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【フローニンゲンからの便り】16769-16772:2025年5月29日(木)


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タイトル一覧

16769

シュレディンガーの猫に関する素朴な疑問/感謝の念を伝えて

16770

今朝方の夢

16771

今朝方の夢の振り返り

16772

昇天日における充実したトレーニングを終えて

16769. シュレディンガーの猫に関する素朴な疑問/感謝の念を伝えて

                      

時刻は午前6時を迎えた。今日もうっすらとした雲が空を覆っているが、朝日が薄い雲を通り抜けて地上に降り注いでいる。とても穏やかな朝の世界である。今は晴れているが、今日は午後から小雨が降るようなので、午後にジムに行く際には折り畳み傘を持っていきたいと思う。昇天日という祝日の今日もまた静かで充実した1日になることが予感される。今朝方起床してシャワーを浴びている最中にふと、量子力学のシュレディンガーの猫の思考実験に関して素朴な疑問が湧いた。その疑問を生み出した種は、昨日に視聴していたヤン·ウェスターホフ教授が5年前に受けたインタビューの動画の内容と関係している。ウェスターホフ教授はその動画の中で、「今、独我論にまつわる東西の思想の議論の歴史とその中身を精査している」と述べていた。独我論は現在において、その考え方の先鋭さゆえにすぐさま棄却されがちだが、しかしよくよく考えてみると、それは容易には棄却できない性質を持っている面白い思想である。自分もこれまでは独我論を安易に棄却していたが、若き日のウィトゲンシュタインは独我論を支持しており、後期になるまでそれを否定しなかったぐらいに考察に値する材料を持っている。そんな独我論について考えを巡らせていたこともあってか、シュレディンガーの猫の思考実験も、ある意味独我論の考え方がそこに混入しているのではないかとふと思ったのである。具体的には、ここでは観測者である人間側にだけ心があると想定されており、猫側には心がないとまるで想定されているかのようなのだ。心を持った猫自身が箱の中で観測行為を行なっているとしたらどうなのだろうという素朴な疑問が生じたのである。もちろん心と観測行為の関係性については議論があるが、仮に猫もまた観測者の1人であるとした場合には、この思考実験はどのような帰結になるのかと不思議に思ったのである。そのようなことを早朝に考えていた。


昨日ふと、ここ12年間の活動の中でお世話になってきた方々に無性にお礼を伝えたくなり、一昨日から昨日にかけて、それらの方々にお礼のメールを送っていた。数年以上も連絡を取り交わしていない方々もいたので、向こうは突然のことで驚いただろうが、とにかく感謝の気持ちを伝えずにはいられなかったのである。感謝の気持ちを伝えることは、決して悪いことではなく、むしろ自分にとっては大切にしたい行為だったので、居ても立ってもいられなくなり、連絡をすることに決めた。そうして連絡をしてみると、ちらほらと返信があり、皆さん元気そうで何よりだった。人とのご縁を大切にすること。それはこれからも忘れたくない。


量子論の哲学の研究を学術機関で本格的に取り組むのはまだ先になるだろうが、その時にはきっと、インド仏教思想を深く探究していたことが自分のユニークさとなり、インド仏教思想で培った観点や感覚から量子論の哲学の分野に関して何か独自な貢献ができるような予感がある。そもそも量子論の哲学や物理哲学の探究に向けて、物理を支えている数学の哲学、すなわち数学哲学にも関心を持ち、いくつかの専門書を来月末か再来月の初旬に注文したいと思っている。その時には、インド思想と数学哲学を絡めた専門書で良いものを見つけたので、それも購入したい。こうして意識とリアリティの地動説の研究が水面下で着実に進んでいることを嬉しく思う。フローニンゲン:2025/5/29(木)06:31


16770. 今朝方の夢

     

うっすらとした雲の隙間から、燦然と朝日が輝き始めた。朝日の輝きを拝みながら、いつものように今朝方の夢について振り返り始めた。今朝方の夢ではまず、今は亡き母方の祖母が住んでいたマンションの部屋の中にいた場面があったのを覚えている。祖母は玄関の横の部屋で寝ており、私はリビングで寛いでいた。時刻は夜で、その時間にふと、2人の見知らぬ男女が部屋にやって来た。彼らはインターホンを鳴らすわけでもなく、気がついたらリビングにいたのである。祖母が寝ていたこともあって、祖母を起こさないように小声で2人と話をしていた。2人は自分に何かを忠告しに来たようで、その忠告の内容を聞き届けたところで帰る支度を始めた。その忠告は大したことはなく、忠告とも言えないようなものだったが、一応彼らが述べたことを念頭に置いてこれからの振る舞いを決めていくことにした。彼らが玄関から外に出た時に、祖母が部屋から出てきて、今誰がやって来ていたのかを怪訝な表情を浮かべながら私に尋ねた。私は祖母に、心配する必要はないことを伝え、祖母を安心させようとした。2人は決して悪い人ではなく、自分と話をしに来ただけだと伝えた。すると祖母は少し心が落ち着いたようで、部屋のドアをまた閉めて再び就寝に向かった。


もう1つ覚えているのは、見慣れない学校の巨大なコンサートホールで合唱コンクールが行われていた場面である。それは合唱コンクールというよりも、ある中年の男性と別の中年の男性の合唱対決と言った方が正確である。2人はその学校の先生のようで、生徒の好みは二分しており、どちらの先生が好きかで派閥ができているようだった。私もその学校の生徒だったが、私はどちらの派閥にも所属せず、珍しく無所属の存在だった。ゆえに公平な観点で合唱を聞いていたのだが、後半に合唱をした先生の歌唱力が素晴らしく、思わず感動して涙ぐんだ。その先生1人の歌唱力に感銘を受けたのではなく、その先生を慕っている数多くの生徒たちの歌声が1つになった瞬間が素晴らしかったのである。選曲はベートーヴェンの第九で、先生と生徒の巨大な歌声が最後に1つになった瞬間は、まさに「歓喜の歌」であった。感動の涙が滲み出ているのを感じながら、その曲が終わってもしばらくコンサートホールに佇んでいて、しばらく余韻を味わっていた。すると、気がつけば生徒たちはほぼ全ていなくなっていた。しかし、私と同じように余韻を味わっている生徒もちらほらいた。コンサートホールを出てバスに乗って帰るために最寄りのバス停に到着すると、そこに数人の女子生徒がいた。どうやらそのうちの2人は自分が立ち上げた勉強会に参加している別の2人の友人のようで、彼女たちもまた自分の勉強会に関心があるようだった。しかし、何か少し自分に声をかけるのを恥ずかしがっているようで、そばにいた別の女子生徒の知人が2人を励まし、自分に声を掛けるように後押ししている様子が窺えた。それを受けて、自分の方からも気楽に2人に声を掛けたところ、2人は嬉しそうにして、今度その勉強会に参加したいと述べたので、当然ながら快諾をした。こうして自分の勉強会に関心を持ってくれる人がいることが嬉しく、小さな勉強会ではあるが、その輪が少しずつ広がっていることに有り難さと嬉しさの双方を感じた。フローニンゲン:2025/5/29(木)06:47


16771. 今朝方の夢の振り返り

                         

今朝方の夢に対してのChatGPTのフィードバックをもとに総合的な振り返りをしておきたい。夢を書き出すこと、そして書き出すことを通じて夢を再体験することに加えて、夢の総合的な振り返りもまた意識とリアリティの地動説の探究に直結する。今朝方の夢は、夜の静寂から暁の輝きへと向かう時間の流れを背骨として、個の魂が内なる縁(えにし)と外なる共同体との間を往還し、自己統合へ至ろうとする過程を映し出した物語であるとChatGPTは指摘する。まず祖母のマンションという舞台は、血縁と記憶が沈殿した「家」の原風景であり、祖母の眠る隣室は先人の霊が安らぐ黄泉の領域を想起させる。夜という象徴的闇は、まだ言語化されぬ無意識を示し、その闇を破って2人の見知らぬ男女が忍び込むさまは、外的現実ではなく内的領域からの侵入者――すなわち自分自身の心の片隅で息づく「影」または「使者」の現れであると指摘する。彼らがインターホンを鳴らすことなく室内に現われたのは、こちらの自我が門番として構える意識のインターホンを素通りして、深層の洞察が直接リビング(=意識の居間)へ出現したことを示す。彼らの忠告が取るに足らぬものであったという感触は、言葉そのものよりも「来訪」という事実に本質があることを告げている。すなわち、内容より接触そのものが大切であり、今後の生き方を微妙に補正する磁石のような働きを持つ。祖母が半ば目覚め、来訪者を怪しみながらも孫の説明によって安心して再び眠りにつく場面は、過去(祖母)と現在(孫)が対話し、過去が新たな未知(訪問者)を受け入れて再び静まるという、系譜的な更新の儀式である。血族の記憶に守られながらも、自分はそれを安心させ、次代へ向けて扉を開く主体へと成長する。この「夜の邂逅」によって、自分は第一幕で内的メッセージを受信し、深層との交通を果たしたとChatGPTは述べる。第二幕の巨大コンサートホールは、一挙に公共圏へ広がる。そこでは2人の中年男性教師が対峙し、生徒たちは支持を二分する。教師は知識や価値観を授ける父性的権威の化身であり、対立する二柱の師は、自己内部に併存する異なる理念や生き方のモデルを映す。どちらにも属さず公平な位置を取る自分の姿勢は、自己がまだ決定的なイデオロギーへ傾斜せず、中庸の観察者として両極を見渡す段階を示す。そして後半に歌った教師と、それを支える生徒たちの声がベートーヴェン「第九」の歓喜の大合唱となり、自分を涙に濡らす瞬間――ここで二極の闘争は音楽という超越的統合へ昇華され、個の声が集合的調和へ溶け合う奇跡が実現する。感動の涙は精神の緊張がゆるみ、心的エネルギーが統合されるカタルシスなのだろう。曲後の閑散としたホールに佇む姿は、祭儀の後に訪れる「神去りし」静けさであり、偉大な合一体験の余韻を噛み締める黙想の時間である。やがてバス停という移動の結節点に立つ場面は、体験を未来へ運ぶ車輪が回り始めることを告げる。そこで現れる女子生徒たち――とりわけ自らの勉強会に関心を寄せる2人は、自我が外界に向けて築いてきた創造的活動が他者を呼び込み、コミュニティを形成しつつある徴である。彼女たちが声をかけるのを逡巡するのは、新たな参加と変容への畏れであり、その背中を押す友人は勇気の促進剤である。自分が自ら声をかけ輪を広げた瞬間、第一幕で受診した「取るに足らぬ忠告」が実は他者との回路を開く微細な配慮として機能し、内面の変調が外的関係性に結実したことが示されるとChatGPTは指摘する。今朝方の夢の全体構造を鳥瞰すれば、夜の家と祖母の部屋は過去と内省、朝日の差し込むホールは未来と外向性を象徴し、そのあいだで自分は静から動、個から集合、死から歓喜へと振幅する軌跡を描く。2人の訪問者と2人の教師という「対」のモチーフは、自己のなかの二重性と、その対立を調停し統合するプロセスを強調する。さらに祖母の寝室と合唱対決の舞台はいずれも「境界領域」であり、前者は生と死の境、後者は個人と共同体の境である。自己は両境界を往還しながら、先祖の静けさと未来の歓喜とをつなぐ橋を架ける。最後に朝日が燦然と輝く描写は、夜明けの光が無意識の闇を貫き、更新された自己が新たな一日へ進み出る祝祭の鐘である。要するに、この夢は「些細なる内なる囁きが、やがて大合唱となって世界へ響く」という変容のドラマである。自我は祖母の庇護のもと内面からの微視的忠告に耳を澄まし、それを携えて公共の場で合一の歓喜を経験し、最終的には小さな学びの輪という具体的コミュニティへ愛と知を流し込む。こうして夜の訪問者から朝日のコンサートへ至る夢の経路は、個の霊魂が系譜と社会を貫いて「響き合う存在」へ成熟する生成の地図である、と読むことができるだろう。フローニンゲン:2025/5/29(木)07:16


16772. 昇天日における充実したトレーニングを終えて 

                   

時刻は午後5時にゆっくり近づいている。今日は「昇天日」という祝日だったこともあって、街全体がとても静かだった。閉まっている店も多く、午後にジムに出かけた際には、通りにいる人も少なかった。ノーダープラントソン公園にも人はまばらで、いつもとは違ったフローニンゲンの街の表情が見えた。今日は祝日ということもあって、ジムが閉まるのは午後3時で早かったのだが、パーソナルトレーナーのエリーザが今日はジムを管理しており、今日は特別にジムが閉まった後の午後3時からパーソナルトレーニングをしてもらった。そのおかげで、パーソナルトレーニングがパーソナルジムの中で行えることになり、全ての器具と場所が自由に使える特権に恵まれた。今日のトレーニングの前半では筋力増強を目指したトレーニングを集中的に行い、残りの20分弱でHYROXのトレーニングを行った。前半の筋力増強メニューも中々にハードだったが、後半のHYROXのトレーニングが心肺機能的にハードであった。ここ最近は自分でも新たな刺激を取り入れるためにメニューを色々と工夫しており、その成果は筋肉のつき方にも着実に現れており、何よりも日々の学術探究をする際の集中力の持続に成果が現れている。とにかく今の探究において重要なことは、探究内容に集中することとそれを持続することである。こうした持続的に集中力が発揮できるようになるためには、肉体の鍛錬を怠ることはできない。三島由紀夫やケン·ウィルバーの旺盛な執筆活動の背後には、肉体の鍛錬がある。HYROXのトレーニングコースと器具が充実したこともあり、毎回のパーソナルトレーニングでは必ずHYROXの種目が入る。これは普段の自主トレーニングではそれほど積極的に取り入れていないので、新しい刺激として重宝している。今日の気温は15度までしか上がらなかったが、筋力増強メニューの段階からじんわりと汗が滲み出し、心肺機能を高める要素が入ったHYROXのトレーニングの最中には随分と汗をかいた。ようやくフローニンゲンもジムで汗をかく季節となってきた。爽快に汗をかき、シャワーを浴びるとまたその爽快さが際立つ。意識とリアリティの地動説の探究とジムでの鍛錬は、今後も足並みを揃えてずっと継続して行われていくだろう。フローニンゲン:2025/5/29(木)16:51


Today’s Letter

Everything is insubstantial. Nothing arises independently. All things appear and disappear within a dynamic network of causes and conditions. Groningen, 05/29/2025

 
 
 

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