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7381-7385: トリアー旅行記 2021年10月4日(月)



No.2798 シューマンの抽象_Schumann’s Abstraction


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.948, Symbols

A symbol generates another.

My inner world is saturated with an infinite number of symbols.

All of them shine in their own way.

Trier; 06:39, 10/4/2021


No.949, The End of the Germany Trip

I just came back to Groningen.

I’m very grateful for having had invaluable experiences in Germany for this trip.

From tomorrow, I’ll digest the valuable experiences at my own pace.

I’m a different person than I am before the trip.

Groningen; 20:50, 10/4/2021


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

7381.【トリアー旅行記】トリアー出発の朝に

7382.【トリアー旅行記】コブレンツに向かう列車の中で

7383.【トリアー旅行記】またしてもコブレンツ駅で

7384.【トリアー旅行記】地平融合/様々な呼吸をもたらす旅

7385.【トリアー旅行記】旅を通じた深層的な自己発見


7381.【トリアー旅行記】トリアー出発の朝に


時刻は午前6時半を迎えようとしている。トリアーの朝はまだ始まっていないかのように、辺りは真っ暗である。


今日はいよいよトリアーを離れ、フローニンゲンに戻る。トリアーの滞在は、ボンの滞在に比べて短かったが、とても充実した時間をこの土地で過ごすことができた。今日からフローニンゲンに戻り、旅で得られたものをゆっくりと消化·咀嚼していきたいと思う。


今日はこれまでより1時間ほど早く朝食を摂り、午前9時をめどにチェックアウトしたい。トリアー駅を9:31に出発する列車に乗る。


行きの際に乗り換えたコブレンツ駅で今日も乗り換え、乗り換え時間が20分ほどあるので、そこでコーヒーでも購入しようかと思う。出発に向けて、もう少ししたら荷造りを始めようと思う。


トリアー出発の朝にも少しばかり夢を見ていた。夢の中で私は、小中高時代の親友(SI)と一緒に、大きなガラス張りの浴室の外の通路で話をしていた。近くには彼の母親もいたが、彼の母には私たちの話が聞こえていないようだった。


しばらく話をしていると、彼が突然泣き出し、何事かと思った。どうしたのかと尋ねると、彼は何かの病気を患っているらしく、その病気のせいで糞尿を漏らしてしまったそうだった。彼はそれが恥ずかしかったという理由と、その他にも何か別の理由で泣いてしまったようだった。


彼は泣きながら服を着た状態で浴室へ行き、服を脱ぐことなく体をシャワーで洗い流し始めた。私は何も声をかけることができず、その場に立ったまま彼の姿を呆然と眺めていた。そこで夢の場面が変わった。


今朝方はその他にも夢を見ていたように思う。少なくとももう1つの夢は少し明るいような内容だったように感じている。だが、今すぐにそれを思い出すことができない。今からシャワーを浴びる予定なので、そのときに夢について思い出してみよう。トリアー:2021/10/4(月)06:56


7382.【トリアー旅行記】コブレンツに向かう列車の中で


時刻は午前10時を迎えた。予定通り、9時半にトリアー駅を出発する列車に乗った。


今車窓から見える景色は、4日前に見た景色と同じなのだが、どこか違って見える。天候が少し違うからだろうか。いや、もっと重要なことは、この4日間のトリアー滞在を通じて、自分が変化したからなのだろう。


自己の内面の変化は、外の世界の見え方を変えてくれる。また、マルクスが指摘するように、物質·精神的な環境が私たちの内面を変えるという側面もある。今回の旅を通じて、自分を取り巻く内外の変化が起こったことは間違いない。


列車は順調にコブレンツ駅に向かっている。まだ時刻は午前中の早い時間帯なのだが、一等車両に乗る中年のドイツ人女性のグループが、楽しげに白ワインを飲みながら談笑している。そして、私の隣の4人掛けの席では、リタイアしたと思われる4人のドイツ人男性が楽しげにずっと話している。


車窓からの景色はとても長閑だ。今日は早朝に雨が降る予定だったが、幸いにも雨は降っていない。その代わり気温は低く、ドイツも秋の気候に入ってきている。


プラットホームで列車を待っている間中、そして先ほどまで、マルクス博物館で購入した文献を読んでいた。残り半分ほど未読の箇所があり、それは午前中に読み終わりそうだ。


ベートーヴェン博物館で購入した文献はまだ未読なので、次はそれを読み進めていこうと思う。今回の旅に持参する書籍を1冊だけにしてよかった。


旅の最中に出会った良い文献は必ず購入することにしているので、今回も重要な文献を購入できたのは有り難かった。次回の旅もスーツケースは余裕を持って出発しようと思う。


昨日は、次回の旅はまたドイツにしようと思っていたが、そろそろベルギーの主要都市をゆっくり巡る旅に出かけてもいいかもしれないと思った。来月だと旅に出かけるのが早すぎるだろうから、年明けのどこかのタイミングでベルギーにまずは足を運びたい。


この時間帯になって、今朝方の夢の続きを思い出した。そういえば、発達理論に関する音声ファイルを作成する夢を見ていた。そこでは発達理論の重要な概念について紹介するだけではなく、現在行っている旅で得られた知見についても紹介していた。


確かに、実際の今回の旅において、ボンでもトリアーでも音声ファイルを作成していた。旅の最中にあっても、こうした表現活動を続けることができているのは、きっと自分にとってその活動が重要だからだろう。


マルクスは、仕事を通じた自己実現を説いた。労働ではなく、ライフワークとでも呼べる自らの仕事を通じて自己を実現し、自己を超越していくこと。そうした形でこの社会に参画していくこと。今日からもまた自分のライフワークはゆっくりと進行していく。


今、Cochemという駅に到着した。着実に進行する列車の如く、自らの人生は壮大な旅の終着点に向かってゆっくり着実に進んでいく。コブレンツに向かう列車の中:2021/10/4(月)10:19


7383.【トリアー旅行記】またしてもコブレンツ駅で


今、コブレンツ駅を出発した列車の中にいる。乗り換え時間が十分にあったので、駅構内のカフェで小さいコーヒーを購入し、それを車内に持ち込んだ。


先ほどまで乗車していた列車の一等車両は、列車全体の真ん中辺りにあるのだが、先ほど乗車したこの列車は、先頭車両が一等車両になっているため、プラットホームを少し歩いた。


列車に乗って、コーヒーを片手にマルクスに関する文献を読んでいると、出発時刻になっても列車が出発しなかった。ドイツ語でアナウンスがあり、どうやら遅延になったようだった。


先ほどの列車でもドイツ語でアナウンスがあったのだが、全ての単語が理解できなくても、ドイツ語とオランダ語は似ているところが多々あるので、トイレが故障して使えないということを述べていることがわかった。


ドイツでは大抵の場所は英語が通じるのだが、やはり公共交通機関のアナウンスは現地語であるドイツ語だけのことが多い。自動音声であれば英語のアナウンスもあり得るが、車掌の肉声による場合にはその国の言葉だけということが多いように思う。オランダでも国内を走る列車の場合そうだ。


列車の遅延で少し心配だったのは、何分遅延するかということだった。というのも、次の乗り換え駅では乗り換え時間が8分しかないからである。


列車のチケットを確認すると、到着したプラットホームの反対側とのことなので、1分あれば乗り換えができると思ったが、遅延時間が7分を迎えたところでさすがに冷や冷やした。


幸いにもなんとか乗り換え時間が1分確保された状態で列車が出発した。ここから2時間ほど列車が進む中で、どれだけ遅延をリカバリーできるか期待しようと思った。


こうした状況において、車掌はリカバリーのために通常よりも少し早く列車を走らせるのか、それとも通常通りの走行をするのか、その意思決定に委ねることになる。


正確な計算は面倒であるが、時速をほんのわずか早くするだけでも2時間のうちに遅延時間をリカバリーできるのではないかと思う。仮に全ての遅延時間をリカバリーできなかったとしても、念のため数分でいいのでリカバリーしてくれると有り難いと思った。


最初の数駅まで様子を見たところ、遅延がリカバリーされる様子がなかったので残念に思ったが、30分を過ぎた頃、いつの間にか遅延時間が短縮されていて、思わず運転手に拍手を送りたい気分になった。


7分間の遅延が今は3分まで短縮されていて、この調子だと遅延が完全に解消されるのではないかと思う。そのおかげで乗り換えに余裕が生まれた。


それではこれから、デスクトップ上に保存しているいくつかの論文を読み進めていこうと思う。こうした論文は旅の途中でなければなかなか読む気にならないのが不思議なものである。それらの論文を読み、デスクトップを綺麗にしておこう。


あぁ、今到着した駅はボンだったか。この街を通じてベートーヴェンの創作魂から得られた恩恵は果てしない。何かがまた自分の中に流入し、これからの創作活動もまた少しずつ変貌を見せるだろう。Duisburgに向かう列車の中:2021/10/4(月)12:06


7384.【トリアー旅行記】地平融合/様々な呼吸をもたらす旅


落ち着いた風景が車窓の外に広がっている。列車はアーネム駅に向けて出発した。この列車はインターナショナルなもののため、先ほどの列車とは異なり、オランダ語のアナウンスを車掌がした後に、英語でもう一度同じ内容をアナウンスしてくれた。


昨日も夜寝ながら考えていたのだが、オランダという国はどうしてこうも自分を落ち着かせてくれるのだろうか。国全体として進歩的な意識を体現しており、国の安全性も他のヨーロッパ諸国よりも秀でていることが自分を寛がせてくれるのだろうか。


あるいは、そうした外面上の特徴だけではなく、もっと深層的な理由があるのかもしれない。いずれにせよ、自分の魂が安らぎ、魂が育まれる場所は、今のところオランダ以外にはあまり見つけられない。


記憶をコブレンツ駅に戻してみる。駅のプラットホームにいた愛らしい小型犬の姿が脳裏によぎる。


その小型犬はプラットホームで飼い主と一緒にいて、低い視線で世界をキョロキョロと見渡していた。彼には一体何が見え、彼は何を考えていたのだろうか?彼の世界観を理解することができるだろうか?


あの小型犬に視点取得をし、視点取得をするだけではなく、小型犬の内側の世界から外を眺めて見るようにする。おそらくそうした試みが、ガダマーが述べた「地平融合」において不可欠なのではないかと思われる。


今回の旅を通じて、同じドイツであってもボンとトリアーは異質の精神文化圏を構成していた。2つの町を移動し、実際にそれらの都市で滞在してみると、2つの都市から促される内的感覚が違った。そして、目に見えるもの、体で感じられるものも随分と違った。そう、自らの身体の呼吸、精神の呼吸、魂の呼吸が違ったのだ。


普段生活している拠点を離れて旅をするというのは、様々な次元で普段とは違う空気を吸うことを可能にしてくれる。旅とは呼吸を変化させてくれる働きがあったのだ。


自らの好奇心の赴くままに旅をし、好奇心の赴くままに日々創作活動と探究活動を続けている自分。それを通じて、自分はますますこの世界に対して開かれていく。


自分が外側の世界に開かれれば開かれるほどに、自分の内側に流入するものがあり、それはまた激しい流出を生む。これはプロティナス的な生き方なのかもしれない。


自己を起点にして流入と流出の双方が起こっていることが興味深い。自己はそれを意図的·能動的に行っているのではなく、それは自然な形で自発的に行われているものなのだ。


自分が外側に開かれることによってもたらされたものを絶えず外側に形にし、この世界の誰かと共有していく。それを通じて、自己と他者の双方に何かしらの救済がもたらされないだろうか。そこに変容と癒しがもたらされないだろうか。


自己を含めたこの世界を知ること。そしてそれを通じて得られたことを他者に共有すること。そこに利他的な心の姿が浮き彫りになる。


アーネム駅に到着するまであと30分ほどある。その間にも自己の内側に何かが絶えず流れ込んでいて、それは外側で形になるための準備を静かに進めているのを感じる。アーネムに向かう列車の中:2021/10/4(月)13:54


7385.【トリアー旅行記】旅を通じた深層的な自己発見


時刻は間も無く午後3時半を迎えようとしていて、もうすぐズヴォレの駅に到着する。そこで最後の乗り換えをし、フローニンゲンに到着する。


待ち時間や乗り換えも含めて、トリアーから7時間半ほどの移動になったが、大して疲れもない。列車の中で快適に過ごせているからだろか。


今日のオランダはすこぶる快晴であり、この時間帯の太陽の光は秋の優しさを含んでいる。光の粒度が秋のそれなのだ。


ここからオランダは秋をゆっくりと深めていく。それと足並みを合わせる形で、自分もゆっくりと深めるべきものを深めていく。


決して内側と自然の世界の速度から逸脱してはならない。ポール·ヴィリリオが提唱する「速度学」の考えに則ると、自分の内側にある自然な速度を逸脱して歪なほどに速い速度で物事を為そうとすると、早晩それは失敗に終わり、大切なものが崩れ去る。


そうならないように、自分は静かでゆっくりとした本来の自分の時間に立ち返り、その時間の流れを通じて日々を過ごしていく。


今から9日前にフローニンゲンを出発した朝に見たように、牧草地帯で牛がくつろいでいる。秋の陽気に包まれながら、牛たちが気持ちよくしている姿を見ると、こちらまで気持ち良くなってくる。


感情というのは伝染するものらしい。自分が外側に開かれていればいるだけ、良き意味での伝染が生じる。


そうであれば、自分の良き感情が他の人や動物に伝染することもあるのではないだろうか。仮にそうならば、自分は良き感情の伝染者になりたいと思う。


9日間のドイツの旅行がもうまもなく終わろうとしている。ドイツはオランダからしてみれば隣国なのだが、随分と遠くに出かけたという感覚がないわけではない。


自分はどこか遠い場所にいくことを希求していながらも、近くの慣れ親しんだ場所を愛しているということがわかってくる。ここで、どこまでも遠くに行けるというのは自分の奢りなのだろうかという考えが芽生える。そうなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。


どこまでも遠くに行くというのは、ひょっとして自分の中心に立ち返っていくことなのかもしれない。結局、どこに行っても、そこにいるのは自分なのだ。


この自分を離れることができないという自明性。世界のどこに行っても、おそらく宇宙の他の惑星に行っても、そこにいるのは常に自己であり、そもそも「どこかに行く」という表現すらおかしなことだったのだ。


どこまでも行っても常に自分に出会うこと。そこで自分が出迎えてくれること。旅を通じた深層的な自己発見というのはこのことを言うのではないだろうか。


それでは旅に出かけるのと反対に、自己に留まり続けるというのは何を意味しうるか。ひょっとしたら、それこそがどこまでも果てしなく遠くに行くことを意味するのではないだろうか。


内面の旅には始点も終点もない。だが仮に「支点」があるとすれば、それはいついかなる時もここにいる自己なのだろう。


あぁ、これが究極的な旅の意味であったか。そして、これが究極的な固有の自己であったか。


フローニンゲンに向かう平穏長閑な風景が、その気づきを歓迎してくれている。今回のドイツ旅行はこの気づきで終わり、新たな旅がこの気づきによって始まった。フローニンゲンに向かう列車の中:2021/10/4(月)15:53

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