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6261-6264: アートの国オランダからの便り 2020年9月27日(日)


No.1441 夜の深まり_A Deepening Night

本日の言葉

The common man grasps the object, he who seeks prefers the heart. Huang Po

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本日生まれた8曲

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タイトル一覧

6261. 今朝方の夢

6262. 乾燥機の故障より/『野火』の感想の追記

6263.『日本のいちばん長い日(2015)』を見て/メタ理論についての補足

6264. "This Giant Beast That is the Global Economy (2019)”の第4話を見て/マルクスの発達倫理


6261. 今朝方の夢

時刻は午前7時を迎えようとしている。今朝はいつもよりゆったりと起床し、6時に起きた。身体のリズムに応じて必要な分の睡眠を取っていくことはいつもと変わりない。


今、ゆっくりと空がダークブルーに変わり始めている。外気は低く、日の出も遅くなり、本当に秋の深まりを実感する。


暗闇の中を数羽の小鳥たちが鳴き声を上げている。彼らの鳴き声に耳を澄ませながら、今日の活動に思いを馳せる。


今日はまず、いつものように創作活動から1日の取り組みを始める。これはどんな日であろうとも変わらない。日記を執筆し、絵を描き、その後に作曲実践に励むというのは習慣的なサイクルであり、そのサイクルが一巡したところでここ最近は読書に励んでいた。


しかし今日は、秋の対談講演会に向けた資料を午前中から作っていこうと思う。というのも、昨日の午後は結局それを作ることができなかったからである。


今日は早朝の作曲実践がひと段落したら資料の作成に取り掛かる。今日中に全てを完成させる必要は全くないが、大枠を作り、大抵の内容を資料に盛り込むところまでできたらと思う。


後の細かいところはまた後日作っていけばいい。美学や霊学を含め、ここ数ヶ月間に学んできたことを当日の対談講演会で話すことを前提にした資料作りをしていこう。資料作りもまた創作活動の1つであるから、くつろぎの中で楽しみながら作っていこう。


今朝方の夢を回想している。いくつか覚えている場面がある。


夢の中で私は、日本の田舎町にいた。田舎町と言っても、未開の地ではなく、ある程度開発が進んでおり、駅近郊には様々な商業施設があった。私はその町に住んでいるようだった。


駅から自宅のマンションに向かって歩いていると、変わった作りの宿泊施設を見つけた。それは道路に面しており、3つの部屋だけがある施設だった。


道路と各部屋を仕切っているのは壁でもドアでもなく、カーテンレースだった。ちょうどカーテンレースが開けられていたので中を覗くと、中にはベッドとテレビだけが置かれていて、3つの部屋もまた壁で仕切られておらず、カーテンのような布で仕切られているだけだった。


その宿泊施設の管理人らしい中年女性がこの施設について簡単に私に説明してくれた。その後、私はその場を離れ、自宅に向かって行った。


自宅のマンションの前までやってくると、そこに友人がいた。よく見ると、彼女の妹もそこにいて、2人は中学生か高校生ぐらいの容姿になっていることに気づいた。どうやらこれから3人でゲームをするか、何か話をするかという予定を立てていたようであり、私はそれをすっかり忘れていた。


マンションの前で待たせてしまったことを申し訳ないと思い、私はすぐにオートロックの鍵を使って、まずはマンションの外側のドアを開け、中に入った。そこから階段を上って自分の部屋まで行こうとすると、友人が2階で大きなカプセル型の設備を見つけた。


彼女は興味本位でそれをいじると、水が大量に放出され、彼女の体はずぶ濡れになってしまった。タオルを持ってこようかと声をかけたが、彼女の自宅が近いとのことなので、すぐに自宅に戻って着替えてくると彼女は述べた。


彼女の妹と私はその場に残され、仕方ないので先に部屋に行って、2人で話でもしようかと思った。今朝方はそのような夢を見ていた。


実際のところは、その他にも場面があったことを覚えているが、その内容については思い出すことができない。感覚として、それらの夢の場面は肯定的な感情を引き起こすようなものだったと思う。フローニンゲン2020/9/27(日)07:14


6262. 乾燥機の故障より/『野火』の感想の追記


——人生はある環境の中で続いていく。だがそれは、単に環境の中で継続していくのではなく、その環境ゆえに、そしてその環境との相互作用を通じて継続していくのだ——ジョン·デューイ


時刻は午前7時半に近づこうとしている。辺りは随分と明るくなったが、まだ暗さが少し残っている。空は雲に覆われていて、今朝は朝日を拝むことができなさそうである。


先週から自宅の乾燥機の調子がおかしくなってしまった。それはそれほど古くなく、確か2年前に新しいものに替えてもらったばかりだった。


乾燥機の中に埃でも溜まっているのではないかと思って中を開けて調べてみたところ、確かに埃が溜まっていて、それらを取り除いたのだが、それでも乾燥させる力がほぼない状態に変わりはなかった。そのため、今回も不動産屋に連絡をしたところ、早速返信があり、来週の早いタイミングで新しい乾燥機を取り付けてもらえることになった。洗濯機は私が来た5年前と変わらずに動いているのだが、乾燥機は壊れやすいのか、今回が3台目になる。


日本で生活をしていた時は、洗濯物を自分で外に干していたが、今となってはそれが信じられない。意外と馬鹿にならないほどに時間を食ってしまうのだ。


アメリカでの生活が始まったことに合わせて乾燥機を使うようになり、それ以降は乾燥機にお世話になりっぱなしである。欧米の先進国では、基本的に洗濯物を外に干すという習慣がなく、乾燥機を大抵どこの家でも使っている。先週から乾燥機の調子がおかしくなってしまったので、2回ほど洗濯物を自室で干したのだが、改めて乾燥機の便利さを有り難く思った。


昨夜就寝前に、昨日の夕方に見ていた『野火』という映画について改めて考えを巡らせていた。昨日の日記に書いていないこととしては、作品の途中で出てきた教会のシーンが印象に残っている。


銃弾が飛び交うような戦地のジャングルの中に、ポツリと古びた教会が映し出された時、そのシンボルの意味を思わず考えてしまったほどである。私はてっきり、主人公の田村はそこで祈りでも捧げるのかと思ったが、結局そこで田村は、後から入ってきた民間人のフィリピン女性を銃殺してしまう。


教会という聖なる空間で行われたその残虐な行為をみたときに、宗教の力について思いを巡らせずにはいられなかった。今も昔も、戦争の引き金や背後には宗教的な対立があり、そうした意味では宗教は戦争に力を貸しているように思える。


しかしながら、実際の戦争の極限状態においては、宗教の本質的な力はあまり機能していないのではないかと思われることもある。もちろん、厚い信仰心を保持し続ける形で戦争に従事する兵士たちもたくさんいるだろう。だが、本来宗教が果たす霊的なものを敬う力に関して言えば、戦地の極限状態においてそれがどれだけ役割を果たしているのかは疑問である。


仮に田村がキリスト教徒ではなかったとしても、教会というシンボルが霊的な力を保ち、宗教的な役割を果たしていれば、教会という神聖な場で人が簡単に殺せるとは思わない。2019年の3月に、ニュージーランドの2つのモスクで発生した銃乱射事件について思い出す。そこでも神聖なモスクという場の中で残虐な殺害が行われた。


目には見えない宗教の力の歪んだ形を見る。それはある環境の中で、ある人に対して機能することもあれば、別の環境の中で同一の人に対して機能するとは限らず、そもそも別の人であれば最初から機能しないこともある。


その宗教を信仰していた人が、ある環境中で信仰の力を失ってしまうこともあれば、その宗教を信仰していない人が、ある特定の環境の中でその宗教の力を感じることもある。人そのものは本当に環境に埋め込まれた存在なのだとわかるし、宗教の力というのも環境によって強く左右されることが見えてくる。


もう1つ考えていたのは、レイテ島の中で日本兵の多くが精神的に狂気に陥っている中で、なぜ田村はそれに感染しなかったのかという点である。私たちの意識は集合意識から強く影響を受ける性質を持っているが、田村は集合の狂気に飲み込まれるギリギリのところで踏みとどまっていた。


昨日の日記でも書き留めていたように、田村は文学を好んでいて、文学によって培われた何かしらの精神性が、集合意識への感染を防いだのだろうか。集合意識を超越することができれば、それに感染することを防げるのかもしれないということについてぼんやりと考えていた。フローニンゲン2020/9/27(日)07:45


6263.『日本のいちばん長い日(2015)』を見て/メタ理論についての補足


時刻は午後3時半を迎えた。つい今し方、原田眞人監督の『日本のいちばん長い日(2015)』を見終えた。


この作品は、半藤一利(はんどうかずとし)の『日本のいちばん長い日 決定版』を原作とし、1945年8月15日の終戦の日の舞台裏を描いたノンフィクション映画である。先日の、『野火』に続き、第二次世界大戦末期の日本を描いた作品を見た。


日本がポツダム宣言を受諾し、降伏へと至る過程の二転三転したプロセスを追体験しながら、陸軍や海軍の長のみならず、彼らの部下を含めた様々な当事者の視点になって映画を見ていくことを行っていた。この作品に対して何か感想を述べることは思いの外難しく、少し時間を置く必要がありそうだ。


明日は、『実録·連合赤軍 あさま山荘への道程(2007) 』か『父親たちの星条旗(2006)』を鑑賞しようと思う——後者のクリント·イーストウッド作品の後編に当たる『硫黄島からの手紙(2006)』も併せて見たい——。


人間とは一体どのような生き物であり、この社会は一体どのような場なのかということを、映画やドキュメンタリーを通じて探究していく。それは単なる知的な探究ではなく、実践的な探究であり、必ず何かしらの関与·介入に結びつくものとしてそうした探究を進めていく。


映像を通じて、書物では得られないものが多分にあることに改めて気づく。この10年ほどは、映画やドキュメンタリーを見ることはめっきり減っていた。


思い出してみると、大学3年生と4年生の時にはかなり集中的に映画を見ており、1日に2、3本見るような日もあったように思う。そんな原体験があったことをすっかりと忘れていた。


発達とは、本当に回帰の道の上を歩くことなのだと知る。過去に熱を上げた対象への再燃がそこにあることもあれば、過去に捨て去ったものを拾うこともある。自分にとっては、日記を書くことや映画の鑑賞は前者であり、絵を描くことと曲を作ることは後者に該当する。


今日は午前中から午後にかけて、秋の対談講演会に向けた資料作りに励んでいた。創作活動としてのこの資料作りも楽しく行うことができていた。


今日はこれからもう少し資料を作っていこう。おそらく本日中に大抵の内容を作り終えてしまうことができる。そうしたら来週の週末の両日を使って資料の細部を完成させていこうと思う。


昨日に、メタ理論の役割について考えていたように思う。現代社会を見渡してみると、人間同士の分断、人間と社会との分断、そしてそれ以外にも諸々の分断現象が見える。そうした分断の架け橋としての役割をメタ理論は果たしていく必要があるだろう。


端的には、分断の乾いた溝を埋めていき、同時にそこに水と養分としての豊かな意味を与えることによって、間(あわい)を醸成し、そこから種々の創造や対話が生まれてくるようにしていくためのメタ理論が求められているように思う。


単なる現象説明や知的理解のためのメタ理論ではなく、とにかくこの社会をより良き方向に導いていくための実践的なメタ理論が求められる時代になってきている。そうした緊迫した空気をひしひしと感じる。フローニンゲン2020/9/27(日)16:05


6264. "This Giant Beast That is the Global Economy (2019)”の第4話を見て/

マルクスの発達倫理


時刻は午後7時を迎えた。日曜日がゆっくりと終わりに近づいている。


昨日に引き続き、今日もとても肌寒い1日だった。明日もまた今日と同じような気温になるようだ。


結局のところ、自己という人間がどのような人間であるのかわからないから、そしてこの現代社会やリアリティが全くわからないから、書物だけではなく、映画やドキュメンタリーを見ることにしたのだと思う。


映画やドキュメンタリーを意識的に見始めて日は浅いが、意識的にそうした映像を見ていくと、本当に多くの気づきを得ることができる。またそれは、単に情報次元で自分に刺激を与えているのではなく、感覚や感情の次元でも自分に刺激を与えていることに気づく。


近日中にクリント·イーストウッド監督の『父親たちの星条旗(2006)』や『硫黄島からの手紙(2006)』も見ていこうと思う。そして、それらの作品だけではなく、イーストウッド監督の一連の作品を集中的に見て、彼の問題意識や世界観を理解するように務めてみようと思う。


今日は映画以外にも、"This Giant Beast That is the Global Economy (2019)”の第4話を見た。本エピソードでは、AIを取り上げていた。1つとても印象的だったのは、AIによるフェイクニュースの醸成に関する話題である。


もはやAI技術を活用すれば、ある人物に成り済ますことはいともたやすく行われてしまい、実際にAIを活用したオバマ元大統領の複製と本物が話をしている姿を見たときに、表情も声も区別が全くつかなかった。それを見て、今後こうした技術が悪用され、大統領や首相などの重要な人物を偽った者が政治的な発言を行い、経済が動転してしまったり、戦争が勃発してしまう危険性があるように思えた。


技術の進歩の恐ろしさは、技術を活用する人間の内面的成熟が一向に追いついていない状況でそれが活用されることにあるだろう。現代において、むしろ人間は内面的には退行·劣化している様を見ることができるため、なお一層のこと、技術の発展を競争的に推し進めていくことや、技術の発展を手放しに喜ぶ風潮は脅威に映る。


昨日はふと、ある1人の個人の自由な発達は、他の全ての人の自由な発達の条件でなければならないというマルクスの発達倫理について考えていた。マルクスは、ある個人の自由な発達が他の全ての人の自由な発達の制限になってはならず、また他の人の自由な発達がある個人の発達を阻害してはならないということを指摘していた。


その観点で言えば、この社会で生きる人たちの全てが解放されなければ、真の自由はないということになり、その実現に向けて行動していくことが自己の真の解放に近づいていく道だとも言えるのではないかと思う。よくよく考えてみればそれは当たり前のことであり、隣人が不自由さを被っていれば、それは物理的な次元や精神的な次元において何らかの形で自分に影響を与え、それが自分の自由を制限していることに気づく。


縁起の思想のように、私たちは他との関係性があって初めて成り立つ存在であり、そうした関係性をもたらす他の存在が不自由を被っているのであれば、それは必ずや自己を不自由にさせるだろう。


明日はどのようなことを考え、どのようなことを感じるだろうか。明日に発見される自己と世界の新たな側面に思いを馳せながら、今夜はこれから少しばかり作曲実践をしたい。フローニンゲン2020/9/27(日)19:30

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