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7287-7290: フローニンゲンからの便り 2021年9月2日(金)



No.2666 紫陽花_A Hydrangea


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.867, Abiding by a Developmental Principle

The process of deconstruction and reconstruction incessantly continues.

It is a developmental principle.

It seems to me that I abide by it.

Groningen; 07:20, 9/2/2021


No.868, Differential and Relational Characteristics of Human

Every inner phenomenon such as thoughts, feelings, and sensations is differential and relational.

That’s the crucial characteristic of our inner experiences.

Also, that’s the essential nature of human.

Groningen; 12:18, 9/2/2021


No.869, Am I a Complex Number?

Reality is constructed by complex numbers.

Where is the conjugate of the complex number as me?

I may be an imaginary number in this reality.

Or I may not be a more imaginary number but a pure imaginary number.


Yet, the higher self tells me that I am “x+iy.”

It means that I am both real and imaginary or beyond both.

Groningen; 20:12, 9/2/2021

下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

7287. 秋の様相を呈するフローニンゲン/気違いと思われて

7288. 今朝方の夢

7289. 今朝方の夢の続き/視座とプロパガンダ

7290. ルソーとフロムの指摘/分裂症的社会


7287. 秋の様相を呈するフローニンゲン/気違いと思われて


時刻は午前6時半を迎えた。今、ようやく空が明るくなり始めている。30分ほど前はまだ真っ暗だった。


昨日から9月に入ったが、9月に入ると、グッと寒くなった印象だ。今年は8月でさえ真冬の格好で午前中や夜に過ごすことが多かった。


今年の秋と冬の寒さはいかほどだろうか。冷夏の際は、秋と冬が暖かいと嬉しいのだが···。物事はそう単純にはいかないかもしれないが、そのような期待をする。


今日の最高気温は19度、最低気温は10度である。いつも気温の比較対象としているヘルシンキを見ると、いつの間にかヘルシンキの方が寒くなっていた。


今年の夏は、フローニンゲンの方がヘルシンキよりも涼しかったのだが、いつの間にか気温が逆転していた。ヘルシンキにおいては、今日の最高気温は15度であり、最低気温は8度だ。明々後日になると、もう最高気温が12度、最低気温が5度になっている。


昨年の一時帰国の際は、アムステルダム空港から関空に行ったのだが、一昨年の一時帰国はヘルシンキから成田空港に行った。その時はまだ9月末だったのだが、ヘルシンキは最高気温でさえもうマイナスになっていて、驚いたのを覚えている。


今日のフローニンゲンは1日を通して天気が良いようだ。そのため、午後にコピー屋に行き、書籍を受け取ろうと思う。3回分の配達が全てそのコピー屋になされているので、結構な分量の書籍を受け取ることになるかもしれない。


ここ数日ほぼ毎日隣人のインド人のサハルから書籍を受け取っている。一昨日、昨日は連続して書籍を受け取った。サハルから昨夜書籍を受け取る際に面白いことを聞いた。


郵便局の配達員はいつも大抵同じ人らしく、本人ではなくサハルが書籍をいつも受け取っている様子を見て、「こんなに大量に書籍を購入する気違いは一体どんな奴なんだ(笑)」と笑いながら話していたらしい。数日前に13冊をさらに追加購入したので、今月だけで260冊の学術書を購入したので、確かにそのように思われるのも無理はないかもしれない。


今日もまた読書が捗る予感がする。明日は知人の鈴木規夫さんとの第3回目の対談レクチャー動画を撮影することになっている。それに付随して、明日は補助音声ファイルなどを集中的に作ることになるであろうから、今日は集中して読書に励みたい。


午後4時ぐらいまで読書を行い、そこから今日の学びをノベルゲームのシナリオに組み込んでおきたいと思う。ゲームの創作を始めて、それがまた新たな刺激になっていることを実感する。


創作を軸に据えた生活を送っていると、その軸の周りにどんどんと学びが集積していくことが面白い。創ることには学習や成長を促進させてくれる何かがあるのだろう。フローニンゲン:2021/9/2(木)06:47

7288. 今朝方の夢


時刻はゆっくりと午前7時に向かっている。この日記を書き終えたら、朝風呂にゆっくりと浸かろうと思う。朝風呂の温かさに有り難さを感じるような気候になってきた。


朝風呂から出たら、午前中の創作活動に取り掛かり、その後、今日の読書を始める。今日の読書は、ジャック·エラル、ミシェル·フーコー、エリック·フロムなどの書籍を読み、テクノロジーと美徳に関する書籍、マネーと意識の進化に関する書籍を読んでいくことができればと思う。直感的に、今日は5冊ほどの初読を終えれるような気がしている。


今朝方の夢はいくつか印象に残る場面があった。夢の中で私は、大学時代を過ごした街に似た雰囲気の場所にいた。


街を散歩していると、目の前を小中高時代の女性友達(EN)が歩いていた。偶然だったので、彼女に声を掛けると、彼女は振り向き、驚いていた。


そこからしばらく歩きながら話をしていて、彼女曰く、もう少し先に行ったところにある店に小中学校時代の友人たちがよく足を運んでいるとのことだった。そのため、その店に行ってみることにした。


すると、その店に近づいたあたりで、数多くの友人に遭遇した。友人たちは確かにその店に集まっていたが、近くにある別の店にも友人たちがいた。


私は彼女に教えてもらった店の少し先にある定食屋に入った。店の外から中の様子が見えるようになっており、テラス席もあったので、その店がいいと思ったのである。


店に入ると、そこは880円でビュッフェ形式の昼食を楽しめるようになっていた。随分とリーズナブルな価格だなと思ったが、いつものように私は現金を全く持っていなかったので、近くにいた優しい友人(AF)に1000円を借りようと思った。


すると、その友人も現金をほとんど持っていないようだった。と言うよりも、今日の昼食代以外はどこかに落としてしまったらしいのだ。そうしたこともあり、彼にお金を借りることはできず、お金を持っているであろう別の友人(YK)のところに行き、お金を貸してもらえないか相談しようと思ったところで夢の場面が変わった。


次の夢の場面では、私は小さな教室にいた。教室には4人か5人ほどの生徒しかおらず、壇上には高校時代にお世話になっていた女性の英語の先生がいた。


どういうわけか先生は、英語ではなく国語の授業を始めた。それも、現古融合問題を取り上げたのである。


先生は私に、最後の設問である「著者の作業仮説について簡単に説明せよ」という問題の回答を尋ねてきた。すぐに私は自分の回答を述べた。すると先生は、黙って首を少し傾げ、少し不満足そうな表情を浮かべた。


先生は何も言わず、今度は私の横にいた大学時代の友人に同じ設問の答えを尋ねた。彼は中国人だが幼少期に日本で生活をしていて、日本語が流暢であり、とても優秀だった。そんな彼の回答は、「この作品は、真面目で、純粋で、明確な表現をしている」というものだった。


私は彼の回答を聞いた時、それは作品に対する感想であって、決して著者の作業仮説が何かを答えていなかったのだが、先生は彼の回答を褒めた。それに対してすぐさま私は自分の意見を述べた。そこで夢の場面が変わった。


次の夢の場面では、私はアスレチックのようなアトラクションの上にいた。それは道路脇にあり、高さは15mほどだった。そのてっぺんにいると結構怖い高さだった。


鉄棒のようなものが体の使い方によって色々と不思議な動きをするようになっていて、15mの高さに対して等間隔に設置された合計3本の鉄棒を上手く使って下まで降りることが求められていた。


私は最初鉄棒の動きに苦戦しながらも、しばらくして地面に到着することができた。そして近くにあった建物の中に入った。


するとそこで、どこかの小学校の校長を務めているという比較的若い男性がレクチャーをしていた。彼は40代前半ぐらいだったので、確かに若かった。


その人のレクチャーの内容は、その学校で導入されているアセスメントに関するものだった。私は発達科学と教育科学の双方を大学院で研究していたので、その観点からいくつか質問をした。


最初の質問をした瞬間に、失礼ながら、その校長の頭が悪すぎることに気づいた。彼が口を開けて1秒以内にそれに気づいた。そこで私が行っていたのもある種の発達測定であり、コミュニケーションを取った瞬間に相手の発達段階が如実にわかってしまうことは、便利かつ面倒でもあると思った。


私は、以前所属していたアメリカの組織が提供していたアセスメントと比較して質問をしようと思ったが、その前に簡単なことを確認しておきたかった。その校長が図に示している縦軸と横軸が何を表しているのかという最も基本的なところから質問を始めたのだが、その校長はなんとその質問がとても難しいと述べて、明確な答えが言えないとのことだった。


こちらとしては、その質問は小学校高学年ぐらいでも答えられるものだと思ったが、その質問でもダメならもう何を聞いてもダメだろうと思った。フローニンゲン:2021/9/2(木)07:11


7289. 今朝方の夢の続き/視座とプロパガンダ


時刻は午前11時を迎えた。今日も昨日と同様に、空にはうっすらとした雲がかかっていて、青空を拝むことはできない。そんな中、小鳥たちはいつものように美しい鳴き声を上げている。その癒しの恩恵を受けながら、午前中の取り組みに従事していた。


これまでのところ、4冊ほどの書籍の初読を終え、この調子ならあと2~3冊ほどの書籍の初読を終えることができそうだ。ここからはエリック·フロムの書籍を読み、その後にロシ·ブライドッティのポストヒューマン関係の書籍を読む。


この時間になって今朝方の夢の続きを思い出した。夢の中で私はスペインにいた。場所はマドリードだった。


私はマドリードの名門サッカーチームであるレアル·マドリードに所属していて、一昔前のスウェーデン代表を支えていた小柄なフォワードと意見交換をしながら練習に励んでいた。特に、次回の対戦相手の特徴を踏まえ、前線からどのようなプレッシャーをかけていくのかについて意見交換をしていた。


すると不思議なことに、その選手の身長が思っていた以上に高く、ゴール前で体を張ったプレーができることを知った。本人もそれが得意とのことであり、次の試合ではそれを攻撃のオプションに加えようと思った。


しばらくすると練習が終わり、選手はそれぞれ自分の家に帰っていった。その際に、突然激しい雨が降り始めた。


実はここ数日においても何度か激しい雨がマドリードを襲っていて、道が浸水している箇所が結構あった。私は運転手付きの車に乗りながら、後部座席の窓から道の様子を眺めていた。


そこでふと、マドリードの水捌けが悪いことに気づき、灌漑設備が意外と未発達なのだなと思った。


ある学校の横を通り過ぎていく時に、大量の犬の糞が雨水で流されていく光景を見た。今朝方はそのような夢を見ていた。


意識が再び現実世界に戻ってきた。今日の午前中に、人間というのはそもそも物理的な視点の高さを持っており、また心理的にもその人の内的成熟に合わせた視座の高さが確定していることについて考えていた。


人間は物理的にも心理的にも視座が確定されているため、私たちはついつい同じ視線で物事を見てしまいがちになる。そんな中、発達理論の1つの貢献は、私たちの日常的な視座を上げてくれることにあり、それは超越的な視座を持ち込む神学が果たす役割と似ている。


今日はまず最初に、フランスの思想家ジャック·エラルの書籍を読んでいた。それはプロパガンダに関するものである。


エラルは、扇動的なプロパガンダと大衆を一致団結させるプロパガンダを分類し、その他にもいくつかプロパガンダの種類を挙げている。現代のプロパガンダは、最新のテクノロジーを総動員する形で全方位的に大衆にプロパガンダ的メッセージを投げかけ続けている。それは扇動的なものもあれば、大衆を団結させるものもあり、さらには両者の性質を掛け合わせたものもある。


プロパガンダというのもまた“pharmakon”なのだろう。すなわちそれは、良薬にも毒薬にもなるということである。


ただし現代社会においては、やはり毒薬の形でプロパガンダが用いられているように思えるのは自分だけではないだろう。フローニンゲン:2021/9/2(木)11:21


7290. ルソーとフロムの指摘/分裂症的社会


時刻は午後4時半を迎えた。昨日の午後のトレーニングから1日が経ったが、トレーニングで意識した箇所の部位にきちんと張りがあり、効果的なトレーニングが行えていたことを改めて実感している。


トレーニングから丸1日は引き続き筋肉の合成が行われているらしい。それと同時に脂肪が燃焼しているのか、トレーニング後の翌日は、夕食までに腹が空きやすくなっている。今日はこの日記を執筆したら、早めの夕食を摂ろうと思う。


今日は午前中に、早くも暖房が必要なのではないかというぐらいの寒さを感じた。2階の両側の窓の2重扉をしっかりと閉めておかなければならないぐらいに気温が下がってきている。


今日は結局6冊ほどの書籍の初読を終えることができた。随分と読書が捗ったものである。


明日は動画の撮影日のため、読書を行えるのは午前中に限るが、午前中の読書においても、動画の撮影の準備として、明日の動画で取り上げる予定の発達測定に関する文献をいくつか読んでおこうと思う。とりわけ心理統計学の論文と発達測定に伴う倫理に触れた書物に目を通しておく。


夕暮れ時の小鳥のさえずりが聞こえてくる。小鳥のさえずりと共鳴する自己。デカルトは固有の自己の存在を指摘していたが、ルソーは自己の固有性に加えて、自己が構築的であるという自覚があった点に洞察の深さを見る。


自己は単に固有なだけではなく、その自己はまた種々の観点で構築されたものなのだ。だがその構築性の中に神秘的なものが宿っていることは確かである。人工的·社会的に構築したとは言えないような何かがそこにはある。


昼前に考えていたこと。それは集合的シャドーと集合的ナルシシズムの関係に関するものだ。とりわけ後者の発生メカニズムに改めて光を当てている。それは企業組織の不祥事と関係するテーマである。


世界の宗教の叡智を大胆にも一言で表すならば、それはナルシシズムの克服であるというフロムの指摘を思い出す。発達心理学者のジャン·ピアジェは、発達とは自己中心性の克服プロセスであると指摘したが、それはフロムの発想と似ている。


フロムはさらに、悪とは未成熟さの現れでもあるという興味深い指摘をしており、悪と発達の関係を改めて考える。


夕方に精神分裂症について考えていた。ジル·ドゥルーズとフェリックス·ガタリは、分裂症的な資本主義のあり方を指摘しており、現代の種々の分断的側面と無関心さの横行は、確かに分裂症的な症状である。


そのようなことを考えていると、偶然にも先ほど、ガタリの“Schizoanalytic Cartographies”という書籍を受け取った。早速中身をざっと眺めてみたところ、大変面白そうな書物である。それと同時に、幾分奇妙さを漂わせている書物でもあると感じた。フローニンゲン:2021/9/2(木)16:54


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