今日の体験もご多分にもれず過酷な内容だった。しかしもう何が体験を過酷にさせているのかについては明確にわかったように思うので、次回からは空腹時におけるクエン酸の摂取をやめてみて、カカオに戻してもて体験内容と深さに与える変化を吟味したい。引き続き細かな変数設定と実験が続く。


体験が過酷な時はどのような音楽を流しても過酷なものは過酷なものであり、あれこれ試したが精神的な危機状態に近づきそうな状態から脱却できるような音楽はあまりなさそうだった。仏教音楽を離れ、自然音を試したりしたがダメであり、音楽を止めてみたら否定的な思念の渦に飲まれそうになり、さらに体験は過酷なものになった。少し落ち着いたところでモーツァルトの協奏曲を流したところ、ヴァイオリンの甲高い音が精神に過度な刺激を与えたのでピアノソナタに切り替えたところ、確かに気持ちは落ち着いたが、どうもフィット感はなかった。そこで海の波の音を流したところ、随分と気持ちが和らいだ。最後はやはり母の子宮内での記憶を思い起こさせる海の音なのだと思った。また自分の実家の目の前は虹ヶ浜という素晴らしい名前の風光明媚な海岸が広がっていて、実家に戻ると常に波音が聞こえて来る記憶を懐かしく思い出した。またそもそも自分の名前にある「洋」という文字は太平洋の中に含まれている文字であるから、やはり自分は海と深い関係があるようなのだ。それゆえに海の波の音が自分を一番リラックスさせ、解放的な気持ちにさせてくれると気づいたのである。故郷と名前への原点回帰とでも言えるだろうか。次回は今回の反省を活かし、クエン酸はやめてカカオパウダーを活用する。幸いにも本日、新栽培キットから続々とマッシュルームが大きく育ち始め、明日の朝には大量収穫できそうなので、次回は英雄の服用量の5.0gを服用する。その時に最初から海の波の音楽を流したいと思う。当面は仏教音楽や森の音楽からは離れる予定だ。フローニンゲン:2024/2/25(日)18:33


12205. 第27回のシロシビン・セッションの振り返り(その5)


今日のセッションは確かに後半からは過酷ではあったが、服用量を随分と抑えたこともあり、この振り返り日記を書き終えたら、入浴までの時間を使ってもう少し唯識思想の研究に着手できるかもしれない。自分の脳の状態と要相談である。いずれにせよ、今日のセッションもまた過酷ではあったものの、唯識思想について学んだことが体験をナビゲートしていた。そのナビゲートがなかったらと思うとゾッとする。また、最悪最低の事態においても唯識思想という基盤が自分の中に強固にあればあるだけ事態の深刻化から脱却することができるし、その体験を洞察や叡智に転じることができるはずだ。自分にとって唯識思想はシロシビン・セッションにおける生命線である。ライフラインとしての唯識思想の研究はこれから地道に着実に続けていく。学問的な研究とシロシビン・セッションというそれ以上ない意識探究実践と絡めることを通じて唯識思想をどこまでも広く深く研究していきたい。唯識思想は、自分の名前の由来にある太平洋の如し大海である。大海に寛ぐこと。それを自分の在り方の根幹に置く。


細かな振り返りとして、今日は寒かったので半袖半ズボンではなく、長袖長ズボンでセッションに臨んだのだが、後半から体温が上がって来たのか、それともベッドの温もりのおかげか、途中からは暑くなっきたので半袖半ズボンになった。次回のセッションでは最初から、いつも就寝している時と同じ半袖半ズボンの身軽な格好で臨みたい。音楽に加えて服装も細かな点だが重要である。それもまたセッティングの変数に入る。


今日のセッションで印象的だったのは、セッションが終わりに差し掛かった頃に腸に手を当てて、まさに「手当て」という表現が相応しく、腸を労ってエネルギーを送ることをしていた。実際には、腸をメインにして、心臓やその他の臓器、果ては顔やその他身体の諸々の部位に手当てをしていった。手のひらから霊気のエネルギーが流れ出ているのを感じたことから、日頃声を掛けるのを忘れがちな身体の1つ1つの部位に声を掛けていって労っていった。心身一如の発想に基けば、心が健全であるためには身体の健全さが重要であり、心が満ち足りて幸せであるためには身体がまずはそれを感じていなければならない。そうしたことから、常日頃から身体に声掛けすることを忘れずに、毎日自分の無意識下でせっせと様々な仕事に取り組んでくれている身体に優しく接したい。特に手を当ててエネルギーを送ることを習慣にしていこう。腸にエネルギーを送っている時に、ふと母の大腸の調子が気になった。今度一時帰国した時には、母の大腸に手を当ててヒーリングをすることをさりげなく行いたいと思う。フローニンゲン:2024/2/25(日)19:05

 


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