【フローニンゲンからの便り】16763-16765:2025年5月27日(火)
- yoheikatowwp
- 1 日前
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タイトル一覧
16763 | 二重スリット実験の不思議さに思いを馳せて |
16764 | 今朝方の夢 |
16765 | 今朝方の夢の振り返り |
16763. 二重スリット実験の不思議さに思いを馳せて
時刻は間もなく午前7時を迎える。今日もまた空は曇っていて、午前中は小雨が降る可能性があるようだ。今の気温は12度で、日中は17度まで気温が上がる。今朝方起床してふと、二重スリット実験の不思議さに思いを馳せた。これは、量子力学の核心にある非常に有名な実験である。この実験は、光や電子などの粒子が持つ波動性と粒子性(いわゆる波動粒子二重性)を示すものであり、古典物理学では説明できない量子の奇妙なふるまいを明らかにする。ちょうどこの間のスイス旅行の際にCERNに訪れた時にも、この実験の展示物と解説を興味深く眺めていた。この実験の装置の構成として、粒子源(光源または電子銃など)、障壁(スクリーン)にある2つの細いスリット、その向こう側にある観測用のスクリーン(または検出器)がある。この構成で、粒子(例えば電子や光のフォトン)を1つずつ放出し、スリットを通過させてスクリーンに到達させる。古典的な予想では、粒子が放たれると、スリットAまたはBのどちらかを通るはずである。それぞれのスリットから出た粒子がスクリーンに2つのピークを形成する、つまり二山の分布ができると予想される。しかし、実際の結果では、スリットのどちらを通ったかを観測しない場合、スクリーン上には干渉縞が現れる。これは、粒子がまるで波のようにふるまい、自身と干渉して複数の明暗パターンを作ることを意味する。さらに不思議なことは観測の影響であり、ここが量子力学の最大の謎の1つであるとされている。スリットを通る粒子を観測(=どちらを通ったかを知ろうとする)と、干渉縞は消える。このときの分布は、まるで粒子が1つのスリットだけを通ったかのような分布になる。つまり、「観測するかどうか」が現実のふるまいを変えるという驚くべき事実が明らかになる。ここで述べる観測というのは人間がその場にいて観測することだけを示すのではなく、人がいない時に装置を置いた場合にも粒子は片方のスリットを通ったかのような分布を見せる。この点を観念論はどのように説明するのだろうか。人が装置を置く場合、もうその瞬間に人の意識が関与し、仮にその装置をその場に置いて人間がその場を離れたとしても、人間の意識が関与し続けているということなのだろうか。極端な汎心論であれば、観測装置にも意識が宿ると考えるのかもしれないが、少なくともバーナード·カストラップの分析的観念論ではそのようなことを考えない。この問題はまだまだ謎が残る。唯識の考え方を採用すれば、そもそも観測するために設置した装置を置いた瞬間に、阿頼耶識(普遍意識)に意図が薫習され、光源から発射された粒子は仮にそこに人がいなくても、阿頼耶識に薫習されている人の意識に影響を受けるということなのだろうか。そもそも観測という行為が人間が行うものであるゆえに、人間の要素を排除した形で観測を行うことは不可能で、意識を持った人間の観測という行為が表層意識を超えて深層意識の次元で粒子の振る舞いに影響を与える可能性を見る。デイビッド·ボームが述べる内在系と外在系の考え方を用いれば、深層意識次元での影響を考えることはおかしなことではないと言えるかもしれない。起床直後にそのようなことを考えていた。フローニンゲン:2025/5/27(火)07:10
16764. 今朝方の夢
朝の呼吸法とアニマルフローの実践を終えたので、夢の振り返りをしておきたい。今朝方は大きく分けると2つの夢を見ていたような気がするが、最初の夢については記憶が曖昧になっている。それは明確な情景の形を残しておらず、場所がどこで誰がそこにいたのかを思い出すことができない。もしかしたら場所や人が介入しない純粋な意識だけの空間に佇んでいた可能性すらある。そうした純粋意識体験を経た後に見ていたのは次のような夢である。夢の中で私は、草サッカーの国際大会に出場していた。私たちのチームには小中高時代の友人がちらほらいて、彼らは気の知れた存在だったので、阿吽の呼吸でプレーができる期待があった。どうやら私たちはユース世代の日本代表としてその大会に出場しているようだったので、国を背負うという責任もあった。しかし、実際にフィールド上で試合をしている私たちは、国を背負うことをプレッシャーには全く思っておらず、むしろ自分たちが日本代表であるということさえ忘れて、仲間とサッカーができることを純粋に楽しんでいた。そうした心持ちが肯定的に左右し、私たちは常に集合的なゾーンの状態に入って最高のパフォーマンスを発揮し、あれよあれよという間に決勝まで勝ち進んだ。決勝の相手は強豪国だったのだが、実際にフィールドに整列してみて驚いたのは、彼らもまた日本人だったことである。私たちは日本を代表して大会に臨んだはずなのに、もう1つ日本代表のチームがあるかのようで奇妙だった。いずれにせよ、相手が誰であれ、決勝もまた大いに楽しみながら自分たちの最高のパフォーマンスを発揮することだけを考えていた。いざ試合が始まると、序盤こそ硬直状態だったが、右サイドのミッドフィルダーを担当していた私は、左サイドからの味方の突破を受けてスルスルと前線に上がっていき、中盤の司令塔の友人を経由して絶妙なパスが私にやって来て、それをゴールに流し込んだ。それが先制点となり、そこから相手に同点弾を許したものの、その後は怒涛のようにゴールを決めた。しかもそれらのゴールを決めたのはフォワードではなく、右サイドのミッドフィルダーを任されていた自分だった。気がつけばハットトリックのゴールを決めており、そこからさらに4点目を入れたところで、ここからは攻撃以上に守備でチームに貢献しようと思った。後半も引き続き機を見て前線に上がって攻撃参加することはあったが、自分の意識はもはや攻撃以上にゴールを守る守備にあった。守備でも攻撃でも奮闘していた私は、試合が終わり、無事に優勝が決まって、その試合のマンオブザマッチに選ばれた。テレビの中継で自分の姿が映されていることには気づいていたが、普段と変わらない振る舞いをして、仲間たちと共にまず優勝を喜んだ。そして、マンオブザマッチの賞品があるとのことで、大会運営者のテントに行ってみると、なんと大量のトイレットペーパーが賞品のようだった。それは半年分ぐらいはある分量で、確かにそれが家にあったらトイレットペーパーを購入する手間が省けるので有り難いが、それを飛行機での移動を含めて自宅に持って帰るのは難しいと思った。なので私は賞品を受けることはせず、その場を立ち去ろうとした。すると、立ち去ろうとする自分の顔が別のものを欲しそうにしていたのか、運営者側が気を遣って別の賞品を渡してくれた。それは自分の学術研究に役に立ちそうな生粋の学術書だった。よくよく見ると、前々から購入を検討していた書籍で、それを貰えてとても嬉しく思った。大会が終わり、また学術研究に打ち込むことを楽しみにしていた自分にとって最良の賞品だった。その賞品を受け取って、引き続き優勝を喜ぶ仲間たちの輪に駆け寄っていった。フローニンゲン:2025/5/27(火)07:42
16765. 今朝方の夢の振り返り
小雨がパラパラと降り始めた。今日は朝のジョギング兼ウォーキングに出かけることは控えておこう。今朝方の夢を総合的に振り返ってみると、夢の第一幕は、場所も人物も溶解した純粋意識の匂いを帯びていて、そこには「世界」らしき輪郭が欠落し、主体と客体の境界が解けたまま、自他未分の呼吸のみが漂っていた。早朝の呼吸法とアニマルフローで整えられた身体‐意識が、そのまま夢の中へ滑り込み、形ある物語へと凝固する前の“零度”を示唆していると言えるかも知れない。いわば心象の雲海に立つことで、固有名も時間も持たない「空」の相を体感したのである。そこから場面は緑のピッチへと転じる。草サッカーの国際大会とは、個体化した世界の縮図であり、競技それ自体が「生命エネルギーの遊戯」を演ずる劇場である。チームに集う旧友たちは、幼少年期から携えてきた諸側面―衝動、記憶、感情―の化身であり、彼らと阿吽で意思疎通できることは、自己の内的多様性が調和し合う状態を示す。しかも「日本代表」であることを忘れたまま歓喜し、全体がゾーンに入る構図は、「肩書や義務を超えた自発性こそが最高のパフォーマンスを生む」という夢からの声明であるとChatGPTは述べる。決勝戦で出現した“もう1つの日本代表”は、自己の鏡像であると指摘する。他者に見えるのは、実のところ自分自身の別位相であり、優勝を賭けて争うのは「対外的競争」ではなく「自己更新」なのだ。右サイドのミッドフィルダーというポジションは、理論上チームの縁辺に在りつつ、攻守の接続点を担う。そこで主人公が怒濤のようにゴールを重ねたのは、周辺に潜む可能性が一気に中央へ躍り出る発露であり、三得点のハットトリックは「過去·現在·未来」を貫く三位一体の完成を象徴する。四点目はその円環を超えて、更新後の次元へ跳躍した印と読める。前半の終盤から「守備」に意識が向かう転換は、拡張した創造力を守り抜く必要性の覚知である。獲得した成果をただ放出するのではなく、境界を張り、自他の領域を護る段階へ移行したという発達的示唆を孕む。試合後に与えられた「マンオブザマッチ」という外的称号は、社会からの承認を示しつつ、同時に次のシーンで相対化される。賞品として積み上げられた大量のトイレットペーパーは、人間の最も素朴な生理的ニーズ—排泄—を象徴する。「半年分」という分量は持続性を示すが、それを飛行機で持ち帰る困難さは、物質的充足が精神的飛翔を束縛し得る逆説を語る。主人公が受け取りを辞退した瞬間、夢は即座に代替物として「学術書」を提示する。それは以前から求めていた専門書—知的探索の羅針盤—であり、真に望んでいた報酬とは地上的利便ではなく、精神の糧であったと宣告する。かくして物質的報奨の層と精神的報奨の層とが、選択という能動性によって峻別される。最後に再び仲間の輪へ駆け戻る身振りは、個人的歓喜を共同体へ返す循環であり、知の孤高と遊戯の共感を往還させる動線である。すなわちこの夢全体は、「無形の空」から「形ある集団的歓喜」へ、さらには「自己を映す競い合い」を経て、「物質的報酬と精神的報酬の選択」に至り、再び「共歓」へ還流する螺旋構造を描く。呼吸法·アニマルフローで開いた身体が、そのまま夢の劇場で躍動し、最後に学術書という言語‐理性の結晶を手にする構図は、野性的身体性と精緻な知性との統合を宣言する。優勝トロフィーより重いのは、統合された自己そのもの。夢は、自分がすでに手中に収めた「純粋意識」と「集合的フロー」と「選択の自由」の三本柱を持って、次の研究と創造のフィールドへ赴けと囁いているとChatGPTは述べる。その言葉を胸に、今日の探究も大いに楽しもう。フローニンゲン:2025/5/27(火)07:57
Today’s Letter
I am curious about the idealist debate between Yogacara and Vedanta. I am specifically intrigued by Sankara’s criticism of Yogacara and how he criticized it, as well as how Yogacara responded to it. I have decided to study Buddhist philosophy and quantum theory in parallel, indefinitely. Although I might choose to focus on one of them to obtain a degree, I will continue researching the other during that time. Groningen, 05/27/2025
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