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6938-6943: アートの国オランダからの便り 2021年5月21日(土)


No.2271 光の花束_A Bouquet of Light


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.637, A Dreamwork

I had a dream this morning, too.

I’ll re-enter the dream world by being in a meditative state while taking a bath.

Particular emotions or feelings would come again.

A dreamwork is helpful for healing and transforming myself.

Also, it is the precious source for my creativity.

Groningen; 04:51, 5/21/2021


No.638, I AM

I’m a beautiful world.

The world and I are one.

I’m the One and the Many.

I’m very grateful for that.

I’m such a grateful feeling, too.

Groningen; 20:50, 5/21/2021


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日生まれた5曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

6938. 今朝方の夢

6939. 世界の小ささと問題の大きさ/不思議な感覚

6940. 一体的な意識と一体的な感覚/内在神と仏性

6941. 鐘の音が聞こえて/問いの提示と解決の永遠なるプロセスとしての自己

6942. だから自分は

6943. 笑い/理解/出発の衝動


6938. 今朝方の夢


時刻は午前4時半を迎えた。今朝は激しい雨音と共に目覚めた。どうやらそれは通り雨だったようであり、今はもう止んでいる。


いつもと少しばかり違った形で始まった1日。そうした1日に今日もまた希望を抱く。今朝方も気温が少し低い。天気予報を確認すると、今日は1日を通して断続的に雨が降るようだ。


起床直後の激しい雨によって、小鳥たちの鳴き声を今日は聞くことが難しいと思っていたところ、雨が止んだ後、彼らの鳴き声が聞こえてきた。今も数羽の小鳥が小さく鳴き声を上げている。


今朝方はどのような夢を見ていただろうか。夢の中で私は、社会人時代に過ごした大阪の街にいた。より具体的には、新大阪の駅の周辺にいた。


最初私は駅構内を歩いていて、そこから外に出て、買い物ができる近くのビルに向かおうとしていた。駅から外に出る際に、どういうわけか身分証のようなものが必要であり、カードを機械に通すことによって初めて外に出られるようになっていた。


その機械は黄金でできていて、随分ときらびやかであった。その機械にカードを読み取らせるのは一瞬だろうと思っていたところ、数秒ほど読み取りに時間がかかり、機械の前で少し立ち止まってしまった。


機械に突っかかりそうになってしまった私に対して、機械の近くにいた係員の中年男性が、「そんなに焦らないように」と私を諭した。無事にカードが機械に読み取られると、目の前には大きな階段が存在していた。そこには人が何人も乗れる大きなエスカレーターがあって、私はそれに乗って下まで降りることにした。


大股でそのエスカレーターを降りていると、後ろから年配の男性が2人、私の後を追うかのように勢いよく降りてきた。私は追いつかれないように早く降りようと思った。無事に下まで降りた時、2人の男性は姿を消していた。そこから目的のビルで買い物をしようと思った時に、夢の場面が変わった。


今朝方はもう1つ夢を見ていて、その夢の終わりが目覚めの瞬間だった。その夢については鮮明には覚えていないが、見知らぬ建物の中のトイレにいたように思う。


そこで用を足しているような場面があった。そしてそこから友人か誰かの家に行き、友人と話をし始めたところで夢から覚めた。


小さく聞こえてくる小鳥の鳴き声。それに癒されながら、今日もまたゆっくりと自分のライフワークに取り組んでいこう。フローニンゲン:2021/5/21(金)04:46


6939. 世界の小ささと問題の大きさ/不思議な感覚


世界がどこか小さく感じられる。先ほど朝風呂に入りながらそのようなことを思った。


時刻は午前5時半を迎え、先ほど朝風呂に入っている最中にも通り雨があった。そのような中で小鳥たちが美しい鳴き声を上げていた。今は彼らの鳴き声は少し落ち着き、またどこかのタイミングで彼らは鳴き声を上げてくれるだろう。


とりわけ朝晩の彼らの鳴き声には心底癒される。毎朝、毎晩、プライベートなコンサートに参加しているような恩恵を得ているように思う。今の自分の充実した生活は、彼らの支えなしには存在し得ないもののように思える。


世界が小さく感じられる一方で、世界に山積みの問題は大きく感じられる感覚。それが先ほどやってきた。


コロナの影響もあって、欧州内での行き来は非常に制限され、昨年の秋に日本に一時帰国して以来、一度もオランダを出ていない。コロナの前までは、1ヶ月か2ヶ月に1度は旅行に出かけるようにしていて、当時からすると、今の状況は想像できないようなものである。


オランダ国内での移動は問題なくできるため、オランダ国内の旅行は可能である。しかしながら、それに乗り出していく気持ちがあまり高まらず、フローニンゲンの街に留まり続けている。もっと言ってしまえば、く自宅とスーパーを行き来するような日々がずっと続いているように思う。


そうした状況が影響してか、この世界がどこか小さくなってしまったように感じるのである。コロナによって移動が制限されるという制約条件によって、自分の世界認識が変わってしまうことを興味深く思った。


一方で、社会的な制約によってこうも人間の認識が変わってしまうのだということを実感すると、歪んだ社会的制約の負の側面を見る。現在の状況の怖さは、世界が小さく感じられる一方で、そこに横たわる問題がより大きくなっているように感じられることだ。


対象とする世界が縮小していくような認識とは逆に、世界が抱える問題が拡大されていくというのは恐ろしいことのように見える。こうした認識変容が自分の中で起こったことが、新たな領域に自分の関心を開いたのかもしれない。昨夜日記で書き留めていた仏教経済学もまさにそうである。


昨夜就寝前に、いつものように心を落ち着かせるために少しばかり瞑想をしていた。すると不思議な感覚があった。


右手にインテグラル理論、左手に批判的実在論とメタ実在論が乗っているような感覚があり、右肩の上の空間に霊性学が、そして左肩の上の空間に経済学が浮かんでいるような感覚があったのだ。さらには、頭上に地球が浮かんでいるのを知覚していた。


2つのメタ理論を基盤にして、自分が深く具体的な関与を行っていく領域が霊性学と経済学なのだろうか。社会的な課題、さらには地球規模の課題の解決に向けて、それら4つが今自分の中で相互作用をしながら回り始めた。フローニンゲン:2021/5/21(金)05:42


6940. 一体的な意識と一体的な感覚/内在神と仏性


ゆったりとした時間が自分を包み、自分はその中にいる。流れゆく時間の中に深く入り込むと、そこはもう流れなどないのだろう。


流れを外から見ているから流れているように見えるだけなのだ。真に流れそのものと一体化してしまえば、もはやそこには何かが流れているという感覚など消失するはずである。今の自分はそのような感覚の中にいる。


「感覚を持っている」という形ではなく、感覚の中にいるのだ。そして、その感覚そのものと一体化しているのを感じる。


ここのところはどういうわけか、種々の対象と一体化する感覚が頻繁に芽生えている。それは絶えず何かとつながっている感覚だと言えるだろうか。一体的な意識と一体的な感覚が、今自分の中で日々育まれている。


シュタイナーの経済思想と仏教経済学の思想をインテグラル理論と批判的実在論及びメタ実在論の観点から紐解いていくこと。そしていつかこのテーマに関する英文書籍を執筆してみたいということを思った。


昨夜も文献調査をしており、シュタイナーの経済社会思想に関する書籍の大半は既に持っているのだが、改めて調べてみると、いくつか読みたいものが見つかった。それらの書籍に加えて、仏教経済学に関する数冊の書籍は、来月をまたずしてもう注文をしてしまってもいいかもしれない。


今週末に時間を取って、滞在許可の延長申請に関する書類をダウンロードし、早速記入を進めていこうと思っていた。それに加えて、上述の書籍を注文してしまってもいいかもしれない。


探究を前に進めていくにあたって、熱量は極めて重要であり、今上述のテーマに対して強い関心があるうちに書籍を一気に読み進め、そこからゆっくりと探究を深めていくことが賢明なのかもしれない。


己の内在神、己の仏性に気づけば気づくほど、日々が充実感と幸福感に満たされていく。自分の潜在的可能性と創造性を存分に発揮しながら、日々自分にできることを積み重ねていくこと。そんな日々が続く。


己の内在神や己の仏性が見えなくなってしまっている“theopathy”という病理を患う現代人。各人が神性と仏性に目覚め、それを顕現させること。神性や仏性によって人々がつながる社会。そうした社会の実現に向けた探究活動と創作活動をこれからも続けていく。


自分の進むべき道が日々少しずつ明確になっていく。もちろんその道の先に何があるのかは全くわからない。


道の先にあるものはまた道なのかもしれない。人は永遠の道を歩いているのだ。


道の深淵性を思うと、静かな気持ちになる。この気持ちを大切にしながら、今日もまた自分の取り組みに従事していこう。フローニンゲン:2021/5/21(金)06:14


6941. 鐘の音が聞こえて/問いの提示と解決の永遠なるプロセスとしての自己


夕日が燦々と輝いている。辺りはとても穏やかだ。


時間感覚が喪失しているかのような感覚。それは確かに感覚として存在しているようなのだが、自己が感覚を持っているというよりも、感覚が自己を持っているのかもしれない。そんなことを思う。


日常世界の絶え間なく変貌していく風景。外面的も内面的もそれが起こっている。


風景の変貌は、自己と世界の変貌を示唆している。自己も世界も刻一刻と変化している。変化こそ自己であり、変化こそ世界なのだろう。


そう言えば、今日は雷が鳴り響く瞬間があった。激しい通り雨があった。だが、午前中には晴れ渡る瞬間の中で、近くの教会の鐘の音が聞こえていた。


あれはNieuwe Kerkというプロテスタント教会の鐘の音だろう。それは本当に美しかった。


鐘の音が何かを告げている。そう思った時、自分は鐘の音そのものとなった。そして自分はどこかに運ばれていった。


鐘の音の知らせは、自己に対する何かの知らせだった。それは目醒めの知らせだったのだろうか。


日々、小さく小さく目醒めていくプロセスが続いている。人間の成熟過程とは目醒めのプロセスなのだ。


今の自分はどうやらその道を真っ当に歩いているらしい。その真っ当さの確証はどこから来るのか。深層的な内的感覚、ないしは内的直感である。


振り返ってみれば、今日も雑多なことを考えていた。注意欠陥型の政治と経済の横行。


現代における政治と経済は、私たちの注意を刺激し、様々な事柄に表層的な注意を散らし、重要なことに意識を向かわせない形で営まれている。そこでは深層的な構造や現象が意識の対象に上ることはなく、それらには目を向けられないままに種々の問題の根本が温存されている。


そのようなことを考えていると、地球規模で進行する霊性の物質化及び地球環境の物質化について思いを巡らせていた。どちらも物質化の進行が進み、それらへのアプローチはひどく限定的なものになっている。


客観的·定量的なアプローチの支配。それらのアプローチの価値を認めながらも、それらがアクセスすることができない側面に意識を向けなければならないことを思う。


穏やかな夕焼け空が広がる世界とは裏腹に、この地球はひっそりと涙を流している。人類も集合規模で深い悲しみに暮れている。


地球と全人類の悲痛のことがどこからともなく聞こえてくるかのようだ。聞こえてくる。それははっきりと聞こえてくる。


自分はまた問われている。自分は自己の深層から問われ、世界から問われている。


それらの問いに耐えること。そしてそれらからの問いを引き受けることを通じて、問いからの問い返しを通じた問いの解決を待つこと。


問いはその問い自身を照らし、その問いを解決させる形で新たな問いを創造していく。自己はそうした問いなのだ。自己は問いの提示と解決の永遠なるプロセスなのだ。フローニンゲン:2021/5/21(金)19:50


6942. だから自分は


自己の消失、ないしは明滅。自己の移ろい。時が移ろい、自己も移ろう。


世界は陽炎としての移ろい。そして自己もそうだ。


自己も世界も何か得体のないものとして存在している。自己と世界の得体の知れなさ。それに存在がすくんでしまうというわけでは決してない。


得体のしれなさそのものが目の前にあって、それを眺めているのだ。そして自己と世界全体を一緒くたに眺めている自分がいる。


自分は眺める者。自己と世界は同一のものであり、その同一性を自分は眺めている。今この瞬間もだ。


この瞬間を眺める者としての自己。すると、自己はこの瞬間になる。


自己はこの瞬間に回帰する存在。自己がこの瞬間と出会った瞬間に、何かが爆発し、そこから全てが流出する。


本当なのだ。それは本当にそうなのだ。


自己がこの瞬間と出会った瞬間に、極大な爆発が起こって、そこから自己と世界が奔流として流れ出してくる。自分はその奔流を眺める者。流出する自己と世界の全てを眺める者。


そして自己と世界は還る。還るべき場所に自己と世界が還る時、またしても自己と世界が消失する。


だがそこからまた一瞬にして全てが生まれる。この知覚体験は何のだろうか。


合一、消滅、全ての奔流。この繰り返し。日々はこのプロセスの繰り返し。


夕方のフローニンゲンの風は優しい。世界がその優しさに溶けている。


フローニンゲンはまだまだ寒い日が続くが、新緑が多くなった。新緑がそよ風に揺れながら挨拶をしている。


全てはそよ風。全ては新緑。


そよ風も新緑もまたどこかに消えていき、自分はそれらが消えた後の何かとなり、また何かを生み出す。


自己は本当に世界そのものだ。そして全てを生み出すそれに他ならない。


そう言えば、今日は数ヶ月ぶりに和書を読んだ。最後に日本語の書籍を読んだがいつか覚えていないほどだ。


いつも自分は英語の書物を読み、独り言を英語で呟きながら探究を進めている。今日は日本語の書物を音読しながら、日本語で独り言を呟いていた。


一連のこの日記も呟きなのかもしれない。この日記は日本語で綴っている。


毎日の探究で触れる言語が英語であるという性質上、実存的調和をために日本語での日記の執筆が不可欠のようなのだ。それは魂の慰めなのだろうか。いや、慰めというよりも必要なケアであり、同時に肥やしなのだろう。


自分はここから前に進めるのだろうかという問いは愚問である。自分はこの世界そのもの。全てを創造する世界そのもの。千変万化する世界そのものなのだ。


自分はもう進行する道の外に広がる道の上を歩いている。いや、その超越的な道として佇んでいる。


佇んでおけばいいのだ。超越的な道としての佇み。自分はそれだ。


もう少ししたら夜がやってくる。自分は夜であり、日が昇れた自分は朝となる。


自分は夜。自分は朝。自分は太陽。自分は太陽の降り注ぐ地上。


そして自分は全て。全ては自分。だから自分は全てのために全てを尽くす。フローニンゲン:2021/5/21(金)20:19


6943. 笑い/理解/出発の衝動


昨夜就寝前に笑った。寝る前に笑いが起こることは頻繁にある。


自分はほんの少し前まで理科系の科学者であったことを笑った。取得している3つの修士号のうち、直近の2つは理科系のサイエンスに関するものなのだ。


笑った。そう言えば、自分の最初の仕事は企業社会におけるコンサルティング業務だった。しかもそれはそんなに昔の話ではない。その世界から離れたのはまだ10年前のことだ。


今の自分は思想的なものに傾斜しているのだろうか。それでいて思想家という気もあまりしない。


もはや自分は名前のない者。名前の大切はひどく承知している。だが、名前がないのだからどうしようもない。


自分の名前はどこから生まれてくるのだろうか。自分は一体何者なのだろうかという問いに行き着く。やはり自分はその問いになってしまうのだ。自分は本当に問いなのだ。


自分は笑い、笑いとなり、再び自分は自分になる。そうなのだが、この自分は何か無限の広がりのような形として存在している。いや、それはあるやなしやの絶えず変化する状態、ないしは風景のようなものである。


時刻は午後8時半を迎えた。辺りはまだ明るい。だが寒い。もう少ししたら浴槽に温かい湯を張ろう。


一体誰が自分を理解してくれるのだろうか。世界は自分を理解してくれるのだろうか。


そもそも自分は自分を理解できるのだろうか。自分を理解できる者。それは世界としての自分と、自分としての世界だけなのかもしれない。それ以外の存在は自分を理解できないのかもしれない。


先日、友人のメルヴィンが、独りでいることと孤独の違いについて語っていた。自分は孤独では決してない。世界と共に常に独りでいるのだ。


自分のそばには常に世界がいて、常に自分がいる。自分に絶えず寄り添っているのは、時間を持たない永遠のこの世界、そして時間を超えた超越的な自己。


ムース。ムースが歩いているではないか!


隣人のマークの愛猫のムースが倉庫の屋根を歩いている。この家の最初の居住人だった台湾人のチーが、「時々浴槽の天窓の上を猫が歩くことがあるよ」というようなことを物件見学の際に述べていたことを思い出す。


出発。全てを捨て去って新たに出発をしたい衝動。


とにかく新たな出発をしたい気持ち。爆発が出発をもたらすのだろうか。


自己が爆発と共にはち切れ、途轍もない出発がやってくるかもしれない。そのカウントダウンが静かに始まっているように思える。


だがその出発がいつどのような形でやってくるのかは知らない。自分は知らないのだ。何も知らないのだ。


自分にとって重要なことは何も知らないということ。それは人間の性なのだろうか。


今の自分とは全く違う何者かの姿がちらつく。それは向こうからやって来る。


こちらからそちらに向かっていくことはできない。それは向こうからやって来るのだ。


そして気づけばそれが自分となっているのである。そう、それが発達の原理だった。フローニンゲン:2021/5/21(金)20:45

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