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7304-7307: フローニンゲンからの便り 2021年9月7日(水)



No.2675 宇宙上の動的交流_A Dynamic Interaction in the Universe


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.884, Continuous Rebirth

A new day was born,

and I was reborn, too.

Both time and me continue rebirth every day.

Groningen; 08:47, 9/7/2021


No.885, Proof of My Existence

I keep a series of diaries every day.

They are the exact proof of my existence.

It proves that I have surely lived here in this world.

Nobody can doubt it.

Groningen; 21:02, 9/7/2021

下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

7304. 今朝方の夢

7305. ベーシックインカムの話の続き/シモン·ワイルの重要な洞察

7306. 超知能の脅威/老いと発達/実現と表現

7307. 不老不死と創造性/自己意識/疎外された労働


7304. 今朝方の夢


時刻は午前8時に近づこうとしている。空にはうっすらとした雲がかかっているが、それはやがて晴れ、今日は天気が良いようだ。


天気予報を確認したところ、9月に入って一気に寒くなった印象だったが、明日と明後日は再び25度を超え、とても暖かい日となる。その2日間が過ぎると、再び気温が下がり、そこから本格的に秋がやって来るという感じだろうか。


今朝方ふと、与えられた問題を再定義し、リフレーミングする力について考えていた。与えられた問題を反射的に解いてしまうことは現代人の悪しき習慣の1つである。


そもそも解くに値しない問題があるということ、問題を再定義して別の切り口から向き合わなければならない問題が存在しているということ。教育を通じてそのように調教されてきた現代人にとってそれはすぐにできないかもしれないが、それを意識して日々を過ごさなければ、問題に対する反射奴隷のままである。


そのようなことを考えていたことを思い出し、今朝方の夢を振り返っている。夢の中で私は、小中学校時代の女性友達2人(AS & KE)に声を掛けられた。


私は砂浜にある組み立て式のバーの横でアルコールではない飲み物を飲んでいて、その時に2人に声を掛けられたのだ。片方の友人が、「西京(さいきょう)」というラーメン屋のラーメンが美味しいということを教えてくれた。


せっかくなので2人を誘って今から一緒に行こうと声を掛けると、ぜひ行こうということになった。ところが、その場を離れようとした時に、大学時代のサッカーの上手かった先輩に声を掛けれられ、すぐにはラーメン屋に行けそうになかった。


次の夢の場面は恐ろしいものだった。私は小さな教会のような場所の後ろの方の席に座っていた。


教会では特に何も行われておらず、私は2人の見知らぬ外国人と話をしていた。私の後ろの席に腰掛けている2人の外国人は中年男性であり、どうやら警察か何かのようだった。


彼らに話を伺っていたのは、先日逮捕された殺人鬼に関するものだった。その殺人鬼の特徴について聞いていると、随分とおぞましい殺人鬼だと思ったが、片方の男性がふと、「それよりももっと恐ろしい殺人鬼をこの間捕まえたんだ···」と述べた。


その殺人鬼はフランス人の中年の男だったそうだ。彼はサイコパスであり、目が人間のものとは思えず、生気が抜けていてマシーンのように思えたそうである。その話を聞きながら、その殺人鬼の顔が頭に浮かんだ。


すると、もう私の頭の中にはその殺人鬼がいて、想像の世界の中でありありと彼と対峙しているかのようであった。その殺人鬼が恐ろしいのは、特殊な能力があるからだった。


フランス語で特殊なマントラを呟くと、それを聞いていた人は突然狂い出し、すぐさま自殺か人を殺すという恐ろしい現象が引き起こされるとのことだった。


想像の世界の中で、その殺人鬼がフランス語でマントラを呟いた時、そのなんとも言えない独特な響きが、自分の耳にスッと入ってきて、意識が乗っ取られると思った。これは本当にまずいと思ったところで一度夢から覚めた。その殺人鬼のマントラは、ある意味、死を思わせる不気味な甘美さがあった。


最後の夢では、私はどこかの小さな施設にいて、理不尽な受付の女性に腹を立て、その上司の男性と共に殴り飛ばした。本当に理不尽な対応をさせられたので、怒っても無理もないように思えた。


何か差別のようなものを感じ、自分はそうした事柄にとても敏感なのだと改めて思った。すると私は、小中学校時代の同窓会の宴会の席にいた。


2人の親友(NK & YU)と数名ほどの友人と同じ席を取り囲んで談笑していた。話の流れで投資の話となり、親友の1人が私が投資家であることをその場で述べ、周りの友人からどれだけの収益を上げているのか聞かれた。


具体的な数字を聞かれているように思ったが、それを少し濁して、大卒の平均給料の5倍ほどの不労所得があると述べた。できればそのような話をあまりしたくなかったが、それが話題に挙がったので仕方なかった。フローニンゲン:2021/9/7(火)08:09


7305. ベーシックインカムの話の続き/シモン·ワイルの重要な洞察


時刻は午前8時半に近づいている。つい先ほど洗濯物を干し終えた。


昨日は、随分とベーシックインカムについて日記を綴っていたように思う。ベーシックインカムへの関心が高まり、情報量としても、そして考察の深さとしても優れた学術書を3冊ほど見つけ、それらを後日購入しようと思う。


ベーシックインカムの導入によって、確かに働かない人も出て来るだろうが、むしろこれまですでに所得が高かったような人は引き続き仕事に従事し続けるのではないかと思う。知り合いで投資が成功し、早期に引退をした人たちも、それで仕事をやめたかというとそうではなく、一生涯困らないカネがあっても人とのつながりや社会とのつながりを求めて、仕事をするというのは良くあるケースであり、むしろそのケースの方が多いのではないかと思う。


金持ちで全く仕事をしていないというケースはむしろ少数であり、人は何かしらの仕事に従事することによって自己実現と自己超越を果たしていく生き物なのだろう。また、そうした仕事は金銭的価値に変えられないものであっても問題なく、むしろベーシックインカムがうまく行き渡ることによって、金銭的価値に変えられないサービスや創作物がより生まれやすくなるのではないかとも思う。このように引き続き色々なことを考えていた。


昨日、34歳の若さで亡くなったフランスの思想家のシモン·ワイル(シモーヌ·ヴェイユ)のいくつかの考えに大変共感をしていた。


ワイルは、人間が真理に至る道として、美に加えて不幸を挙げた。どちらも共に言語的な説明を排除し、言葉を超えた形で自らの魂に迫って来る実在的な力を持つ。この指摘は、とりわけ人間発達において非常に重要だと思う。美も不幸も、言葉を寄せ付けず、自らを超えていく有無を言わせぬ形の力を持っているのである。


マークーゼやスティグラーと同様に、ワイルは美を大切にしている。彼女が述べる美は、自己否定という特徴を持つ。


真に美しいものと出会った時、私たちはそのあるがままの姿を認め、それがそのままそこにあってほしいと願う。その美的対象に対して手を加えることをせず、そのままの完全性に共鳴し、それ全体を受け止めるのだ。


なぜそれがそこにそのような形で存在しているのかと問うことは野暮であり、そのあるがままの美しさに人は魅了され、それを愛でる。人はそうした美的対象と出会った時、自己をその対象と同化させ、対象を愛でることは自己を愛でることにもつながる。


そこに他者を愛することと自分を真に愛することが重なって来る。ここに自己超越が見られ、対象を支配しようとするような力を否定する働きが生じる。それがワイルの述べる美がもたらす自己否定なのだろう。


この自己否定という概念は発達上極めて重要であり、発達とはつまるところ、健全な自己否定の連続過程なのだ。ピアジェはそれを自己中心性の減少過程と述べたが、同じ意味である。


美に触れる実践をすることは、健全な自己否定を促し、自己中心性を現象させる働きがあるように思える。しかし、その実践が目的化してしまうこともまた愚かなことであることを肝に銘じておかなければならない。フローニンゲン:2021/9/7(火)08:39


7306. 超知能の脅威/老いと発達/実現と表現


時刻は午前11時半を迎えた。早朝の空を覆っていた薄い雲はどこかに消え去り、雲ひとつない青空が広がっている。


先ほど、昨日届いた“Religion and Transhumanism: The Unknown Future of Human Enhancement”という書籍を読み終えた。本書はトランスヒューマニズムに関する研究者の論文が集められたものであり、25個ほどの論文があり、読み応えがあった。


本書を読みながら、人工知能の発達による「知性の爆発」の時代について考えていた。知性の爆発によって何が消し去られ、何が生み出されるのか。知性の爆発に飲まれた人々や社会はどうなっていくのだろうか。


そのような問いを出発点に、そこからは、悪意が含まれた形で歪んでプログラミングされた超知能(super-intelligence)の脅威について考えを巡らせていた。これは映画やアニメのモチーフになるような主題である。


そして、善意で作られたAIがなしうる悪についても考えていた。そもそも、人工知能そのものが悪を認識し、悪をなすということは起こるのだろうか。それがあり得るとしたら、尚更超知能の出現は脅威に映る。


その制御を担う超·超知能は、超知能の悪を制御できるためのさらに巨大な力を有しており、その力が悪の方に傾くようなことがあればさらに恐怖である。


そこから、再生医療が発達し、遺伝子·細胞レベルで不老不死が実現した場合について考えていた。仮に自分がその技術を適用するのであれば、一体何歳の時の自分の体を維持しようとするのかを思わず考えた。


そして、今のところ1つの答えは見つかっていない。実際のところはそれを受ける時の身体年齢が維持されるのであろうが、果たして肉体が老いていかないことにどのような価値があるのだろうかと考えてしまう。


肉体の老いはある意味で肉体の成熟のようなものであり、熟した肉体に成熟した精神が宿るという側面は必ずあるはずであり、不老不死の実現によって、果たしてどれほど精神的な成熟が担保されるのかは疑問が残る。


差し迫って来る死を通じた発達という現象が必ずあるはずであり、不老不死はそれを骨抜きにしてしまうのかもしれないし、死すらも擬似体験させるようなテクノロジーが生まれ、擬似的な死の体験によって発達を人工的に引き起こすこともあり得るのかもしれない。


テクノロジーと人間と社会の未来については、神学を含めて、様々な学問領域からの考察に値する。午後からも引き続きこのテーマにつながる探究をしていこう。


早朝にふと、フッサールは元来、私たちの感覚とは外側に押し出されるもの(expressed)と捉えていたことを思い出した。またライプニッツは、それぞれのモナドは外側に押し出されることによって世界を表現すると述べていたことも記憶にある。


何かをこの世界に実現させるというのは、内側から外側に押し出すという行為が、すなわち表現(expression)を不可避に要求するのだろう。実現とは、何かを表に現すという点において、表現と表裏一体を成しているのだ。


現代においては、感覚を外側に押し出すという表現行為がひどく抑圧されており、現代人の感覚喪失と感覚の歪曲は、表現行為の抑圧と、表現をさせることを許さぬ精神文化的な力に主要因がありそうだ。感覚の喪失と歪曲というテーマは、上述のトランスヒューマニズムの話とつながるものがある。フローニンゲン:2021/9/7(火)11:41


7307. 不老不死と創造性/自己意識/疎外された労働


時刻は午後4時半を迎えた。今日は早朝こそ肌寒かったが、午後からは気温が上がり、25度を超えた。そのおかげで随分と暖かく感じた。


先ほど近所のショッピングモールに行き、イギリスとドイツから届けられた書籍を受け取った。それらは意外と重く、中身の書籍が何かをまだ確認していない。書籍の梱包は今夜にする。


今日は午前中に、不老不死の問題について考えていた。細胞·遺伝子工学による不老不死の実現や、意識のデジタル空間へのアップロードによる不老不死など、その手段にはいくかの方法が考えられるが、ひょっとしたらそう遠くない未来にそれが技術的には実現されるように思える。


そこで改めて、人間の創造性について考えていた。私たちの創造性は、得ることが不可能な永遠なるものを希求する形で発揮される側面があり、仮に不老不死という永遠が実現してしまうことによって、そのような形での創造性の発揮のされ方が喪失してしまうのではないかという恐れがある。


少なくとも自分の創造性は、有限な死に立脚し、永遠に憧れながらそれを超克しようとするような形で発揮されているように思える。今日の創作活動もその現れだったのではないかと思う。


死に向かう存在(being towards death)として、あるいは死のための存在(being for death)として、生から死が奪われてしまう時、果たしてそれを生と呼べるのだろうかという問いが立つ。


死という対立物がないときに、生は浮き彫りになるのだろうか。否定弁証法的な発想を取れば、やはり死があるからの生という側面が必ずあるはずである。否定神学的発想を用いると、さらにどのようなことが言えるのだろうか。


午前中にはその他にも考えていたことがある。ヘーゲルは人間性の本質を自己意識にあるとみなしたが、自己意識を剥奪されている現代人たちを見ると、現代社会における人間性の危機的状況の様子が浮き彫りになって来る。


自己意識までもが搾取·コントロールの対象になっている現代社会。午後の読書においてスティグラーが展開していた思想を参考にすれば、そうした状況を打破することができるのかもしれない。


昼前にマルクスの宗教観に関する書籍を読んでいた。嫌々仕事をさせられている時の仕事は、マルクスが述べるところの「疎外された労働」に該当するものなのだろう。そこでは働くことの喜びが喪失しており、自己がその仕事と喜びのもとに合一化することがなく、自己と仕事が病理的に分離している状態なのだ。


そしてそれは、自己から自己を分離させるという「自己疎外」も生む。そして疎外された自己は、この社会の中で様々な形で商品化され、管理·搾取される対象として取引される。


いつの時代も人間は実存的課題と向き合ってきたが、現代という時代が持つ実存的問題もまた非常に根が深い。フローニンゲン:2021/9/7(火)16:47

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