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8463-8469: フローニンゲンからの便り 2022年5月23日(月)



No.3667 霊的フクロウ_A Spiritual Owl


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1548, Getting Out of Your Microcosmos

Get out of your small microcosmos.

You can merge with a vast macrocosmos then.

Groningen; 09:56, 5/23/2022


No.1549, My Soul’s Light

My soul just flew.

It became the sun.

It started to shed light on the whole universe.

Groningen; 19:56, 5/23/2022


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本日の3曲


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楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

8463. 7月のスウェーデン旅行に向けての各種予約を完了させて

8464. 旅が生み出すリズム/今朝方の夢

8465. 小宇宙からの脱却/理想と現実の社会

8466. 土地の空間と歩くこと/ポール·ヴィリリオの速度学と自然な時間/トルコとチュニジアからの呼び声

8467. 価値観の多様化と相対化の荒波の中で

8468. 合理性優位の社会の中で

8469. 存在の幾何学/偶然の一致


8463. 7月のスウェーデン旅行に向けての各種予約を完了させて


時刻は午前7時半を迎えた。今日から新たな週を迎えた。毎日が充実感と共に足早に過ぎ去っていく。1日1日の総量は、充実感ゆえに重たく感じるのだが、その流れは早い。ふと振り返ってみると、随分と時が経っていたという感じがするのだ。時間感覚の変容は着実に進んでいて、自分はまた新たな存在に向かっている。


昨日、7月のスウェーデン旅行の全ての予約を完了した。アムステルダム空港からコペンハーゲン空港行きの航空券、そして帰りのストックホルム空港からアムステルダム空港行きの航空券を予約した。今回は、どちらの便もKLMにお世話になる。欧州を旅行するときには、よくKLMを使っていて、気づくとマイルが結構溜まっていたので、今回は行きと帰りの航空券に対してマイルを活用した。今はオランダに住んでいるがゆえにKLMを使っていて、今後も居住国のフラッグシップとなる航空会社にお世話になるだろう。航空券の予約をした後に、マルメ、ヨーテボリ、ストックホルムのそれぞれの町のホテルを予約した。いずれも中央駅から歩いて行ける距離の品の良いホテルを予約した。結局、マルメでは3泊4日、ヨーテボリでは4泊5日、ストックホルムでは3泊4日することにした。先日のバルト三国旅行と同じく、合計で10泊ほどする旅だ。10日というのは短いようでいて、旅をしてみると、その充実感ゆえに、非常に密度の濃い日々が続くことが感じられる。今回の旅もきっとそうなるに違いない。マルメでは、マルメ現代美術館、Malmö Konsthall、マルメ美術館、マルメ市立図書館などに訪れようと思っているが、海が近いこともあり、浜辺に行って寛ぐのも悪くないと思っている。これまで日本を含め、様々な国の海を見てきたが、果たしてマルメの海はどのようなものなのか気になるところだ。季節が夏ということもあって、海辺でゆっくり過ごすのは格別だろう。どうやらマルメは、スウェーデンの中でも移民·難民の受け入れに積極的らしく、彼らの文化が色濃く現れたエリアがあるらしい。今回の訪問では、そのようなところも窺うことができるだろうか。続くヨーテボリでは、到着した翌日に、協働者の息子さんが出場するサッカーの国際大会のゴシアカップを観戦する。丸一時間を取って、ゴシアカップの観戦を楽しみたい。その翌日からは、本格的にヨーテボリ観光を始め、市立博物館、ヨーテボリ美術館、ヨーテボリ植物園、国際文化博物館などに訪れる。最後に訪れるストックホルムでは、4年前にすでに色々と見て回っているが、まだ訪れていない現代美術館、東洋博物館、スウェーデン国立美術館、Magasin III Museum for Contemporary Artなどを訪れようと思う。マルメからヨーテボリ、ヨーテボリからストックホルムの高速列車のチケットに関してはまだ予約が済んでおらず、それは焦って予約する必要はないと思うので、また直前に予約したいと思う。7月のスウェーデン旅行に向けて期待が高まる。その前に、6月のアイントホーフェンとカウナスへの旅があり、それに向けて胸が高鳴ってくる。フローニンゲン:2022/5/23(月)07:48


8464. 旅が生み出すリズム/今朝方の夢


毎月1回旅に出かけることが、生活に良いリズムを生み出している。旅が良い刺激と養分になって、フローニンゲンで過ごす1ヶ月間が常に充実感と至福さで満たされたものになっていて、そこに再び旅がやって来ることによって、充実感と至福さが増幅されているのを感じる。旅に出かけることが人生の中で、充実感と至福さの注入剤になっているかのようである。そうした注入剤のおかげで、日々の生活は輝きを増す。これからもできるだけ、毎月1回どこかに旅に出かけたいと思う。そのフェーズが過ぎれば、今度はまた自分の生活拠点で粛々と探究と実践に明け暮れる日々がやって来るだろう。旅から呼び掛けの声を掛けられることが続く限り、自分は旅に出かけていく。その呼び掛けが落ち着く時、自己はまた新たな境地を切り開いているに違いない。旅は新たな境地に自分を引き上げるために巨大な力を与えてくれる。その精神的養分の恩恵に与かりながら、旅と日常生活の融和状態の中で日々を充実感と至福さを通じて過ごしていこうと思う。


朝の世界はすこぶる穏やかだ。今は優しい朝日が地上に降り注いでいるが、どうやら夕方あたりからは小雨が降るらしい。午後に仮眠を取った後にでも、雨が降る前に買い物に出かけたいと思う。引き続きフローニンゲンは、涼しい日々が続く。


今朝方は1つ印象に残る夢を見ていた。夢の中で私は、欧州のとある教会の神父と一緒に、布教の論理の見直しをしていた。既存の布教の論理では、信者に響くものがあまりなく、より多くの人に布教させるためには、一度その物語を刷新する必要があると思ったのである。既存の物語の見直しをした後に、より魅力的かつ大きな物語を創出することをその神父と教会の一室で行っていた。その部屋は薄暗かったが、布教の論理を見直し、納得のいく大きな物語を作ることができた時、ステンドグラスの窓から一筋の光が差し込んできて、部屋がパッと明るくなった。そのような夢を見ていた。この夢について書き出していると、その他にも、少しダークな夢を見ていたことも思い出した。その夢の中では、謎の生命体と自分は格闘していた。相手の姿はほとんど見えず、意識を集中させてようやく、相手の気の形だけが見えるような状態だった。今朝方の夢の世界は総じて落ち着いていたが、それら2つの夢が訪れたことは確かである。近くの教会の鐘の音が聞こえてきた。時刻はちょうど午前8時を迎え、これから本格的に朝の活動に取り掛かろうと思う。フローニンゲン:2022/5/23(月)08:00


8465. 小宇宙からの脱却/理想と現実の社会


自分自身の小さな小宇宙から外に出てみること。旅はそれを促す。また、自然の中で過ごすこともまたそれを促してくれる。自分の小宇宙から外に出てみると、そこに大宇宙が広がっていることがわかる。何も臆することなく、それと一体となればいいのである。大宇宙と合一した時の歓喜。それを味わう体験を幼少期の頃に積むことは大切であり、大人になってからもその感覚を味わうことは重要かと思う。小さな自我の囚われから解放される快感がそこにあり、それを通じて、自我はまた1つ脱皮をするのである。今度の旅もまた、自分の小宇宙からの脱却を必然的に伴うだろう。その時に目の前に広がる大宇宙に今から思いを馳せる。


日々が、無数の問いかけと解明によって進んでいく。そこには苦闘があることは確かだが、問いかけを投げかける魂と、解明を得る魂には喜びだけがある。その喜びの光が自分に降りてきて、自分は日々自らの取り組みに従事しているのだと思う。その光を頼りに、自分は自分にできることを毎日積み重ねていくだけである。その積み重ねは、いつか魂に届き、魂との深い邂逅が実現されるに違いない。自己も魂もそれをお互い望んでいる。


敬愛する小説家の埴谷雄高氏は、全ての人が詩人である社会を理想として掲げていた。自分はそこに、全ての人が詩人かつ音楽家である社会を理想として掲げたいと思う。それが極めて困難な理想であったとしても、その社会の実現にできることをしていきたいと強く思う。荒廃する世界の様子を見ていると、そうした理想的な社会を思い描かずにはいられず、またそれに向けたアクションをしないわけにはいかない。


お気に入りのポッドキャストとして、アメリカの“Democracy Now!”というものがある。このポッドキャストを聴いていると、アメリカも随分と物騒になり、荒廃が進んでいるように思われる。銃社会のアメリカは以前から物騒だと言えばそうかもしれないが、現在においては、人種差別の機運が再び高まり、アメリカの各都市で悲惨な事件が起きている。今のところ、来年からはアメリカの神学大学院に通えたらと思うが、それは学術研究上の理由からアメリカに行くのであって、生活を営む場所としては、この世界にはアメリカよりも平穏かつ落ち着いた場所がいくらでもある。表面上の見かけは違えど、構造的には似たような問題が世界各国で生じていることを考えると、来年からはアメリカでの生活を通じて、現代文明の問題を見つめていくことになるだろうか。そのようなことをぼんやりと考えていた。フローニンゲン:2022/5/23(月)10:11

8466. 土地の空間と歩くこと/ポール·ヴィリリオの速度学と自然な時間/

トルコとチュニジアからの呼び声


実際にその土地を訪れ、方々を歩き回ること。それによって、その土地の空間を我がものにしていくことができる。逆に言えば、自らの足で歩かなければそれは難しい。自分が旅の中で歩くことを好み、よく歩いているのは、そうした事情によるのかもしれない。自らの足で歩くことによって初めて、その土地は自分の内側に空間性を伴って入り込んでくる。今度の旅でもそうした現象が起こるだろう。


悠長な旅によって胚胎する考えや感覚。それをこれからの旅では大切にしたい。そうした胚胎が生じるためには、旅は気ままに進んでいくことが重要なのだ。計画で切り詰めて忙しなく移動するような旅ではなく、気ままに旅の時間を楽しむこと。そうした緩かな時の経過を経て初めて、自分にとって大切な考えや感覚が胚胎される。


フランスの哲学者のポール·ヴィリリオは、速度学というものを提唱し、その中で、現代文明の時間の暴力性を指摘している。人間にとって本来自然な速度とは、風が通り抜ける速度、雨が滴り落ちる速度、水が流れる速度、太陽が移動する速度など、自然の中に体現された速度ではなかったか。機械的に加速度化された速度は、人間をひどく苦しめ、歪んだ存在にすることに加担している。旅を通じて、ヴィリリオの速度学を見つめ直し、人間にとって本来自然である速度とはいかなるものかを探っていこう。次回の旅では、時間の速度というのは1つの大事な考究テーマとなる。旅の経験を通じて、自らが穏やかな時間を通過する中でそのテーマについての考えを深めていきたいと思う。


トルコとチュニジアから呼ばれている声が聞こえてくる。どちらの国も以前から関心のあった場所だが、EU圏外ということもあり、なかなか足を運ぶことができなかった。だが、直感的に、来年はトルコとチュニジアに足を運ぶことになるのではないかという予感がする。魂がそれを望んでいるようなのだ。トルコは、他のヨーロッパ諸国にはない雰囲気を持っている。トルコは、東ヨーロッパと西アジアの交差する場所に位置し、独特な文化を持っている。コンヤという町にあるメヴラーナ博物館には、敬愛する詩人のジャラール·ウッディーン·ルーミーが祀られている。トルコにはその他にも、足を運んでみたい古代遺跡がたくさんある。北アフリカのチュニジアも、以前から気になる国だった。チュニジアの色彩感覚に影響を受けた画家は多数存在していて、彼らと同じく、チュニジアが発する色の世界に惹かれるものを感じている。2023年は、是非ともトルコとチュニジアに足を運ぼう。そして、ヨーロッパにおいてはイタリアの様々な都市を巡ることも考えている。フローニンゲン:2022/5/23(月)10:43


8467. 価値観の多様化と相対化の荒波の中で


現代は、価値観の多様化を声高に叫んでいるが、逆にそれが価値の相対化を生み出し、現代の地獄絵図を生み出しているのではないかと思うことがよくある。様々な価値観が生まれ、それらが承認されることは重要だが、現代においては、価値の重み付けや絶対的な価値というものの存在が忘れ去られてしまっているのではないかと思う。全ての価値観が、世の中の多くの商品やサービスと同じように標準化され、価値観が平坦なものになってしまっているように思う。本来価値観というのは、単に多様なだけではなく、多階層的ないしは多重層的な性質を持っていて、価値観には深さや高度があるのである。それを蔑ろにして、価値観の多様化を叫ぶというのは非常に馬鹿げているし、社会をますます劣悪なものにしてしまうことに繋がるように思われる。重要なことは、価値観の多様化と高度化なのだ。多様な価値観を認めながら、価値観そのものを深めていくことも同時に行わなければならない。現代の悲劇は、平面的な雑多な価値観の蔓延であり、見かけは煌びやかなものの内実はモノトーンの雑多な価値観の蔓延に毒されている。


自らの価値観を深め、絶対的な価値観を見出すこと。その試みに個人として継続的に取り組んでいく。見出された絶対的な価値観は、決して固定的なものではなく、それは絶対的なものだが、それすらも変容を遂げ、より深いもの、より高いものになっていく。そのプロセスを促す日々の取り組みを大切にしたい。価値観は、絶えず閉じられながら開いていること。価値観は、絶えず開いていながら閉じられていること。それが極めて重要だ。蔓延する集合的な標準化された価値観に侵食されることなく、価値観を閉じながら静かに育んでいくこと。同時に価値観は、この世界に開かれていなければ育まれていかないものでもあるため、侵食の魔の手から自らの価値観を守りながらにして世界に開かれていくこと。とりわけ価値観を閉じるよりも開くことの方が難しいが、そのどちらも行いながら、現代の平準化を促す病理的社会現象に抗い、自らの価値観を守りながらにして育み、そしてその価値観を持って世界に関与していくことが強く求められる。


近くの新緑の木に、小鳥の巣が見える。自宅の天井に蜘蛛の巣が見える。巣作りの大切さ。価値観を守る巣を作ること。巣は、世界に開かれながらも、守る対象を絶えず持っている。自らの巣を育み、その中で価値観を静かに培養していくこと。とにかくそれを大切にした生活を営みたい。フローニンゲン:2022/5/23(月)10:58


8468. 合理性優位の社会の中で


合理性というのは確かに大切である。それがどれだけ人間や社会の進歩に寄与してきたかを見れば、その大切さ一目瞭然である。しかしながら、合理性が優位に立ち、合理性一辺倒で染め上げられたこの現代社会ほどつまらない社会はないように思える。また、フランクフルト学派が指摘するように、合理性の横行が社会的な病として個人と社会を蝕んでいる。そんな状況の中でも、相変わらず個人は合理性優位で物事を進めようとする。いや、そもそも物事を進める前段階の物事を感じるというところが捨象され、全てを合理性で捉えようとしているところに大きな問題を見る。合理性を通じて得られる客観的な事実や真実は確かに重要だ。だが、それと同じく、主観的な事実や真実も同じだけ重要なはずである。どちらも等価の重みを持つのに、客観的なものだけが重要性や価値を持つようにみなされている現代社会で生きることは非常に辛く、物哀しさを覚える。そう感じるのはきっと自分だけではないだろう。真っ当な主観的感覚を持っている人であれば、同じことを感じるはずだ。だが、客観性を信奉する集合的な価値観に身も心も染め上げられている人は、同じようには感じないのかもしれない。こうした感覚的な麻痺こそが、主観性の喪失を物語っている。


自分はかつて科学者であったし、科学的な探究を今でも進めている。また、テクノロジーについても絶えず最先端のテクノロジーに注目しながら、テクノロジーに関する哲学的·神学的な探究を行っている。しかし、科学とテクノロジーは決して勝利者にはならず、また勝利者になってはならないと思う。残念ながら、現代は科学とテクノロジーが金科玉条の如しものとみなされていて、科学とテクノロジーが勝利者のような振る舞いを見せている。だが、人間が人間であるゆえんは、やはり各人固有の主観性にあり、それこそが本来最重要視されるべきものなのではないだろうか。科学とテクノロジーはあくまでも、人間の主観性を育み、人間と社会を豊かにするためにあるべきはずなのだが、現代においては科学とテクノロジーが人間や社会と遊離する形で膨張し、横暴な進化の歩みを絶えず進めている。客観的なものと主観的なものは本来等価だと述べたが、その主張もまた主観的なものであるがゆえに、自分は主観的なものをより優位に置く形で生きていきたいのだということがわかり、主観的なものを優位に置く形で社会に関与していきたいのだということがわかる。パソコンから、心を落ち着かせる箏曲が流れてくる。その箏曲は、決して合理的な形で生み出されたのではなく、作曲者の輝く主観性が発露したものである。それに聴き入っている自分の内側で生じる感覚と感情もまた主観性の産物である。真の合理性や客観性とは本来、主観性が普遍化されたものであるということを忘れてはならない。合理性や客観性の根本及び出発点には、譲ることのできない主観性があるのだ。フローニンゲン:2022/5/23(月)11:16


8469. 存在の幾何学/偶然の一致


夕方から少し小雨が降り始め、止んだり降ったりを繰り返しながら今に至る。時刻は午後8時を迎えたが、辺りはまだ明るく、うっすらとした雨雲が空を覆い、小雨を降らしている。


夕方に、存在の幾何学として、全ての存在の中心を結んだ時に得られる中心こそ、唯一不二のカミなのかもしれないという考えが降ってきた。それは雨が降り始めたのと同じぐらいのタイミングで降ってきた考えであった。生物と無生物を含め、全ての存在に中心があり、その中心を結んだ先にある1つの中心の幾何学的イメージがどこからか突然やって来て、それについて自ずと考えている自分がいた。この中心のイメージは、自分にとって何かとても大切なもののように思え、引き続きそのイメージを追いかける形で探究をしていこうと思う。


その他にも、八橋検校が亡くなった年のちょうど300年後に自分が生誕し、バッハとヘンデルが生まれたちょうど300年後に自分が生誕したことについてふと考える自分がいた。その偶然の一致に深い意味と運命を汲み取る自分がいたのである。西洋と東洋の音楽を代表する音楽家と魂の次元でつながっている感覚がやって来て、それを通じてこれからの自分について思いを巡らせている瞬間があった。今日の夕方は、とても瞑想的な時間を過ごしていたように思う。


今、心を宥め、魂を安らげる箏曲の音色に包まれている。音楽は、音を通じた表現上の神学であるという考えがふと芽生える。元来、神学を頂点にし、その次に音楽という学術分野が存在していたことは、両者の深い関係性を物語っている。音楽は本来、神を探究する道であり、神を表現する実践であったことを忘れてはならい。そう自分に言い聞かせている。


将来自分は、神道、マネー神学、テクノロジー神学、日本音楽史、日本経済史のいずれか、あるいは全てを大学で教えているのではないかという考えが降って来たことも夕方の出来事だったと思い出す。それらはどれも自分の関心領域であり、確かにそうした事柄であれば大学で教えたいという考えがあるのは確かだ。ここから自分の関心はより広く深くなり、また新しい関心が芽生えてくるだろう。それらの関心が統合された先に、何かしらの領域を受け持つ形で大学教員としての役割を担っている可能性がある。そのようなビジョンと共に、今日も充実感を最後まで感じながら1日を終えていきたいと思う。フローニンゲン:2022/5/23(月)20:20

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