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8147-8151: フローニンゲンからの便り 2022年4月7日(水)



No.3493 光の植物_A Plant of Light


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1408, Attachment

Any attachment detaches us from peacefulness.

It makes a distance to enlightenment.

Groningen; 09:48, 4/6/2022


No.1409, Aesthetic & Poetic Experience

Any aesthetic experience is poetic.

Any poetic experience is aesthetic.

I’m in such an experience now.

Groningen; 15:25, 4/6/2022


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

8147. 資本主義教という新興宗教からの目覚めについて

8148. 今朝方の夢

8149. 自然崇拝の感覚と感性/神話の働き

8150. 七五三で参拝した神社

8151. ジークンドートレーニング94:着実な鍛錬の成果の実感


8147. 資本主義教という新興宗教からの目覚めについて


時刻は午前8時に近づきつつある。早朝に雨が降っていたが、今は雨が止んでいて、静かな朝の世界が広がっている。ここ最近は天気が悪い日が続いていて、今日もまた1日を通して雨に見舞われるようだ。


昨日は結局ジムに行くことができなかったので、今日は午後にジムに行き、ジークンドーのトレーニングをして、サウナに入ってゆっくりしたいと思う。今週はずっと天気が悪い日が続くようであり、来週もその傾向は変わらない。しかし、来週からは気温が暖かくなることが朗報である。


再来週の月曜日は、バルト三国に向けて出発する日である。その時までには天気が良い日が続くようになって欲しいと思う。


昨日考えていたことをふと思い出したので、それについて書き留めておこう。よく指摘されるように、現代人は深い夢を絶えず見ていて、資本主義というある種の新興宗教を盲信している。その宗教の教えに忠実になって人々は思考し、行動する。


資本主義という新興宗教の教えは1つの大きな物語として蔓延しており、それは人々を深い眠りの世界に陥れる。現代人の中には資本主義の構造的な問題を指摘し、人々の目覚めを促そうとしている者もいるが、多くの現代人は新興宗教の教えを何の疑いもなしに静かに受け入れている。不思議なことに、そんな多くの現代人は、伝統的な宗教を含め、表立って宗教と名のつくものを毛嫌いする。


本来、伝統的な宗教は人々に目覚めと救済をもたらすものなのだが、多くの現代人はそれらを否定することにより、新興宗教としての資本主義の夢の世界に取り返しがつかないほどに深く入り込んでしまっているように思う。そして、伝統宗教の側においても、新興宗教としての資本主義に取り込まれてしまい、癒着してしまっているものを見かける。


少なくとも現代人にとっては、宗教を毛嫌いすればするほど、すなわちそれらについて学ぼうとしなければしないほど、新興宗教としての資本主義の教えに抗う世界観や思想がないがゆえに、そちらの世界に取り込まれてしまっているのではないかと思う。


宗教と真正面から向き合い、伝統宗教の叡知に触れることによって、資本主義教の解毒を図り、少しずつ夢から覚めていくことができるのではないかと思う。上述のように、資本主義教と癒着してしまっている伝統宗教の宗教家や宗派もあるであろうから、宗教側にも当然ながら変革が求められる。


現代人と宗教側の双方にとって、資本主義教の世界から目覚め、そこから脱却していくのは至難の技であろうが、その道がないことはない。これからの自分の研究と提示する処方箋は、その道の1つになるだろう。フローニンゲン:2022/4/6(水)08:09


8148. 今朝方の夢


時刻は午前9時半を迎えようとしている。今、少し小雨が降っているようだ。今朝方の夢についてまだ振り返っていなかったので、書き留めておこう。


夢の中で私は、見慣れない図書室にいた。それは学校にあるような図書室とは雰囲気が少し違っていて、公共の図書館の中の1室のように思えた。


図書館の中に別途図書室があるような構造がその建物にはあった。図書室にはほとんど人がおらず、静かな環境の中で本を選ぶことができた。すると突然、とても綺麗なウクライナ人の女性が自分に近寄ってきて、頬を擦り寄せてきた。


夢の中で彼女はどうやら自分の知り合いのようだった。私たちは共にまだ大学生で、学期中の課題をこなすために図書室でお互いに本を選んでいた。そんな中、偶然に彼女と出会い、彼女が私の方に近寄ってきたというわけだ。


彼女は東欧の女性特有の端正な顔立ちをしていて、モデルと間違われるような容姿を持っていた。彼女は法律を専攻していて、難しそうな分厚い法律書を棚から取り出し、それを読み進めていた。


彼女に頬を擦り寄せられた感触がまだ残っている中で、自分の課題をこなすための書籍選びを始めた。しかし、自分が何の課題に取り組んでいるのか上の空であり、結局本を選ぶことなく、図書室を少しぶらついていた。


図書室の一角から下のフロアが見下ろせるようになっていて、そこから下のフロアを眺めた。すると、下のフロアには大学時代のゼミの後輩が数人いた。彼らはちょうど進路を決める時期に差し掛かっていて、一足早く進路が確定した先輩として、彼らに何か有益な情報を共有したいと思った。


そこで私は、図書室のその一角から下のフロアにいる後輩に向けて、演説を行った。下のフロアには何かのコースを担当している見知らぬ女性の先生がいて、先生が私に1つお題を出したので、まずはそれについて演説をした。


その演説の中で私は、経営学部のゼミの友人たちは経営学の話をしたかと思ったので、自分は発達心理学の観点を通じて組織における集合意識の発達について簡単に演説をした。その演説は後輩たちにとって響くものがあったらしく、演説の反応はとてもよかった。


演説を終えて図書室の一角から離れて、再び本を選ぼうと思った。すると、ウクライナ人の彼女はまだ熱心に本を読んでいた。彼女は微笑みを浮かべながら難解そうな法律書を読んでいて、彼女の表情と姿が目に焼き付いた。


すると後ろから声を掛けられたので振り向くと、そこには東工大から来ているゼミの友人がいた。彼はちょうどヨーロッパの経営大学院のMBAプログラムに留学することになったらしく、お互いの生活拠点が近くなったことを喜んだ。


彼がどの大学院に留学するのかを述べる前に、私は彼の進学先をずばり当てた。直感的に、彼はバルセロナの名門経営大学院に留学するであろうことがわかったので、それを伝えると、実際に彼はその大学院に通うようだった。


彼は私が見事に留学先を的中させたので驚いていた。そこから私たちは、図書館を離れてカフェに移動し、ヨーロッパでの生活についてしばらく語り合った。フローニンゲン:2022/4/6(水)09:37


8149. 自然崇拝の感覚と感性/神話の働き


時刻は午前11時半を迎えようとしている。今、雨は止んでいて、少し風はあるが、穏やかな世界が目の前に広がっている。


数日前からピアノではなくて、箏の音を通じて作曲をし始めた。やはり箏の響きには癒されるものがあり、自分の魂に深く染み込んでいく何かがある。その何かを特定することもまた、自己探求の1つであろう。


先ほどふと、現代文明に毒されることなく、自分の内側には自然信仰的な感覚や感性が残っていることに改めて気づいた。現在、様々な宗教のエコロジー思想に関する論文集を読み進めているのだが、どんな宗教も自然信仰的な側面が必ずある。宗教心と自然崇拝というのは密接に関係しているようだ。


今の自分が神道に関心を持っているのは、神道もまた自然崇拝を重じているからだろうし、自分の内側に自然への畏怖心が喪失することなく残っていることと関係しているだろう。


現代において、多くの人々が自然に敬意を払うことを忘れ、自然を大切にするという発想がどのような経緯とメカニズムで喪失してしまったのかを探究していこう。それは現代文明の病の構造を探究することでもあり、この探究を通じて、必ずや何かしらの処方箋を提供していこう。


実存心理学の始祖でもあるロロ·メイが“The Cry for Myth (1991)”の中で、神話には理性を超えた世界や事柄に対して意味付けをする重要な働きがあると指摘していたことを知った。またメイは、神話とは家における梁のようなものだと述べている。


梁は外側の眺めに晒されていないが、梁は家を支え、人々がそこで暮らせるようにしている。確かに神話とは、超越的な世界の全てを描いているわけではないし、そもそも超越的な世界は人間の理性の範囲を超えて存在している可能性を考えると、神話は家における梁の役割を果たし、超越的な世界と現実世界の橋渡しをしていると言える。


重要なことは、神話があることによって、私たちは不可知の超越的な世界に完全に投げ出されているわけではなく、神話が接点となって——あるいは現実世界に溶け出すことによって——形作る現実世界の中で生きることができるという点だろう。


神話は、超越的な世界の写鏡としての役割を担っているため、それがあるのとないのとでは、現実世界の彩りも異なれば、私たちの在り方も必然的に変わってくるだろう。神話の特性と果たす役割、そして宗教との関係についても探究のスコープに入れていこう。フローニンゲン:2022/4/6(水)11:38


8150. 七五三で参拝した神社


先日、母に七五三で参拝した神社について尋ねた。七五三というのは神道における儀式でもあり、自分がどこの神社に参拝したのか気になったのである。


そもそも七五三がどのような意味を持っているのかについてや、その歴史についてもあまり知らなかったので、改めて色々と調べてみた。


七五三の年齢区分がそれぞれ素数であることも興味深く、男女で儀式の行い方が違うことなども初めて知ったことが多かった。手持ちの学術書において、七五三がどのように言及されているのかを後ほど確認してみよう。


母の話によると、どうやら自分は5歳の時に、当時住んでいた東京都吉祥市にある「武蔵野八幡宮」に参拝したことがわかった。そこから武蔵野八幡宮について色々調べている中で、この神社の写真を眺めていると、懐かしい感覚が蘇ってきた。


そもそも八幡神社の歴史や役割などについては以前から関心があり、ちょうど八幡神社に焦点を当てた和書を購入していたので、それが届き次第、八幡神社について詳しく調べてみようと思う。


武蔵野八幡宮は、ちょうど自分が生まれる1200年前に創建されたことがわかり、随分と長い歴史を持った神社なのだなと思った。今度吉祥寺に立ち寄ることがあれば、ぜひこの神社に参拝をしたいと思う。この神社の近くには、神道家の川面凡児が創設した稜威会もあり、何か呼ばれている感じがする。


七五三をどこで祝ったかを含め、神道の研究を通じて、自分のルーツや自分に影響を与えた神道的なものを紐解くことが実現されている。この自己発見の道はどこまでも果てしなく続いていくように思われる。決して焦ることなく、学術的な研究と並行してこの道をどこまでも歩いていこうと思う次第だ。フローニンゲン:2022/4/6(水)12:01


8151. ジークンドートレーニング94:着実な鍛錬の成果の実感


時刻は午後4時に近づこうとしている。先ほどジムに行き、帰りがけに立ち寄った買い物から帰ってきた。


幸いにも、天気予報が良い方向で外れ、行きも帰りも雨に見舞われることはなかった。行きに関しては、太陽の光を少しばかり浴びることができた。


今日もいつものようにジムの鏡のある部屋を使おうとした。部屋に入ると、サウナ仲間のおじさんがいて、彼はもう65歳を超えているが、今でもマーシャルアーツのトレーニングをしていて、彼はその部屋で友人にマーシャルアーツの指導をしていた。


私は彼らの隣でウォーミングアップを始め、ちょうどウォーミングアップが終わるタイミングで彼らはトレーニングを終えた。そこからはいつものように貸切状態でトレーニングを始めた。


1人で部屋を使える分、自分の内側の感覚に入っていくことが容易であり、トレーニングの質が自然と高くなることに有り難さを感じる。ここ最近は長々とトレーニングをするのではなく、30分ぐらいの短い時間で集中して稽古に励むようにしている。


わずか30分であっても途中からは汗が滲む。気温はまだまだ寒いフローニンゲンだが、集中力を高く保ってトレーニングをすると、発汗作用も上がるのかもしれない。


今日は、これまでロビンさんから習った技を一通り全て復習してみた。これまでのトレーニングの成果が確実に現れていることが実感できたのは、一つ一つの技の精度が確かに高まっていて、サンドバックに技を繰り出した際にもその音を通じて質的変容を見た。


再来週の月曜日の朝にバルト三国の旅行に向けて旅立つのだが、その前日はロビンさんとのプライベートレッスンがある。そこまでにさらに技を練り上げていけば、次回のレッスンを持ってランク2の技の全てを教えてもらえそうである。そうすれば、次々回はランク2の実技試験を受け、速やかにランク3の技に移行できそうだ。この点はロビンさんにも相談してみよう。


ジムでのトレーニングは鏡によるフィードバックがあり、実際にサンドバックを叩いてみてその感触や音からもフィードバックを得ることができる。金曜日にもまたジムに行こうと考えていて、そこでも集中してトレーニングに励みたい。フローニンゲン:2022/4/6(水)16:03

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