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8165-8174: フローニンゲンからの便り 2022年4月10日(土)



No.3504 朝の九字(その2)_Morning Kuji (Part 2)


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1414, Danichi Nyorai

Dainich Nyorai just appeared in front of me.

I just prayed for it.

The prayer was totally pure.

Groningen; 07:23, 4/9/2022


No.1415, Pray for Everything

The world is the representation and manifestation of Dainich Nyorai.

Everything is the embodiment of Dainich Nyorai.

Thus, I pray for everything.

Groningen; 19:59, 4/9/2022


No.1416, Descent

I was born in the green planet.

The planet was full of bliss and peace.

I descended from there to the earth.

The reason I came here to heal and transform the earth.

Groningen; 20:36, 4/9/2022

下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

8165. 今朝方の夢

8166. 川面凡児・ジークンドー・箏の三位一体としての人生

8167. 森有正先生のオルガン演奏をふと思い出して

8168. 変化と不変/和琴と箏について

8169. ジークンドーの鍛錬と箏の稽古による脳内変化/数字譜と数秘術

8170. 死後の孝

8171. 箏の世界の中で

8172. 隣人との立ち話より

8173. 川面凡児のコスモロジーの紹介に向けて

8174. 開かれゆく種々の扉


8165. 今朝方の夢


時刻は午前5時半を迎えた。今日から週末を迎えたことを先ほど知った。どこかすでに週末は終わっていて、新たな週が始まった感覚がしたが、そうではなく、むしろ今日から週末が始まったのだ。


この感覚は一体なんだろう。それは肯定的な倒錯的時間感覚である。


自分はひょっとしたら、一般的な時間の流れとは逆の流れを通して生き始めたのだろうか。そうかもしれない。


人は成長·発達を遂げていくと、時間感覚も変容していく。自分の中で時間的変容も起こったのだ。


耳を澄ますと、小鳥たちの鳴き声が微かに聞こえてくる。彼らも早起きは三文の徳だと心得ているようだ。


今朝方は少しばかり夢を見ていて、ここでもまた時間を順番に振り返ってみたい。最初のものはすぐに思い出せないが、最後のものならすぐに思い出せる。


夢の中で私は、スペインのバルセロナにいた。この街を代表するサッカーチームであるFCバルセロナの練習風景を私はスタンドから眺めていた。


バルセロナは伝統的にパスサッカーに特徴があり、練習からそれを十分に伺わせていた。数人の選手たちが連動して動き、滑らかなパスを回し続ける様はとても見事だった。


1つ印象的だったのは、高い位置から降りて来たフォワードの選手にボールを預け、中盤の選手が2名同時にその選手に向かっていきながらそこからサッと外側に開いていく動きをするものだった。パスの出だしから眺めてみると、それはほうき型の動きのように思え、この動きをされると相手も捕まえにくいだろうと容易に想像できた。そこからも私はスタンドで彼らのパス回しに目奪われながら練習風景を眺めていた。


最後に見ていたのはそのような夢だった。その前にも何か重要な夢を見ていた。その記憶をなんとか引っ張り出してみたい。


最初の夢の中の言語は日本語だったことは確かだ。また、見知らぬ若い男性が1人いたことも確かだ。夢の中の空間の色は白だったことも覚えている。


そこは街だっただろうか。そのような感覚もある。確か、ヨーロッパの雰囲気を持っているような街にいて、カフェで寛ごうとしていたのではなかったか。


見知らぬ若い男性との会話にも何か重要性が秘められていたように思う。あぁ、箏の演奏について話をしていたかもしれない。自分が箏を練習し始め、その話をすると、その男性は珍しそうに話を聞いてくれていたのだった。


小鳥たちの鳴き声が少し大きく聞こえるようになった。夢の世界が遠ざかっていく。


今日は午後に、近所のショッピングモールに買い物に出かけたいと思う。夕食の味噌汁に入れているクロレラパウダーや、朝に飲む小麦若葉のパウダーとヘンプパウダーを購入したい。昼過ぎには知人とのオンラインミーティングがあるので、それを終えて仮眠を取ってから出かけることにしよう。フローニンゲン:2022/4/9(土)05:58


8166. 川面凡児・ジークンドー・箏の三位一体としての人生


時刻は午前6時を迎えようとしている。小鳥たちの清澄な鳴き声に癒されている。それは波紋状にこの世界に響き渡っていて、朝の世界に癒しをもたらしている。


昨夜就寝前に、これからは神道の研究、とりわけ川面凡児の思想研究、ジークンドーの鍛錬、そして箏の演奏という三位一体の学習実践があることによって、自分の日々はより充実度を増していくであろうことを思った。それらの組み合わせは自分固有のものであり、一見すると、想像できないような組み合わせであるが、自分の中ではそれらは1つ1つ独立していながらも、相互に影響をし合っている。


川面凡児、ジークンドー、箏という三位一体があれば、人生を至福さの中で生きていくことができるだろうという確信がある。知的なライフワークとして川面凡児の神道思想を研究していき、芸術的なライフワークとしてジークンドーと箏の練習をしていく。それら3つがあると、1日が本当に充実したものになる。今はまだ箏を持ってもいない状態だが、バルト三国旅行中に箏を発注しよう。


琴の演奏を通じて、日常に新たな彩りがもたらされることへの期待感が高まる。ジークンドーのトレーニングジャーナルの執筆と同じく、箏の練習に関するジャーナルも執筆していこうと思う。内省を怠ることなく日々少しずつ練習を積み重ねていけば、きっと上達が促進され、自分なりの演奏が徐々にできてくるだろう。


今のオランダのこの地において箏を習える場所はなく、師事できる先生が近くにいないので、独学で練習を積み重ねていくことになるだろう。マーシャルアーツと同様に、最初のうちは楽器の演奏においても変な癖が付くことがないように基本的な所作を学んでいくことが大切になる。


自分の場合は、どうやら箏に関しては独学をしていくしかないようなので、その点には気をつけよう。幸いにも最近はインターネット上での動画が充実しているので、それらをうまく活用していこうと思う。


作曲においても自分の場合は誰にも師事せず、動画コンテンツと書籍を通じて独学で学んでいった。ひょっとしたら、作曲を含め、自分の音楽的実践は全て独学を宿命づけられているのかもしれない。まずは箏の基本的な手の動かし方を覚え、そこから練習を重ねていくうちに、徐々に自分なりの演奏スタイルが形成されていくだろう。


それも確かに癖なのだが、それは基本的な原理に則った自分なりの演奏の型のようなものであり、それこそ真の個性かと思う。パッと脳裏に浮かんできたのは、カナダのピアニストグレン·グールドであり、彼のような特徴的なピアノ演奏のように、もしかしたら自分の箏の演奏も特徴的なものになるかもしれないという予感が早くもある。


脳内に浮かぶ思考やイメージは本当に創造的である。それは淀みなく湧き起こり、絶えず自分をどこかに向かっていくことを後押ししてくれているかのようなのだ。今日もまた創造的な思考とイメージに支えられながら、自分の探究と実践を小さく前に進めていこう。フローニンゲン:2022/4/9(土)06:12


8167. 森有正先生のオルガン演奏をふと思い出して


時刻は午前7時半を迎えようとしている。早朝に引き続き、小鳥たちの鳴き声が美しく世界に響いている。


呼吸法のエクササイズをするときに、2階の両側の窓を開けて換気をしていると、様々な小鳥たちの鳴き声が聞こえて来た。それは1つになって、なんとも言えない美しさを持つ合唱となった。


今日は午後から小雨が降るようだが、今のところ雨は降っておらず、遠くの空には晴れ間が見える。ただし、雨を降らせるような色をした雲が見えていることも確かなので、天気予報の確度は高そうだ。


先ほどふと、フランス哲学者の森有正先生が晩年にオルガンの演奏に熱を上げていたことを思い出した。森先生の日記の中で、自宅にオルガンが到着した時のことを嬉しそうに綴っている文章が掲載されていて、それを読みながらこちらにも嬉しさの気持ちが伝染したことを思い出す。


森先生にとって、音楽は思索の源泉だったのだろう。自分にとっても、音楽は思索の源泉であり、生きる糧となっている。音楽は自らの実存性と霊性の最良の養分になっていて、音楽がない生活は考えられない。


小鳥たちの鳴き声もまた1つ音楽であることを思うと、自分は本当に素晴らしい音楽に囲まれて生きていることを思う。それは本当に有り難いことであり、それへの感謝の念を自らの仕事に転換していこう。それがこの世界からの贈り物としての音楽に対する自分にできるわずかばかりの返礼である。


音楽のある生活。音楽で満ち満ちた生活。ここからは作曲を通じて自分の音楽を創造するだけではなく、音楽を演奏することを通じて自分の音楽を創造していく。


箏の演奏が本当に楽しみになって来た。自分の弾きたい曲を弾いていくのが上達の最良の道だろう。そう考えると、すでにいくつかの候補があり、幸いにも楽譜もすでに見つけている。一方で、古典の箏曲も練習したいという思いがある。


古典と向き合うことを通じてでしか得られないことがあることを直感的にわかっている。古典と向き合うことの大切さは、学術探究を通じて教えてもらったことでもある。今の自分の器を遥かに凌駕したような古典的名曲と向き合うことを通じ、その曲が持つ深層的な意味を少しずつ紐解いていくことは、きっと自己と世界を紐解くことなのだろう。古典と真摯に向き合うことにはそのような重大な意味と意義がある。


幸いにも、伝統的な箏を本格的に習っている知人がいるので、その方に箏曲の代表的な古典曲を教えてもらおうかと思う。ここからゆっくりと、箏の演奏を通じて自己と世界を紐解いていく試みに従事していこうと思う。それもまたこの世界への1つの奉仕のように思えて仕方ない。フローニンゲン:2022/4/9(土)07:34


8168. 変化と不変/和琴と箏について


表情を目まぐるしく変える空を眺めていると楽しい気持ちになる。晴れ間が顔を覗かせたかと思ったら突然雨が降り、また朝日が差し込むようなことが続いていた。世界は絶えず変化に彩られている。


自己という存在もまたそうした性質を持ち合わせている。全ての存在者は変化に裏打ちされて存在している。ひょっとしたら変化とは存在のことであり、存在とは変化のことなのかもしれない。そんな中で不変の何かを見つけようとする自己がいることは興味深い。


絶え間ない変化として生きていると、それが不変として感じられることがある。時間が止まった感覚になるのもまた同様の原理であり、時間の流れと自分が完全に一致してしまえば、時間は流れていないものとして感じられる。変化と不変の関係もまたそのようなものなのかもしれない。変化と完全に一致すると、自己は不変なものを感じるのかもしれない。


先ほどは少しばかり箏について調べていた。箏は中国の唐から伝来されたと聞く。一方で、和琴は日本最古の楽器と言われ、その起源はの起源は神代紀の「天沼琴(あめのぬごと)」と言われる。


神道に関心を持ち、雅楽にも関心を寄せている自分としては、中国伝来の箏よりも確かに和琴に魅力を感じるが、箏のように小さいサイズのものが世に出回っておらず——小さい和琴もあるにはあるらしいが、1mを超えてしまう——、弦の数も6本と少ない。


どうやら現在では和琴を改良して、箏と同じく13本の弦のものもあるらしいが、そうなってくると、あまり出自に囚われる必要はないのかもしれないと思えてくる。箏もまた雅楽で用いられているし、その歴史は奈良時代まで遡るので古い。


箏は恐山などのイタコが交霊の際に演奏していたらしく、大変興味深く思った。箏の音には何か霊的な力があるのかもしれない。箏についてはまだまだ知らないことがたくさんあり、引き続き箏について調べてみよう。


今、箏曲家の宮城道雄が演奏する「みだれ」という箏曲を聴いている。次は、「六段」という古典曲を聴く。今の自分には演奏について何かを語る言葉を持ち合わせていないが、ただ何か自分の中に響いていくるものがあることは確かだ。フローニンゲン:2022/4/9(土)08:39


8169. ジークンドーの鍛錬と箏の稽古による脳内変化/数字譜と数秘術


昨夜就寝前に、脳内でジークンドーの鍛錬をしていた。脳内にはいつもロビンさんが現れる。ロビンさんから繰り出される技を防御し、カウンターの技を繰り出すイメージの世界におけるシャドートレーニングをしていた。


防御とカウンターの技を21個ほどロビンさんから教えてもらい、脳内でイメージされるロビンさんの右手から技が繰り出された時にはそれに対する防御をしてからカウンターの技を繰り出し、ロビンさんの左手から技が繰り出される際も同様に対応する練習を昨夜ベッドの上で行っていた。


ジークンドーのトレーニングを始めてから、随分と脳内細胞が変化したように思う。これまで開拓されていなかった神経回路が開拓され、これまで未接続だった神経回路が堅牢につながっていく感覚を日々の鍛錬を通じて感じている。これと同様のことがきっと箏の演奏でも起こるだろう。


自分のことだから、楽しみながら同時に熱を入れて毎日稽古するに違いない。ジークンドーにおける身体操作を通じて脳が開発されていったのと同じく、楽器の演奏も同様に脳を開発する効果があるだろう。箏に関しては両手の指先を使うこともあり、それはより脳に対する働きかけが多いように思う。


ここから自分の脳はどのように変化し、それによって心や精神がどのように変化してくのか楽しみである。きっと肯定的な変化がそこにあるだろう。それはマーシャルアーツの鍛錬と楽器演奏の鍛錬が調和的に掛け合わされていく形で生まれる自分なりの変化になるに違いない。


箏曲においても五線譜のものがあるらしいが、箏曲は基本的に数字譜を用いる。この数字譜というのがなんとも密教的で美しい。


直感的に、数字譜と数秘術を関連付ける日が来るだろうという予感がする。以前、数秘術とバッハの音楽を紐付けた学術書を読んでいて、いつか数秘術を活用する形で作曲をしたいと長らく思っていた。箏との出会いを通じて、それが本当に実現するかもしれない。


まずは箏の演奏を通じて数字譜に慣れていき、そこから数秘術を絡めた作曲実践をしてみよう。箏専用の曲を数秘術を活用して作ってみよう。その際には、これまた以前熱心に読んでいたシュタイナーの思想を絡めて霊的音楽について解説した特異な音楽理論書を参考にしよう。


全ての存在者に魂があるのなら、やはり一音にも魂があるはずなのだ。それはスピリットの分化的顕現である。


スピリットを一音に降ろし、そこに魂を込めていく形で曲作りをしている未来の自分の姿を想像する。その自分が今という瞬間に降臨するまで、地道な精進を日々楽しみながら続けていく。フローニンゲン:2022/4/9(土)09:13


8170. 死後の孝


楽しげな死。死者の魂を楽しげな雰囲気の中で祝うこと。以前、自分の死は溌剌とした喜びの感情の中で自ら祝い、他者にもそのように祝ってもらいたいということを書き留めていた。


神道家の川面凡児の思想に触れていると、この自らの死生観の方向性はあながちおかしなものではないことがわかる。むしろ、自分の死生観は日本古来の死生観につながっていることがわかる。


現代の日本に多いては、死はどうしても忌むべきものであり、悲しみが伴う。ところが、古事記には死者の魂の旅立ちを祝い祭ったという記録があることを知った。古事記の中に、アメノワカヒコの葬儀の際には、人々が8日8夜に渡って踊りを踊り、歌を歌って祝ったということが書かれていることを知ったのである。


古代の人々の霊性観·死生観として、残された人々が嘆き悲しんでいると、死者は後ろ髪を引かれてしまい、彼方の世界に行くことが難しくなってしまうという考え方を持っていたそうだ。だからこそ、悲嘆にくれることなく、別れを惜しみながらも明るく楽しい雰囲気で死者を送り出す風習があったらしい。これは自分にとって目から鱗であり、同時に自分の霊性観·死生観と合致するものがあることを嬉しく思った。


それではいつから死というものが忌むべきものになったのか。確かに神道においても、死は穢れとして扱われることは確かだが、死者を悲しみの中で送り出す風習は、儒教や仏教の伝来と関係している。


儒教においては、3年喪に服すという非常に長い間悲しみを抱えなければならず、仏教においてもその無常感と葬儀の風習によって、死というものがどこか暗く陰鬱としたものになってしまったという側面は否めないだろう。


日本古来には、「死後の孝」という発想と実践があり、それは死を嘆き悲しむものとして捉えず、死者に対して生者が明るく元気に過ごしていることを示すことによって、死者の霊を鼓舞するというものだ。


死というものが私たちにとって不可避のものであり、魂の成長過程において死と再生が繰り返されていくという発想を採用すれば、尚更のこと死者の旅立ちを祝福しなければならないのではないかと思えてくる。そうした祝福がなければ、死は不完全なものとなり、次の新たな再生につながっていかないのではないだろうか。そのような思いがある。


一方で、こうした死生観が誤って解釈され、悪用·乱用される危険性もあることを最後に書き留めておく。フローニンゲン:2022/4/9(土)09:34


8171. 箏の世界の中で


空にまた雲が現れ始めた。雲がゆっくりと空を泳いでいく姿をぼんやりと眺めている。すると自然に意識は雲と一体化し、意識は雲と同調しながら運動を続ける。意識というのはどうやらそういう性質を持った運動体のようだ。


パッと晴れ間が見え、朝日が地上に降り注ぐ瞬間が今訪れた。それは世界が瞬間的に一変するような出来事である。太陽の持つ力には感服させられる。


朝からずっと川面凡児か箏のことしか考えていない。先ほど、川面凡児の興味深い死生観·霊性観、そして統合的な2つの独特な発想法について紹介する音声ファイルを作った。


そこからは再び箏について調べていた。いつか伝統的なサイズの箏を弾いてみたいと思うが、今は旅行にも持っていけるような小さな箏を購入することを検討している。


早朝に調べていた箏曲家宮城道雄が開発した箏には代表的なものとして十七絃の箏があるが、それ以外にも教育目的で作られた短箏というものがある。今自分が購入を検討している文化箏は、まさに宮城道雄の功績に寄るものだということを知った。


宮城道雄からさらに時代を遡ると、非常に有名な八橋検校の存在がある。箏曲の発展に大きな寄与をした八橋検校が亡くなった年のちょうど200年後に自分が生まれ、西洋音楽に多大な功績を残したバッハが生まれた年のちょうど200年後に自分が生まれたことに何か意味を見出してしまう自分がいる。


2人の偉大な音楽家の御魂と御霊が自分の中に宿っている感覚があるのだ。この主観的感覚は是非とも大切にしたい。自分がこれから音楽活動をしていく上の大きな支えになるだろうし、そこから全てが生まれてくるように思う。


江戸時代において箏は当道制度の中にあり、盲人しか演奏ができなかったという歴史がある。明治時代以降は当道制度が廃止され、盲人以外の一般人も演奏ができるようになったらしい。


盲人しか演奏できなかった江戸時代に作られた箏曲は、ひょっとしたら目には見えない世界を一番良く伝えてくれる可能性がある。これから箏の稽古をするに当たって、江戸時代に作曲された古典的な曲もやはり演奏してみたいという気持ちになる。目には見えない世界にこれまで長らく関心を持ってきた自分が、今度は箏の演奏を通じてその世界を探究していくというのは運命的な必然だと言えるかもしれない。


今ふと思い出したが、1冊だけ持っている洋書の雅楽に関する理論書が気になった。それは確か1階の段ボールの中のどこかにしまってある。今からそれを引っ張り出してきて、今後の箏曲の作曲の着想を得たいと思う。フローニンゲン:2022/4/9(土)10:45


8172. 隣人との立ち話より


時刻は午後5時を迎えた。今日も天気の変動性が激しい1日で、幸いにも朝は日光浴を楽しみながら読書を行うことができた。日光浴は自分にとって、「火そぎ」の実践であり、同時に心身の健康を促進する重要な実践でもある。日光浴を通じて、穢れが禊がれ、心身が活性化することを時間する。


先ほどは通り雨に見舞われたが、今はまた晴れている。今から時を遡ること少しばかり、近所のショッピングモールに買い物に出かけようとすると、敷地内の門の前でオーナーのペイトラさんと隣人のマークが談笑をしていた。


ペイトラさんはゴミ捨てに行くこうとしていて、マークは庭の手入れをしに行くところで偶然2人は鉢合わせたようだった。そこに私も鉢合わせ、そこからは3人で少々立ち話をしていた。マークはこの間オーストリアに旅行に行き、ペイトラさんはオランダ国内の旅行を先日して、近々フランスに旅行することになっているらしい。


まずは2人の旅行話を聞いた後に、ちょうどペイトラさんとフレディーさんがフランスに行くタイミングで自分もバルト三国に旅行に出かけることを述べた。ペイトラさんもマークも、バルト三国に自分が旅行に行くことを珍しがっていて、また今のウクライナとロシアの情勢から、バルト三国が安全かどうかも尋ねてくれた。バルト三国は地理的に確かにウクライナとロシアと違いが、現在の戦争による影響はない。


ペイトラさんからなぜバルト三国に行こうと思ったかを尋ねられた時、ラトヴィアのリガが夢に出てきたことがきっかけだと伝えると、不思議そうな顔をしていた。そこから少々別の理由も付け足したが、今回バルト三国に旅行に出かける直接のきっかけは本当に自分が見た夢なのだ。なのでなぜバルト三国に行くのかと尋ねられたら、それしか答えられないというのが正直なところである。


そこからはマークと別れ、自分もゴミ捨てをしてから買い物に出かけようと思っていたので、ペイトラさんとゴミ捨て場まで一緒に向かった。その際に、8月に2人の知人がフローニンゲンに遊びに来る際に、夕食のレストランでどこかお勧めのものはないかとペイトラさんに尋ねた。


オランダ料理が特にめぼしいものはないことは有名な話であり、ペイトラさんはオランダ料理ではなく、イスラエル料理のお勧めの店を紹介してくれたのと、郊外に雰囲気の良い一軒家を改築したお店を勧めてくれた。そこにはタクシーで行く必要があるとのことだったが、そこも選択肢の1つである。


後日改めていくつかのレストランについて教えてくれることになった。その中からどれか1つをピックアップして、2人の知人とそこに足を運びたいと思う。フローニンゲン:2022/4/9(土)17:20


8173. 川面凡児のコスモロジーの紹介に向けて


単なる多神教でも精霊崇拝(アニミズム)でもなく、一神も多神も精霊も包摂したコスモロジーを持つ川面凡児の思想を深く理解し、それを世界に紹介したいという思いが強まる。川面凡児との出会いも偶然の産物であり、運命的なものに感じられ、彼のコスモロジーを広く欧米社会に紹介していくことは自分に与えられた使命のように感じる。


川面凡児の思想をこれから学位を取得する中で研究していこうと思うのだが、過去に幾人もの偉大な思想家や研究者の仕事を参照しながら研究することによって、自分は大いに成長させられたと思う。


今回もまた、川面凡児の深淵なコスモロジーを探究する過程において、きっと自分自身が磨かれ、変化し、成長していくに違いないという確証めいた予感がある。そうした現象はもはや予感ではなく、すでに川面凡児の思想を研究し始めている今の自分に起こっていることでもある。


川面凡児は、神道の理論化と体系化を進め、それを「祖神の垂示」と名付けた。それが包摂する領域は広く、神観、霊魂観、世界観、国家観、人生観にまで及ぶ。


祖神の垂示に基けば、人間の本体が直霊(なおひ)と呼ばれる神の分霊であるゆえに、私たち人間は神の子であり、同時に神そのものでもある。しかしながら、その認識を獲得し、それを体現するためには実践が必要になる。


禊や祓いの行を含め、川面凡児は実践についても精緻な理論化と体系化を進めていて、それは目から鱗が落ちるものが多々ある。そうした実践体系を含めて、これから少しずつ研究を進めていき、川面凡児の生い立ちや人となりを含めて探究をし、近い将来に英語の論文や学術書を通じて世界に彼の思想を紹介していきたいと思う。今はそのような思いで一杯である。フローニンゲン:2022/4/9(土)17:44


8174. 開かれゆく種々の扉


今日も夕方にジークンドーのトレーニングをしていた。昨日と同様に、いくつかのステップを組み合わせて行うフットワークを鍛錬し、接触法における防御とカウンターの21個の技を1つの流れとして練習していた。


来週末のロビンさんとのプライベートレッスンに向けて準備は万端になりつつある。前回習ったことの習熟度合いをロビンさんに確認してもらい、また新らしい技をいくつか習えることを楽しみにしている。セッション翌日にバルト三国へ旅行に出かけるので、新しく習ったことは旅行中に復習して行こう。


ジークンドーの鍛錬を始めたことによって開かれた感覚と感性があったように、箏の演奏を始めるときっとまた新たな感覚と感性の扉が開かれるのではないかと思う。そして、川面凡児のコスモロジーと霊魂観を研究していくことによって、自分の霊的感覚の扉が大きく開くであろうことが想像される。


川面の思想は現実社会を透徹した眼差しで深く見つめたものであり、さらには実践的なものでもあることを考えると、世界平和、地球環境問題、スピリチャルケアなどの広い領域に大きな貢献を果たしてくれるのではないかと思う。


ここ数日間は箏のことで頭が一杯である。まだ実物の箏を持っていないが、箏の音で作曲を始めたことをもってして、自分の中では箏の演奏はもう始まっている。箏の音が持つなんとも言えない響きがとても魅力的だ。それは自分の魂を虜にしてしまっている。


マーシャルアーツにおいて一挙手一投足に魂を込めるのと同様に、楽器の演奏においても一音に魂を込めていきたいという思いがある。実際に箏の演奏を始めたら、そのような思いを常に持って演奏の鍛錬を積んでいく。


今はただただ、箏の稽古を始めることによって開かれていく自分の様々な側面が楽しみでしょうがない。そこでは新たな自己発見があるだろうし、人との新たな出会いを含め、人生において様々な扉が開かれるだろう。そのような予感がする。フローニンゲン:2022/4/9(土)17:51

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