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9087-9094: フローニンゲンからの便り 2022年9月10日(土)



No.3977 朝光による救済_Salvation by Morning Light


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1785, Morning Honey

Morning honey is melting into the world.

All sentient beings relish it.

Groningen; 05:52, 9/10/2022


No.1786, Innate Reflexivity

We have innate reflexivity to social reality.

That is human nature,

And it is the foundation of art, science, and culture.

Groningen; 08:02, 9/10/2022

No.1787, The Social and the Personal

The social is personal.

The personal is social.

The spiritual is both personal and social.

Groningen; 08:03, 9/10/2022


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(3つ)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

9087. 複数的存在としての人間/ひょんなことからロイヤル·コンセルトヘボウのコンサートに参加することに

9088. テクノロジーとしての理論・テクノロジーとしての宗教

9089. デジタル時代における集合意識への精神分析/テロメアに優しい生活

9090. 感染する生き物としての人間

9091. 球体性/無意識の性質

9092. 自伝的記憶と自伝的自己/犯罪学の視点の有用性

9093. 箏の稽古(28):音楽空間に浸る楽しさ

9094. 箏に関する嬉しいフィードバックを受けて/音楽としての町


9087. 複数的存在としての人間/ひょんなことからロイヤル·コンセルトヘボウのコンサートに参加することに


時刻は午前4時を迎えた。辺りはまだ真っ暗であり、そしてとても肌寒い。今の気温は13度ほどであり、長袖長ズボンを着て過ごしている。今朝方は珍しく何も夢を見ていなかったように思う。かすかに夢の残滓のようなものがあったが、明確な形を伴うようなものではなかった。夢を見ずに起床してみると、夢を見ていなかった状態というのがますます死に近しい状態に感じられる。夢を見ない空白の状態とその時間は、死に瓜二つである。


昨日、人間(person)というのはその言葉の成り立ちとして、ペルソナ(persona)性があるのではないかと考えていた。人間は絶えずペルソナをかぶっていて、マスクをかけた存在である。しかもペルソナは複数あり、マスクは複数ある。1人の人間は単数的存在ではなく、複数的存在だとみなした方がいいのではないだろうか。そのようなことを考えていた。


一昨日、ひと月前に予約したTOEFL試験がコロナウィルスによるロジスティックの乱れにより延期になったとメールが来た。すでに会場近くのホテルを予約していたため、面倒なことになったと思った。というのも、ホテルの予約は日時の変更が効かないものであり、秋の一時帰国の前に受験しておきたかったので、試験日をどこに再設定するかを考えないといけなかったからだ。TOEFL試験がこのような形で延期になることは初めてのことである。とりあえずホテルに連絡したところ、予約の変更が効かないことが改めて判明したので、その予約は残しておき、改めてTOEFLの試験日を11月の半ばに移動させ、TOEFLの予約とホテルの予約を改めて行った。今回の件は仕方のないことであり、特に不満はなく、むしろ当初のホテルの予約を変更できなかったことにより、その分アムステルダム観光ができる結果となった。友人の鈴木規夫さんの勧めもあって、今月末にアムステルダムに滞在する際に、ロイヤル·コンセルトヘボウのコンサートに参加することにした。ちょうどアムステルダムに滞在する日に中規模のリサイタルホールで室内楽のコンサートが開催されることを知り、チケットの予約をした。コンセルトヘボウのリサイタルホールは、室内楽にうってつけのホールのようであり、説明文によると、音響が良く、さらには音楽家の息遣いが聞こえてくるほどの距離感なのだそうだ。ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの室内楽で演奏される曲は、モーツァルト、フォーレ、ブラームスの曲となる。直感的に、フォーレの曲が最も楽しみである。コンサートは夜からなので、その日の午後にはゴッホ美術館に3、4年振りに訪れたいと思う。また7年振りにレンブラント美術館にも行ってみたい。レンブラント美術館、そして近くの民族博物館には翌日の朝にホテルをチェックアウトしてから訪れるのが良さそうだろうか。そのようなことを考えながら、今月末のアムステルダム滞在を楽しみにしている自分がいる。フローニンゲン:2022/9/10(土)04:28


9088. テクノロジーとしての理論・テクノロジーとしての宗教


今日はいつもより早く起床したので、読書に多くの時間を充てることができそうだ。まずは昨夜から読み始めた、ドン·アイディのハイデガーのテクノロジー思想に関する書籍の続きを読み進めていきたいと思う。そこからは机の上に積読している書籍を関心の赴くままに読み進めていこう。1つ今日必ず目を通したい書籍としては、陰謀論に関する学術論文集である。陰謀論が学術研究の対象になっていることを知らず、ルートリッジ出版からこの分野に関する論文集が出版されていて大変興味深く思ってその書籍を購入した。それは必ず目を通し、その他にはラカンの精神分析に関する書籍を読んだり、ピエール·ブルデューの社会学に関する書籍、ダン·スパーバーの文化人類学に関する書籍、ブルーノ·ラトゥアーの社会学に関する書籍などをまずは読み進めていこうと思う。それらは全て初読なので、まずは細部に入っていくことをせず、全体感を把握することに努めよう。おそらく今日はまだまだ読書に余裕があるであろうから、ヘンリー·ルファーブラの都市学に関する書籍や、ピーター·スローターダイクの文明批判に関する書籍も読み進めていこう。


今朝方起床したときにふと、テクノロジーとしての理論、テクノロジーとしての宗教という考えが芽生えた。理論も宗教もある種のテクノロジーとみなしてみることによって、何か新しいことがわかるような気が直感的にした。テクノロジー哲学と科学の接続として、理論をテクノロジーと捉えてみると色々と発見があるだろうし、同様に、テクノロジー哲学と宗教を架橋させる際に、宗教をテクノロジーとして捉えてみると様々な発見があるだろう。とりわけ宗教をテクノロジーとみなすことに若干の抵抗感があるが、その抵抗感がむしろ大事なのかもしれない。こうした違和感は大切にしなければならず、ひょっとしたらそうした違和感を生み出しているのが社会的なタブーである可能性が往々にある。冷静に考えてみると、宗教は救済のテクノロジーとしての側面は確かにあり、共同体形成のためのテクノロジー的側面は確かにある。そうしたことから宗教をテクノロジーとして捉えることはさほどおかしなことではないことが見えてくる。手元にテクノロジーとしての宗教(religion as technology)というタイトルの書籍がなかったかを確認してみたい。もし手元になさそうであれば、早速書籍検索をしてみよう。フローニンゲン:2022/9/10(土)04:49


9089. デジタル時代における集合意識への精神分析/テロメアに優しい生活


テクノロジーとしての宗教というタイトルで検索をしてみたところ、それがタイトルに伏された書籍は出版されていないようだった。感覚的には、そのタイトルの書籍があってもおかしくないと思ったが、むしろそうしたタイトルの書籍がないようなので、逆にそのテーマで研究を進めていくことの意義を見出した。ここからは、テクノロジーとしての宗教という観点を持って、宗教に内在するテクノロジー性の探究を進めていこう。


先ほど、テクノロジー哲学者のドン·アイディが執筆したハイデガーのテクノロジー思想についての書籍の初読を終えた。この書籍は洞察に溢れていたので、ぜひ再読をしようと思う。初読をしてみて、直近一年以内に再読と精読をしたい書籍群の中にその本を置いた。そこからは、デジタル時代における精神分析に関する論文集を読み進めることにした。そこに掲載されているある論文の中で、フロイトが今から100年前に執筆した集団心理学に関する書籍が言及されていた。今から100年も前に、集団の精神について探究していたフロイトの慧眼には目を見張るものがある。精神分析の枠組みを、個人の精神の分析に活用するだけではなく、集団にまで拡張させて適用する道をより研究していこう。デジタル化時代において人々は、巨大な集合的精神を生み出し、それと同化する中で日々を過ごしている。ここからメタバースの普及がより進んでいけば、尚更集合の精神分析というものが必要になってくるかもしれない。このトピックはより探究を進めていこう。


少し読書をした後に、ジークンドーの稽古を息抜きがてら行った。朝の時間に体を動かすことによって、心身が活性化され、1日の活動がより充実したものになる。ここから寒い季節に入ってくるので、ジークンドーの稽古を適宜日々の生活の中に組み込んでいくことは、小まめに体を動かして体を温かくすることとリフレッシュの双方に繋がるので一石二鳥である。1分間ほどのインターバルトレーニングを例えば2セット行うだけでも随分と心身がリフレッシュされる。このインターバルトレーニングをこれから寒くなってくる季節の中で1日の中に何回か行っていこうと思う。日々の食実践と良質な睡眠に加え、こうしたある程度の強度のある運動は、テロメアを伸ばすことに繋がるように思える。それが自分の健康と若さの秘訣なのかもしれない。フローニンゲン:2022/9/10(土)07:08


9090. 感染する生き物としての人間


今、社会学者かつ哲学者のダン·スパーバーの“Explaining Culture: A Naturalistic Approach”という書籍を読み進めている。この書籍は実に興味深い。スパーバーが提唱した「認知的文化人類学」というものに関心があり、本書を手に取ってみたところ、それは正解であった。興味深い観点として、人間の信念を疫学的に捉えてみるというものがある。すなわち、個人個人の信念というものをウィルスのようなものとして捉えてみたときに、それがどのように人々に伝染していくのかを考えてみることは、文化というものがどのように生成されていくかを考えていくときに有益な手掛かりになるのではないかと思う。また、個人の心の中にある表象もまた感染の対象であり、内的表象が集合規模に拡散·伝染していくプロセスやメカニズムを分析することは、文化の生成プロセスとメカニズムの解明に有益だろう。およそ個人の内的現象としての信念、表象、そして感覚もまたウィルスのように感染する性質を内包しており、それらが広く共鳴と感染を繰り返していくことによって、1つの文化が生成されていくのかもしれない。そしてそれは文化だけではなく、1つの時代の生成にもつながっているのではないかと思う。


その後、スパーバーの書籍の続きを読み進め、初読を終えた。内的表象の延長として、個人の価値観もまた感染する性質を帯びていて、信念が感染するのであれば、社会の中に存在している神話というのもまた広く感染する性質があるということを改めて考えていた。人間とは、様々な事柄において、そして様々な次元において感染する生き物なのだ。


実験がてら、1冊書籍を読み終えるごとにジークンドーのインタバールトレーニングを2セットほど行ってみることにした。1分間のシャドーワークを間に1分間休憩を挟んでもう一度行う程度なので、一回当たりのトレーニング時間はわずか3分である。そうした集中したトレーニングを書籍を読み終えるごとに小まめに入れていく習慣を定着させてみよう。先ほど早速それを行ってみたところ、心拍数を上げることによって身体の血の巡り、気の巡りが良くなっていることを即座に実感する。今日はまだまだ書籍を読み進めていけるだろうから、1冊の書籍を読み終える都度、このインターバルトレーニングを入れていきたい。フローニンゲン:2022/9/10(土)07:39


9091. 球体性/無意識の性質


ピーター·スローターダイクの主著“Bubbles: Spheres 1”を読み始めた。この主著は3巻に渡り、およそ2500ページほどのボリュームがある。今初読を進めながら、地球の球体性から細胞の球体性に想像が及び、このリアリティはある種球体性を持ったトポロジカルなものなのかもしれないと思った。それは外面リアリティだけではなく、内面リアリティにおいても当てはまる性質なのかもしれない。思考や感覚、文化といったものも球体として捉えてみるとどのような発見があるだろうか。少なくとも何か新しい認識が得られそうだという感覚がある。この間デンボスに旅行に出かけ、ヒエロニムス·ボスの美術館に足を運んだ。そこで見た作品の中に、何か悪行をなした人間と思われる生き物が球体の中に閉じ込められている絵があり、スローターダイクもそれを書籍の中で引用していた。人間は球体性を持ちながら、同時に内外リアリティの球体性によって制限された存在なのかもしれない。惑星の球体性、卵の球体性、眼球の球体性···関心は尽きない。そういえば、日々デジタル絵画を描く中で、無意識的に球体を描いている自分がいることにも気づく。やはり自分の意識の中に、無意識の中に、球体に惹かれる何かがあるようだ。球体に共鳴している自己は、やはりその本質に球体性を持っているのかもしれない。


スローターダイクの書籍を読み終えた後、今度はスラヴォイ·ジジェクが監修を務める論文集を読み始めた。それはラカンの精神分析理論を適用しながら、主体について論じているのだが、意識の主体だけではなく、無意識の主体の性質を紐解いているところが興味深い。意識の主体も無意識の主体も、どちらも共に自己の側面であることに変わりないが、働きとしては性質を異にしているように思う。そのため、両者を分けて論じ、それぞれの性質を明らかにすることには意義があると言えるだろう。一見すると、今意識の主体が何かを考えているように思えるが、それはひょっとしたら無意識の主体が物事を考えているのかもしれないと思う。意識の主体は、無意識の主体の思考を受けて、まるで意識の主体が思考をしているかのように装うだけの存在なのかもしれない。


ラカンの理論を辿っていると、無意識における言語構造と欲望との関係について関心が芽生える。また、無意識の構造はある特定の言語によって規定されていることを考えると、多言語話者は無意識の構造をより多様なものにし、そこから多様な思考や感覚が生まれてくるということはありそうである。ラカンの理論を辿っていると、無意識について様々な関心事項が芽生える。引き続きこの論文集を読み進めていこう。フローニンゲン:2022/9/10(土)10:25


9092. 自伝的記憶と自伝的自己/犯罪学の視点の有用性


まだ時刻は昼前であるが、今日はすでに8冊近くの書籍の初読を終えている。今取り掛かっているのは、文化と記憶に関する論文集である。歴史というのは集合的な記憶であるのと同時に、個人的な記憶でもある。自己の記憶の自伝的性質についても色々と考えており、自伝的記憶は多分に自己同一性と結びついていて、逆にそうした記憶が障害を起こすと、自己同一性も破綻する。人間発達と記憶の関係を考えてみると、内面世界の複雑性の増大と豊かさの拡張は、どうやら記憶と密接に結びついていることがわかる。自己の発達は1つの側面として、自伝的記憶を司る自己の発達という性質がある。記憶世界を豊かなものにしていくことは、自伝的自己の発達を促し、ひいては全体としての自己の発達にも多大な影響を与える。自伝的自己の発達を促す方法としては、まさにそれが自伝的という性質を持っているがゆえに、日々の自己内省を著述していくという方法が最も有効なように思えてくる。それはまさに毎日自分が行っていることでもある。意識の記憶を自伝的に著述していく試みとしての内省日記と、無意識の記憶を自伝的に著述していく試みとしての夢日記の双方にこれからも従事し続けていこう。記憶というのはかくも重要なものだが、バーナード·スティグラーも指摘しているように、現代は記憶がテクノロジーによって多大な影響を受け、記憶の改変が進行している。このあたりもテクノロジー哲学で十分に議論していく項目かと思う。個人の記憶の改変に加え、集合の記憶の改変も重要な問題であるし、記憶としてのリアリティも大事な問題として考察を深めていこう。


つい今し方、犯罪学の観点から映画やドラマを分析する興味深い論文集を読み終えた。本書の中で言及されている映画やドラマはすでに視聴したものもの多かったが、これまで犯罪学の観点から考えたことはなかったので、非常に有益な視点が得られたように思う。犯罪学については全くの素人ではあったが、そこで用いられている理論の中には社会学で人口に膾炙しているものも多く、理解はそれほど難しくなかった。この書籍の中で言及していた映画やドラマの中でまだ見ていないものは近々視聴しようと思う。現代社会や現代文明そのもののシャドーを分析し、その治癒に向けた実践を考案していく際に、犯罪学の知見は非常に有益になるだろう。本書の本筋とは関係ないが、都市部で起こる犯罪のうち、その半数以上はごく少数の場所で発生しているというのは興味深い事実である。犯罪のホットスポットとでも呼べるような場所が存在していることは実感としてわかる。それは単に物理的な地理的理由だけではなく、風水的な観点で言えば、邪気が集積しやすという理由もありそうである。午後からヘンリー·ルファーブラの都市学に関する書籍を読み進めていくときに、先ほど考えていた都市における犯罪についても問題意識を維持しておこうと思う。フローニンゲン:2022/9/10(土)11:46


9093. 箏の稽古(28):音楽空間に浸る楽しさ


先ほど、今日の箏の稽古を終えた。稽古の最中、音楽空間の中に浸っている自分に気づいたとき、これは別種の意味で仮想現実世界にいるのと同じなのではないかと思った。おそらく音楽空間というのは、普段私たちが自然言語で作り上げている空間世界とは別の現象学的世界を開示してくれ、そこに参入することが私たちには可能なのだと思う。


さて今日の稽古は、いつものように、準備運動して、テクニック集の2つの曲を演奏していった。毎日練習していることもあって、最初の曲に関してはもはやつっかえることなく演奏できるようになってきている。そうしたら、ここからはそれを単に準備運動のエクササイズとして演奏するのではなく、1音1音に芸術性を持たせるような、より表現を意識した演奏を心掛けたい。2つ目の曲に関しては、2の指と3の指を多用することもあり、楽譜を見ながらでも時々どっちの指を使うのかを間違えそうになってしまうことがある。このあたりはまだまだ練習が必要だ。だが、着実に進歩の後を見ることができるのはとても嬉しい。そこからは実際の楽曲を練習していった。今日は、ルソーの「むすんでひらいて」から練習を始めたのだが、楽譜に掲載されている割り爪の音符を演奏すると、自分が知っている曲ではないように響いてしまうので、この点については先生に確認してみたいと思う。割り爪の箇所を演奏せずにスキップすると、自分が知っている曲になる。そこからは、合わせ爪を多様する、ドヴォルザーグの「家路」を練習した。この曲は地元でも夕方に流れている曲で、とても思い入れのある曲である。以前よりも随分と弾けるようになってきたが、この曲もまだまだ精度を上げていきたいと思う。最後に、楽譜の最後に掲載されているエルガーの「愛の挨拶」を練習した。この曲もお気に入りの1つだが、押し手を使う箇所がいくつかあって、その箇所が難所である。この曲も練習に練習を重ねたい。今練習しているのは、全て1箏のパートであり、今後は2箏のパートを練習する。そのときに、また響きがどのように変化するのかがとても楽しみだ。フローニンゲン:2022/9/10(土)16:34


9094. 箏に関する嬉しいフィードバックを受けて/音楽としての町


たった今、ポール·ヴィリリオの“Speed and Politics”という書籍を受け取った。早速それを読み始めたところである。この書籍を受け取りに郵便受けに向かい、それを郵便受けから取り出して家に戻ろうとしたときに、門が開いた。すると、オーナーのペイトラさんが自転車でどこかから帰宅した様子だった。尋ねてみると、土曜日にもかかわらず、今日は働いていたようだ。ペイトラさん曰く、今重要なプロジェクトが進行していて、それで忙しいとのことだった。立ち話の中でペイトラさんがふと、「どこかからピアノの演奏が最近聞こえてくるんだけど、それはヨウヘイ?」と尋ねた。私はニヤリと笑いながら、ピアノではなく箏だということを教え、それは自分であると伝えた。周りでピアノの演奏をしている人がいたら、それは自分ではないが、ペイトラさんが聞いた曲は「アメイジング·グレイス」や「喜びの歌」であったことから、それは自分だと確信した。どの曲もゆっくりで、逆にそれがとても穏やかな音色に響くと褒めてくれた。それを聞いて嬉しくなり、俄然やる気が出てきた。箏の演奏を初めてまだ1ヶ月も経っていないのだが、真っ先に音色に関してフィードバックをくれたのはペイトラさんだった。おそらく近所の人たちも自分の練習を毎日聞いているだろう。無数の失敗を重ねながらも、少しずつでいいので上達ぶりを近所の人たちに示していければと思う。


箏に関して思わぬ嬉しいフィードバックを受けて上機嫌になり、その気持ちを保持したままヴィリリオの書籍を読み進めていこう。その前に読んでいた書籍は、ルファーブラの都市の社会学に関するものだ。もっと言えば、都市のリズム分析に関する書籍と述べてもいいかもしれない。それは多分に社会学を超えて、音楽や哲学の分野にも足を掛けている。都市の中に存在しているリズムへの意識を高めていきたい。町の鼓動を感じ、それがいかなるリズムを奏でているかにつぶさに観察の意識を向けてみよう。今住んでいる町もそうだし、これから訪れる様々な町に固有の音楽をつかみたい。それと同化することがその町と一体となることである。その町に根を下ろすというのはひょっとしたら、音楽としての町と同化することなのかもしれない。フローニンゲン:2022/9/10(土)17:12

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

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