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8455-8462: フローニンゲンからの便り 2022年5月22日(日)



No.3664 放射線状の宇宙_The Radial Universe


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1546, Open Hands of the Morning Sun

The morning sun opens its hands widely.

They embrace everyone and everything on the earth.

Groningen; 08:13, 5/22/2022


No.1547, The State of Boundless Light

I’m in the state of boundless light right now.

It radiates infinitely in all directions.

Groningen; 08:44, 5/22/2022


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本日の3曲


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楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

8455. 環境からの働きかけ/自然の音に包まれて

8456. 今朝方の夢

8457. 混沌と創造/今朝方の夢の続き

8458. 生成/コンテクスト依存性/至高体験と世界

8459. 変化と時間の持続/プロティノス的体験

8460. 言葉の重さと香り/覚醒の喜び

8461. 旅と因果律/魂と霊感の疼き

8462. バーナード·スティグラーとアンドリュー·フィーンバーグ/ジークンドートレーニング106:フックキックと ストレートリードの復習


8455. 環境からの働きかけ/自然の音に包まれて


時刻は午前7時を迎えようとしている。日曜日の始まりを祝うかのように、朝日が燦然と輝いている。黄金色に彩られた朝の世界。そうした世界に身を置いていると、自ずと高揚感が湧いて来る。世界と共に踊りを踊りたい気持ちが沸々と湧き上がる。このように、環境からの働きかけで、ある感情が生まれて来ることに着目してみると、自分が身を置く環境の大切さを思う。また、良い感情が生まれて来るように、環境をできるだけ美化していくことの大切さも思う。環境保護という取り組みの本当の意味というものをきちんと考えねばならない。それを偽善的に取り組むのではなく、環境がなぜ自分たちにとって大切なのかという直接体験から出発しなければ、早晩その取り組みは無駄なものになってしまう。世の中を見渡してみると、環境保護のみならず、実に数多くの取り組みが、自らの直接体験なしに行われていることか。だからこそ、その取り組みに対する胆力や取り組みを継続する強い意志が希薄なものとなり、取り組みがうまくいかないのだ。そのようなことを思う。


キッチン側の開けられた窓から、小鳥の鳴き声が聞こえて来る。とても清らかで優しい彼らの鳴き声に深く癒される。オリヴィエ·メシアンが小鳥の鳴き声を参考にして作曲をしたのと同じく、自分もまた小鳥たちの鳴き声を元に箏曲を作ってみたいと思う。そうしたことからも、絶えず小鳥たちと触れ合えるような場所でこれからも生活をしていきたい。できれば、いつか自然の中で生活を営みたいものだ。そうすれば、小鳥だけではなく、様々な動植物の音、すなわち自然の恵みとも言える自然の音を通じて作曲を楽しむことができるだろう。


今朝は晴れているが、気温は随分と低い。10度を下回り、今の気温は9度である。最高気温も今日は19度までしか上がらない。明日は今日と似たような気温だが、明後日からはさらに気温が下がる。やはりこの涼しさがフローニンゲンの代名詞なのだと改めて思う。その町に付帯した気候というのもまた、その町にとっての名刺なのだ。町は気候を通じてもその個性を発揮し、様々なことを語ってくれる。ここからの旅では、気候というその町の代名詞にも着目しよう。旅の話で言えば、今日か明日にでも、7月のスウェーデン旅行の予約をしておこうと思う。予約するべきは、マルメ、ヨーテボリ、ストックホルムで滞在するホテルと、アムステルダムからマルメへの行き航空券、ストックホルムからアムステルダムへの帰りの航空券である。それぞれの都市を行き来する高速列車については焦って予約する必要はないだろう。それらについてはまた日を改めて予約をしたい。フローニンゲン:2022/5/22(日)07:03


8456. 今朝方の夢


今朝は風がほとんどなく、書斎の窓から見える木々が微動だにせず凛として佇んでいる。その佇まいにも力強さと美しさを感じる。あるだけで素晴らしいということ。存在しているだけで素晴らしいということ。自然がそこにあるだけで美しいと感じられること。この感覚を大切にしたい。


今朝方はいくつか夢を見ていた。夢の中で私は、日本のジークンドーを盛り上げているある有名な武術家の方と話をしていた。話をしていた場所はどういうわけか、旅館の布団の上だった。布団の上に横になって、お互いに思い思いにジークンドーを含めた武術について話をしていた。時刻は夜だったこともあって、静かな声で話をしていたのだが、お互いに武術を愛しているがゆえに、静かな声であってもお互いの武術に対する思いを強く感じることができた。ジークンドーの技の細かな原理を含めて、玄人的な話を随分と楽しんだ後、ふと、小中高時代の友人(AF)が現れ、彼も話に加わった。彼は武術をしていないので、そこからはちょっと話題を変えて、3人で話を楽しみながら夜の時間を過ごしていた。


そのような夢を見た後に、自分が誰かを殴り飛ばす夢があったのを覚えている。相手は心が腐った若い女性だった。最初私は、その女性の話を冷静に聞いていたが、彼女の話があまりにも聞くに耐えないものであり、義憤の念が湧き上がった。そうした義憤の念から拳を振るうことになり、その女性をフックパンチで一撃で仕留めると、その女性はやはり人間ではなく、悪魔のような存在、あるいは魔女のような存在であることが発覚した。そうでもなければ女性を殴るなんてことはあり得ないことなのだ。直感的に、その女性が社会悪をなす存在だとわかったがゆえに、正義の拳を振りかざしたのだと思われる。


それ以外にも、小中学校時代の親友の3人(SI & NK & YU)が自分の別荘に宿泊しに来る夢もあった。彼らと別荘でゲームをしたり、話をしたり、一緒に食事を摂ったりして大いに楽しんだ。大いに楽しんだ後、全員ぐっすり眠ることができた。翌朝起きてトイレに行ってみると、1日でトイレが結構汚れていることに気づいた。その別荘にはこれから両親も宿泊することになっていたので、両親に掃除を任せるのは申し訳ないと思ったので、彼らが帰った後に、自分で掃除をしておこうと思った。そのような夢も見ていた。実は、今朝方はもう1つ何か重要な夢を見ていたような気がする。起床した瞬間にそれを覚えていたのだが、今はもう忘れてしまっている。ここから少し心を鎮めて、その夢を思い出せるように再想起してみよう。フローニンゲン:2022/5/22(日)07:15


8457. 混沌と創造/今朝方の夢の続き


創造というものが、ある意味秩序を生み出すことだと考えてみると、創造の源泉というのは混沌としたものなのかもしれないと思う。創造の源泉までもが秩序的だと、創造の力というのは湧き上がってこないのではないかと思う。これは1人の創造者の内側に当てはまるのではなく、その人を取り巻く社会の有り様においても当てはまるのかもしれない。すなわち、秩序だった社会においては、創造の力が弱まってしまい、逆に社会が混沌としたものであるからこそ、創造の力と意志が芽生えるのではないかと思うのだ。これは幾分皮肉なことだが、社会が荒廃し、混沌とすればするほどに、逞しい創造作品が生み出されていくというのは歴史が証明していることでもある。それは普遍的な法則ないしは原理なのかどうかはわからないが、これまでの人類史においてはそのようなことが言えそうである。社会が廃れ、混沌とした状態に陥れば陥るほどに、そうした世界になんとしても秩序を生み出そうとする創造的な意志と力が芽生えるのだろう。現代という時代も随分と混沌とし始めて来た。そうした世界の中で、自分の内側にも、この世界に秩序をもたらそうとする創造的な意志と力が湧き上がっている。


そう言えば、今朝方の夢の中で、記憶をテーマにしたものがあったことを思い出す。確かそれは、自分の記憶力の良さを活用するものだった。ある知人の男性が、私の記憶力がどれほど良いのかを質問して来た。どうやらその方は、私の記憶力を使って何か事を成し遂げたいと思っているようだった。私は記憶力が良い方なので、それを素直に伝えると、その方は喜んで、そうであれば力を貸して欲しいとお願いして来た。どんな願いがあるのかわからなかったが、自分が役に立てるのであればなんなりと、と伝えると、その方は嬉しそうに微笑み、要望を話し始めた。そのような夢の場面があった。この夢においては、その男性は事を成すことに関して少し焦っていたように思えた。その焦りからか、私に質問する態度も少し切羽詰まったものであり、私が協力することを述べると、焦りが消え、穏やかな表情になったことが印象的である。日曜日の朝の表情はとても穏やかだ。空には雲が全くなく、太陽が満面の笑みを浮かべている。フローニンゲン:2022/5/22(日)09:06


8458. 生成/コンテクスト依存性/至高体験と世界


自らが生成し、生成される存在だから、生成的なものに惹かれる自分がいる。生成の瞬間に立ち会えた際には、極大の歓喜が訪れる。生成は生命の躍動に他ならず、生成は生の喜びに他ならない。そんなことをふと考える。


ここ最近は、毎日英会話アプリのELSAを楽しみながら活用している。このアプリを用いてイディオムや例文を発話する際には、常に自分がそれを特定のシチュエーションで活用している姿をできるだけリアルに想像するように心掛けている。でなければ、実際にその表現を現実世界の中で活用することはできず、意味のない学習になってしまうだろう。知識やスキルというのは、特定のコンテクストの中で発揮されて初めて意味のあるものになる。知識やスキルというのはコンテクスト依存性を持つのである。そうした性質を絶えず考慮に入れた学習と実践をこれからも心掛けていこう。


日々の生活の中に新しさを見出し、絶えず自分の中に新しい変化が起こっていることを身体的に鷲掴むと、それは至高体験となる。日々は絶え間ない至高体験の連続過程として過ぎていく。それを体験している主体は、絶え間ない至高体験を通じて、さらに深い至高体験を得ながら日々を生きている。そこには無限循環があり、自己はその無限循環として存在している。至高体験は海のように広く深く、遍く形で常にいかなる瞬間にも存在している。自己はその海に入る方法をもはや知っていて、その海と化すことも知っているようなのだ。時が至高体験の中に溶けていき、時そのものが至高体験と化す。日曜日の朝は至高体験で満ちている。今から淹れるコーヒーの香りも味も、至高体験をさらに強めてくれるものになるに違いない。世界の中に至高体験があるのではなく、至高体験の中に世界があり、至高体験は世界と化す。フローニンゲン:2022/5/22(日)09:32


8459. 変化と時間の持続/プロティノス的体験


自分は変化の持続の中を生きている。そして、自分は変化の持続として生きている。初夏の様相がますます深まるフローニンゲンにおいて、季節の進行にも時間の持続というものが存在することがわかる。今書斎の目の前に逞しく佇んでいる新緑の木々たちもまた、時間の持続を経て誕生した存在だ。この宇宙には、時間の持続がなければ存在し得ないものがあることに気づく。おそらく、遍く全てのものが何かしらの時間の持続による産物なのだろう。この自己もまた然りである。時間というテーマは実に奥が深い。自分は時間というものを直接体験を通じて、その内奥にある秘密を知りたいと思う。音楽を通じた探究と実践もまた、時間の本質を紐解くことに力を貸してくれるに違いない。


一者から多者への流入即融和。多者から一者への流入即融和。光に包まれたそんなプロティノス的体験が生じる。すると、一者としての自己はさらに巨大な一者と化す。それがプロティノス的体験の真髄である。そこで自己は自らが光に他ならないことを知る。理性の世界の到底及ばない混沌とした世界に、光としての自己は光を投げかけ、究極的な秩序世界の一端を知る。その世界は無限に広く、絶えず新たな姿として生成され続けている。ゆえに、その世界の全てを知り尽くし、味わい尽くすことなどできないのだが、光としての自己がその瞬間に知覚した感覚は永遠に自己の内側に残り、そこで知り得た真理はお土産として自己が持ち帰ることになる。光が満ち満ちている朝の世界の内奥に、無限に拡張し、無限に迸る光を発している深遠な世界を見る。


光は、年齢も、性別も、人種も、国境も知らない。それは誰のところにも届けられる。それは全ての存在に等しく届けられる。光が持つ本質的な平等性。今この瞬間の自分も、その恩恵に与らせてもらっている。光はどこまでも遠くへ駆け巡る。光の踊りの中に自分が生きていることをこれほど強く感じたことはないかもしれない。フローニンゲン:2022/5/22(日)09:56


8460. 言葉の重さと香り/覚醒の喜び


1つ1つの言葉をレンガのような重みを持って発すること。それをゆっくりと積み上げていくこと。言葉の重さは直接体験抜きには語れない。また、1つ1つの言葉の中にある言霊の存在も忘れてはならない。言葉に重さがなく響いてしまうのは、直接体験や言霊を蔑ろにしているところに大きな理由があるのではないだろうか。現代社会に蔓延る言葉の質感を眺めていると、そのようなことを思わずにはいられない。


他者の文章を読む際には、他者の言葉が持つ肉体的な香り、心の香り、魂の香りに着目してみよう。美しい文章には、必ずそれらの高貴な香りがある。それを味わうことが、文章を味読することの真義なのだろう。


世界の美、世界の至福さに酔いしれる楽しみと快楽がある一方で、それらから明晰に覚めるという楽しみと快楽があることにはたと気付かされた。後者は、覚醒の喜びとでも言えるだろうか。確かに夢の世界を楽しむことも快楽が伴うが、目覚めたときの爽快さを思うと、目覚めの喜びと快楽というものが確かに存在しているようだ。日々自分は、世界が顕現する美と至福さの享楽に浸りながらも、同時にそれらから明晰完全に覚める喜びと快楽を味わっている。それこそが超越した自己の在り方と言えるだろうか。片方の楽しみと快楽に浸っている段階は、まだ道半ばなのだ。それら双方の楽しみと快楽を知って初めて、自己は超越の舞台に立つ。そしてそこからまた、無限に続く超越の頂に向かって自己は歩みを進めていく。なんと果てしない道のりかと思ってしまうが、尻込みをする必要は全くない。なぜなら、その歩みには絶えず上述の楽しみと快楽が付き纏うのだから。それらの双方の楽しみと快楽の味を知って初めて、それらを超えることができる。楽しみと快楽に溺れるのと、それらと化すのとでは全く次元が異なる話である。超越の舞台に立った自己は、後者として存在し、この世界を生きることができるのだ。今の自分は、まさにそのような形で日々の生活を営んでいる。フローニンゲン:2022/5/22(日)10:35


8461. 旅と因果律/魂と霊感の疼き


これからの旅においては、旅先の風土を味わうだけではなく、その土地の歴史を読むことを楽しもう。その土地に固有の風土と刻印された歴史は、1つの大きな物語を持っている。その物語を、1つの巨大な小説さらには一編の巨大な詩として捉え、それを味読していこう。旅を繰り返せば繰り返すだけ、自己は変貌を遂げ、旅の意味にも変化が見られる。自己の変貌に応じて、旅そのものも変貌するのだ。ここに自己と世界の陰陽的同時変化を見て取る。自己と世界の変化は、常に足並みを揃えて実現されるものなのかもしれない。自己と世界は、共鳴し合いながら同時に変化する。自己が変化すれば世界も変化し、世界が変化すれば自己も変化する。それらの一方向的な因果律だけではなく、双方が同時に変化するという因果律も存在しているのだ。旅は、それらの因果律の存在を浮き彫りにしてくれ、新たな因果律の発生に寄与する。


魂の疼き。霊感の疼き。静謐な世界に佇む自己は、それらの疼きを感じている。そんな中、自分の内側から詩的なものと音楽的なものが自然と溢れ返ってくる。詩的なものはもちろん詩として形にしていくが、それだけではなく音楽の形にしたい。逆に音楽的なものはもちろん音楽として形にしていくが、それだけではなく詩の形にしたい。自分にとっての創作の秘密はそのあたりにありそうだ。その背後にある、魂と霊感の疼きを大切にしよう。それは、この世界への共感と共鳴から生まれてくるものなのかもしれない。そうした疼きは、創造を導く振動なのだ。この世界は振動で構築され、振動によって絶え間ない運動を続けている。身も心も魂も、絶えず振動状態にあるようにしておくこと。それが絶え間ない創作の秘訣であり、永続的な変化の秘訣である。喜びの感情は、そうした振動状態をもたらす最良の栄養である。絶えず喜びに溢れていること。絶えず喜びに満ち溢れた形で活動に従事すること。その方法は至ってシンプルで、自分の存在の入れ子の全てが楽しさを感じることに取り組めばいいだけである。世界は複雑さを増す一方で、こうしたシンプルな原理に貫かれているのが世界の真理である。フローニンゲン:2022/5/22(日)10:51


8462. バーナード·スティグラーとアンドリュー·フィーンバーグ/

ジークンドートレーニング106:フックキックと ストレートリードの復習


今、改めてテクノロジー哲学者のバーナード·スティグラーとアンドリュー·フィーンバーグの一連の書籍を読み返しているが、前者はより意識や記憶の性質に踏み込んだテクノロジー論を展開していて、後者はフランクフルト学派の理論に基づいたより社会学な側面からテクノロジー論を展開していることが面白い。どちらの哲学者も多産であり、彼らの書籍をすぐに理解することはできないのだが、これから何度も繰り返し彼らの書籍を読み返すことによって、テクノロジーというものをより多面的に理解していきたい。マネーに関しても意識や記憶の観点、さらにはフランクフルト学派の理論を活用するとどのようなことが明らかになってくるだろうか。その探究にも着手したい。ここからはジャック·エラルとポール·ヴィリリオのテクノロジー論に関する書籍の続きを読み進めていく。本書を読むのはこれで3度目だ。


時刻は午後3時半を迎えた。つい今し方、今日のジークンドーのトレーニングを終えた。最初に、フックキックの復習を行なった。バーストステップから脚を棒にするのではなく、スナップを利かせることを意識し、蹴る瞬間と蹴った後の身体のバランスに気をつけた。そこから、プッシュステップからのストレートリードの復習をした。この技についても、細かなところを確認しながら練習を行なっていった。とにかく毎回の稽古を新たな眼と感覚を持って行うことが重要だ。さもなければ、本質的な技の習得は実現せず、進歩も見られないだろう。これは、これからの箏の演奏においても意識したいことである。明日からもまた、これまで習ったジークンドーの技を少しずつ復習していこうと思う。新しい技を次から次に練習していくというよりも、過去に習った技を丁寧に復習しながら着実に身につけていくことを意識しよう。新しい技を習うのと同じぐらいに、これまで習った技から新しい発見を汲み取ることは面白い。その面白さを常に感じながら、これからも日々着実に稽古をしていこう。


それではこれから、7月の旅行の各種予約をしたい。その前に、マルメとストックホルムで見所となる場所を再度確認しておこう。ひょっとしたら見逃している重要な場所があるかもしれない。その確認が済んでから航空券とホテルの予約を完了させたい。フローニンゲン:2022/5/22(日)15:41

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