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7028-7033: アートの国オランダからの便り 2021年6月10日(金)


No.2345 神学的記号論_Theological Semiotics


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.678, Dreamwork

I feel as if I were still in the dreamworld.

My body and mind are still affected by last night’s dream.

I’ll re-enter the dreamworld to digest the dream.

Groningen; 05:52, 6/10/2021


No.679, Karma

Karma is neither pessimistic nor nihilistic.

Rather, it is like an existentially hopeful light because it essentially means that we can transform the meanings of the past right now and transform how we think and act from now.

Groningen; 15:06, 6/10/2021

No.680, The History of Buddhists Against Nuclear Energy

One of the essential principles of Buddhism is to be interdependent with nature.

I’m wondering how Japanese Buddhists have faced with the issue of nuclear energy.

It could be one of the deep shadows in Japanese history.

Groningen; 15:13, 6/10/2021


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(3つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日生まれた3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

7028. 今朝方の夢

7029. 生涯学習について

7030. 今後の探究の方向性

7031. 宗教とエコロジー

7032. ヴィジョン・クエストとカルマ

7033. 終末論的思想を乗り越えて


7028. 今朝方の夢


時刻は間も無く午前5時半を迎える。今朝もカッコウと小鳥が別々の場所で鳴き声を上げていて、彼らの鳴き声がシンクロして聞こえてくる。朝日が照り始める前のこの時間帯は、一際落ち着きを感じる。


今朝方はいくつか夢を見ていた。起床した直後もしばらく夢の世界からの影響を受けていたように思う。


夢の中で私は、大学時代に友達となったある友人と会話をしていた。大学を卒業するに際して、その後どのような進路を歩むのかについて話をしていたのである。


彼は修士課程も修了し、経済に関する高度な専門知識を持っていたのだが、進路は意外にも小学校の先生になるとのことだった。しかも、先生としての仕事よりもむしろサッカーのコーチとしての仕事を望んでいるようだった。


その話を聞いた時、彼がとても楽しげに小学生たちにサッカーを教えている姿が脳裏に浮かび、その仕事は彼の天職なのだろうと思った。彼の笑顔がとても印象的であり、その笑顔と共に夢の場面が変わった。


次の夢の場面では、私は見慣れない場所にいた。そこは映画館のようであり、そこのロッカーの前に私はいた。今から何か映画が上映されるのではなく、映画館の中で何かゲームが行われるようだった。


ひとまず荷物をロッカーに預ける必要があり、私はスペースの大きいロッカーに荷物を入れることにした。私が選んだのは4番のロッカーであり、ロッカーに鍵をかけ、木製の鍵板を受付に預けに向かった。


受付に到着し、鍵を預けたところ、何か違和感があった。自分のロッカーの番号は4番のはずなのに、今手渡した鍵板の番号が8番だったのである。


すると後ろから2人の女性が声を掛けてきた。振り返ると、8番のロッカーを使っているのは彼女たちのようであり、私が8番の鍵を持っていたことを不審がっていた。


私は事情を説明し、鍵を持って3人でもう一度ロッカーに向かうことにした。ロッカーに戻ると、4番の鍵は見当たらず、鍵がかかったままになっていた。


いったい誰が4番の鍵を持っているのだろうかと考えたが、考えたところでわかるものでもないと思い、鍵を開ける方法はないかと考えてみた。鍵の部分に手をかけて少し強めに引っ張ると、鍵が少し壊れた。それによって、中の物が取り出せるようになったのである。


私はそれで問題が解決したように思えたが、壊れた鍵についてまた受付に知らせに行く必要があると思い、それを済ませてからゲームに参加しようと思った。そこで夢の場面が変わった。


最後の夢の場面で私は、見慣れない学校の視聴覚室の中にいた。そこにいる社会の先生に相談事があったのである。


視聴覚室の中に入ると、先生はパソコン画面を見つめながら仕事に没頭していた。先生に声を掛けようとしたら、その後ろに若い男の英語の先生がいて、その先生はコーヒーを飲んでくつろいでいた。


いざ社会の先生に声を掛けたところ、先生に相談しようと思っていたことがもう解決されていることに気づいた。先生に特に用事がなくなってしまったので、その場で少しばかり言葉を交わすと、先生は笑顔でどこかに消え去ってしまった。


英語の先生は引き続きコーヒーを飲んでくつろいでいて、先生に話しかけようとしたときに、先生を間違えて「さん付け」で呼んでしまった。先生はそれについて特に気にしていないようだったが、すぐに修正して、「先生」と呼び直した。


先生は自分のコーヒーミルを使ってそのコーヒーを淹れたようであり、実は少し前に私がコーヒーミルで淹れたコーヒーは格別であると先生に話をしていたことを思い出した。先生はきっと私の影響でコーヒーミルを購入したのだろうと思い、その点を尋ねてみると本当にそのようだった。


先生の手元にあったフレンチプレスを見ると、コーヒーの色が少し薄いように感じ、先生は薄目の味が好みなのか、それともコーヒー豆をケチって少量しか入れなかったのか、そのどちらかの可能性について考えていると目が覚めた。フローニンゲン:2021/6/10(木)05:47


7029. 生涯学習について


時刻は午前6時半を迎えた。今、朝日が燦々と地上に降り注いでおり、それを浴びていると大変気持ちよく、活力が湧いてくる。生命に活力を与える太陽の立派さに感銘を受ける。自分もまた他者に何かを与える存在になれるだろうか。そのようなことを考える。


先ほどふと、生涯労働を前提とした生涯学習の無意味さについて考えていた。それを無意味と言ってしまっては元も子もないかもしれないが、自己を深め、人生を深めていく生涯学習というのは、労働のために行うものではないということを考えると、やはり無意味と言ってしまってもいいように思う。


一生労働をしなければならないという労働地獄の中で、自らが地獄にいるということを気づかせない形で生涯学習という巧みな言葉に人々を絡めとろうとするような悪意をそこに見て取る。ひょっとしたら、悪意なくそれが喧伝されているのかもしれず、それであれば尚更たちが悪い。


少しでも悪意があれば、人はそれに遅かれ早かれ気付くこともあるだろうが、悪意がない場合には、人々の無意識にいとも簡単にそうした言葉が浸透していき、その言葉に則った行動をすることが当たり前になってしまうことの怖さを思う。これは何も生涯学習という言葉だけに当てはまるわけではなく、他の言葉や社会慣行全般を含む。


生涯にわたってライフワークに従事することは尊いことであるが、金銭獲得を第一にした労働に生涯従事しなければならないというのは地獄であろう。金を得るために一生涯働かなければならない国が豊かな国であるはずはない。そのようなことを先ほど考えていた。


今日は午後に1階と2階に掃除機をかけようと思う。掃除は気分転換になるだけではなく、心身に治癒的な効果をもたらす。


そう言えば、昨日の午後に買い物に出かけようと思って、敷地内の扉の方に向かうと、そこにオーナーのペイトラさんがいた。ペイトラさんは腕を見せ、何やらコロナのワクチンを接種したとのことだった。ワクチンについては私も気になっていた。


これから欧州内の他の国に旅行に行くに際して、ワクチンの接種が義務付けられていた場合、ワクチンは正直なところ受けたくないのだが、必要であればワクチンをどこかのタイミングで受けようと思っていた。


ペイトラさん曰く、まずは高齢者から順番に政府から通達が来るとのことであり、私はもう少し先のようだと分かった。ワクチンの副作用の問題についてはもう少し調べてみる必要がある。先日その話題に関するニュースを見た。


旅行に際して、ワクチン接種に関する証明書を提示する代わりに、旅行の数日前に検査を受け、陰性の検査結果を証明すればいいという選択肢もあるので、ワクチン接種に関してはもう少し様子をみようと思う。フローニンゲン:2021/6/10(木)07:04


7030. 今後の探究の方向性


個人の信念体系としてのマネー、そして集合の信念体系としてのマネーについての探究を進めている。個人や集合が、マネーに対する既存の信念体系から脱却していくことの必要性を感じる日々。


マネーに付帯する個人と集合のナラティブを変容させていくことの重要性は日々高まるばかりである。国際情勢や生態系の問題を見ていると、そうした思いを強くする。


ここで少しばかり今後の探究の方向性の整理をしておきたい。そもそもの問題意識として、国際情勢や生態系の問題、さらには人間の劣化を目の当たりにしている際に、それらの問題の根幹には現代を覆う金融資本主義の歪みがあると思ったところから探究が始まった。


金融資本主義の発想と仕組みの歪みを探究していると、経済学の発想と方法論に多くの問題があることが分かった。そしてそもそも、マネーとは何かについて、そのあの世的な性質(絶対的·超越的性質)とこの世的な性質(相対的性質)についての理解が現代人の中でほぼ皆無であるという問題に行き着いた。


そうしたことから探究の方向性として、まずは根本のマネーの2つの大きな側面について探究をしていこうと改めて思った。その際に、英国ノッティンガム大学教授のフィリップ·グッドチャイルド教授の一連の書籍は非常に参考になる。


グッドチャイルド教授がキリスト教神学を用いてマネーの性質を詳細に論じており、彼の論証は全て理解するように努め、そこから彼の方法論を採用する形で、仏教の教義的観点からマネーの性質を論じていけないかを探索していく。


その後、ないしはそれと並行する形で、バスカーの批判的実在論とメタ実在論を活用して、経済学の発想と方法論の限界について建設的な批判を行っていく。対象は経済学だけではなく、範囲を広げて、金融資本主義の発想と仕組みにまで拡張させていこう。そして、そこから新たな経済思想の提示を行いたい。


つまり、マネーに関する根本的な問題、そしてそこから派生する経済学や金融資本主義の問題をクリアにした上で、新たな経済·金融思想を提示していくという流れを考えている。新たな経済·金融思想の提示に際して行うべきことは、シュタイナーや仏教経済学の経済·金融思想を深く理解することである。


生態系への配慮を考えると、もちろんシュタイナーや仏教経済学にもそうした配慮が色濃くあるが、マルクスの生態学的経済思想も学ばなければなるまい。先日、マルクスの生態学的経済思想に関する重要そうな学術書は全て購入しているので、ここからはそれらをまず一読する。


今、今後の探究の流れを書き出してみて、随分と先行きが明瞭なものになった。探究に際しては、それらの順番を追って行う必要はなく、それらは全て同時並行的に行っていこうと思う。ただし、重みづけはそれらのプロセスに沿ったものにする。つまり、まずはマネーの性質に対する探究である。


より具体的には、それはキリスト教神学からのアプローチをまずは採用する形で行われ、その後、仏教の教義を用いた形で進めていく。ここ最近の集中的な読書によって、上記のプロセスの全体感が見えただけではなく、それぞれのテーマに関して何が問題になっているのかの概要をおおよそ掴むことができた。後はそこからどれだけ細部に入って探究を進めていくかである。今、内側から強い情熱が湧き上がっていて、自分はそれと一体化している。フローニンゲン:2021/6/10(木)09:43


【追記】

本日、上記の探究の流れの中に、フランスの哲学者バーナード・スティグラーの現代テクノロジー批判の観点を加えることにした。テクノロジーの性質を神学の観点から紐解き、広義の文明批判を通じて新たな文明創造の流れを生み出せないかと考える。フローニンゲン:2021/6/11(金)20:52


7031. 宗教とエコロジー


気温の高まりを感じる午後。今日は天気が良いだけではなく、随分と気温が上がっている。


直感的に、今年の夏は「熱い」夏になりそうだという予感がする。気温として暑いのではなく、探究上の熱さが滲み出るような夏になるのではないかという予感がある。その予感はもうすでに今この瞬間においても形になって現れている。


今日は午前中より、仏教とエコロジーに関する書籍を読んでいた。遅ればせながら、浄土宗が“Pure Land Buddhism”と訳されていることを本書を通じて知った。


地球全体が人間が生み出した廃棄物や構築物で埋もれていく人新世の時代において、果たして浄土など存在するのだろうかと思ってしまう。浄土というのはあの世だけを指すものなのだろうか。


浄土宗を含め、生態系との相互依存関係を大切にする仏教が果たすべきは、この世を地球を浄土にしていくことなのではないかと思う。宗教が私たちの社会や地球に対する影響や貢献について考えていると、ふと、生態系を本来大切にするはずの仏教徒は、核エネルギーや原発の建設に関する問題とどのように向き合ってきたのか気になった。


この問題は多分に政治的であり、日本の仏教徒がどのようにこの問題と向き合ってきたのかに焦点を絞ってみると、日本の歴史の闇の側面が見えてきそうである。


生態系との共生を本質とする仏教は、その思想的本質から随分と逸脱してしまい、仏教の信奉者もまた人間中心主義的な発想で日々を生きているのかもしれない。


先ほど読み進めていた書籍の中でも言及があったが、とりわけ内面探求を重視する仏教の実践が歪な形で押し進められると、本来目を向けるべき自然との共生というあり方が失われてしまい、ひどく自閉的な生き方になってしまう恐れがある。ここに金融資本主義の思想が混入してくると、人は拝金主義的な形で内面探求を行い、地球との共存共生について意識が全く向かなくなってしまう。


もう少しばかり仏教とエコロジーに関する書籍を読み進め、そこからはマルクスやシュタイナーの生態学的思想について学んでいく。そして、他の宗教がどのように自然との共生について考えているのかについても調査を進めよう。


先日、インド人の隣人のサハルと話をしていたときに興味深い話を聞いた。日本人にとってもガンジス川は聖なる場所として有名だが、ガンジス川は随分と汚染されていることも知っている人は多いだろう。


サハルが述べていたのは、少しでも合理的な知性があるインド人は、ガンジス川なんかに絶対入らないし、近づきもしないということだった。合理的な知性を獲得していないインド人だけがガンジス川に盲信的に入るということを述べていたことが印象に残っている。


ヒンドゥー教が自然をどのようにみなしているのかはまだあまり知らないが、昨年日本に帰国するときに機内で見たドキュメンタリーの中で、インドは世界で最も大気汚染が深刻化している国だと知った。ヒンドゥー教もまた本質を見失っているのだろうか。


本来自然を大切にする宗教であっても、それを信奉する人たちが依然として神話性段階に留まる場合、生態系の現状を客観的に認識できないのかもしれない。その宗教の本質を見誤ってしまうというのは、どの宗教においても共通の現象のように思えてくる。


いずれにせよ、宗教と生態系に関するテーマもまたマネーのテーマと同じぐらいに重要であり、このテーマについても探究的実践を継続させていこう。フローニンゲン:2021/6/10(木)15:44


7032. ヴィジョン・クエストとカルマ


時刻は午後5時を迎えた。今日は大変気温が上がり、今の外気は27度に到達している。1階は建築素材ひんやりとしているのだが、2階は気温が上がり、28.5度ほどに到達している。


そのような暑さの中で、今年の夏はフィンランドの森の中にあるコテージかホテルでゆっくりと過ごしたいと思った。最近、自然を求めて森に入っていく知人が多くなってきている。


森の静けさを感じながら自己を見つめることは素晴らしい実践であり、そこから自己だけではなく世界を見つめていくことが大切になる。自我中心的ではなく、自己を含めたエコ中心的なあり方の実現。


それには認識変容と存在そのもの霊的変容が不可欠であろう。森の中でしばらく過ごすことは、そうした変容の後押しになるのではないかと思う。


絶え間なく続くヴィジョン·クエスト。それを通じて見えてきているのは、自分が包摂されていながらも全ての存在を含んだより大きな理念と探究実践である。毎日はヴィジョン·クエストの進行過程であり、究極的な理念と探究実践に向かって少しずつライフワークが進んでいる。


先ほど、ディーブ·エコロジーの提唱者であるノルウェーの哲学者アルネ·ネスの思想を取り上げた書籍を読んでいた。ウィルバーが指摘するように、ディープ·エコロジーの発想には盲点や限界はあるが、同時に科学中心的なエコロジー(シャロー·エコロジー:表面的なエコロジー)にはない価値を有することを認めなければならない。


ネスの思想は仏教経済学を提唱したエルンスト·シューマッハの思想とも繋がっていて、引き続きネスの思想を含めたディープ·エコロジーの書籍を読み進めていく。先日読み終えた、批判的実在論の観点からネスの思想を取り上げた書籍も再読する必要があるだろう。そこからさらに、イギリスの哲学者ティモシー·モートンの「ダーク·エコロジー」に関する書籍も読み進めていこう。


今の自分が今このようにしてここにあるのは、何かしらのカルマに基づく。だが過去のカルマに対する意味づけは今この瞬間に変えることができるし、さらには今この瞬間に自分のあり方や思考を変えることができる。


そして、自己と世界に対する関係もまた今この瞬間に変えることができるのだ。そこからわかるのは、カルマとは決して悲観的·虚無的なものではなく、むしろ実存的な希望をもたらす光のようなものだということである。


ヴィジョン·クエストによって見えてきたものに導かれる形で、カルマを変容させていく日々。本音で言えば、毎日詩集だけを読み、毎日音楽と絵ばかりを作って過ごしたいのだが、そうはさせてくれない何かが自分を突き動かしている。


現在の探究実践活動の源はその何かであり、それがあるがゆえに今自分は毎日探究活動に深くコミットしている。実情は、詩集を読むことや創作活動は二の次であり、探究実践活動が最優先事項として存在している。


ひょっとすると、上記の本音は別の見方をすれば本音ではなく、深層的なもっと重要な思いが自分の中にあるのだろう。だからこそ、今毎日このような形で探究実践活動に深く従事しているのだ。


就寝までまだ十分に時間がある。今からまた書物を読んでいこう。それがまたカルマを変容させ、ヴィジョン·クエストがさらに進んでいく。フローニンゲン:2021/6/10(木)17:20


7033. 終末論的思想を乗り越えて


ゆっくりと終わりに向かっていく今日という1日。毎日がこれ以上に充実することが考えられないぐらいに充実感に満ちた形で進行していく。その一方で、自分は何か終末論的なものと絶えず隣り合わせにいるように思える。


マネーの探究実践も、エコロジーの探究実践も、単に人類と他の生命を含めた地球をわずかに延命させることにしか繋がっていないのではないかという考えとのせめぎ合いの中で行われている。


終末論的な発想と相まって、地球に安楽死をもたらした方が望ましいのではないかという考えを超克する形で自分の探究実践をなんとか前に進めようとしている自分がいる。非常に不気味で巨大な終末論的思想。


自分の諸々の取り組みが、どこかとてもちっぽけで、仮に幾ばくか波及効果があったとしても、それは結局人類や地球の慰め程度の延命にしか繋がらないのではないかという考えを乗り越えていくこと。あるいは、それを引き受けながらにして前に進み続けていくこと。


終末に盲目的ではなく、終末を所与としてそれでも進む姿勢を持つ自分。終末は必ずやある。人間も地球も有限な命を持つ生命体なのだから。


だが、終末があるとわかっても進んでいく自分。終末論的思想を含んで超えていくこと。それが大切なのだ。


夕方の世界に小鳥たちの鳴き声が響き渡る。穏やかなそよ風。穏やかな夕暮れの光。


窓越しに外を見ると、1匹の虫が宙を漂っていた。生き物との共生。自然との共生。地球との共生。


現代人はもはや同じ人間とでさえ共生が難しい状態になってしまっているが、それでも共生の道を探っていかなければならない。道徳·倫理的な形でそれを訴えるというよりも、もっと本質的な、実存的な形でそれを訴え、それに共感してもらえないだろうか。


いや、そうした共感の念を喚起するまでもなく、もっと深い本源的な感覚を呼び覚ますことの方が大切なのだろうか。


夕方に、不公平さや権力の横行、そして種々の社会問題や地球規模の問題の根底にあるマネーについて考えを巡らせていた。マネーが神聖な性質を帯びていることは不気味でありながらも、同時になんとも言えない好奇心を掻き立てる。


マネーに関する書物を集中的に読んでいると、マネーにまつわる多様な虚構的レトリックとナラティブは非常に複雑に絡み合っていて、それを1つ1つ紐解いていくことが自分の役割の1つであることを再認識した。そこに関心が向かっている自分がいて、そこに向かってすでに動き出している自分がいるのだ。


マネーの虚構性を事細かに暴くだけでは不足であり、暴いた特性を1つ1つ紹介していきながら、同時にマネーに関する新たなナラティブを提供すること。それもまた自分に託されていることなのだろう。フローニンゲン:2021/6/10(木)20:08

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