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8702-8707: フローニンゲンからの便り 2022年7月1日(金)



No.3774 光の散逸_Dissipation of Light


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1650, An Evening Song and Dance

The evening world is singing a gentle song.

Everything in the world is dancing together with the song.

Groningen; 19:44, 7/1/2022


No.1651, Transcendence and Grounding

Transcendence and grounding are simultaneously happening to me right now.

I’m going to heaven and the ground of the world at the same time.

Groningen; 19:47, 7/1/2022


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本日の3曲


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楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

8702. 今朝方の夢

8703. 今朝方の夢の続き

8704. 区切りや終わりを設けることの意義や価値の再考

8705. 情報圏とデータ圏の拡大の中で

8706. 静寂さを嫌い、真正さを好むネオリベラリズム/誰もを起業家に仕立て上げるネオリベラリズム/現代の種々の疎外

8707. 効率性を金科玉条とした社会の中で


8702. 今朝方の夢


時刻は午前6時を迎えた。昨夜、ベッドに横たわって少ししてから突然激しい雨が降った。一夜が明けた今はとても静かな世界が目の前に広がっていて、雨が降ったおかげか一気に涼しくなった。今日の最高気温は20度、最低気温は11度とのことなので、非常に涼しい1日になりそうだ。ここから1週間は今日と同じような気温になるとのことである。


いつものように早速今朝方の夢について振り返っておきたい。夢の中で私は、小中学校時代の同級生の2人が100m走を走っている様子を眺めていた。2人は学年でも一番足が速く、どちらが先にゴールするのかに注目が集まった。私は野球部の友人(RS)が勝つのではないかと思って勝負を見守ることにした。ピストルが鳴り、いざ走り始めると、私の予想通り、野球部の友人が良いスタートを切り、一気に加速して、もう1人の友人との距離を広げた。ところが、ゴール手前の地点で急に足を吊ってしまったのか、足を引きずる仕草を見せ、一気に失速してしまい、もう1人の友人に抜かれてしまった。意外な形で勝負がつく形となり、レース後、私は彼の足の具合を心配して彼に声を掛けようと思った。そこで夢の場面が変わった。


次の夢の場面では、私はベッドの上に横たわっていて、手術を受けることになっていた。何か悪いところがあって手術を受けるのではなく、顔の整形手術のようなものを施されようとしていた。厳密には、脳の改変手術のようだった。担当する中年の女性の医者が丁寧にその手術の内容について説明をしてくれた。私は自分の意思でその出術を受けようと思ったというよりも、何かの導きでその手術を知り、気がつけば手術室にいたのである。それは脳をいじる手術だが安全度合いは高いとのことで、私は先生を信頼して手術を受けることになった。まず鼻の洗浄から始まり、手術台の上に横たわっている私の鼻に、先生は綿棒のようなものを入れ、クルクルと回して鼻の中を綺麗にし始めた。それは意外と心地良く、鼻の中を綺麗にした後に、いよいよ鼻の中にドリルを通し、脳をいじっていくことになった。その瞬間、いつの間にか私は手術台の上ではなく、自宅のベッドの上にいた。ふとベッドの脇を見ると、そこにドイツの思想家のビョンチョル·ハンの書籍が積み重ねられていて、主著の“Psychopolitics: Neoliberalism and New Technologies of Power”が目に止まり、それは洞察の深い書籍なので、起き上がってもう一度読み返そうと思った。そのような夢を見ていた。この夢について言えば、脳の改変手術の場面から突然自宅にいる場面に変化したが、どうやら脳の手術は成功に終わっていたようだ。自分の脳が生まれ変わり、色々と気づかないところで脳の変化を実感するようなことが起きていた。一方で、ハンの書籍を読みながら、自分が受けた手術は、脳の機能の拡張をもたらすブレイン·エンハンスメントの類のようなものに思え、今後ますますこうした脳の機能の拡張や向上を謳うサービスなどが展開されるのではないかという危機意識を持ったのを覚えている。フローニンゲン:2022/7/1(金)06:27


8703. 今朝方の夢の続き


時刻は午前6時半を迎えた。今、書斎の近くの窓の向こうから、小鳥の鳴き声が聞こえた。今日は1日を通して曇りとのことだが、とても涼しく、むしろ少し肌寒さを感じられるぐらいだ。今日もまた、ビョンチョル·ハンの書籍を読み返していこうと思う。あと数日ほどハンの書籍を読み進めていけば、3回目の読解が終わる。そこからすぐに4回目の読書に取り掛かるのではなく、そこからはポール·ティリックの資本主義批判の書籍の再読を始めようと思う。来週の水曜日には自分がスピーカーとして登壇するセミナーがあり、そこに向けて色々と論点の確認をしていければと思う。


今朝方の夢について先ほど振り返っていたが、夢にはまだ続きがある。もう1つ覚えていることとして、見慣れないホテルにいる夢の場面があった。最初、ホテルの会議室でミーティングを行なっていた。そこには数名の人がいて、彼らと今後の協働について話し合い、ミーティングが終わったあと、私たちは隣の部屋に移った。そこは協働者の方が宿泊しているスイーツルームだったのだが、さすがスイーツルームと言わんばかりの広さだった。すると、ホテルのスタッフの男性がやって来て、ゲストとして来たはずなのだが、ゲストもまたゲスト料としてスイーツルームの使用料を少し払わないといけないとのことだった。そんなことがあるのかと驚いたが、スタッフの男性が言うことに従い、支払いをしようとした。私の前に2人の協働者の方が現金で支払いを済ませた。それを見て、カードの支払いはできないのかもしれないと思って少し焦った。というのも、財布には現金などほとんど入っていなかったからである。恐る恐るスタッフの人にカードでも支払えるかを尋ねたところ、カードでも支払いができるとのことだったので安心した。カードでの支払いを終えたあと、そこから私たちはまたスイーツルームで寛ぎながら話を進めた。そのような夢の場面があった。この夢を書き出しながら、その他の夢についても少し思い出した。確か、この夢の延長として、ホテルの近くにある海に行こうとしている場面があったのを微かに覚えている。しかしその記憶はとても微かなものである。何かその夢について、あるいはその他の夢について思い出せないか、これから少し体を動かしながら、夢の想起を行なってみよう。フローニンゲン:2022/7/1(金)06:53


8704. 区切りや終わりを設けることの意義や価値の再考


時刻は午前10時半を迎えた。今日はとても涼しく、書斎の中を駆け抜けていくそよ風がとても気持ちい。先ほど、観想的な生の実現において重要な、区切りを付けること、終わりを設けることについて考えていた。これがなぜ重要なのだろうか。現代を席巻する歪んだネオリベは、区切りを付けることをよしとしてくれない。それは、絶え間ない生産と消費に私たちを駆り立てるのである。そんな負の連続性を強制する歪んだネオリベに対し、私たちは区切りを付けること、終わりを設けることの意義や価値を再考するべきではないだろうか。ここ最近自分が区切りや終わりを感じた体験を振り返ってみたときに、すぐさま旅が思いついた。旅は、終わりを感じさせてくれる素晴らしい機会を提供してくれる。それは日常の終わりと非日常の終わりである。旅を始める際に、旅は日常を一旦宙吊りにしてくれる。すなわち、日常に一旦区切りをつけることによって、私たちは旅の非日常世界に入っていけるのである。また、旅が終わりに近づく頃、非日常の世界の色合いが薄まっていく。そこでは非日常の終わりを感じ、実際にその終わりを設けることによって、私たちは再び新たな日常に戻っていくのである。


資本は決して休まない。それは絶え間ない増殖運動を続ける。それに対抗して、観想的な休息を積極的に取ること。観想的な区切りを設けること。現代社会は、絶えず加算的に連続していて、私たちをさらなる消費と生産に駆り立てる。そうした悪しき鎖の存在に自覚的になり、自らのその鎖を断ち切るかのように、区切りを設け、観想的な休息を取ることの意義や価値を改めて問いたい。また、仮に連続性の中を生きるのであれば、それは絶え間ない生産や消費に縁取られた連続性ではなく、超越的な、永遠を感じさせてくれる連続性の中で生きたいものである。そのためには、私たちの内側にある詩人性を取り戻さなければならない。脱自的な美の世界に開かれていかなければならない。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2022/7/1(金)10:41


8705. 情報圏とデータ圏の拡大の中で


時刻は間も無く正午を迎えようとしている。今日は本当に清々しく、穏やかである。その穏やかさが今もまだ持続している。持続の感覚に留まること。それこそが観想的な生の在り方である。


カトリックの神学者かつ古生物学者でもあったピエール·テイヤール·ド·シャルダンが提唱した、物質圏、生物圏、知性圏の進化論的階層構造に加えて、現代社会は「情報圏(infosphere)」や「データ圏(datasphere)」が拡大の一途を見せている。それらの拡大は、私たちに自由をもたらすというよりも、私たちの搾取を促し、管理と支配を強化する。情報圏はデータ圏を包摂するものであり、その区別を付けることは難しいかもしれないが、いずれにせよそうした新たな存在圏が拡大していることは確かだ。存在論的な観点で言えば、確かに情報やデータは人間の知性が生み出したものであるが、もともとシャルダンは、知性圏を「叡智圏」と述べていたのだから、やはり知性圏と情報圏やデータ圏とは区別するべきかと思う。それにしても、そうした存在圏が拡張することに伴い、人々の人生は随分と騒々しく、慌ただしいものになったものである。絶え間なく流れてくる情報の波。それはとても騒がしく、情報の波の上では観想的な生を送るのは困難極まりない。情報の渦の中では、注意が次々に新しい情報に向けられてしまうのだ。それはまさに注意欠陥症かつ注意過剰症のようなものであり、現代は集団的な注意欠陥症と注意過剰症に陥っていると言えるかもしれない。


情報は、もともと “en(em)-form”という側面があったはずである。すなわち情報は何かを形作る側面があったはずだが、現在は“de-form”と形容できるかのように、生の形を溶解させる方向にしか働いていない。しかもその波は留まることを知らず、私たちは絶え間ない情報の波に晒されることによって、生の意味を喪失し、それを形作っていくことがますます困難になっている。情報の性質そのものについて深く考える姿勢。日々触れる情報の量と情報に触れる必要性の検討。絶え間ない情報にアクセスすることからのアンプラグなど。個人で実践できる実践はいくつも思い付くが、集合規模での実践となると、一体何が有効なのだろうかと考えあぐねてしまう。おそらくは、集合規模で情報化の流れを食い止めることはほぼ不可能なのではないかと思い、やはり護身的な観点と実践を個人がきちんと携えておくことが重要なのだろうか。このテーマについてもさらなる分析と考察が要求される。フローニンゲン:2022/7/1(金)11:58


8706. 静寂さを嫌い、真正さを好むネオリベラリズム/

誰もを起業家に仕立て上げるネオリベラリズム/現代の種々の疎外


資本主義は、静寂さを嫌う。静寂さは何も生まないと考えているからである。資本主義にはそう思わせておいた方がいいだろう。実際には、静寂さは生の意味を喚起してくれたり、観想的な生そのものを生み出してくれる。そうしたものを生み出してくれるのだが、それは資本主義に対しては秘密にしておいた方がいいのかもしれない。なぜなら、仮に何かを生むとわかれば、資本主義はそれを搾取しにかかるであろうから。


歪んだネオリベラリズムは、真正さ(オーセンティシティー)を実は好む。それは商品化の幅を広げ、商品の多様さをもたらすという点において、すなわち欲望の増幅や消費対象の拡張をもたらすという点において好まれるのである。そこでは、真正さは物質消費対象として見做され、物質消費の選択肢の多様さをもたらすものとして歓迎されるのである。現代社会には、真正さの発見やそれを促すような善意のサービスが存在しているが、逆に見出された真正さがこのように、歪んだネオリベラリズムの餌食になってしまう危険性があることを忘れてはらない。


また、歪んだネオリベラリズムは、ビョンチョル·ハンが指摘するように、私たちを分断化させ、1人1人を「起業家」に仕立て上げていく。そこでは1人1人が偽りの自由のなのもとに、自らを駆り立て、搾取する形で自らの企てを遂行していく。この企てそのものもネオリベの思想によってコンディショニングされたものなのだが、当人はそれを自らの意思に基づいた真正なものだと思い込んでいる。そして人々は、自らの企てとしてのプロジェクトの遂行に躍起になり、自我をますます肥大化させながら、より一層共同体精神を崩壊させながら、自己駆り立てと疲労への道を邁進する。


現代を席巻するネオリベラリズムは、ハンの指摘するように、抑圧や調教として機能しているというよりもむしろ、自己実現や自己最適化を謳う形で推進されている。マルクスが述べる労働の成果から主体が疎外されるというよりも、自由や自己実現の名の下に、労働は主体と強く結びつき、むしろその結びつきがあまりに強固であるがゆえに、自己はその状態を客体化することは難しく、無限に成果を求めて働き続けるということが起こっているのではないだろうか。また、労働が生の目的ではなくなり、手段となり、人間らしい生活を送るための手段が労働以外に求められるという意味での自己疎外も生じているようには見られず、むしろ労働が成果や達成という意味での生の目的になり、労働以外の場に生の意味を求めることなど無くなっているのではないだろうか。マルクスの疎外の概念よりもさらに問題の深い疎外現象が起こっている一方で、マルクスが指摘するように、人間の人間からの疎外という考え方は、確かに他者性の喪失や共同体の溶解という現象を見るにつけ、いまだに通じるものかと思う。フローニンゲン:2022/7/1(金)16:09


8707. 効率性を金科玉条とした社会の中で


溶け出す平穏さ。透き通る爽快さ。そんな夕方の世界が目の前に広がっていて、自己は世界そのものと融和している。融即融和の状態。最近はそんな状態を経験する頻度が増すばかりである。それは脱自的な体験であり、そうした体験が増せば増すだけ、自己はより世界との同一化の頻度を高める。身も心も、人間はそもそも世界とそうした関係を取り結ぶことを贈り物として与えられているようなのだ。その贈り物を授かり、それに感謝しながら、自分は自分の取り組みを前に進めていこう。


時間を短縮化し、時間の効率化を至上命題の1つとするネオリベ。それに対抗する形で、自分は時間をかけてみる実践を意図的に行っている。あえて手間隙をかけてみる実践をしてみることは、ネオリベの潮流から自己を守る上での護身術になるのではないかと思う。例えば、自分で野菜や植物を育ててみるというのは、他の生命の持続時間や成長速度を感じる意味でも有益な実践かと思う。生命を育てること以外にも、じっくり時間をかけて何か物を作ってみるだとか、とにかく効率性とは相容れないような取り組みを少し始めているのはどうだろうか。効率性を重視して外注していた作業を自分でやってみるというのもいいだろう。卑近な例で言えば、インスタントコーヒーをカップに入れてお湯を注いでおしまいではなく、コーヒー豆をコーヒーミルで自分で挽いてみて、それをフレンチプレスに入れてそこにお湯を入れてしばらく待ってからコーヒーを飲むというのは自分が行っている実践でもある。いずれにせよ、ネオリベは効率性を金科玉条としているので、それに対抗する形で、腰を据えてゆっくりと時間をかけて何かに取り組んでみるというのは良い実践になるのではないかと思う。それを通じて、自らの固有の時間を取り戻し、観想的な生が少しずつ回復されていくことを祈ってやまない。フローニンゲン:2022/7/1(金)20:02

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