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【エディンバラ滞在記】17661-17666:2025年11月9日(日)


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タイトル一覧

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【エディンバラ滞在記】今朝方の夢

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【エディンバラ滞在記】今朝方の夢の振り返り

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【エディンバラ滞在記】唯識探究とクラシックギターの演奏の調和

17664

【エディンバラ滞在記】パソコンの調子が戻って/旅の楽しみ

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【エディンバラ滞在記】複雑性の中で簡素化され、充実感を増す日々の生活

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【エディンバラ滞在記】エディンバラの浄水の美味しさに驚いて

17661. 【エディンバラ滞在記】今朝方の夢


時刻は午前4時半を迎えた。今朝は4時少し前に起床し、冷水シャワーを浴びてポカポカした状態で今にいる。今日からいよいよイギリス旅行が始まる。前回イギリスを訪問したのがおそらく2018年の国際学習科学学会での研究発表の時だっと思うので、あれから7年経つ。7年振りのイギリス旅行を存分に満喫してきたいと思う。そこではまた種々の良き出会いがあるだろう。それは人との出会いだけではなく、大学や美術作品、風土など、諸々の良縁を含む。


イギリス旅行に向かう出発の朝に見ていた夢は、見慣れない一軒家の中にいる場面から始まった。そこで私は小中高時代の2人の友人(NK & HY)と家の中でサッカーをしていた。部活時代にもキーパーを務めていた友人にキーパーになってもらい、彼が立つ窓に向かってPKをするようなイメージでボールを蹴って遊んでいた。その窓はガラスではなく、耐久性のある別の素材でできていたので、ボールをぶつけても割れることはなかった。最初にもう片方の友人がキックを放つと、それは窓の右下に見事に決まった。キーパーの彼の目線は窓のブラインドとちょうど重なっていてこちらの姿が見えないような形になっていたので、直感で蹴るタイミングと軌道を掴んで止めるしかなかった。自分が蹴る番になると、ブラインドが少し上がり、彼はこちらの様子が見えるようになった。そうすると必然的にキックの難易度が上がった。しかし彼がその場を離れる瞬間が一瞬あったので、自分はそのチャンスを逃さず、笑いながら窓に向かってボールを蹴ろうとした。すると彼はそのことに気づき、すぐさま窓の方に戻ってきて、その動きが見えたので、自分は咄嗟に浮き玉に切り替えた。かろうじて窓の左上の隅に決まる形となったが、彼はバーに当たってノーゴールだと笑いながら主張した。


次の夢もまたサッカーをしていた場面である。場所は見慣れない砂利のグラウンドで、そこで高校時代のサッカー部の友人たちとパス交換をして遊んでいた。すると一学年上の先輩たちがやってきて、先輩たちを交えて引き続きパス交換を楽しんだ。それが良いウォーミングアップとなり、せっかくなので紅白戦をしようということになった。自分は右サイドのミッドフィールダーを務めることになり、そこは慣れ親しんだポジションでもあるので、普段通りのプレーを楽しもうと思った。フローニンゲン:2025/11/9(日)04:41


17662. 【エディンバラ滞在記】今朝方の夢の振り返り

        

今朝方の夢の舞台は、現実と記憶、そしてこれからの旅路を結ぶ中間世界であったように思われる。見慣れぬ一軒家という空間は、外的な現実ではなく、内面に築かれた象徴的な心の家である。そこにかつての友人たちが登場するのは、人生の原点を形づくった少年期の自己との再会を意味している。夢の中で行われていたサッカーは、単なる遊びではなく、創造的な自己表現と競争のリズムの象徴である。ボールを蹴るという動作は、自己の意志を外界へ投げかける行為であり、その結果が他者との関係の中でどう受け止められるかを試す一種の自己実験である。窓に向かってボールを蹴るという構図は、内面と外界を隔てる境界への挑戦を示している。ガラスではなく、割れない素材でできた窓は、現実の障壁が壊れることはなくとも、そこに向かって試み続ける力が成長を促すことを示唆している。キーパーの友人がブラインド越しに立っている姿は、他者との関係の中に生じる見えない隔たりを象徴している。人は他者を完全には見通せず、相手もまた自分を完全には理解しない。その中で直感を頼りにボールを蹴ることは、相互理解の限界を超えて通じ合おうとする意志の表現である。ブラインドが上がり、相手の姿が見えるようになった瞬間、プレーは一層難しくなった。これは、人間関係や社会的場面において、見える化された状況が必ずしも容易でないことを示している。見えることは理解を深めるが、同時に駆け引きや意識的な判断が増し、直感的な行動を制限する。相手が一瞬その場を離れた時、自分が笑いながらチャンスを掴もうとしたのは、幼き日の無邪気さと戦略性が融合する瞬間であり、遊びの中に潜む主体性の再生である。しかしその蹴りはバーに当たるぐらいの高さで、友人は笑いながらノーゴールだと主張した。このやり取りは、勝敗そのものよりも共に笑う関係性の方に価値があるという悟りを映している。人生の多くの出来事は、結果の正否ではなく、その過程の中で誰と笑い合えるかに意味があると確かに自分は考えている節がある。続く夢では、舞台が砂利のグラウンドへと移る。そこは心の原風景であり、現実の地面に近づいた象徴である。砂利の感触は、少年期の情熱や仲間意識の再現であり、同時に現実的基盤への回帰を意味する。先輩たちが登場する場面は、世代を超えたつながりの継承を示しており、自分が今歩もうとしている新たな旅路においても、過去の経験が常に背後で支えていることを教えている。紅白戦が始まり、自分が右サイドのミッドフィールダーとしてプレーする展開は象徴的である。右サイドは、論理的思考や構造的理解を担う意識の右手に対応し、創造と秩序のバランスを取るポジションである。そこに普段通りのプレーを楽しもうとする心境は、未知の地(イギリス)へ向かう今の自分の姿勢と重なっている。すなわち、どんな環境にあっても、自分のリズムと信念を保ちながら自然体でプレーすること。これが成熟した自己の表現である。この2つの夢に通底するのは、遊びを通じて世界と再接続するというテーマである。サッカーという共同的な遊びは、競争と協調、意志と調和、自己と他者の間で揺れ動く人間存在の縮図である。家の中のPK戦は内的世界での探求、グラウンドのパス交換は外的世界での実践を象徴している。すなわち、内なる直感と外なる関係性を統合する発達のプロセスが、この夢全体に流れている。人生における意味として、この夢は再び遊ぶ勇気を取り戻すことを教えている。幼き日に無意識に行っていた創造、挑戦、笑いが、今また成熟した意識の中で新たな形を取ろうとしている。旅立ちの朝にこの夢を見たのは偶然ではない。新しい土地での学びと探求もまた、人生という壮大な試合の延長線上にある。結果にとらわれず、プレーそのものを愛し、笑いと共に生きること——それがこの夢が指し示す、人生の深層的なメッセージである。フローニンゲン:2025/11/9(日)04:48


17663. 【エディンバラ滞在記】唯識探究とクラシックギターの演奏の調和 

       

仏教研究、とりわけ唯識探究とクラシックギターの演奏が調和を成しているように感じる。唯識探究とクラシックギターの演奏が調和を成すという感覚には深い必然性がある。両者は一見異なる領域に見えるが、その本質には共通する姿勢と方法がある。両者が響き合うとき、思索は抽象の空に浮遊するだけでなく、細やかな身体感覚と結びつき、音は単なる技巧ではなく、心の深層が立ち上がる。知と芸、静と動、内観と表現が螺旋を描きながら相互に高め合っていくのである。唯識は心の構造、現象の成立、認識の働きを徹底して観じ、分別と実在視を手放し、本来の覚照に立ち返る道である。一方、クラシックギターは指先の触覚、呼吸、身体の重心、音の立ち上がりや余韻まで、極めて微細な注意を求める芸術である。どちらも粗雑な意識では決して到達できない精妙な領域を扱う。その意味で唯識の「転依」、つまり心の基盤の転換は、ギターにおける「脱力と集中」「意識の座の移動」と響き合う。力むほど音は曇り、執着するほど心は濁る。手放し、澄ませ、透明な気づきで音と向き合うとき、音は自然に立ち上がる。それは心が本来の静性に帰る動きと同質である。また唯識は瞬間瞬間に生起し滅していく心所の流れを観じ、構造と働きの両面を理解する。ギター演奏も、一音一音に世界が立ち上がり、消えていく過程を体験する。音は保持できず、過去に固着すれば音楽は死に、未来を急げば響きは浅くなる。唯識の観照は、「ただいま」のみに生きる音楽的気づきと一致する。アル・アンダルシアのナスル王朝期の哲人たちが哲学と音楽を両輪としたように、現象の無常性と美の瞬間性を把握する態度がここにある。さらに、唯識の「心が世界を造る」という洞察は、演奏における「音は心の状態を映す鏡」という実感に通じる。焦りがあれば音は急き、慈しみがあれば音は柔らかく伸びる。とりわけクラシックギターは音量が繊細で、意志のわずかなざらつきも露わになるため、内面の観照が不可欠である。心の調律がそのまま音色の調律となる。ここに、思想が身体を通して実践に変わる場がある。技術と理解の関係も共通している。唯識の概念理解だけでは悟りに至らず、坐を通じて心の働きを直接観じる必要があるように、楽理や指の運びの知識だけでは音楽は生まれず、実際の反復と身体化が欠かせない。知識が身体の奥に沈み、習慣となり、やがて無意識の自然法則となるとき、道は開ける。唯識の阿頼耶識の種子が薫習によって変容するように、ギターの反復練習も指と心に新たなパターンを刻む。それは発達の過程であり、変容の仕事である。このシナジーがもたらす恩恵は、思索が音によって温度を帯び、演奏が智慧によって深みを持つという点である。静謐な観照は音の余白に息づき、音の震えは心の微細な動きを照らす。究極的には、音を奏でる主体と音が生まれる場が溶け合い、分別を超える瞬間が訪れる。それは唯識が指し示す非二元の体験に触れる契機であり、芸と道が1つになる場所である。この調和は単なる趣味の結びつきではなく、生の統合、智慧と美の接点である。フローニンゲン:2025/11/9(日)06:54


17664. 【エディンバラ滞在記】パソコンの調子が戻って/旅の楽しみ 

       

間も無く自宅を出発し、フローニンゲン中央駅に向かう。いよいよ今日からイギリス旅行が始まり、旅に向けての荷造りと心の準備も完了した。ここ数日間パソコンの調子がイマイチで、フリーズすることが多かったので、早朝にキャッシュの削除など色々と手を試したところ、無事にパソコン全体が軽くなり、動作が機敏になった。旅の最中に来月末に発売予定の中竹竜二さんとの書籍の再校のレビューをしたいと思っていたので、パソコンの動作が戻ってくれて本当に嬉しい。それに加えて、スキポール空港のラウンジでは3時間ほど滞在できるスケジュールなので、ラウンジで昼食を摂り終えたら、中土井僚さんと年明けに出版予定の翻訳書の翻訳者としての解説文の執筆に取り掛かりたい。これは2万字を超えるぐらいのものを想定しているので、じっくり腰を据えて執筆したかった。2人の編集者の方と僚さんからはすでに解説文のアイデアをいただいているので、それを元に文章を執筆していけばかなりスムーズに文章が完成するのではないかと思う。この翻訳書は全14章から構成されており、書籍の全体感を示したら、それぞれの章についても1200字ぐらいの解説を施したいと思う。


フローニンゲン中央駅に予定通り早めに到着した。今、駅のカフェにいる。今日は晴天でとても穏やかな日曜日だ。ボサノバ風の音楽が静かに店内に漂っており、旅の楽しみとしてのコーヒーをすすりながらこの日記を書き留めている。普段自宅ではコーヒーを飲むことをやめ、抹茶や種々のお茶を飲むようにしているが、旅の最中はホテルの朝食や空港ラウンジでコーヒーを楽しむようにしている。このささやかな楽しみは旅に確かな彩りを与えてくれている。そう言えば前回のスイス旅行中には、ジュネーブの2日目に謎の吐き気があり、胃腸の調子を崩した。今回は特に手洗いうがいに気をつけて、ウィルスに感染しないように細心の注意を払いたい。旅を楽しむ上で、人生を楽しむ上で、体は最も大事な要素である。体の調子が悪いと、いくら精神的に強靭でも体に引っ張られて精神も弱る。とにかく体を労わりながら、身体の声を聞き続けることは日々の自分の最重要項目でもある。これからイギリス旅行が本格的に始まるが、旅の最中において、大学院の志望動機書のドラフトを完成させたい。今回は3校に出願する予定で、それぞれの大学院を見学したらドラフトの執筆に本格的に取り掛かりたい。それと並行して、移動中やホテル滞在中においてはギターの演奏ができないので、日本法相唯識に関する日本語の論文のPDFも全て再読していく予定だ。明日はエディンバラ大学の仏教プログラムのディレクターであるポール・フュラー教授と面会することになっているので、質問事項を持参するノートに書き留めておきたいと思う。フローニンゲン中央駅のカフェ:2025/11/9(日)09:21


17665. 【エディンバラ滞在記】複雑性の中で簡素化され、充実感を増す日々の生活 

       

フローニンゲン中央駅を出発した列車は、スキポール空港に向かって順調に進んでいる。早朝は幾分晴れ間が見えていたが、少し曇り空となり、小雨が降る瞬間が先ほどあった。オランダを象徴する長閑な田園風景が左右に広がっている。いつも列車に乗ってどこかに出かけるたびにこの光景を見て心が癒されている。仮に来年にイギリスで生活することになったら、イギリスにもこうした景色があるのだろうか。今回のイギリス旅行では、エディンバラからロンドンへは列車で行くことにし、ロンドンからブリストル、ブリストルからオックスフォードへも列車で移動する。その際に景色をしっかりと眺めておきたいと思う。


来月のクリスマスの日に発売となる中竹竜二さんとの共著の再校のレビューは順調に進んでおり、この調子だと空港に到着する前には完了しそうである。ラウンジに到着して昼食を摂り終えたら、編集者の方に修正依頼のメールを送りたい。原稿をレビューしながらふと、確かに世の中はVUCAの時代を象徴するかのように複雑性が増している側面は多分にあるだろうが、自らの心と知性を深めれば深めるだけ、一生活者としての自分の人生は複雑どころかよりシンプルなものになっている感じがしているということに気づいた。テクノロジーがどれだけ発達し、社会構造が複雑になっても、自分の日々の生活はよりシンプルなものになり、生活が簡素化されていけばいくだけ充実感が輝き出すという現象が起きている。日々の生活は、これまでの経験や学習を通じて構築された原理・原則的なものに貫かれ、柔軟性を持ちながら守備一貫したものとなっている。SNSを一切使わず、LINEのようなコミュニケーションアプリを使わないという細かな実践も自分の貴重な時間を奪われず、自由な時間を十分確保することにつながっている。世間が謳う便利さには流されず、引き続き簡素で充実した生活を送っていきたいという思いを新たにした次第である。こうした何気ない気づきをもたらしてくれるのもまた旅の良さである。今回のイギリス旅行では、種々の新たな気づきが良縁を通じて降ってくるだろう。スキポール空港に向かう列車の中:2025/11/9(日)10:08


17666. 【エディンバラ滞在記】エディンバラの浄水の美味しさに驚いて

                                   

エディンバラ時刻で午後6時半を迎えようとしている。ということはオランダ時間は午後7時半に向かっているということだ。エディンバラ市内のホテルに無事に到着し、暖かいシャワーの後に冷水シャワーを浴びてさっぱりして今に至る。アムステルダムの空港からからエディンバラの空港までわずか1時間ほどとは言え、フローニンゲンからアムステルダムまでの2時間ほどの移動や空港での滞在時間などを含めると、意外と時間が経っている。今日はいつも以上に早めに就寝したい。今宿泊しているホテルはエディンバラ中央駅の近くの4つ星ホテルでとても快適である。部屋は1人では十分なほどに広く、アパート型ホテルのため、食器類も備わっており、快適な滞在が実現できそうである。今日は空港のラウンジで昼食をしっかり摂ったこともあり、夕食は食べることはせず胃腸を休め、明日のホテルの朝食を楽しみにした。いつもはホテルに到着したら近くの地元のスーパーに行ってミネラルウォーターを購入するのだが、ホテルの水を飲んでみたところ、大変おいしくで驚いた。少し調べてみたところ、エディンバラの水道水は極めて質が高く、安全に飲用できるらしい。スコットランド全体において水質基準は非常に厳格であり、その管理は公的機関であるScottish Water によって徹底的に行われている。エディンバラの水は主としてペントランド丘陵(Pentland Hills)や周辺の貯水湖から供給されており、山地からの湧水を源とする軟水が中心である。このため、口当たりが柔らかく、まろやかで、わずかに甘味を感じる特徴を持つ。日本、特に関西地方の軟水に近い性質を持つため、日本人にとっても飲みやすいと評される。エディンバラ市内の全てのホテル、レストラン、一般家庭において提供される蛇口水(tap water)は、すべて飲用に適しており、衛生的にも問題がない。水道局は定期的に数千回に及ぶ水質検査を実施しており、基準を満たさない地域はほとんど存在しないとのことだ。特に市内中心部や4つ星以上のホテルでは配管設備も新しく、塩素臭も極めて少ない。配管設備で思い出したが、日本ではもう何十年にもわたって配管作業されておらず、錆びた配管の水が供給されている地域も多いということを以前あるメディアを通じて知った。一方、オランダでは定期的に配管点検がされており、数日前にもフローニンゲンの街の近所で配管工事がなされていた。そのようなことを思い出しながら、改めてエディンバラの水事情について書き留めておく。味が良いと感じられる背景には、地質と気候の要因があることを知った。エディンバラの水は花崗岩層を通過する過程で不要なミネラルをほとんど含まず、雑味が少ない軟水となる。また、冷涼な気候ゆえに温度変化が小さく、塩素やカルキ臭が揮発しにくい。その結果、まろやかで澄んだ味わいが保たれる。さらに、多くの高級ホテルでは内部に独自の浄水フィルターを備えており、供給される水はボトルウォーターとほぼ同等の品質に達している。加えて、スコットランドの象徴的な蒸留酒であるウイスキーも、同系統の軟水を用いて製造されている。エディンバラ近郊のグレンキンチー(Glenkinchie)などの蒸留所では、まさにこの軟水こそがウイスキーの香味を支える要因となっている。以上の点から、エディンバラの水道水は単に安全であるのみならず、その味わいにおいても高い評価を受ける理由が明確である。とりわけ4つ星クラスのホテルにおいては、内部処理によって水質がさらに磨かれており、日本人の感覚からしても「まろやかで甘い」と感じられるのは自然なことである。したがって、エディンバラにおける水は、安心してそのまま飲むことができるばかりか、土地の清浄な自然と文化を象徴する一滴であると言えるだろう。こうして調べてみると、ホテルの水が美味いことがより深く納得された次第だ。エディンバラ:2025/11/9(日)18:35


Today’s Letter

I’m going to visit the UK for the first time in seven years to visit some graduate schools and meet my potential supervisors. I expect to have meaningful encounters not only with people but also with many other things. Groningen, 11/9/2025

 
 
 

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