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9521-9524: フローニンゲンからの便り 2022年12月1日(木)



No.4145 祝福の光_Blissful Light


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.2019, Morning Contingency

Morning contingency is flourishing.

It is beautifully shining.

It gives us mystery and bliss.

Groningen; 09:26, 12/1/2022


No.2020, The Sorrow of the Universe

I can feel the sorrow of the universe.

It tells us a crucial message for us.

Groningen; 13:17, 12/1/2022


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(3つ)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の2曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

9521. 今朝方の夢

9522. 充実感の進化の波/神道のコスモロジーとテクノロジー

9523. 充実したトレーニングを終えて

9524. 光としての痛み/テクノロジーに内在する魂やスピリット


9521. 今朝方の夢


時刻は午前8時半に近づいている。辺りはもう随分と明るくなっている。遠くの空に朝焼けがうっすらと見える。冬の空は透き通っていて美しい。今日からフローニンゲンは数日間ほど良い天気が続き、来週の月曜日と火曜日には雪が降る予定が出ている。この時期だとおそらく雨混じりの雪であろうから、積もることはないのではないかと予想する。今日は午前中から昼にかけてテクノロジー哲学の講座の初回のクラスがあり、それを終えて少ししたらジムに向かう。今日はパーソナルトレーナーのエリーザとのトレーニングの日であり、今日もまた充実したトレーニングが行えるだろう。そんな期待感に満ちた今朝方には、いくつか断片的な夢を見ていた。1つ目の夢は、小学校時代のある女性友達(HK)と話をしていたことである。彼女は中学校から別の学校に転校し、それ以来一度も会っておらず、数十年ぶりの再会を果たした。最後に話したのは小学校6年生の時だったが、何十年経っても不思議と会話が速やかにできて、お互いに色々なことを話した。彼女の性格は明るく、とても話しやすいままだった。


次の夢の場面では、私は以前協働していたある女性の知人の方と話をしていた。話の中で、その方が裁縫が上手であることを知り、今度ミシンの使い方を教えてもらえないかと思った。その方の家で裁縫教室でも開いたらいいのではないかと思ったが、その方は普段とても忙しいのでそれは少し難しいかもしれないとも思った。その方から裁縫を教えてもらうという話は立ち消えになったが、裁縫は自分で始めてみようかと思ったところで夢の場面が変わった。


最後の夢の場面では、高級旅館の大浴場にいた。そこには風呂がいくつもあって、風呂掃除をこれから行うところだった。風呂場を見ると、どういうわけか所々に醤油が溜まっていて、それを勢いよくシャワーで洗い流すということをしていった。しばらくすると、全ての醤油を綺麗にすることができ、無事に掃除を終えた。すると、心が晴々とした。今朝方はそんな夢を見ていた。フローニンゲン:2022/12/1(木)08:30


9522. 充実感の進化の波/神道のコスモロジーとテクノロジー


時刻は午前9時半を迎えた。今日はとても穏やかな朝である。早朝には少し霧があったが、今はすっかり霧も晴れ、雲ひとつない晴天の空が広がっている。外の気温は確かに低いが、室内は温かく、不便はない。いよいよ今日から12月となり、今年最後の月を迎えた。振り返ってみると、2022年も非常に充実していて、欧州で過ごす1年1年が充実感を増していく過程として進行している。それは大変喜ばしいことである。仮に来年からアメリカに戻ったとしても、充実感の進化の波は止まることはないだろう。いつからか動き出したその進化の波は、終わりなきところまでその波を進めていくはずである。


先ほど、クァンタン·メイヤスーと並んで思弁的実在論を提唱したと言われるグラハム·ハーマンの講義を動画で聴いていた。講義を聴きながら、知性の認識の外にあるリアルについて考えていた。いつも自分にとってハッとさせられる洞察は、そうした世界からやって来る。未知のものが既知のものに変わる瞬間があるところを見ると、絶えず未知のものというのは認識の外に存在していると言えるのではないだろうか。そのようなことを考えながら、神道のコスモロジーの探究に向けてゆっくりと読書をしていこうという気持ちを新たに持った。神道のコスモロジーの観点からテクノロジーを扱っていく方向性を模索したい。アメリカの哲学者ルイス·マンフォードも指摘しているように、人間を理解し、社会そのものを理解するためには、まずもってテクノロジーについての理解を深めなければならない。それはフランスの哲学者バーナード·スティグラーが、人間は誕生した瞬間から、テクノロジーと密接に繋がった存在であり、身体はある種テクノロジーによって強化·補強された人工物であるという指摘からも理解されることである。神道のコスモロジーの観点からテクノロジーを見ていくことに関しては、東洋思想の観点からテクノロジーの内在性質を明らかにしていった香港の哲学者ユク·ホイの仕事を参考にしよう。ホイの書籍を年末年始の旅行に持って行きたいと思う。ニース、モナコ、マヨルカでゆっくりしている際に、その書籍を読みながら今後の研究の方向性と全体観を構想したい。フローニンゲン:2022/12/1(木)09:44


9523. 充実したトレーニングを終えて


時刻は午後6時に近づいてきている。今日も午後からジムに行き、充実したトレーニングとサウナを楽しんできた。今日はトレーナーのエリーザについてもらう2回目のトレーニングであり、前回がお試しだったこともあり、今回が正式なトレーニングの1回目であった。最初に軽く挨拶がてら雑談をし、そこから本格的なトレーニングに入っていた。扱った内容は前回と同じだったが、前回と順番が異なり、また新たな気分でトレーニングができた。1つ事前に質問があったのは、同じ種目を連続で3セットやったほうがいいのか、それとも違う種目を順番に1セットずつやっていき、その流れを3回繰り返すほうがいいのかエリーザに質問したところ、前者が望ましいとのことだった。その理由としては、連続して3セット行うことによって筋肉を疲労させることができ、それが筋肥大に繋がるからとのことだった。確かに後者の場合には休息時間があり、筋破壊があまり起こらないことが想定された。この考え方は来週月曜日のトレーニングの際にも適用したいと思う。これまで自主トレーニングをしているときには、後者の考え方を採用してしまっていたので、前者の考えを取り入れ、体の調子を見て、3セットで足りなければ最後に1セット、あるいはもう2セット付け加えるような形でトレーニングをしたい。前回と同じメニューを行いながらも、今回もまた色々と発見があった。やはりまだ1人では正しく器具を使えていないものがあり、エリーザの助言によって正確性が増した。エリーザも述べていたが、正しくない動作でいくら重量を重くしても意味がなく、重さはさほどなくても正しい動作で鍛えることが重要である。2人で笑いながら話をしていたが、男性は力が強いところを見せたいというエゴが働きやすく、ついつい重さを上げたがあるが、エゴに打ち勝って、正確性を重視した方が質の高いトレーニングに繋がることを肝に銘じておく。その他に、今日のトレーニングの最中にも栄養補給と食事の話となった。今日からトレーニング前の昼にはパスタを食べることにした。トレーニング中にエネルギーが枯渇しないように、意外とタンパク質が豊富なパスタに茹でたブロッコリーを入れて食べた。行きつけのオーガニックスーパーに色々なパスタソースがあるので、それらを試してみたい。フローニンゲン:2022/12/1(木)18:00


9524. 光としての痛み/テクノロジーに内在する魂やスピリット


1日の充実感を全身に感じながら、静かな夜の世界の中で、今このようにして自分に向かう形で日記を綴ろうとしている自分がいる。何か一つ区切りが付き、何か新しいことが始まる予感がしている。2022年全体を振り返ってみて、今年もまたとみに充実した年であり、来年のさらなる充実が期待される中、終わりを迎えたことによって始まる何かがあることを思う。それは自分の学習や実践、そして協働や人間関係の全てに当てはまることである。それらの様々な領域の中で、しかるべき形でしかるべきものが終わりを告げていく様を今見届けている。大事なことは、それに抗わないことである。終わりをきちんと受け止め、また新しい何かに向かっていくことが重要なのだ。自分が変化することとはそういうことなのだ。自分が変容するというのは、様々な事柄が死を迎え、新たな誕生を迎えることなのだ。死に伴う痛みが光となって次の道を照らしている。様々な痛みを悪とみなし、痛みを除去したり、緩和したりすることに躍起になるこの緩和社会の中で、今自分は切に痛みの大切さを思う。痛みの社会は恐怖でしかなく、痛みのない人生ほど味気ないものはない。痛みのない社会や人生は光のない闇である。なぜなら、ルーミーが述べるように、痛みは私たちを照らす光なのだから。


今日は午前中から昼過ぎにかけて、テクノロジー哲学の講座があった。今回の講座は少人数で開催されることになったが、その分クラスの中の対話の密度は濃く、非常に有意義な時間だった。テクノロジーの中に魂やスピリットのようなものが内在していると考えることはできるだろか。できるとするならばどのような観点においてであろうか。テクノロジーと宗教学、神学、さらには霊性学との接点が見えてくる。今日のクラスの中では、先週末のオンラインゼミナールの中で話題になった神道のカミの概念のキリスト教のゴッドの概念の違いの話を取り上げ、そこから付喪神(つくもがみ)の話題が出てきた。付喪神は、ある種神道的な発想に根差した、長い年月を経た道具などに宿る精霊(霊魂)である。この考え方はまさにテクノロジーに内在する魂やスピリットを指し示す好例のように思える。しかしながら、それはある種神話的合理性段階的な形で受け取られてしまう可能性があるので、より豊かな意味付けを見出していく必要があるだろう。第2回のクラス以降も、引き続きテクノロジーについて多様な観点で考えていきたい。フローニンゲン:2022/12/1(木)21:22

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