時刻は午後の七時半を迎えた。つい今しがた夕食を摂り終え、これから就寝までの時間を使って、もう少し自分の取り組みを前に進めておきたい。
それにしても今日もまた素晴らしい一日であった。どこがどう素晴らしかったのかがわからないぐらいに、そしてそれを語る必要が全くないと思うぐらいに素晴らしかった。
欧州での三年目の生活は幾分奇妙だ。いや、これまでの人生の方こそが奇妙だったのかもしれない。
欧州での三年目の生活は、これまでにないほどに充実している。昨日か今日のどこかの日記の中で、楽しみというのも深まっていくと述べたが、それは充実感においても当てはまる。
日々の充実感、そして真に自らの人生を生きているという実感は本当に深まっていくものなのだ。
今日はこれから、バルトークに関する作曲技術に関する解説書“Bela Bartok: An Analysis of His Music (2000)”を読み返し、以前に読んだことのある“A Guide to Musical Analysis (1987)”を読み返していく。
楽譜を分析する観点を獲得することは、即作曲でその観点を活用していく道を開いていくことを意味する。とにかく今の時期は集中して音楽理論を学んでいきたい。
音楽理論とは、美しい響きをもたらす規則性に関する発見事項の束、ないしは体系なのだ。その体系を少しずつ理解し、既存の体系に新しい何かを積み重ねていくことができたらと思う。
楽譜を見たときの理想の境地としては様々なことが考えられるが、一つとしては、一つ一つの音の意味、そしてハーモニーやメロディーを含む音の構造の意味をつぶさに把握できるようにしたい。そして、作曲家がいかような意図でそれらを具現化させていったのかを掴めればと思う。
何はともあれ、楽譜の中に顕現しているありとあらゆる様々なパターンを即座に把握し、それらを自分の言葉で説明できるようにしていく。それを実現させていくためには、音楽理論家の探究の成果に頼らせてもらう形で、積み上げられた音楽理論という体系を一つ一つ理解していく。
音楽理論の起源がピタゴラス、あるいは下手をするとそれ以前の学者の功績にあることを知れば、音楽理論の学習は気の遠くなるような実践かもしれないが、私は進んでそれに乗り出していく。
音楽理論を通じて得られることは、おそらく自分自身の言葉なのだろう。私たちは、まだ姿を見せぬ自分独自の言葉を常に持っている。
音楽に関する自分独自の言葉を発見していくために、過去の偉人たちの仕事を参考にさせてもらう。音楽理論の学習は、兎にも角にも、自らの言葉の発見と獲得なのだ。
夕方に作曲実践を行っている最中に、改めて作曲とは、音の創造のみならず、音を活用した絵画の制作なのだと気付いた。一つの音符を楽譜上に置くことは、画用紙に一筆いれることに他ならない。
また、一つ一つの音には、文字どおり音色が存在しているのである。作曲というのは、音を用いた絵画の制作だったのだ。
そのようなことに気づき、ますます絵画芸術への親近感が増し、今後は過去の偉大な作曲家の仕事のみならず、過去の偉大な画家の仕事を参考にすることが多くなるだろう。このリアリティが、そして日々が、音楽であり、なおかつ絵画のように思えてくる。フローニンゲン:2019/2/5(火)19:48