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9937-9940: フローニンゲンからの便り 2023年2月19日(日)



No.4494 光の扇_A Fan of Light


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本日の3曲


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タイトル一覧

9937. 今朝方の夢

9938. 今朝方の夢の続き

9939. 自己保存と自己超越/音楽的な存在としての自己

9940. 言葉の庭/小さな積み重ね/言葉と全体


9937. 今朝方の夢


時刻は午前9時半を迎えた。今、小鳥たちの清澄な鳴き声が辺りに優しく響き渡っていて、心が大いに癒されている。昨日の天気予報では今日は曇りとのことだったが、天気予報が良い方向に裏切られ、朝から雲ひとつない快晴に恵まれている。あっぱれな日曜日の朝空を眺めていると、とても気分が良い。朝空から活力を分けてもらっている。


今朝方はいくつかの夢を見ていた。夢の中で私は、小中高時代の友人(HY)と一緒に教師の仕事について話をしていた。自分は教師ではなかったが、塾の講師をしたことがあったし、何より彼は現役の教師として仕事をしているので教育に関する話は盛り上がった。彼は特に社会を専門にしているらしいが、小学校では全ての教科を教えないといけないので大変とのことだった。すると、私たちの目の前に小学校4年生ぐらいの小さな女の子が現れた。彼女はまだ小学生だったが、口調はしっかりしていて、ハキハキと自分の考えを述べることができた。彼女が用いる言葉もなかなか語彙レベルの高いものが多く、彼女のこれからに大いに期待がかかった。彼女は大の上に立ち、友人と私は地べたに寝そべって彼女を見上げる形で彼女の話を聞いた。なぜそのような聞き方をしたのかわからないが、3人ともにそれをするのが最も望ましいとお互いに思って自然とそうなった。彼女が自分の思いの丈を全て語ると、彼女はどこかに消えた。そこからも友人と私は歴史事象の覚え方について生徒にどうやって教えればいいのかについて話をしていたが、私自身はそもそも歴史事象の単なる暗記はあまり意味がないと思っていた。そのような場面があった。


次の夢の場面では、私はリッツ·カールトンのホテルに宿泊していた。ある大企業の年配の経営者の方と一緒にホテルに向かい、ホテルで経営会議をする予定であり、私もアドバイザーとしてその会議に参加することになっていた。ホテルの近くに、日本の名門の製鉄会社が巨大なビルを建てていたので、経営者の方とそのビルの話になった。以前のビルを改築する形で新しいビルにする予定のようであり、その背景には合併によって事業スペースを拡大する必要があるということを人伝で聞いていた。経営者の方も私も、ビルの改築は無駄な投資のように思えたし、街の景観を崩すぐらいに高いビルが建つことに反対であった。ホテルに入ると、そこはさすが高級ホテルという雰囲気を発していた。まずはその経営者の方の部屋で2人で打ち合わせをすることになり、スイートルームに向かった。部屋に入ると、そこは確かに豪勢だったが、自分が思っているほどのものではなかった。しかし、そこで振る舞われたフルーツがとても美味しく、経営者の方にお礼を述べた。そこから一旦自分の部屋に荷物を置きに行こうと思って部屋に向かった。部屋に入ると、意外と部屋が狭く、部屋にあったアイロン台などが邪魔だったので、面積を取るものを全て部屋の外に出した。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2023/2/19(日)09:44


9938. 今朝方の夢の続き


引き続き小鳥たちの美しい囀りが聞こえてくる日曜日の朝。朝の世界に浸り、その心地良さを味わうというのはこういうことである。裸の木々もあと少ししたらまた葉をつけ、花を咲かせるのではないかと思う。そんな予感がする。自分の人生もまた収穫の時期に入っていくような感じがしている。これまで蓄積してきた学習と実践が実りを見せる頃のように思えるのだ。


先ほど淹れたモーニングコーヒーを飲みながら、ホッとした気持ちで今朝方の夢の続きを振り返っている。夢の中で私は、今は亡きフランス哲学者の森有正先生と話をしていた。夢の中の私は、森先生がすでに亡くなられておられることを知っていながらも、同時にまだ生きておられるような気持ちも持っていた。そんな不思議な感覚で先生のことを思っていたこともあり、先生と実際に会ってお話しできたことは大変嬉しいことであった。森先生は笑顔で私に近寄ってきて、「この入試問題をちょっと解いてみてくれないか」と述べた。何やら今執筆中の先生の書籍原稿から抜粋した文章が東大の入試問題に採用されたらしく、問題が公開される前に私に一度見て欲しいとのことだった。先生から信頼されていることが嬉しかったし、何より先生の最新書籍の原稿の一端を誰よりも先に読めることが嬉しかった。しかしその問題は新聞紙上に掲載されていて、他の記事が目に入ってきたり、新聞紙の薄い紙のせいで問題が解きにくかった。先生は私を試すかのようにあえて制限時間を設けて問題を解かせた。新聞紙に掲載された問題を解くのは大変煩わしかったが、とりあえず1問目の問題文をまず眺めてみると、あるキリスト教の宗派に関する説明問題だった。これは少しばかり知識を要する問題であるのと、先生の生い立ちと本文の文脈から推測すればなんとか回答できるような問題だった。とは言え、少し練った回答を書きたいと思っていると、意外とその問題に時間を使ってしまい、それ以降の問題はもっと効率よく解いていこうと思った。ポイントはまず問題文を先に読むことであり、回答に関係ない箇所を一言一句読まないことが重要であった。さもなければ全ての問題を解き切ることができず、時間オーバーになってしまう。そのような回答方針を明確にして続きの問題を解いていった。そのような夢を見ていた。夢の中に森先生が現れたのはこれが初めてのように思える。この夢が今の自分の何を示唆しているのか、それについてもう少し思いを巡らせてみようと思う。フローニンゲン:2023/2/19(日)10:45


9939. 自己保存と自己超越/音楽的な存在としての自己


今日もまた正午過ぎに自宅を出発して、ジムに行ってサウナに入ってこようと思う。トルコ旅行前の最後のサウナを楽しみ、ゆったりとした日曜日を過ごそうと思う。ジムから帰ってきたら、今日は『スキャナー·ダークリー(2006)』を等倍速で視聴しようと思う。この映画は数年前に一度見たのだが、今回改めて見返すことを通じてまた新しい発見を得たいと思う。


昨夜は結構色々なことを考えていたが、その続きがあるのでそれを書き留めておきたい。絶えず自己は自己でありながら、自己は絶えず既存の自己から離れる存在であること。自己の同一性は反復で担保されながら、反復に内在する差異を通じて自己は絶えず変貌しているということは驚くに値する。自己は絶えず自己であろうとしながらにして、自己は絶えず今の自己ではないものになろうとするせめぎ合いの中で存在している。両者の緊張関係こそが発達の要諦なのだ。


自己が既存の自己を完全に脱却した時、自己を取り巻く音楽が変わる。自己という存在を音楽的なものと見立てれば、そこに転調が起こるのである。そうすると、奏でられる音楽の質感はまるっきり異なり、自己はまたその音楽として存在の歩みを継続させていく過程の中で次なる転調の契機を窺っている。自己と日々を音楽的なものとして眺めてみよう。同時に、その音楽に虚心坦懐に耳を傾けなければならない。そうすれば新たな転調に向かって自己はまたその音楽的な運動を続けていくはずである。


そのようなことを昨夜考えていた。今日もまたひょっとしたらそれらの考察を受けてまた新たに何かを考え出すかもしれない。そのような予感がする。寝る前にあまり思考を巡らせすぎると睡眠の質が低下するので、寝る30分ぐらい前からは脳を休めていくことを心掛けよう。そのための儀式的な取り組みを何か見つけたいが、祈りの実践はその1つになるだろうか。昨夜はゾルタン·イスヴァンの小説をベッドの上で読んでいて、寝る直前まで活字に触れていると睡眠の質が下がってしまうようなので、今日からは活字からは離れる。音楽に関してもリラックスできるゆったりとした曲ならいいが、テンポの早い曲などを聴いてしまうと睡眠の質が下がりそうである。睡眠の質を高める形で入眠に向かうのはなかなか難しいものである。あまり外側から刺激を入れず、心を落ち着ける瞑想実践が最も無難な方法だろうか。祈りの実践と絡めてそうした瞑想実践をしてから入眠してみようと思う。フローニンゲン:2023/2/19(日)11:29


9940. 言葉の庭/小さな積み重ね/言葉と全体


最善の密度でその瞬間の時を過ぎていくこと。そうした在り方を絶えず維持して時を過ごしたいものである。充実感の光に包まれた形で絶えず時の中を歩むこと。自分はそのようにして毎日を生きてゆく。


自分は自分の言葉の庭に入り、庭をまた新たに作り上げていく。その庭に誰かがそっとやってくるかもしれない。自身の庭に寛ぐこと。それは魂を涵養する最良の道である。


毎日のとても小さな学習や実践が何日も積み重なっていくと、途轍もないものになる。千里の道も一歩からなのだ。日々の小さな事柄が巨大な構築物を生み出すことに畏怖の念を持つ。自分自身の構築物に対してもそうであるし、他者が生み出した構築物に対してもそうだ。目の前に見えるこの場所そのものも悠久の歩みによって生み出された巨大な構築物なのだ。場所は人間よりも遥かに長い寿命を持ち、遥かに長い歩みを遂げてきた。そんな場所に敬意を表する。


書かれたある対象が全ての全体を表していること。書かれた対象は全て全体の中にあり、同時に全体そのものを指示していること。言葉にはそうしたフラクタル的な性質がある。確かに言葉では全てを語り切ることはできないのだが、言葉は全てを指し示すことならできる。それは幾分に直観的かつ感覚的なものだが、間違いなく言葉は全体を指し示すことができる。言葉の限界は、実は言葉の限界というよりもむしろ無限の可能性を示していたのである。部分と全体の関係を冷静になって考えてみれば、そのことに気づく。言葉の持つ力。おそらくそれは今の自分がまだ気付いていないものをまだまだ持っているはずだ。それを1つずつ紐解いていくかのように、日々言葉を紡ぎ出しながら内省したいものである。それは言葉と寄り添う静謐な生活を実現させてくれるはずだ。フローニンゲン:2023/2/19(日)11:52


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.2207, The Appearance of Kami

Kami appeared behind a cloud.

It is the Kami of the Sky.

Groningen; 10:20, 2/19/2023


No.2208, A Petal of a Morning Flower

A petal of a morning flower has its own life.

It is a part and whole of the flower.

Groningen; 10:30, 2/19/2023


No.2209, A Door to a Transcendental World

A transcendental world is always behind this world.

We can find a door anywhere to go there.

Groningen; 16:52, 2/19/2023

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