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6499-6500: アートの国オランダからの便り 2020年12月24日(木)


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No.1658 クリーミーな夢_A Creamy Dream

本日の言葉

Compassion is what makes all sentient beings happy. Lama Zopa Rinpoche


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本日生まれた5曲

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タイトル一覧

6499. 今朝方の夢

6500. 我を超えていく旅


6499. 今朝方の夢


時刻は午前5時を迎えた。昨夜から小雨が降り続けている。


少し早いがクリスマスを祝ってか、昨夜花火が上がった。それは盛大なものではなく、慎ましいものだった。


コロナの猛威が加速する中で年末を迎えることになるが、今年は年末の花火は上がるのだろうか。個人的には、それは睡眠妨害でしかないので打ち上がらない方が望ましい。


花火を上げるのであれば時間を考えて欲しいというのが正直なところだ。そのようなことを考えながら昨夜は就寝に向かった。


眠りの世界に落ちてみると、そこからいくつかの夢を見た。夢の中で私は、何人かの外国人たちと話をしていた。その中にはオーストラリア人の友人がいて、彼らと落語について話をしていた。そのうちの誰かが1つ演目をやってみようということになり、そこで夢の場面が変わった。


次の夢の場面で私は、ある風光明媚な島国にいた。その島の海は美しく、街と呼べるほどの開けた街はなく、逆にそれが良かった。


私はビーチの上に建っているカフェにいて、そこで元サッカーイタリア代表の背の高いディフェンダーの選手と話をしていた。彼はイタリア人気質が強く、とても陽気でよく話す。


私は彼の話を聞きながら、周辺の島について色々と尋ねた。彼はバカンスでよく色々な島を訪れているらしかったのだ。


しばらく彼と話をした後、カフェの前でマットを敷いて、そこに寝っ転がり、日光浴をすることにした。すると、近くのマットに小中学校時代の2人の友人(HS & AF)がいることに気づいた。


まず近くにマットを敷いていた1人の友人に声を掛けると、何やらコロナの影響で1年以上も会社が休みになっているのとことだった。彼はこれまで有給をほとんど消化せずに働き詰めであったから、それはちょうどいい機会だということを述べていた。一方でこれまで休みを取ったことがない分、最初はどのように過ごしていいかわからず戸惑ったということを教えてくれた。


もう1人の友人は相変わらず働き詰めのようであり、確かに労働時間は減ったそうだが、それでも月に160時間は働いているとのことだった。すると彼がカフェで働いている姿が想像された。店が始まる前に、窓を一生懸命拭いている彼の姿が浮かび上がってきたのである。


そのような空想の世界に浸っていると、彼の提案として、これから私たちが何時間働いているのかの測定をしようと言われた。正直なところ、私は月に数時間しか働いていないので、それをするのはあまり意味がないと伝え、もう1人の友人がその測定に協力することになった。


なぜか私たちはビーチのカフェの前から教室に瞬間移動していて、教室の中で、その友人は小さな測定器を付けられていた。そこで夢の場面が変わった。


次の夢の場面では、私は学校の教室にいた。ふと視線をやると、教室内に猫がいた。それは白い猫だったように思う。


猫が教室の外に出ていくのを見届けると、先生が教室に入ってきた。見ると、先生は男性と女性が半分半分に混じった性別不明な人間だった。


先生が教壇に上がると、どういうわけか名指しすることなく暗に私の行動を批判し始めた。実は私はその批判を待っていて、批判を受けるためにわざとある行動を取っていたのである。


先生がまんまと自分の策略に引っかかったことを心の中で喜び、後ほど大きな仕返しをしてやろうとニヤけていた。端的に仕返しというのは、先生を半殺しにすることである。


どのように半殺しにするとみんなが喜んでくれるかを考え、同時にそのタイミングを見計らっていた。いよいよそのタイミングが来たと思ったところで夢の場面が変わった。今朝方はそのような夢を見ていた。


ある島国の夢において、その国はまだ観光名所にもなっておらず、穴場のような国だった。そのおかげか自然は美しかったが、宿泊施設や買い物施設は不十分だったことを覚えている。


また、その夢の後半で労働時間の長い友人が少しばかり攻撃的な態度を私たちに取っていたのを覚えている。一方で、最後の夢の中では自分が攻撃性を発揮しようとしていた。それらの攻撃性は自分の中の何を象徴しているのだろうか。フローニンゲン2020/12/24(木)05:39


6500. 我を超えていく旅


時刻は午後7時半を迎えた。クリスマスイブがゆっくりと終わりに近づいている。


今年のクリスマスは例年よりも気持ち的に静かに思える。それはやはり今の世相のせいなのかもしれない。今日もまた映画鑑賞と創作活動に打ち込む1日であった。やはり音楽を作っている時が一番心が安らぐということを改めて感じた。


その瞬間の自分の内側に流れる感覚に合致する音を探し、それを形にしていくことを通じて、音楽的感覚世界の中で音楽的な存在になりきることが精神を最も寛がせてくれる。そのようなことを感じながら、ルーミーやオーロビンドといった神秘思想家が残した詩に対して曲を作ってみたいという思いが芽生え、詩に曲を当てる方法について学んでみようと思った。


手持ちの書籍の中にその実現に向けて参考になるものが何冊かあったように思う。それらをまた紐解いてみよう。


「厳格な形式は、ただの計算ではなく表現欲求を形作るためにこそある」というヘルダーリンの言葉を思い出す。出発地点は表現欲求であり、そしてそれを形にしてくれる形式というものが必要になる。


形式を何にするかという選択と、自分なりの形式を生み出すことの大切さについて思う。今は既存の種々の形式に触れながら、少しずつ自分なりの形式を生み出す道を歩いていくのが懸命だろう。


先ほど、今日もまた『昭和元禄落語心中 -助六再び篇-(2017)』の続きを見ていた。今日は第4話から第9話までを見ていた。


師匠の八雲から自分らしい落語、すなわち固有の我を出すことに苦心する助六。助六がそこから認識の変化があり、固有の我を出すというよりも、我を超えていく道を見出したことがとても興味深かった。そこにはどこかトランスパーソナル的な発想があった。


「自分を空っぽにして我を無くして演じたい」というあり方が、助六を「落語の神の入れ物」にさせていった。創作活動を通じて、我を超えていく道を探求し、それを実現させていこう。


我を超えていくためには、まずは我を確立する必要があり、創作上の我の確立のためには、何をもって粋(いき)とするのかを見出すことが大切になる。つまり、創作における自分なりの喜びや楽しみがどこにあるのかを見出すことが先決なのだ。それを見出して初めて我の確立に向けた旅が始まり、その旅は我を超えていく旅となる。


現在毎日見ている様々な映画作品は、創作における肥やしとなり、我を超えていく旅の支えにきっとなってくれるだろう。日々の読書も日記の執筆もまた然りである。日々の行動の全てが我を超えていく旅の支えになってくれるという確信が芽生えている。


クリスマスイブの今日、そうした確信を得ることができたことに感謝をしよう。欧州で迎える5度目のクリスマスは、例年と変わらずに優しく穏やかであり、それでいて新しい。フローニンゲン2020/12/24(木)19:59

 
 
 

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