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【フローニンゲンからの便り】17850-17854:2025年12月12日(金)


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タイトル一覧

17850

バレーコードを楽に行うための工夫

17851

今朝方の夢

17852

今朝方の夢の振り返り

17853

法界の法と華厳の理

17854

瑜伽行としてのギターの練習

17850. バレーコードを楽に行うための工夫

                           

バレーコードが劇的に楽になるための最重要要素は「手首と人差し指の角度」なのではないかと気づいた。人差し指を弦に水平に当てようとするほど、均一な押弦は難しくなり、6弦と1弦の両方でミュートが起きやすくなる。理想は人差し指を少し回転させることで、指の側面寄りの硬い部分を弦に当てる角度を作ることである。人差し指の腹は柔らかく、均一に力が伝わりにくいため、腹を使わず、第一関節の外側(親指側の少し硬い部分)を使うと圧が均等になりやすい。これは指を軽く外側へひねるだけで実現できる。その結果、少ない力で高い効率の押弦が可能になる。さらに手首を内側に入れすぎると指の腹が当たりすぎ、逆に外側に出しすぎると手のひら全体が力むため、手首はニュートラルよりやや外旋した位置が最も自然に重さが伝わる。次に、人差し指のどの部分を使うべきかについて考えてみたい。指腹ではなく、指の第一関節の側面に近い硬い帯のような部分が最適な接弦面となる。人差し指を軽く丸めたときに自然に現れる、指の外側の骨ばった部分である。ここは柔らかい肉が少ないため、弦が沈まず、軽い力でも音がクリアに出る。また、この部分を用いると指全体が並行に押さえられ、弦ごとの差が少なくなる。ミュートの多くは、指の柔らかいところが弦を十分に押し込めていないことが原因であるため、この硬い帯部分を使うだけで劇的に改善する。さらに指全体を固めるのではなく、押さえる瞬間だけ局所的に力を使い、次の瞬間に指の関節をふわりと脱力させると、音の分離が良くなり、持続的な疲労も軽減される。最後に、バレーコードのミュートを防ぐ具体的なコツを整理する。第一に、親指の位置が決定的である。親指がネックの上に飛び出していると、握りこむ力が働き、指全体の動きが硬くなる。親指はネックの後ろの中央からやや下寄りに置き、押すのではなく軽く支えるだけにする。第二に、腕全体の重さを利用することである。指で押さえるのではなく、腕の重さを人差し指に流すようにすると、局所的な力が不要になる。この重さは肩の脱力によって自然に生まれるため、肩や背中の筋肉が固まっていないか常に確認することが重要である。第三に、バレーコードの前に必ず部分バレーコードをイメージすることが役に立つだろう。最初から全弦を押さえようとすると力むが、まず1~2弦だけ押さえるつもりで指を置き、そこから徐々に6弦側へ圧を広げると、力の方向性が整い、結果としてミュートが減る。さらには、弦の真上を押さえようとするのではなく、ナット方向へ軽く引き寄せるように押すと、弦が指に自然に食い込み、少ない力で音が出る。この“方向の工夫”は多くのギタリストが無意識に行っている重要技法である。また、高フレットではネック幅が狭くなるため、手首の角度をやや変える必要がある。特に9フレット以降は、手首を少し外に開くと、人差し指の硬い面が弦に当たりやすくなる。総じて言えば、バレーコードは腕力ではなく、角度・接点・重さ・脱力という4つの要素の調和によって成立する技法である。この理解が身体に定着したとき、バレーコードは力の象徴ではなく、しなやかな支点として機能し、演奏の自由度が大きく広がっていくだろう。フローニンゲン:2025/12/12(金)05:15


17851. 今朝方の夢 

               

今朝方は夢の中で、実際に通っていた高校の教室にいた。今から数学の授業がある予定になっていて、数人の生徒が事前に指名され、宿題を板書することになっていた。自分は指名されていないこともあって悠長に構えて授業の開始を待っていた。すると先生が入って来たのだが、驚いたことに数学の先生ではなく、古文の女性の先生が入って来たのである。先生は当たり前のように数学の授業をしようとしていたので、さらに驚かせた。私は左列の最前列の席に座っていて、左隣の性格の優しい女性友達が自分に話しかけてきた。どうやら彼女は宿題をやってみたものの、自信がなく自分に解答を尋ねて来た。実は自分は宿題をやっておらず、問題をざっとみてその場で解けると思っていたのだ。彼女に声をかけられ、彼女が悩んでいる問題を見て、解答指針を示してあげた。すると彼女は安堵の表情を浮かべ、そこからは自力で問題を再度取り組み始めた。すると、近くに座っていた友人が喉を痛めているようだったので、のど飴を合計二個渡した。彼は私に感謝をし、そののど飴を舐め始め、のど飴が口の中にある時間は喉の調子が回復していたようだが、のど飴がなくなるとまた元に戻っていた。やはりのど飴は対処療法に過ぎず、根本的な原因を見つけて、それを治癒しなければいけないと彼に諭した。気づくと自分の席が真ん中の列の中央になっていて、右隣に自分と同じぐらいの背の高い女性友達が座っていて、彼女もまた自分と同じように宿題をやっていないようで、自分に問題の解答を尋ねてきた。彼女に対しても解答を教えるというよりも、解法プロセスを教え、彼女が自力で答えまで辿り着けるようにした。すると先生が、指名した生徒が今日は休みだったので、自分に指名をしてきた。指定された問題は、教科書の394ページにあり、分厚い教科書から該当のページを開こうとしたが、いかんせんテキストが分厚かったのですぐには開けなかった。少し苦戦した後にページを開き、そこから私は指定された問題をその場で即興的に板書し始めたが、どうも計算が複雑で困った。どうやらこれは計算で押していく問題ではなく、何か一工夫必要な問題なのだと気づき、その工夫が何かを考えることにした。フローニンゲン:2025/12/12(金)05:27


17852. 今朝方の夢の振り返り

                             

今朝方の夢は、過去の具体的な学習場面を借景としながら、現在の自分の知的態度と人生姿勢を象徴的に映し出している可能性が高い夢であると考えられる。舞台が実際に通っていた高校の教室である点は、知的形成の原点、すなわち「学ぶこと」「教えること」「理解すること」が人格の深層にどのように組み込まれているかを再点検する場として設定されているように思われる。数学という論理と構造を扱う科目が中心である一方、登場する教師が古文の女性教師である点は、論理的処理だけでは到達できない直観や文脈理解、あるいは時間を超えた知の重層性が、今まさに数学的・分析的営みに介入してきていることを象徴している可能性がある。自分が指名されていないことを理由に悠長に構えている態度は、表面的には準備不足や即興性への依存を示しているようであるが、同時に、基礎的理解が身体化されており、その場で構造を掴めるという暗黙の自信を示しているとも解釈できる。その自信は、解答そのものを与えるのではなく、解答指針や解法プロセスを示すという振る舞いに明確に表れている。これは、自分の知性がすでに「成果を示す段階」から「他者が自立的に理解へ至るのを支える段階」へと移行していることを示唆しているように思われる。のどを痛めた友人にのど飴を渡す場面は、対症療法と根本治療の区別を明確に意識している自分の姿勢を象徴している可能性がある。一時的な効果には意味があるが、それだけでは本質的な回復には至らないという洞察は、身体的なケアを超えて、知的・心理的・人生的課題全般に対する態度を反映しているように思われる。この点は、単なる共感や慰めではなく、構造的理解と原因への洞察を重視する自分の成熟した視点を示している。途中で席が左端から中央へと移動している点は、周縁的な観察者から、場の中心で知を媒介する存在へと位置づけが変化していることを象徴している可能性がある。次々と異なる友人が解法を求めてくる構図は、自分が無意識のうちに「わかる人」「つなぐ人」として認識されていることを示しており、それは責任と同時に役割意識の深化を伴っている。最後に指名され、分厚い教科書の394ページという具体的な数値に直面する場面は、知の蓄積の厚みと、そこから適切な一点を切り出す困難さを象徴しているように思われる。計算で押し切れない問題に直面し、一工夫が必要だと気づく過程は、量的努力ではなく質的転換、すなわち視点の切り替えこそが突破口になるという現在の人生課題を映している可能性が高い。この夢全体が示唆している人生における意味は、自分がすでに「答えを出す人」から「理解の道筋を照らす人」へと移行しつつあり、今後は努力や蓄積の量ではなく、洞察の質と構造把握の巧みさが、人生と仕事の核心になっていく段階に差しかかっているということであると考えられる。フローニンゲン:2025/12/12(金)07:09


17853. 法界の法と華厳の理 

                     

法界の「法」と、華厳経で説かれる「理」は、同一であると理解してよいのかという問いが昨夜芽生えた。これは、仏教思想の核心に触れる重要な論点である。結論から言えば、両者は完全に同義ではないが、指し示す究極的次元においては深く重なり合い、ほぼ同一の実在を異なる角度から捉えた概念であると理解するのが最も妥当なのではないかと思う。まず「法界の法」における「法」とは、単なる個別事象(諸法)ではなく、存在一般を成り立たせている根本的なあり方を指す。法界とは、すべての法がそのままに現れている究極的な場であり、時間・空間・主体・客体といった区別が立ち上がる以前の全体的地平である。ここでの「法」は、実体として固定された何かではなく、縁起として、空として、しかも現象を生起させる根拠として理解される。一方、華厳経における「理」は、「事」に対置される概念であり、あらゆる事象を貫いている普遍的原理・真理を意味する。理とは、個々の事が事として成立するための根拠であり、空性・法性・真如とほぼ同義で用いられる。華厳思想においては、この「理」が単なる抽象原理ではなく、すべての事の中に完全に現成している点が強調される。すなわち、理は事の背後に隠れているのではなく、事即理、理即事として、現象世界そのものの内に生きて働いているのである。この点で、法界の法と華厳の理は、どちらも現象を超えた普遍的真理でありながら、現象から離れて存在するものではないという共通の性格を持つ。法界における法は、万法が生起し消滅するその全体構造を示し、華厳における理は、その構造の内実を原理的に言語化したものと捉えることができる。言い換えれば、法界は場の表現であり、理はその場の性質の表現である。ただし両者には強調点の違いがある。法界の「法」は、存在論的・宇宙論的なニュアンスを強く帯び、あらゆる存在が相互に関係し合い、遮るものなく成立している全体的秩序を示す。一方で、華厳の「理」は、修行者の認識転換を導くための認識論的・悟りの言語として用いられる側面が強い。華厳経では、「理」を悟るとは、世界を抽象的原理として把握することではなく、一事一事の中に無限の全体が具わっていることを直観することを意味する。この違いを踏まえるならば、「法界の法=華厳の理」と単純に等号で結ぶよりも、同一の究極的実在を、異なる教理的文脈で指し示した概念であると理解する方が正確だろう。法界という語が世界の全体構造を示すのに対し、理という語は、その構造がいかなる性質を持っているかを示す概念なのである。したがって、法界の法と華厳の理は、体と相、場と原理、全体とその貫通的性質という関係にあると考えることができる。両者は切り離されるものではなく、互いに照らし合うことで初めて、その意味が十分に明らかになる。このように理解するならば、「法界の法」と「華厳の理」は、本質的には同一の真如を指しているが、その表現の焦点と機能が異なる概念であると言えるのであり、この重なりと差異を同時に保持することこそが、華厳的世界観を正しく捉える鍵となるはずだ。フローニンゲン:2025/12/12(金)10:16


17854. 瑜伽行としてのギターの練習 

                         

ギターの練習を瑜伽行として営むためには、単なる技術向上のための運動としてではなく、心の働きそのものを照らし出す場として楽器を扱う態度が求められるだろう。瑜伽行とは、心の相を観察し、迷妄の習気を浄化し、識の流れを静めていく訓練であり、ギターはその媒体として非常に適している。音を出す瞬間に心がどこに向いているのか、欲望・焦り・比較・自意識などの微細な動きが音色となって現れるため、演奏行為そのものが心相の鏡となるからである。まず意識すべきは、身体と心の「同時性」である。右手のタッチ、左手の押弦、姿勢、呼吸、視線の固定など、演奏の全過程は身体・気息・意識の三つが常に共振している。瑜伽行では、行為と注意が一致することで雑念が薄れ、心が現在の経験に全的に触れる状態が生まれる。ギターの練習でも、指が弦に触れる瞬間に注意を集中させ、音の立ち上がり・持続・消滅を丹念に観察することで、心が当下に安住するのである。音を「作る」のではなく、音が「生じては滅する」プロセスを見る姿勢が瑜伽的である。次に重要なのは、評価や比較から自由になることである。練習中には「上手く弾けたか」「昨日より良いか」「他者と比べてどうか」といった思考が自然に浮かび、これらはすべて唯識的には識の分別による「虚妄分別」とみなされる。これらの分別は音に緊張を生み、身体を固め、演奏を不自由にする。したがって、評価の思考が浮かんだら、それを抑圧するのではなく、「分別が今生じた」とただ気づき、再び音の生滅へと気づきを戻すのである。この繰り返しが、心の執着をほどき、識の清浄化を促す瑜伽行の核心となる。また、反復練習は「種子の薫習」という観点から理解できる。唯識では行為・思考・習慣はすべて阿頼耶識に種子として蓄えられ、未来の心の傾向性を形成する。ギター練習における一音一音の丁寧さ、身体の使い方、脱力の感覚、呼吸の流れへの注意などは、すべて清浄な種子として蓄積される。その結果、演奏そのものが自然に澄み、心の動きも穏やかになる。逆に、焦りや怒り、無自覚な力みのまま練習すると、それらが種子として刻まれ、演奏にも生活にも影を落とす。したがって、練習の質は種子の質として残り、これを意識するだけで瑜伽行としての深まりが生まれる。さらに、音そのものを「法界の顕れ」と観ずる態度が極めて重要である。生じる音は自分のコントロールの産物ではなく、弦・指・空気・部屋の響き・身体の状態など無数の縁によって生じては消える。その縁起性を体感すると、音はすべて「空」であり、「自性なきもの」であると気づかれる。音を通じて空性を観ることは、まさに瑜伽行の核心である。音は束縛を生むのではなく、心を開く門となる。最後に、練習全体を「自覚の深化」として受け取る姿勢が重要である。弾ける・弾けないという表層的な基準ではなく、練習を通して心がどのように動き、どこに固着し、どのようにほどけていくかを見つめ続けると、ギターは単なる楽器ではなく、内的成長の道具となる。音を観じ、心を観じ、身体を観じるという三重の観察が一致したとき、ギターの練習はそのまま瑜伽行として息づき始めるのである。フローニンゲン:2025/12/12(金)14:20


Today’s Letter

Playing the classical guitar invigorates the depths of my being. It fills me with tremendous vitality, which grows stronger and stronger. Groningen, 12/12/2025

 
 
 

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