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6230-6232: アートの国オランダからの便り 2020年9月17日(木)


No.1394 夜明け前_Before Daylight

本日の言葉

How can the restless one, exhausted by hunger, thirst and chagrin, whose mind cannot stand the effort, achieve that result that the mind must achieve? Aśvaghoṣa

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本日生まれた10曲

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タイトル一覧

6230. ここからの読書/今朝方の夢

6231. 存在の彼方に立つ美/主観的事件の歴史的展開としての発達

6232. 情熱と深み/超越と帰還/革新と不在


6230. ここからの読書/今朝方の夢

時刻は午前5時を迎えた。辺りはまだ真っ暗であり、ここから冬に向かって、日の出の時間はさらに遅くなるだろう。今日の最高気温は17度、最低気温は6度いう予報が出ており、今夜は相当に冷えそうだ。


昨日、ふとしたことをきっかけにして、作曲を通じたミュージックセラピーと、作った曲に合わせて踊ることによるダンスセラピーの効果を実感した。これは副産物的なものだが、絵画の創作を通じたカラーセラピーに合わせて良い効果を自分にもたらしてくれているようである。


とりわけ、踊りを加えたことによる身体的·精神的治癒効果は大きいように思う。今日もまた創作活動に打ち込む中で、こうしたセラピー的な効果の恩恵を知らず知らずに受けるだろう。


今日もまた読書に打ち込んでいこう。今日は、アーネスト·ベッカーの“The Birth and Death of Meaning”と“The Denial of Death”の再読を行う。前者に関しては、昨日3冊目の読書として既に半分ほど再読を終えている。そうしたこともあり、今日中に後者の書籍を読み終えることができるだろう。


実は既に先月に注文した75冊の書籍のほぼ全てを読み終えており、書斎の机の上の積読状態は解消されていて、それゆえにベッカーの書籍を読み始めたという事情がある。それら2冊の書籍を読み終えたら、今年の秋の一時帰国の対談講演会に向けて、今道友信先生の美学に関する書籍を4冊ほど読み返したいと思う。


その再読が終わったら、以前集中的に読んでいたロイ·バスカーの一連の著書をもう一度全て読み返そうと思う。今年の秋にはインテグラル理論に関するセミナーもあるため、ウィルバーのメタ理論とは異なるバスカーのメタ理論を再度この時期に理解を深めておくことは有益だろう。


今朝方、4時半に目が覚めたとき、腕が痺れていた。どうやら寝ている最中に頭を腕の上に置いていたようであり、それによって血流が滞っていたようなのだ。そのような形で今朝は目覚めることになったが、快眠であったことには変わりない。


今朝方の夢について思い出している。夢の中で私は、感情的に少し苛立ちを感じることがあった。


自己の尊厳が傷つけられるような発言を知人からされ、さらには理不尽な仕打ちを受けた。それに対して私は、当然ながらしかるべき対応を取った。そのような夢の場面があったのを覚えている。


その他の夢の場面では、私はフィンランドの自然の中にいた。とても雄大で、かつ静かな自然がそこに広がっていた。季節はちょうど今と同じぐらいの秋の始まりのようであり、寒くもない見事な気候であった。


そこで私は、改めて自然の治癒力を実感し、そこに長く留まっていたいという思いになった。フローニンゲン2020/9/17(木)05:21


6231. 存在の彼方に立つ美/主観的事件の歴史的展開としての発達


——人は誰しも、大なり小なり、芸術や学問の作品によって、新たな内的生命の覚醒を経験している——今道友信


時刻は午前11時に近づこうとしている。今朝は午前4時半に起床したこともあり、創作活動と読書が大いに捗っている。既にアーネスト·ベッカーの2冊の書籍の再読を終え、先ほどから今道友信先生の美学書の再読を始めた。


今道先生は、美を「存在の彼方に立つもの」と考え、存在超越的なものとして美を捉えている。まさに先生の思想体系は、「存在超越的美学」とでも形容できるようなものである。


自己を十全に表現するエロスと、自己を十全に明け渡すアガペーという、双方の実践とあり方について考えていた。そこから、全身を使って音楽を体感することを通じて自己を明け渡し、それを起点にして新たな音楽を生み出していくという自己表現の道が見えてきた。


既にその道を歩いているが、ここからはさらに明け渡しと自己表現との関係性を意識しながら創作活動に従事したいと思う。身体感覚的な学習と実践が、音楽の理解と作曲技術を深めることにつながっている実感があり、ここからは全身を通じて曲としての形を生み出していこう。


ゲーテが指摘するように、内省の始まりはまず体験そのものに深く入ることであり、それを経て初めて体験から意味を汲み取る真の内省が始まる。体験という大海に入らずして、海水を汲み取ることはできない。体験という大海に深く没入し、そこからの浮上を通じての内省を行なっていく。


今道先生の書物を読みながら、改めて日常の姿勢や仕草における美を意識してみようと思った。それもまた美における身体実践のように思えるし、それが自分の心や他者の心に与える影響を考えると、それは身体実践に留まらないものがあるだろう。


こうした身体実践を拡張して、美的な振る舞いを日々心掛けていことができれば、それは道徳的·倫理的な実践にもつながってくるのではないかと思う。


我ものとしての語りが、その人間をいかに新たな人間にしていくことか。この一連の日記は自分の内から湧き上がってくる一連の主観的な語りであり、それが自分という人間を新たに開いていく。


時を分つものが歴史にとっての事件であるならば、自己を分つものもまたその人にとっての事件である。そのように考えると、発達の出発点とは、その人の主観に関する事件であると言えるかもしれない。


すなわち発達とは、主観的な事件の歴史的展開なのだ。日常のあれやこれやの主観的な事件を書き綴ること。それは主観的な事件が織りなす歴史的展開をさらに推し進めていく。


事件もまた生き物であり、それは認識の光に照らされて書き綴られることを通じて生命運動を強く推し進めていく。逆に言えば、それは認識の光が当てられず、書き綴られなかったら死滅してしまうように思えてくる。


それをしなければ少なくとも、事件が不活性なものになってしまうだろう。書くことは活性化を促すものであり、生命運動の支えなのだ。それが発達という歴史展開の根底にある。フローニンゲン2020/9/17(木)11:09


6232. 情熱と深み/超越と帰還/革新と不在


——パトス(情熱)はバトス(深み)なのである——今道友信


時刻は午後7時半を迎えた。今、穏やかな夕日の姿を拝んでいる。空には雲がほとんどなく、夕焼けに染まった空は美しい。


情熱の喪失は深みの喪失をもたらし、深みの喪失は情熱の喪失をもたらしかねない。そこには双方向的な作用があり、片方の欠落は双方の欠落をもたらしかねない。


情熱を持つことと深みに向かうこと。その双方を大切にしたい。


思索を実存の生命的な上昇と見たルドルフ·ベルリンガーと、思索を創造の充実経験への道と見た今道友信先生。前者は、思索の背後に上昇への愛(エロス)を見とった考え方になるだろうか。一方後者は、上昇の愛と下降の愛(アガペー)を超越した創造的性質を思索の背後に見とった考え方になるだろうか。


上り道は下り道であり、下り道は上り道でもである。つまり、道は絶えず超越と帰還の双方を内包している。そしてそれこそが道が道たる所以である。


日々自分はそうした道を歩いているということ。そして、自分が道そのものに他ならないということを理解しておく必要がある。絶えず創造的営みに参画している自分は道なのだ。


「自己理解としての心理学は自己欺瞞である」というオットー·ランクの指摘に思わず唸ってしまった。つまり、心理学的理解というものが新たな信念体系として構築されると、それを通じた限定的な世界に自己を押し留める可能性があるということである。


また、ウィリアム·ジェイムズが指摘しているように、私たちの信念体系は私たちの行動を規定しているがゆえに、限定的な信念体系は限定的な行動を生み出す。成人発達理論やインテグラル理論もまたこうした自己欺瞞に陥る危険性を絶えず内包していることを理解しておく必要があるだろう。


理論を通じて不可避に構築される信念体系を絶えず客体化しながらそこに埋没しないようにすること。その大切さを思う。


今日の午後に、オンラインミーティングが1件あった。その中で、「そもそも日本に教育はあるのか?」という指摘を協働者の方がしていた。


日本には真の教育は一度たりともなかったのかもしれない。そこには今も調教という名の行為が根強く存在している。


教育の革新と言われるが、そもそも革新の対象となるものが果たしてあるのかという問いかけをしている。革新をしていく際には必ず差異化を経た上での統合化が求められるが、分節的プロセスが起こるための対象があるのかをそもそも問わなければならないように思えてくる。


何かの革新をしようとする際に、そもそもそれが果たして存在しているのかということを問うこと。教育以外では、例えば民主主義というものも本当に我が国に存在しているのだろうか。それらは依然として不在なのではないかと思えてくる。


不在の不在化を通じて、今はなきものを在らしめていくこと。革新よりもそちらが優先される場合があるということを忘れないようにしたい。フローニンゲン2020/9/17(木)19:49

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