【フローニンゲンからの便り】17860-17863:2025年12月14日(日)
- yoheikatowwp
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タイトル一覧
17860 | 大学院への出願完了に向けて/美的感覚を磨くギターの練習 |
17861 | 今朝方の夢 |
17862 | 今朝方の夢の振り返り |
17863 | 高次元まで貫入している感覚 |
17860. 大学院への出願完了に向けて/美的感覚を磨くギターの練習
イギリスの大学院の出願期限はまだ余裕があるのだが、今日は出願する3校のうち、一番出願期限が早いオックスフォード大学の出願を完了させようと思う。イギリス旅行中に書き上げた志望動機書と二つのライティングサンプルのドラフトを丁寧に読み返し、納得のいく出願書類を提出したい。エディンバラ大学とSOASについては、来年の3月や6月が提出期限だが、すでに提出書類のドラフトを完成させていることもあり、来週末に出願を完了させようと思う。あとはどこの大学とご縁があるかを楽しみに待つだけだ。
クラシックギターの練習に励むほどに、自分に固有の美的感覚が浮かび上がってくることは、唯識の観点から見れば極めて自然な営みであると言えるかも知れない。唯識は、人間が経験する世界のすべてを「識の働き」として理解するため、美的感覚もまた個別の心の歴史を通じて形成された「種子(ビージャ)」の顕現であると捉える。ギターの音色に敏感に反応すること、ある指使いに深い美を感じること、特定の和声の進行に心が揺さぶられることなどは、いずれも過去の経験から薫習された種子が成熟し、現在の心の地平に果として現れているのである。この美的感覚は、単なる主観的好みではなく、阿頼耶識に長く蓄積された文化的・身体的・情動的記憶が複雑に絡み合って発現している可能性がある。幼少期に触れた音楽、人生の節目に聴いた旋律、知的・情緒的成長の過程で感得した価値観などの無数の要素が、ギターの一音を通じて呼び起こされ、美として感じられていると推測される。唯識の立場から言えば、美とは外界に客観的に存在する性質ではなく、心が構築し、心が照らし出す顕現のあり方である。したがって、美的感覚とは、自己がいかに世界と関わり、どのように心を育んできたかの総合的な反映である。クラシックギターの練習は、まさにこの種子を洗練させる行為であると言える。同じ曲を繰り返し練習する中で、音の立ち上がり、余韻の質、音の間合いなどに対する注意が鋭くなり、美的判断が精妙化していく。この精妙化は、唯識でいう「転依」に向かう道筋と似ている。すなわち、未分化な感覚的反応が次第に純化され、煩悩を伴う粗い認識から、より静謐で明晰な心の働きへと移行していく過程である。音楽の練習を通して心が磨かれるという経験は、唯識における「相分と見分の浄化」として読むこともできる。相分(対象としての音)と見分(音を知る心)が共により透明になり、煩雑な概念や判断から自由になっていくとき、音は音として立ち現れ、心は心として澄みわたる。この状態は、真如の片鱗に触れる経験である可能性がある。真如とは、あらゆる分別が静まり、対象と主体の二元性が融けていく根源的なあり方だからである。音に集中し、指先の動きを丁寧に観察し、微細なニュアンスに心を澄ませる行為は、瞑想と極めて類似した構造を持つ。ギターの練習において、自分の美的感覚が磨かれていくと感じるとき、それは単に技術が向上しているだけではなく、心そのものがより透明な側へと方向づけられている徴候と読むことができる。美的感覚の精緻化とは、煩悩にまみれた粗雑な認知が静まっていくプロセスであり、心が本来の静けさに還ろうとする自然な力の発露である。果たしてその先に真如との究極的な一体化があるかと問うならば、唯識の立場からは、音楽を通じた心の純化が真如の体得へ通じる可能性は十分にあると推測される。真如は特定の宗教的体験の中だけに存在するのではなく、心が雑念を離れ、現前する対象と一つになり、音が音として響き、響きがそのまま心となるような瞬間に垣間見えるからである。クラシックギターの練習は、技巧の習得を超えて、心の深層構造を浄化し、究極的には真如へと接近する道として理解できる。美的感覚の磨きは、自分という心の器が透明さを増していく証であり、その先には、音と心と法界が一つに溶け合う静寂の境地が控えていると考えられるのである。フローニンゲン:2025/12/14(日)06:06
17861. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見慣れない部屋の中で小柄な外国人の男性と話をしていた。彼は日本語を流暢に話すことができ、会話は基本的に日本語だった。彼は日本での生活が長くなり、日本に随分と馴染んできたこともあって、和的な名前に改名したいと述べた。なので私は彼と一緒に対話をしながら、どのような名前が彼に相応しいかを一緒に考えていくことにした。最終的に良い名前が見つかり、彼はとても喜んでいた。
もう一つ覚えている夢は、見慣れないサッカーグラウンドで小中高時代の友人たちとサッカーをしていたことである。こちらのチームの攻撃を組み立てる三人のうち自分はそのうちの一人となり、もう二人は高校で知り合った友人だった。二人のうち一人はフォワードを専門としており、もう一人はドリブルが極めてうまかったので、二人の長所を活かす形で自分はアシスト役に回ろうと思った。いざ試合が始まってみると、不思議なことに相手の姿は見えなかった。しかしきちんとボールを蹴ったりする動作を行うことはでき、まるで亡霊と試合をしているような感覚があった。試合開始前に二人と相談をしていたのは、試合開始のホイッスルとともに奇襲を仕掛けることである。その先制攻撃は功を奏し、相手のクリアミスを自分がダイレクトで蹴り込む形でゴール右隅にゴールを決めた。その先制点によってこちらのチームの士気はさらに一気に高まり、そこからの試合運びが楽になった。今朝方はその他にも夢を見ていたような気がするが、それらの記憶はもうすでにない。フローニンゲン:2025/12/14(日)06:17
17862. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢全体は、自分の内側で進行している「同化と統合」、そして「役割の再編成」を象徴しているように思われる。最初の場面に登場する小柄な外国人男性は、自分の中にある異質な側面、あるいは長い時間をかけて培われてきた外来の価値観や思考様式を擬人化した存在である可能性がある。彼が流暢な日本語を話し、日本での生活に深く馴染んでいるという設定は、かつては外から来たものとして意識されていた知や経験が、すでに自分の思考や感覚の内部に根づいていることを示唆しているようである。和的な名前に改名したいという願いは、その異質性が消えるというよりも、固有の文脈の中で再命名され、意味づけ直される過程を象徴しているように感じられる。自分が彼と対話しながら名前を共に考えるという行為は、自己理解が一方的な決断ではなく、対話的・生成的に成熟していく様を表しているのかもしれない。彼が喜ぶ姿は、その統合が無理なく、内的な抵抗を伴わずに進んでいる兆しとも推量される。後半のサッカーの夢は、時間軸を超えた自己の諸側面が再集結し、協働している状態を象徴しているようである。小中高時代の友人たちは、成長段階ごとに形成された自分の能力や衝動、情熱の名残を表していると考えられる。フォワードやドリブラーという明確な長所を持つ仲間に対し、自分がアシスト役を選ぶ判断は、前に出て主役になることよりも、全体を見渡し、力が最も生きる配置を選び取る成熟した自己像を示しているようである。相手の姿が見えないという奇妙さは、競争や敵対がもはや具体的な他者ではなく、過去の不安や抽象的な制約、あるいは克服済みの課題であることを暗示している可能性がある。それでも試合が成立し、ゴールが決まるという事実は、見えない条件の中でも行為と成果が結びつく段階に至っていることを示唆している。奇襲による先制点は、十分な準備と関係性への信頼があれば、流れを一気に変える決定的な一歩を踏み出せるという感覚の表れであろう。人生における意味として、この夢は、自分がこれまでに取り込んできた多様な要素を再定義し、それぞれに相応しい位置と名前を与えながら、全体として調和の取れた生き方へ移行している過程を映し出しているように思われる。前に出ることと支えること、異質なものと固有のもの、そのいずれもを否定せず、静かに編み直していく姿勢こそが、これからの人生をより自由で実りあるものにしていく鍵であると、この夢は語っているようである。フローニンゲン:2025/12/14(日)07:35
17863. 高次元まで貫入している感覚
人の意識や生命力が単に三次元空間に閉じ込められた存在ではなく、より高次の次元まで貫入しているのではないかという直観は、現代物理学、とりわけ超ひも理論やM理論が示唆してきた宇宙観とある程度響き合うものである。超ひも理論では、宇宙の根本構造が一次元的な「ひも」から構成され、そのひもが振動することで粒子や力が生まれると考える。この理論が数学的に首尾一貫するためには、三次元空間と時間という四次元の世界では不十分であり、合計10次元、あるいはM理論の立場では11次元が必要となる。この高次元の存在は、私たちが知覚する世界が宇宙のごく一部に過ぎない可能性を示すものであり、意識や生命の根源的構造に新しい視座を与えるものである。では、三次元より上の次元はどのような性質を持つと考えられているのか。まず第四の次元は、一般相対性理論における「時間」として理解されることが多い。時間は空間と一体化し、時空の曲がりとして重力を生み出している。これを超える五次元以上の次元については、カラビ・ヤウ多様体と呼ばれる極めて複雑な形状を持つ幾何学的構造に巻き込まれているとされ、その内部には物理常数や場の構造を決定する情報が折り畳まれている。この折り畳みは極めて微細なスケールで起こっているため、人間が直接観測することは不可能であり、その存在は数学的要請として現れるに過ぎない。六次元や七次元は、ひもの振動モードを規定し、結果的に粒子の性質を決定する“幾何学的パラメータ空間”として働いているとされる。ここでは、空間は単純な直線的拡がりではなく、ねじれ、折れ曲がり、結び目のような複雑な構造を持つ。こうした構造の違いが、強い力・弱い力・電磁力などの振る舞いや、素粒子の質量にまで影響を与えていると考えられている。八次元や九次元に至ると、物理法則そのものの裏側にある構造が現れる可能性があり、場の統合や多宇宙の形成と関連づけて語られることもある。意識や生命力が高次元に貫入しているという直観は、まさにこの領域を想起させる。すなわち、意識の働きが脳内の三次元的プロセスに還元できないとすれば、脳は高次元的構造の“投影装置”のように働き、実際の心的プロセスはより上位の次元で展開している可能性があるという仮説である。十次元や11次元は、宇宙の根本的な統一を担う枠組みとして位置づけられる。11次元では、ひもの代わりに“膜(ブレーン)”と呼ばれる高次元的な構造が登場し、宇宙そのものが巨大な膜として理解される。次元の違う膜同士が接触したり衝突したりすることが宇宙の誕生をもたらしたという説もあり、このようなモデルはビッグバンを説明する新しい視点を提供している。ここでは、時間や空間の成り立ちそのものが高次元の動きによって規定されるため、意識がその深層構造と結びついている可能性も理論的には排除されない。意識が高次元に通じているという発想は、唯識が説く「識の重層構造」とも響き合う。唯識では、表層の感覚や思考の背後に、末那識や阿頼耶識という深層構造があり、それらは時間や空間の制約を超えた働きを持つとされる。もし高次元が物理学的に実在するならば、阿頼耶識のような深層心がそこに根を下ろしていると考えることもできるかもしれない。結局のところ、三次元より高い次元は、物質世界の背後にある構造を統御する場であり、意識や生命力がそこまで貫入していると考えることは、科学的直観と仏教的洞察が交わる地点でもあると言えるのではないかと思う。フローニンゲン:2025/12/14(日)07:42
Today’s Letter
I always have a hunch that I am deeply connected to the realm of thusness, or suchness. It is the profound source of my creativity and vitality. Groningen, 12/14/2025

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