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8047-8053: フローニンゲンからの便り 2022年3月20日(日)



No.3416 朝の美しき衣_A Beautiful Morning Robe


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1364, A Divine Prophet

I had a revelatory dream this morning.

It shed light on my future path.

A dream can be a divine prophet.

Groningen; 07:54, 3/20/2022


No.1365, A Dream Oracle

All of our dreams have a certain oracle.

What we need to do is to reveal it.

Once we unveil an oracle, we would be enlightened.

Groningen; 08:44, 3/20/2022


No.1366, Life & Death, and the Spirituality of Modern People

Our modern society harshly distinguishes life and death.

Our society also conceals death in a wily way.

As a result, the quality of life is jeopardized,

and the spirituality of modern people is severely emaciated.

Groningen; 11:09, 3/20/2022


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

8047. 教育の不良債権/準備と寛ぎ

8048. 日本の発見・自己の発見/夢告

8049. 中世·近世の日本の霊的世界観の研究に向けて/今朝方の夢

8050. 『入唐求法巡礼行記』との遭遇

8051. 今朝方の夢の続き

8052. 新たな公共空間の構築に向けて

8053. 『蟲師』というアニメ/本当の救済的な宗教


8047. 教育の不良債権/準備と寛ぎ


時刻は午前6時半を迎えた。今、辺りは随分と明るくなっていて、遠くの空に薄い朝焼けが見える。


目の前の裸の大きな木の上の方に鳥がいるのが見える。昨日も気になっていたのだが、おそらくそこに巣を作っているのだろう。もう少し暖かくなったら、そこで新しい命が誕生するかもしれない。


日曜日の朝の世界はとても穏やかである。今日もまた快晴に恵まれるようだ。幸いにも、来週1週間も天気が良く、TOEFL試験のためにアムステルダムに行く金曜日と土曜日もまた天気がいい。試験前日の金曜日にはアムステルダムの美術館を訪れるようなので、晴れていることは有り難い。


昨日、発達研究機関のレクティカの最新の研究結果や彼らが発する新たな知見を見ていると、多くの人にとって、何かを学ぶことよりもまず先に、学び方を学ばないと行けないのではないかということについて考えていた。


学ぶことをやめてしまうことは論外だが——むしろこうした人の方が大多数なのかもしれない——、人は新しいことを学ぼうとしながらも、そもそも学び方がおかしければ、真に実になる学習が実現されない。学び方は、真に成長につながる学習を左右するのである。


多くの人にとっては、旧態依然とした学校教育で刷り込まれてしまった歪んだ学習方法をまずはアンラーニングすることが不可欠であり、そこから初めてその人にとって意味のある学びが実現されていくのではないかと思う。


過去の教育の不良債権の回収に迫られている現代日本の教育。その負債は、現代人1人1人に負わされていて、私たちの学習を大いに妨げている。


学習を妨げている悪しき学習方法や学習習慣から脱出していくこと。それは現代人の成長·発達を左右する大事な事柄であり、まずは自らの学習方法や学習習慣を再検証してみるところから始めてみるのが良いのではないだろうか。そのようなことを考えていた。


書斎の窓の外を眺めると、1匹の猫が小走りをしていた。昨日見かけた2匹の黒猫ではなく、白と黒が混じった色をしている。今その猫は、石が積み上がった上でゆっくりしている。


先ほどの小走りは、彼にとってのウォーミングアップだったのかもしれない。ウォーミングアップをし、1日の活動に向けた準備をして、今は少し寛いでいるのだろう。


準備と寛ぐこと。絶え間なく準備をしながら、同時に絶えず寛いでいること。そんなあり方は理想的である。


自分もまた絶えず準備をしながら、同時に絶えず寛いでいたいと思う。今日はそのような形で過ごす日になるだろう。そして、明日からもまたそうだ。フローニンゲン:2022/3/20(日)06:50


8048. 日本の発見・自己の発見/夢告


昨夜就寝前にふと、来年、仮に神学大学院に進学することになったら、他の学科の授業を履修しながら日本についての理解を深めていきたいと思った。例えば、歴史学科の日本史のコースを履修したり、文学科の日本文学や日本の美術に関するコースを履修したいと思った。さらには、政治学科における日本の政治に関するコースなどもあれば積極的に履修しようと思った。


ここで重要なのは、それらの学びを日本で日本語空間の中で行うのではなく、国外で英語空間の中で行うことである。国外の第一線級の研究者が日本をどのように見ているのか大変関心があり、彼らの眼を通して日本を再発見していくことを求めている自分がいるのだ。


彼らの眼を通しての日本の再発見は、きっと自己の再発見につながるであろう。日本を知ることは自分を知ることなのだ。また、自分を知ることは日本を知ることでもある。


今回再び大学機関に所属することになったら、それは日本と自己を深く知るためなのだと思う。そこから世界そのものを知り、世界への関与を深めていきたいと思う。


早朝に引き続き、書斎の目の前に見える大きな木の枝に2羽の小鳥が止まっていて、一生懸命に巣を作っているようだ。そこに生命の確かな躍動を見る。


また、目の前に見える木は、フラクタルなものとして自己の存在と重なる。枝が伸びていく様子は血管や脳神経が伸びていく様子を思わせる。世界は自己の写し絵であり、自己は世界の写し絵である。


今朝方の夢について振り返ってみよう。日本の中世は、霊的世界観が豊かであり、それは近代に入ってから喪失してしまったが、中世の神道家はよく夢からのお告げを頼りに探究や実践をしていた。自分もまた同じである。


彼らがどのような夢告を得ていたのか。そのあたりも探究してみたいと思う。また、中世に存在していた日本人の豊かな霊的世界観についても探究したいという思いが強くある。これについては論文を執筆するぐらいに丁寧に研究をしたい。


すでに到着した書籍からヒントを得たり、これから届くであろう書籍から着想を得て、このテーマについても研究を進めていこう。当然ながら中世の霊的世界観にも様々なものが含まれているが、それこそ平田篤胤の霊魂思想を見ていると、近代に入る前の近世において、彼は非常に独特かつある種洗練された霊的世界観を持っていたように思う。発達段階的に言えば、前合理的な霊的世界観ではなく、後合理的な霊的世界観を見て取ることができる。


日本の中世と近世という時代に焦点を当て、近代に入って失われてしまった日本の霊的世界観についての研究は真剣に取り組んでみたいことである。まだ夢について何も書き出していないが、昨日の夢について書こうとしたときに降って来たこの想いは、ひょっとすると夢告だと言っていいのかもしれない。フローニンゲン:2022/3/20(日)07:08


8049. 中世·近世の日本の霊的世界観の研究に向けて/今朝方の夢


時刻は午前7時を迎えた。先ほど、今朝方の夢について振り返ろうと思ったら、夢告が立ち現れ、中世·近世の日本の霊的世界観について、神道や仏教の観点から研究したいという思いが芽生えた。


鎌倉時代には仏教が栄え、そこではまた独特な形と内容で霊的世界観が涵養されていったはずであり、室町時代に現れた吉田兼倶の神道思想にも独特な霊的世界観が見られるのではないかと思う。


また近世である江戸時代には、民衆に仏教や神道の思想が広く普及していたことから、ここでもまた独特な霊的世界観が醸成されていたのではないかと思う。それぞれの時代区分における霊的世界観を研究することに加え、それらを貫く一貫した特徴についても明らかにできたら面白いだろう。


こうした研究を進めるにあたって、在野では諸々と不便なことがあり、一方で学術機関をきちんと選ばないと、こうしたテーマの研究を進めるのは難しい。自分にとってふさわしい学術機関との素晴らしい出会いがあることを予感しながら、今はとりあえず在野の形で日々の研究を進めていこう。日々の研究を愚直に進めていけば、いくつか幸運と素晴らしい出会いに恵まれるはずである。そう信じている。


夢告についての言及を終え、今朝方の夢の内容について書き留めておこう。夢の中で私は、東京から山口に引っ越したときに最初にお世話になっていた学校の先生と再会した。


どういうわけか、私たちは小さな教室に2人でいて、先生は私に先生が作った動画を見て欲しいと述べた。動画は合計で3つあるらしく、最初の動画は旧姓で名乗る形で作り、残りの2つは結婚後の新性で作ったとのことだった。


いずれの動画も、人々の学ぶモチベーションを高めてもらうことを目的にしているものらしく、とても興味深かったので見てみることにした。すると、先生は私が動画を見ている間は席を外したいとのことだったので、先生は教室から出ていった。


1つ目の動画を早速見てみると、先生が穏やかな口調で優しく、学ぶことの面白さと大切さについて語っていた。それに対して私は大変共感し、感動すら覚えた。3つの動画を食い入るように見た私は、視聴後、感動の渦に包まれながら、ここからの自分の学びをさらに深く豊かなものにしていこうと思った。


そう思った自分を見たときに、まさに先生が動画を通じて実現したかった通りのことになったと思った。自分の中にある学ぶモチベーションは最高潮に達していて、静かな心の中には燃えるものがあった。教室を出た先生は、結局教室に戻ってくることはなく、3つの動画は再会を祝う贈り物のように思えた。


そのような印象的な夢を見た後に、九州のどこかの街が舞台になっている夢があった。どうやら私はその街で生活を営んでいるらしく、ちょうど母が遊びに来ていて、小中高時代の親友(NK)に依頼された動画の撮影の様子を見たいと述べた。最初の動画に関しては特に問題ないと思ったので、母に撮影の様子を見せることにした。


このときに、撮影した動画をiMacを通じて再生し、それを母に見せた。母は動画が簡単に作れることに驚いていて、またiMacの画質の良さにも驚いているようだった。私は引き続き動画を作成したいと思っており、母がいると少し気が散ると思ったので、母にお願いして1人にしてもらうことにした。


どちらの夢も動画がシンボルとして出現していることが興味深い。それが示していることはなんだろうか。


確かにここ最近は音声ファイルだけではなく、マーシャルアーツのトレーニングに関する動画も撮影し始めている。それが影響していることは間違い無いだろうが、それよりも深層的な意味が必ずあるはずである。そこに少し考えを巡らせてみようと思う。フローニンゲン:2022/3/20(日)07:28


8050. 『入唐求法巡礼行記』との遭遇


時刻は午前9時を迎えた。温かい飲み物を飲みながら、寛いだ気分でこの日記を書いている。


今日もまたとても穏やかな朝の世界が広がっていて、日曜日の朝の優しさは申し分ない。その優しさに全ての存在が包まれていて、各々が静かな呼吸をしている。自分もまたその1人だ。今日も晴天に恵まれるようなので、後ほど朝の日光浴がてら動的ストレッチを行ったり、ジークンドーの技をいくつか練習しようと思う。


早朝にふと、これまで自分は10年間ほどの欧米生活を通じて、欧米で学んだことを様々な形で日本に発信して来たことに意識が向かった。しかし、今度は逆なのではないかとふと思ったのだ。すなわち、これからの自分は日本に眠っている叡知を世界に向けて発信していく時期を迎えていると思ったのだ。


神道の研究はまさにその一環であり、同時に重要な柱である。自分にとっての御柱として神道研究があるように思えてくる。神道研究を通じて学術論文を執筆するだけではなく、英語での学術書も執筆していきたいという思いが強くなる。


とりわけ昨今の政治経済の状況や地球の生態系の状態を鑑みると、いずれの問題の深奥に宗教的なものがあり、現代の霊的世界観の歪みやその喪失は目に余るものがあるということに大きな問題意識を持っている自分がいる。


現代の霊的世界観を見つめ直し、それを涵養していくための知識と処方箋を提供していくことにつながるような研究をしたいという思いがある。その思いは、昨日に書き留めていた日記の中でも色濃く見られるものである。


ふとしたきっかけで、平安初期の旅行記である入唐求法巡礼行記に関心を持った。これは、天台宗の僧侶円仁(えんにん:794-864)が執筆したものである。


およそ9年にもおよぶ中国での遣唐使としての活動が克明に記録された日記であり、日記という形式に大きな意義を見出している自分にとって、また国外で探究生活をしているという共通性もあって、円仁のこの日記に関心を持った。現代語訳が入手できるようなので、それを買い求めたいと思う。


今の自分がこうしてオランダで毎日何かを求めながら日記を綴っている姿を見ると、それは入蘭求法巡礼行記』と言っていいものかもしれないし、仮に来年からアメリカでの研究生活を再開させると、そこで執筆する一連の日記は、入米求法巡礼行記と呼んでいいものになるかもしれない。そのようなことを朝の穏やかな世界に佇みながら考えていた。フローニンゲン:2022/3/20(日)09:27


8051. 今朝方の夢の続き


時刻は午前10時半を迎えた。穏やかな朝の世界に時折強い風が吹き抜ける。春風が喜びに後押しされて駆け巡っているのだろうか。


確かに、生命の息吹を感じさせるこの頃の雰囲気を受けたら、風も走りたくなるのがわかる。自分もまたそうだ。自分もまた自分の研究と実践にひた走りたい気持ちなのだから。


そう言えば、今朝方の夢についてまだ振り返っていないものがあった。そうした夢にも夢告とでも呼べる大切な事柄が含まれているはずであるから、忘れずに書き留めておこう。


夢の中で私は、サッカー日本代表のある若い期待の選手と一緒にとある島を走っていた。その島を1周すると4kmほどであり、島としては小さいが、とても風光明媚な場所だった。


季節は夏を迎えようとしていたが、まだ暑くなく、走っていてもそれほど汗をかかなかった。海を眺めながら走ることは爽快極まりなく、彼と話をする余裕もあったので、彼と和やかに話をしながらジョギングを続けた。


1周走り終えたとき、私たちは突然ウォータースライダーのようなものの中にいて、後ろから押し寄せる水に身を任せて滑り落ちていった。恐怖心のようなものは一切なく、むしろウォータースライダーを滑っているようで楽しい気持ちになった。


その出口付近は狭くなっていて、体を工夫しないと抜け出れそうになかったので、とっさに体の向きを変え、無事に外に出た。するとそこは波止場であり、私たちは波止場の海に投げ出される形となった。


海から波止場に上がったとき、サッカー選手の彼は海中を指差して、大きなサメがいると述べた。彼の指差す方を見ると、確かに巨大な人食いサメがいて、私の体に緊張が走った。


すると彼は笑みを浮かべながら、サメを退治してくると述べ、海の中に飛び込んでいってしまった。それを見て、私はとんでもなく危険なことをしたものだと思ったが、彼は有言実行をして、サメをいとも簡単に退治してしまった。そのような夢を見ていたことを思い出す。


この夢の場面は、現実世界の季節よりも先行していて、夏のように暖かった。海に反射する太陽の光は程よい強さであり、海面が太陽の光で輝いていたことを思い出す。


サメのシンボルが示す意味もまた興味深い。そこには自分の内側の内在的な攻撃性や何かしらの感情が反映されていたはずだ。しかしながら、そんなサメがいとも簡単に退治されてしまったというのはどういう意味だろうか。


自分の攻撃性や特定の感情を超克することは今の自分にとって容易だということの暗示なのだろうか。なかなかに興味深い夢であった。フローニンゲン:2022/3/20(日)10:42


8052. 新たな公共空間の構築に向けて


早朝に引き続き、太陽の光が優しい時間が続く。時刻は1時を迎えようとしていて、今、この日記を2階の書斎の窓辺で太陽の光を浴びながら執筆している。


生と死を峻別し、死を巧妙に隠蔽する現代社会。その結果として、生の質は損なわれ、現代人の霊性は痩せこけている。この問題に深く切り込んでいく必要がある。さもなければ、現代およびこれからの人々の生の質はますます貧弱なものとなり、霊性もまた貧困なものになってしまう。


死や霊的なもの、超越的なものを分断·排斥するのではなく、それが共存していた中世世界のあり方に何かヒントや突破口がありそうだという直感がある。それらは確かに未熟な側面を持っていたが、同時に現代においても通用する洞察を含んでいるはずだ。


中世世界の死生観と生命観をより成熟させた形で、死や霊的·超越的なものと人間が共存できるような公共空間を構築していくことが強く求められる時代に私たちは生きているのではないかと思う。政治学などで語られている公共空間をより密なものにしていくことは大切だが、それだけでは決定的に足りないのだ。その際たるものが上述の点である。


仮にそうした公共空間が醸成されないと、いつまで経っても人々はおかしな神を創出し、おかしな神にすがるような状況が続くだろう。現代のストレス過多な物質消費主義的な世界において、人々は何かに癒しを求めるが、その癒しの対象が歪んだ神々である場合が多いことを危惧する。


人と神聖なものが完全に分離してしまったところに現代の悲劇を見る。分離からの統合。そのプロセスは慎重にかつ着実に進めなければならないし、今よりもそれが切実に求められている時代もないだろう。


現代は神が死んだ時代というだけではなく、もはや人間も死につつある。人間と神々の命を回復させ、両者の関係を密にしていくこと。それに対する自分なりの貢献を、研究と実践を通じて実現させていこうと思う。フローニンゲン:2022/3/20(日)12:57


8053. 『蟲師』というアニメ/本当の救済的な宗教


時刻は午後8時半を迎えようとしている。今週もまた非常に充実した週末を過ごすことができた。まずはそれに感謝をしたい。


今日から、『蟲師(むしし)』というアニメを視聴し始めたのだが、ここ最近で見たアニメの中でも指折りの素晴らしい作品である。この作品には、日本の霊的世界観や民俗信仰が見事に反映されているように思える。また、神道的なものも汲み取ることができる。


今のところ、全26話のうち、6話ほど見終えたところなのだが、言霊、象形文字、森や山の信仰を含めた自然信仰など、日本の歴史や思想にゆかりのあるものが多数出てくる。


第4話は夢の世界やあの世の捉え方が見事であり、幽体離脱といった霊的体験も描写されている。第4話において、枕の語源は、魂の蔵、「たまのくら」だという説について言及されていたのが大変興味深かった。


枕というのは、生きている時間の3割近く頭を預けている場所であり、そこに魂が宿ると考えられていたという話が出てきた。確かに、枕は夢と現(うつつ)を繋ぐ通路としての役割を果たしているというのは妙に納得がいく。


本編の「蟲(むし)」が指しているものは、妖怪に似た不思議な生命体であり、精霊のようなものだということがすぐにわかるが、「蟲とは生と死の間にあるものだ」と主人公が述べているように、日本の霊的思想の中には、生と死の中間に存在しているものや、彼岸と此岸を繋ぐ中間の世界に対する考え方も見られることを思い出す。明日からも引き続きこの作品を見ていこうと思う。


このアニメを見る前に、神道関係の書籍を今日も随分と読んでいた。読書をしながらふと、人を救済できない宗教もお粗末なものだが、この地球という生命体を救済できない宗教もまたお粗末なものだということについて考えていた。


人間中心的な宗教というのは、人間を取り巻く自然を含めた世界を過小評価している点において、世界をダメにして人間を救済することを不可能にしているのではないかという節がある。本当の救済的な宗教というのは、必ずや人間と世界の双方を救うはずである。


神道研究に関して、少しばかり今後の方向性の整理をしていた。まずは着手しやすそうな吉田神道と伊勢神道の比較を行うことや、特定の神道家を取り上げた思想研究をしていきたいと思う。そこから徐々に神道の持つエコロジー思想や死生観について研究を広げていきたいと思う。明日からの読書もまたそうした方向性に則るものである。フローニンゲン:2022/3/20(日)20:33

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