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7053-7056: アートの国オランダからの便り 2021年6月16日(木)


No.2373 マナ_Mana


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.691, Truth

One of the features of a relative truth could be that it has a contradiction.

Also, such a truth can deepen by its contradiction.

On the other hand, the ultimate truth doesn’t have any contradiction.

Because it is always the one.

Groningen; 06:36, 6/16/2021


No.692, A Life Story

Life is a story which is open to an infinite number of unknown possibilities.

The story is made not by one author but by all sentient beings, inanimate objects, and places.

Groningen; 21:49, 6/16/2021


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日生まれた3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

7053. 読書のサイクル/今朝方の夢

7054. 出会いときっかけ/今朝方の夢の続き

7055. ペイトラさんとの会話から

7056. 無限の未知なる可能性に開かれた日記


7053. 読書のサイクル/今朝方の夢


時刻は午前6時を迎えた。今、朝日が輝きを放っていて、その光が仕事場に差し込んでいる。ちょうどその光は自分の額に向かって差し込んでいて、朝日を浴びながらこの日記を書いている。


昨日の朝方は少し肌寒く、今朝も少し肌寒い。だが今日は日中には最高気温が27度まで達するようなので随分と暖かく感じられるだろう。


昨日、神学関係の26冊の書籍が届けられた。今日からそれを読み進めていく大きな楽しみがある。


それらの書籍を読み終えたら、まだ未読のその他の書籍を読み進め、ここ数ヶ月で読んだ書籍の中で基本書となるようなものは再度最初から最後まで音読する。それを行いたい書籍がいくつかある。その音読が終わった時点でまた書籍の一括注文をしようと思う。


関心領域に対して知識を広げていく読書と深めていく読書の双方を交互に行っている。両者は切り離すことができないので、そのどちらも同時に行っていると言えるかもしれないが、知識を真の意味で深めていくためには、やはり丁寧に読み込むという作業が必要となり、それを行うのは基本書に対して最初から最後まで音読をする時である。


そのように考えてみると、ここ最近はやはり知識を広げていく読書を中心に行なっていたことがわかる。読書にもサイクルがある。自分が今どのサイクルにいるのかを絶えず把握しておこう。


今朝方の夢を今振り返っている。夢の中で私は、見知らぬ街を冒険していた。その街は冒険に適した作りになっていて、様々な店やアトラクションとなるような場で溢れていた。


何か課題のようなものを自己を超えた存在から渡されていたように思う。その課題を把握し、それをこなしていくことがそこでは求められていた。


その点について改めて考えてみると、まさに今の自分が何らかの使命感に駆られて探究実践活動に従事していることとつながってくる。しかもその使命というのは自分が能動的に見出したものでは決してなく、まさに舞い降りてきたものと表現するのがふさわしい。夢の中で与えられた課題もまたそのようなものだった。


ひょっとすると、使命のみならず、日々直面する種々の課題もまたそのような形で降ってくるものなのかもしれない。当然ながら、批判理論の提唱者であるテオドール·アドルノが指摘したように、課題の弁証法的性質を考えてみれば、ある課題には絶えず非顕現的な次の課題が内包されているため、課題というのはそれを解決した瞬間に、非顕現だった次の課題がその場に立ち現れ、その新たな課題と向き合うことになる。それが課題がどこからか降ってきたという感覚を思わせることの一つの要因であることは間違い無いだろう。


今朝方の夢の続きについても書き留めておこう。私はある時から、小中高時代の友人(HY)と一緒にその街を冒険していた。


誰か別の友人が迷子になったらしく、私たちは彼を探すことにした。その際に、友人がガソリンスタンドの前でふと、車に乗って移動しようと述べた。


彼は車の運転に不慣れとのことであり、特に夜に高速道路などを運転したくないと述べていた。私はそこで少し戯けて、まるで自分が車の運転に熟達しているかのような口調で彼に声を掛けた。その際に、彼のニックネームではなくて、わざと苗字に「君」をつけて、笑顔で次のように述べた。


「XX君、心配はいらないよ。気持ちを落ち着けてゆっくり運転すればいい」


そのように述べると、彼は表情が柔らかくなり、そこで私に質問をしてきた。その質問は、私がどれくらい運転歴があるのかというものだった。


私はその質問を待っていた。そのため、待ってましたと言わんばかりに、「運転歴はかれこれ15年になるかな。ゴールド免許を3回も更新したんだ。最後に運転したのは15年前の卒業検定になるけどね(笑)」と述べた。すると彼は爆笑し、結局彼に運転をしてもらう形で友人の捜索に向かった。フローニンゲン:2021/6/16(水)06:25


7054. 出会いときっかけ/今朝方の夢の続き


今日から神学関係の書籍を大量に読み進めていく予定なのだが、そこでふと、神学との出会いについて先ほど振り返っていた。


すると興味深いことに、出会いの瞬間というのはもう覚えておらず、神学に向かったきっかけというのもよくわらかなかった。それはやはり突然の啓示のように降ってきたものであり、明確なきっかけなどなかったのではないかと思う。


当然ながら、啓示的に神学が目の前に現れた時にそれを掴まえた自分がいたところを見ると、当時の自分が間違いなく神学的な何かを求めている状態だったことは間違いないだろう。探究上の課題の種類と性質上、既存のアプローチでは限界が見えていて、その限界を突き破っていく方法を模索している最中に神学がやって来た。そのような形だろうか。


こうした出会いは、インテグラル理論、批判的実在論·メタ実在論との出会いに対しても当てはまるし、個別具体的な学者との出会いにも当てはまる。


きっかけの物語をさも真実らしく語ることは如何様にでもできるが、それらの物語はことごとく究極的な真実とは程遠い。


絶対的なもの、究極的な眼差しが日増しに強くなる。自分は相対的なものを突き抜けた形で、絶えず絶対的·究極的なものを見つめている。


ここからの自分の取り組みは、相対的世界と絶対的世界の真実の双方を伝えていくことなのだろう。その方法については依然として暗中模索状態であるが、その方法もまたいつか啓示的に目の前に降りてくるだろう。自分は絶対的世界に開かれ、啓示に開かれているのだから。


早朝に今朝方の夢について書き留めていたが、それ以外にもまだ夢の場面があったことを思い出す。夢の中で私は、仕切りのたくさん入った未知な迷路空間の中にいた。


空間そのものは真っ白であり、仕切り以外にも鏡が置かれていて、鏡に映る自分の姿を眺めていると、自分の存在感覚が変容してしまうかのようであった。私たちはその未知なる迷路空間の脱出が求められていたが、そこからの脱出は困難であった。


仕切りや鏡がどれも同じようであり、道に関してもどれも同じようであったことが困難さを増幅させた。そして、真っ白な空間に身を置いていると、真っ白な雪山で経験するような「ガンツフェルト効果」が訪れた。


それによって、目の前の空間そのもの、そして自分の存在そのものが幻覚的なもののように思えてしまい、それもまたこの迷路からの脱出を難しくさせた。私の近くには見知らぬ若い女性がいて、彼女と協力しながらなんとか脱出しようと迷路を進むことにした。


次の夢の場面では、私は見知らぬ城下町にいた。そこは確実に日本だとは言えない雰囲気が発せられていた。


城の周りに水が張り巡らされているだけではなく、町全体の端にも水が張り巡らされていた。夢の中の私の体は小学生ぐらいであり、同い年ぐらいの2人の女の子と一緒に城の周りの水を泳ぐことにした。


水の流れは意外と速く、3人で協力しないと誰かが流されてしまいそうだった。私たちは無事に泳ぎ切り、城を取り囲む石垣の上に立った。そこから城下町を眺めた時、幾分清々しく、同時に誇らしい気分がやって来た。


今朝方はそのような夢も見ていた。今日もまた、夢と現実の境目のないこのリアリティを生きていくことにしよう。フローニンゲン:2021/6/16(水)07:41


7055. ペイトラさんとの会話から


時刻は午後7時半を迎えた。今日もまた1日を通して素晴らしい天気であり、早朝には肌寒さが感じられたものの、午後からは半袖で過ごすことができた。明日はかなり気温が上がるようなので、初夏の雰囲気を味わえるだろう。


夕方に買い物のから帰って来て敷地内の扉を開けると、オーナーのペイトラさんがいた。そこで少しばかり立ち話をした。


最初に話したのは、昨日に敷地内の小道と敷地の外の道で何やら小さな工事が行われていて、何かなと思っていたところ、それはどうやらインターネット回線の工事のようだった。どうやらその工事はオーナーが依頼したものではなく、市が行ったか電話会社が行ったかのようだった。


今も十分ネットの速度は速いため、新たな工事によって繋がった回線を使うかどうかはまだわからないとのことだった。そこから話はコロナのワクチンの話となり、ペイトラさんは先日に1回目のワクチンの接種をし、フレディさんは今日が2回目の接種のようだった。


オランダの国内の種々のニュースは自分では追い切れないところがあり、オーナー夫妻はオランダの新聞を購読しているらしく、色々と情報を教えてくれるので助かる。


先日自分のところにも死からワクチン接種に関する案内が届いたが、まだ予約をしておらず、正直なところ国外に出る際にワクチン接種が要求されていないのであればワクチンの接種はしなくていいかと思っていた。しかしペイトラさんの話を聞いて、国外への旅行を考えていると、EU内を旅行するのであれば、やはりワクチンの接種をしておいた方がいいと思い、明後日に予約をしようと思う。


年齢によって2回接種が必要なタイプと、1回で接種が大丈夫のものがあるようだ。オーナー夫妻は2回接種が必要だったらしいが、自分の場合はどうなるかはオンライン予約か電話予約の際に確認しておきたい。


その後、家の前のレンガ畳みの雑草の話となり、せっかくなので一緒に掃除をすることにした。基本的には素手で雑草を抜き、レンガの間の隙間の雑草は小さなクワで取り除いた。


すると、ある箇所にアリの巣があり、大量のアリがそこから湧き出て来た。ペイトラさんも私も、基本的に無駄な殺生をしない信条があったのだが、今回はペイトラさんの家にあるアリを駆除するパウダーを撒いた。そして後ほど、その上にさらにコーヒーの残りカスを撒いておいた。


扉の横に生えている植物が随分と生い茂っていて、扉を開けるときに葉っぱが室内に入り込むことがあったので、その植物の剪定も少しばかり行った。雑草を抜き、扉の横の植物の剪定を行ったおかげもあり、随分と外観が綺麗になった。


別れ際、今週末にペイトラさんの2人の兄弟が来るという話を聞いた。一方はグラフィックデザイナーをやっていて、もう一方はオランダ文学に詳しい。


先月にオーナー夫妻の家に招待してもらった際に、フレディさんからペイトラさんのお兄さんがオランダ文学に造詣が深く、オランダを代表する霊的な詩を残した詩人を知っているであろうということを聞いていたので、今週末に少しばかり話を伺わせてもらうことになった。


それに合わせて、もう片方のお兄さんはまだ今自分が住んでいる家を見たことがないとのことだったので、家の案内をすることになった。一応綺麗には使っているが、土曜日の午後に家を見せる前に家全体の掃除をしておこうと思う。フローニンゲン:2021/6/16(水)19:46


7056. 無限の未知なる可能性に開かれた日記


日記。それは無限の未知なる可能性に対して開かれたものであることを思う。そしてそれは、自分だけの物語が綴られているわけではないということを改めて思う。


日記に登場する全ての人や全ての生き物、そして全ての場所が協働執筆者なのだ。そして、日記に直接登場していなくても、その文章を書くための言葉をもたらしてくれた存在者たちもまた日記の協働執筆者なのだ。


日記の執筆というのは実に創造的な営みだとつくづく思う。人生そのものが創造の産物であるのだから、それを綴る営みは自ずから創造的なものになる。


日記を綴るというライフワークがある限り、自分はこの世界で最後まで生きていけるような気がする。それはライフワークであるのと同時に、人生の友でもある。


午前中、リアリティの複素数性について考えていた。リアリティというのは複素数的世界であり、実数部分と虚数部分がある。だが、現代人の多くを見ていると実数部分だけに関する事柄に従事し過ぎているように思える。逆に虚数部分に従事する一部の人たちは、虚数部分だけを探究実践している。


実部も虚部も等しく重要なのだ。それら2つがあってこそのリアリティであるということを忘れてはならない。


実部は地上、虚部は天上の世界を指す。それが分かれば、私たちはその両方の世界を大事にし、それらの世界のどちらにも関与していく必要性があることに気づくのではないだろうか。


チェコのプロテスタント神学者であったジョセフ·フロマートカの言葉を思い出す。フロマートカは、「フィールドはこの世界である」という言葉を残している。


マネー、テクノロジー、エコロジーという領域がまさに自分にとっての探究実践フィールドである。それらの領域の中で、これまで自分が培って来たことをどれだけ活かすことができるか。そして、それらの領域に関与しながら、さらに自分の知見を深め、自己を涵養していくことができるか。


世界の中で世界との関与を通じて生きていくこと。それが真正の探究実践者であろう。


買い物に出かけている最中、ふと幼少期に何か二者択一を迫られていたときに唱えていたマントラを思い出した。それは、「どちらにしようかな、天の神様の言う通り」というものだ。その神が何を指していたのかが突如大きな関心事として自分の目の前に現れた。


あの神はキリスト教的な神だったのか、それとも神道的な神だったのか、それらの両者か、はたまたそれらのどちらでもなかったのか。それが無性に気になった。


もちろん、買い物への行き道の間にその答えがわかるはずはなく、これは自分にとって極めて重要なトピックだと思った。昨日届けられた26冊の神学関係の書籍は、基本的にキリスト教神学に関するものであるから、それらの書籍を読み進めていけば、幼少期の頃に知覚同一化していた神がキリスト教で言うところの神なのかどうか、それとどれほどの関係があるのかが見えてくるだろう。


幼少期の自分の生活文化環境を考えると、キリスト教の神か神道の神かどちらかが自分の意識と無意識に強い影響を与えていたであろうから、ここからは神道についても理解を深めていく必要があると思った。


早速調べて見たところ、残念ながらケンブリッジ大学出版からは神道に関する良い学術書が出版されていなかった。一方で、オックスフォード大学からは2冊ほど、ラウトリッジ出版からは2冊——どちらも加藤玄智(1873-1965)という日本の宗教学者の書籍——ほど興味を引く学術書が出版されていたので、それを購入文献リストに加えた。キリスト教神学との対比の観点で、日本に浸透している神道についての理解をこのタイミングで深めていきたいと思う。


それにしても、幼少期の自分が何か選択を迫られていた時に唱えていたマントラを今日の午後の買い物の行き道でふと思い出すとは思ってもみなかったことである。これが冒頭で執筆した日記の物語的性質を表しているのだろうか。


人生は無限なる未知に開かれた物語であり、今日の出来事もまた物語の中で重要な意味を持つものだったのだろう。こうした出来事は人生の重要な分岐点となり、ここからの人生の物語をまた大きく変えていく。フローニンゲン:2021/6/16(水)20:04

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