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8001-8010: フローニンゲンからの便り 2022年3月13日(日)



No.3397 宇宙の一姿_An Image of the Universe


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1343, Piety

I didn’t notice how devout I am.

I’m a deeply pious person.

Piety is my captain in my epic life voyage.

Groningen; 07:31, 3/13/2022


No.1344, Eternal Inscription

Time inscribes time on itself.

Time continues in that way.

Eternal inscription is the intrinsic nature of time.


We have to notice that we also inscribe us on ourselves all the time.

Therefore, we are eternal beings like time.

Groningen; 08:58, 3/13/2022


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

8001. 欧米での11年目の生活を迎えるに当たって

8002. 神人合一と神通力の発露

8003. 今朝方の夢

8004. 信心深くあること/今朝方の夢の続き

8005. 森有正先生をふと思い出して

8006. 永遠なる刻印/言葉の背後にある文法

8007. 神的体験/如在の礼

8008. 神道界の鬼才、吉田兼倶への関心の高まり

8009. 私が私であるところから私が私でないものへ/悠飛と遊飛

8010. ジークンドートレーニング78:接触法の鍛錬/ライティング対策の十分な仕上がり


8001. 欧米での11年目の生活を迎えるに当たって


時刻は午前5時を迎えようとしている。この時間帯はまだ真っ暗であり、気温も低い。暖房が自動で入っていて、部屋を温めてくれている。気温は低いと言っても、ここ最近は暖かくなってきていて、今日も日中は14度まで上がる。


天気の良い日が続いていたこともあり、春を感じるようになってきたのだが、明日だけは午前中に雨が降るようだ。そのせいか、明日からはまた気温が下がり、来週末はまた最低気温が0度ぐらいになる。


このように気温が上がったり下がったりを繰り返しながら、季節はゆっくりと春に向かっている。気温の変動を含め、日々様々な内外の変動を楽しみながら毎日を過ごしたいものだ。そして、そうした変動を生み出している大きな存在に対して感謝の念を捧げよう。


昨夜就寝前にふと、欧米での生活が11年目を迎えようとしている今、実はその期間というのは自分が山口県で育った時間と同じぐらいの長さであることに気づいたのである。自分の中でそれは何気ないものでありながら、同時に大きな気づきだった。


山口県では合計12年間ほど過ごしたのだが、それが幼少から青年にかけての期間だったこともあって、自分の精神形成に大きく深く影響を与えたことは紛れもない事実である。欧米での生活は成人になってから始まったものだが、実際には欧米での生活もまた自分の成人以降の精神形成に多大なる影響を与えていることに気付かされたのである。


これからも欧米での生活は続くであろうことを考えると、ここからの自分の精神はどのように変貌を遂げていくのだろうか。ふとそんなことを考えていた。


今、改めてそのことについて考えている。生活拠点を置く土地と自分の精神は深い関係を持ち、風土は自らの精神に大きな影響を与える。今の自分は、随分と欧米の風土によって影響を受けた形で精神形成がなされている。そんな自分が神道に強い関心を持ったというのは興味深いことである。


欧米の風土によって何か自分の内側が深く掘り起こされたに違いない。これまで精神の表層に浮かんでいたものが除去され、深層部分のものが今ようやく現れてきたのだ。この精神の濾過作業には欧米での生活が10年以上必要だった。自分の場合はそれくらい長い時間が必要だったのだが、きっと精神の発達とはそれくらいに長い時間をかけてゆっくりと進行するものなのだ。発達理論はまさにその点をいつも指摘している。


自分の精神は、これからも濾過作業を経てますますと澄み渡っていくだろう。そして、深層部分が顔を持ち上げ、それをもとにこれから人生を生きていくことになるだろう。そのとき現れる精神は、深層的かつ真相的なものになるはずだ。フローニンゲン:2022/3/13(日)05:10


8002. 神人合一と神通力の発露


気がつけば、日記の数が8000を超えた。我ながら日記の執筆がここまで継続していることに驚くが、それはもう自分にとっての精神涵養的習慣になっているのだから、それくらいの数になることは当たり前と言えば当たり前である。


自分はどんな時にも日記を書いていた。場所を選ばず、いついかなる時も日記を書き続けてきた。これからもそうなるだろう。


日記を書き綴ることによってしか立ち現れない諸現象を自分はもう知ってしまっている。それを知ってしまっているがゆえに、日記と自分は一心同体の関係を結んでいるのだ。決して日記の虜になっているわけではなく、日記との合一が実現されている。


人も無生物も、そして諸現象も内側に神を携える。内在神はどんな存在者にも存在しているのである。


日記にも内在神がいて、自分の内側にも内在神がいる。日記と自分が合一しているというのはすなわち、二重の意味での神人合一なのだろう。


いや、もっと多重的な形で神との一致が実現されているかもしれない。自分は自己の内側に宿る内在神と一致し、自己を超えた大きな神とも一致しているという点だけで二重の意味で神人合一を果たしている。それに加えて、日記に宿る内在神とも一致しているのだから、三重の意味での神人合一が実現されているのだ。


日記を超えた大きな神と自己を超えた大きな神というのは同じ存在である。この一連の考え方はやはり神道的だ。神道は多神教かつ一神教なのだ。八百万の神と絶対神を掲げる神道に惹かれるものがあるのも無理はない。


自分は全ての存在者に宿る様々な神の存在を知覚していて、同時にそれらを超えた無限に広く深い神も知覚している。神通力というものが最近自分の内側に芽生えて始めているようだ。それをもたらしてくれた要因は様々にある。


先ほど書き留めていた日記にあるように、機が熟したのかもしれない。欧米での10年間の生活が終わりに向かっていて、11年目の生活が始まろうとしているタイミングで、この10年間に堆積してきた何かが変貌を遂げたのだろう。その変貌によって、神通力のような霊妙自在の力が自分の内側に芽生え始めたのは何もおかしなことではないだろう。


その他にも、マーシャルアーツの実践を始めたことも極めて大きい。これにより、心身のさらなる涵養を通じて、自分の中の霊的な力が育まれているのは間違いない。どんなマーシャルアーツも必ず宗教的なものと密接不可分な関係を持っていることを考えると、マーシャルアーツの鍛錬を通じて、霊力が高まっていくというのは至極当然のことなのだ。むしろそうならなければ、それはマーシャルアーツの鍛錬でもなんでもない。単なるエクササイズである。


神人合一を果たしながら、自分が獲得しつつある神通力を自他に対して、そしてこの世界に対してどのように活用していくか。時代の要請に応えながら、自分なりの形でそうした力を有効活用していこうと思う。フローニンゲン:2022/3/13(日)05:24


8003. 今朝方の夢


暖房が自動で入り、今、一所懸命にその仕事を全うしてくれている。暖房に加えて、湯たんぽにもお世話になっていて、朝と夜はそれがまだ欠かせない。今も背中を温めてくれている。


今朝方は2つほど夢を見ていた。夢の中で私は、現在協働している会社さんとイベントを開催することになった。それは数回にかけて行われるオンラインセミナーであり、それなりの価格のするものだったが、幸いにも参加者はかなりの数集まっていた。


私はセミナー講師として登壇することになっていて、最初の回のセミナーの雰囲気はとても良かった。参加者同士が活発に意見交換していて、講師の私に対する質問も多くあった。


ところが、途中で前回の課題をもとに議論を進める際に少し問題が起こった。まずは前回の課題を3人の人に発表してもらうことになったのだが、3人は課題など聞いていないとのことだった。


厳密には、課題の具体的な内容を聞いておらず、また自分たちが課題を発表するなど聞いていないとのことだった。その点は講師の私ではなく、運営側の方が説明してくれていると思っていたのだが、どうやらそれが行われていなかったようなのだ。


3人のうちの1人は少し苛立った感じだったので、私はその方をなだめ、運営側に確認してみることにした。すると、会社の代表と運営サポートの人が現れ、状況の説明をし、次回からの対策を述べた。次回からは課題の連絡をすぐに行い、発表担当者と発表内容を明確に伝えるという形で落ち着いた。先ほどまで怒っていた参加者の知人の方も表情が和らぎ、私も一安心した。


次の夢の場面では、私は見慣れない学校の更衣室にいた。男子の更衣室は2つあり、それらは隣り合わせになっている。一方の更衣室に入ると、その部屋の半分はトイレであり、私はトイレのない方の更衣室に入りたかったので、いったん部屋を出て隣の部屋に行くことにした。


いつも厄介なのは、日替わりでトイレのあるなしが変わることである。というのも、壁が回転する仕組みになっていて、壁の回転によってトイレのある部屋がコロコロ変わる仕組みになっていたのである。


隣のトイレのない部屋に入ると、そこには高校時代のクラスメートの友人がいて、彼に挨拶をして、やっぱりトイレがない方の更衣室に限るよねという話をした。トイレがない方が清潔感があり、私はそれを好んでいた。


彼と話をし終えてふと後ろを振り返ると、東京で同じ小学校に通っていて、後に山口県の小学校·中学校·高校と同じ学校に通った先輩がそこにいたので驚いた。先輩はちょうど上着を脱ごうとしているところであり、先輩に声を掛けた。


その先輩は昔からとても優しく、小学校の時は同じサッカーチームに入っていたし、中学校では部活は違えど、会えばよく話をしていた。先輩と偶然ながら再会して話をしていると、ふと自分の内側からサッカー熱が込み上げてきた。


先輩は今でもサッカーをやっているようで、自分は先輩からどうしてもサッカーを学びたいと突然思ったのだである。その思いの丈を先輩にぶつけると、先ほどまで優しそうな表情を浮かべていた先輩の表情が一転し、着替えようとしていた私の体を地面に押しつけ、「本当のサッカーが何かを教えてやる」と真剣な形相で述べた。


それを見て、自分が誠意を尽くしてお願いしたことの先輩なりの真摯な返答なのだと思い、私は先輩からサッカーを学べる喜びに加えて、お互いの本気な思いが通じ合ったことが嬉しく、先輩に土下座をしてお礼を述べた。その時、自分の頭は上がらずにずっと下がったままだった。


というのも、嬉しさから感極まり、涙を流していたからだ。先輩はそれに気づき、自分の肩にそっと手を触れて、無言のまましばらく私の横にいてくれた。涙が収まり、心が落ち着くと、私たちは更衣室を出て、早速本格的にサッカーの練習を始めた。フローニンゲン:2022/3/13(日)05:42


8004. 信心深くあること/今朝方の夢の続き


時刻は午前6時半を迎えた。日曜日の朝が産声を上げ始めた。その証拠に、今ゆっくりと空が明るくなってきた。


絶えず信心深くあること。神道における信仰心とはどのようなものなのだろうか。今の自分の中には確かな信仰心があるが、何に対する信仰なのにかについてはさらなる探求を要する。


教祖も明確な教義もない神道。それでいて様々な宗教を包摂してきた神道。同時に、包摂以前の純粋な何かを残している神道。


神道は今後一生を賭けて探究するに値するものに思えてくる。単に学術的に神道の考究をしていくだけではなく、むしろ実践的な形での神道探究をしていく。神道の精神を通じて日々を生きることはその形である。


そう言えば、今朝方見ていた2つ目の夢の続きがあることを思い出した。夢の中で、小中高時代の先輩と一緒に更衣室を飛び出し、校庭でサッカーの練習を始めていた。そこからの続きとして、自分が真摯にサッカーに取り組みたいという思いを打ち明けたので、先輩の指導も熱心極まりないものだった。


最初の練習から激しく、その練習が終わる頃には汗だくで倒れそうになった。しかしそれでも私は、サッカーがしたくてしょうがないという思いと、サッカーをすることの大きな喜びと楽しさに包まれて、激しい練習も全く苦ではなかった。


しばらく練習をしていると、チャイムが鳴った。どうやら授業が始まるらしく、私は先輩に、「授業なんてどうでもいいですよね。僕たちにはサッカーしかないんですから」と述べた。すると先輩は笑みを浮かべて頷き、そこからまた激しい練習を始めた。


ところがさすがの先輩もそろそろ授業に出た方がいいと思ったのか、しばらくして練習を切り上げ、教室に向かって行った。私はその場に残ると先輩に伝え、先輩からさらに練習メニューをもらった。私は誰もいない校庭で、1人黙々と練習を続けようと思った。


すると、校庭の近くにあった道場に生徒たちが集まって来ているのを見かけた。体育の授業かなと思い、どんなことをするのか気になったので、道場を覗いてみることにした。すると、道場で始まったのは、見たことのないマーシャルアーツだった。それは長い針金のような剣、あるいは鞭を使ったもので、それを動かすには相当な技術が要りそうだった。


数人の生徒たちが先生の指導のもと、その武器を動かし始めると、武器は龍の背中のようにしなり、独特な音を発していた。見るからにそれに当たると痛そうだということがわかった。


数人の生徒たちの横には道着を着て、これから練習を始めようとしている生徒たちが数人いた。彼らは準備体操をしていて、そのうちの1人の準備体操を眺めていると、肩甲骨が尋常ではない動きをしているように見えて驚いた。ところがそれは肩甲骨ではなく、海老反りをした際の足であったことに気づいた。


そこからまだしばらく準備運動が続きそうだったので、私もその独特な準備運動に参加してみようと思った。私は新入部員を装って練習に参加したのである。


最後の体操を行うと、そこからは本格的な練習に入ることになった。その前に私は挙手をして、最後の体操のコツについて先生に尋ねた。その際に、新入部員として入部することになったことを含めて挨拶をして、最後の体操について質問をした。


私がその体操をすると、どうしても単なる腹筋運動のようにしかならず、おそらくその体操の本質はそうではないと思うので、その体操の本質とコツを教えて欲しいと述べたところ、先生はそれは素晴らしい質問だと述べ、解説を始めてくれた。


先生の解説のおかげで私はその体操の本質とコツを頭で理解し、また後ほど1人で練習をしてみようと思った。一旦サッカーのことを忘れ、せっかく新入部員として装って面白そうなマーシャルアーツを体験できるのだから、もう少し体験していこうと思った。フローニンゲン:2022/3/13(日)06:48

8005. 森有正先生をふと思い出して


薄桃色に輝く見事な朝焼けが広がっている。とても幻想的な雰囲気が辺りを包んでいる。世界が艶やかな表情を浮かべている。


早朝は大麦若葉と小麦若葉のパウダーを少しの水で溶かしたものにヨーグルトを加えて飲み、その後にヘンプパウダーとココアパウダーを混ぜた温かい飲み物を飲むようにしている。それは毎日の日課だ。


先ほどそのココアを入れ、ココアの香りを嗅いだ瞬間に、ふと森有正先生のことを思った。ここしばらくは森先生の一連の日記を読むことはなく、全ての日記を数回繰り返して読んだ後にはそれらから離れていた。そうした状況であるにもかかわらず、突然森先生のことを思ったのである。


森先生がパリに渡り、パリで客死するまでの期間、森先生はパリのパリ大学東洋語学校で日本語を教えていた。また、ソルボンヌ大学では日本文学史を教えていた。


森先生は敬虔なクリスチャンであり、専門も哲学であったが、先生が実際に教鞭を執っていたのは日本語と日本文学史であったことが興味深い。一連の日記の記述を改めて思い出すと、森先生の中にある日本的な何かが突如目覚め、それが日本語そのものや日本文学への探究に向かわせたのかもしれないと思う。


もちろん、日本語の探究に関しては、森先生が長くフランスでフランス語を用いて思索を行なっていたことは大きな要因であろうが、それ以外にも、長くフランスでの生活を続けることによって、自分の精神の核にある日本語に探究が向かったというのは自分の経験と照らし合わせてみても非常に納得のいくことである。


欧州にやって来た最初の年の夏に、私はすぐにスイスに旅行に出かけ、その足でパリに滞在した。その時に、森先生が教鞭を執っていたパリ大学東洋語学校とソルボンヌ大学を見学に行ったことが懐かしい。


先ほどはその思い出と相まって、森先生が1人で黙々と思索を進めていくだけではなく、大学の授業をいくつも持っていたことに思いを馳せていたのである。森先生の日記を見れば一目瞭然のように、先生は実際に学生に教えることを通じて多くの気づきを得ていたようであり、学生との交流によって多くのことを得ていたことが窺える。


そのようなことに改めて気づき、自分もいつか大学で授業を持つ日が来るかもしれないと思ったのである。こうした思いは今までの自分にはなかったことだ。


大学に所属することや授業を持つことはできるだけ避けたいと思っていたのだが、次の世代を担う学生たちに自らの知見を共有していくことを含め、彼らとの交流に意味を見い出しつつある自分がいる。その時に向けて、今の自分にできることは現在の関心事項に関する探究を深めていくことだ。


神道とマーシャルアーツの研究と実践を愚直に続けていけば、いつか世界のどこかの大学で教鞭を執る日がやって来るかもしれない。それは密かな楽しみである。フローニンゲン:2022/3/13(日)07:09


8006. 永遠なる刻印/言葉の背後にある文法


時が時自身を刻みながら進行している。時は自信を刻み続けることによって永遠性を獲得してる。私たちもまた永遠なる時のような存在なのだ。私たちもまた私を私たち自身に刻み込む形で生きているのだから。


永遠なる刻印。それは存在の内在特性なのだろう。


先ほどふと、無性にバガヴァッド·ギーターやフリッチョフ·シュオンの詩を音読したくなった。この湧き上がる気持ちはなんだろう。魂の内奥がそれを求めているようなのだ。


聖なる書物や聖なる言葉は、魂を浄化し、魂に炎を灯す。自分の魂は、絶え間なく浄化のプロセスを通っていて、同時に激しく燃え盛っている。


音読に関しては、TOEFL試験が終わったら行おうか。あるいはそれを待たなくてもいいかもしれない。聖なる言葉に触れ、それを内側から外側に向かって発したいという衝動に純粋に従おう。


先ほど、TOEFLのスピーキング対策の一環として、過去の自分の回答例を音読することを行なっていた。音読を楽しむ自分。振り返ってみれば、これは幼少期の頃からの特性であった。今もその特性は引き継がれていて、音読することを好む自分がいる。


言霊が内側から外側に発出され、それがまた自分に戻って来る。戻って来た時の言霊は以前とはまた違った色や形を持っていて、本質部分は同じでも変化がある。その変化に触発されて、自己はまた変化する。言葉と自己との間にはそのような関係性がある。


そう言えば、ヴィゴツキーはかつて、言葉の背後に文法から独立した思想の文法があることを指摘していたことを思い出す。確かに、音楽においてもそのような独自の文法があり、長らく自分はバッハのそうした文法に着目していた。また、マーシャルアーツにおいてもそのような独自の文法を各流派は持っている。


音楽もマーシャルアーツもそこには言葉があり、言葉を動かす独自の文法があるのだ。マーシャルアーツにおける言葉とは、身体動作に他らない。それもまた言葉だと自分は思う。


それは身体言語とでも表現できるだろうか。マーシャルアーティストはそれを用いて独自の自己表現を行う。そして、各々のマーシャルアーティストは独自の文法体系を持っているのだ。


その独自の文法体系から湧出する身体動作には独自の美しさと輝きがある。今の自分は、兎にも角にも音楽やマーシャルアーツにおいて独自の文法体系の構築に向けて精進に励むべきだろう。そこに自分の人生の意義と楽しみを見出す。フローニンゲン:2022/3/13(日)09:09


8007. 神的体験/如在の礼


目の前の物理的·心理的風景が一変し、ふと時間が経ってみると、自己が新たに輝き始めるという体験。それは神的体験の如きものであり、迷い子の如き体験でもある。


物理的空間と精神空間における風景が一変し、同時にそれらに伴う時間感覚も変容する体験がやって来る頻度が増えている。それは時空間の変容と断絶を伴って現れ、神隠しに遭遇するかのような体験である。おそらくそれが神的体験の本質なのだろう。


そこから日常の時空間に戻って来ると、神的体験を通じて得られた非常に濃密な生きた時空間感覚が自己に依然として付帯した形で生きることも可能になり始めている。


意識と精神の対象への徹入。対象への徹入は、神との出会いをもたらし、神との合一をもたらす。神的体験はそれも内包しているし、対象への徹入は神的体験の呼び水と言えるかもしれない。


如在の礼としての日々の振る舞いや言動を心掛けること。眼前に神がいるかの如く振る舞い、言葉を発することの大切さ。マーシャルアーツの一挙手一投足も如在の礼として行うことがどれほど重要なことか。先日のロビンさんの指摘は、言葉を変えるとそういうことだったのだろう。


たった今、2匹の黒猫が大地を駆け巡ってどこかに消え去っていった。彼らは先日見た猫だ。


今日は天気予報を裏切る形で、午前中の途中から雲がなくなっていき、快晴に恵まれている。そのおかげで、朝日を浴びながら動的ストレッチとジークンドーのちょっとした鍛錬ができた。


ジークンドーの技を発出させる際には、丹田式呼吸法の吐く息と合わせて行うようにしている。あるいは、火の呼吸のような速く鋭い呼吸と共に技を繰り出すようにしている。このように呼吸を意識してジークンドーの鍛錬に励むことは、呼吸法を通じた心身修練につながる。


燦然と輝く太陽。日出ずる国に生まれた自己。太陽を求めるのは、自らの出自と関係しているのかもしれない。


これから曇りや雨の日があっても、普段太陽が差し込む時間帯に窓を開けて、雲があっても地上に届く光を確かに受け取り、太陽の恩恵を授かりたいものだ。フローニンゲン:2022/3/13(日)11:33


8008. 神道界の鬼才、吉田兼倶への関心の高まり


神道界の鬼才、吉田兼倶(1435-1511)への関心が極度に高まっている。直近において、伊勢神道に着目して、そのコスモロジーを探究しようと思っていたのだが、ここに来て伊勢神道の「神敵」とさえ言われた吉田兼倶の神道思想とその功績に関心が向かっている。


吉田兼倶の主著である『唯一神道名法要集』と『神道大意』が入手できるのであれば、今すぐにでも読み解きたい。そして、吉田神道と伊勢神道の双方の思想と特徴を詳細に調査·分析していくことを通じて、両者の比較研究をしたいという思いが湧いて来る。伊勢神道に関しては直近においていくつか和書と洋書を注文しており、あとは吉田神道に関する書籍も同様に注文をしたいと思う。


吉田兼倶の大きな功績としては、教義のない神道において、初めて本格的に思想体系を構築したことだろうか。その思想体系は今の自分にはあまりに巨大であるが、それゆえに深く探究をしたいという思いが湧き上がって来る。


吉田兼倶の発想の中で、一つハッとさせられたのは、自らを祭るということだ。「祭る」という言葉は元来、捧げ物をたて「まつる」ということに由来しているらしく、自らを祭ることが神道の一つの実践であり、それは神を愛し、神と合一するための非常に大事な実践思想としてある。


自らを祭るという実践的な思想は、現代的な要請にも応えうるものなのではないかと思う。現代においては、人間に心と身体が備わっていることさえも忘れがちであり、同時にそれらが密接不可分につながっていることも忘れがちである。さらに言えば、自己の心身と存在そのものを祭るなどもってのほかの状況に現代人は置かれている。


自らの魂や霊を祭るというのはさらに高度なことではあるが、究極的にはそこに向かっていくことによってしか、自己の深い涵養は成し得ないのではないかと思う。当然ながら、まずは心身の分離とそれが蔑ろにされている状況に介入していかなければならないが、その際にも吉田兼倶がいう「自らを祭る」ということの意味を様々な次元において捉えながらことに当たる必要があるのではないかと思う。そうしなければ、非常に次元の低い問題解決しかなされないだろう。


神道の研究においては様々な観点とテーマを考えているが、当面は伊勢神道と吉田神道に着目し、吉田兼倶の仕事については精密な研究をしていきたいと思う。フローニンゲン:2022/3/13(日)11:55


8009. 私が私であるところから私が私でないものへ/悠飛と遊飛


私が私であるところから、私が私でないものへ移行することが発達の要諦であり、それは連続的かつ非連続的なプロセスとして起こる。そしてそれはミクロな観点で見れば、今この瞬間に絶えず起こっていることなのだ。つまり私たちは、絶えず私であるところから私でないものへ移行し、その瞬間に新たな私として誕生し、そして死に、再び誕生するということを永遠に繰り返しているのだ。


時刻は午後3時を迎えようとしている。とても優しげな昼の光に包まれているフローニンゲンの街。顕現している世界全体が微笑みを浮かべている。


もう少ししたら散歩がてら近所のスーパーに足を運ぼう。道中に通るノーダープラントソン公園は光に満ち満ちているはずだ。


思考と言葉は密接な関係を成しているが、思考と言葉は完全に同じものではない。言葉にならない思考があるし、言葉にするには些細な思考がある。今の自分にはそのような思考がとめどなくやって来ては消えてを繰り返している。


この一連の日記で書き留めているのは、自分の思考のごく一部でしかない。思考がある明確な言葉の形となって現れたものをできるだけこれからも書き留めていく。


論理というのは暴力性を絶えず内包しているから、霊的·神的体験を含め、論理の外にある超論理的なものを論理的に説明することは最初から不可能なのだろう。そうした不可能性を承知の上で、体験を言葉にしていく試みは是が非でも続けていく。それをしなければ、霊的·神的な体験が深まらないという興味深く重大な性質をそこに見て取っている。


青空を白いカモメの大群が悠飛している。その姿は悠々自適な意味で悠飛であり、世界と遊戯しているかのような意味で遊飛である。


自分もまたそのようにこの世界を飛び回ろう。悠飛と遊飛は自分のあり方及び生き方そのものである。フローニンゲン:2022/3/13(日)15:00


8010. ジークンドートレーニング78:接触法の鍛錬/ライティング対策の十分な仕上がり


時刻は午後4時半を迎えた。つい今し方、今日のジークンドーの自主トレーニングを終えた。まず最初に、ロビンさんが接触法について解説している動画を見て、18番から21番までの最後の技の動きを確認し、そこから何回かシャドートレーニングを繰り返していった。


明日はジムの鏡のある部屋で、鏡に映る自分の動きを確認しがら練習を重ねる。明日はジムに行く前に、9番から21番までの技を再度全て動画で確認しておこうと思う。


ロビンさんの動きのイメージを脳裏に焼きつけ、それを自分の身体を通じて表現できるようにしていく。そこからはフットワークに関する練習を少々行い、蹴り技の練習に入っていった。


今のところ習っている蹴り技は少ないが、それらを正確に行えるように日々練習している。実際に新たな発見を毎回何かしら得ているので、それぞれの技には無限の深さがあることが改めてわかる。今度のロビンさんとのプライーベートレッスンではまた新しい蹴り技を習うであろうから、今からそれが楽しみだ。


今日のジークンドーのトレーニングの前には、TOEFLのライティング対策として、integrated taskの問題を新しく1問解いた。制限時間20分の中で、14分ほどで301単語ほどの文章を書き上げることができ、この分量はこれまでで一番多いものだと思う。


見直す時間も十分にあり、見直しで見つかったスペルミスはわずか1つだけであり、表現上修正するべきところはなかった。これを見て、integrated taskについてはもう本格的な対策は必要ないと判断した。もちろん、週末には回答例を音読して見直すぐらいは行う。


試験本番のある最終週に最後に1度新しい問題を解くぐらいで十分だと判断した。independent taskについては来週末にも1度問題を解き、試験本番前の最終週においてもさらに1度問題を解く。ライティングの仕上がりは極めて良い。


今朝方、スピーキング対策の一環として自分の回答例を音読していると、身振り手振りをつけながら身体を使って話すとよりナチュラルに話せることを改めて実感した。この点も本番で意識したいことである。今からまた少々回答例を音読するので、その時にも身振り手振りを加えてみよう。フローニンゲン:2022/3/13(日)16:46

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