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3707. 蔓延する発達的浄化思想


時刻は午後四時半を迎えた。何んとも言えない淡い夕暮れ時の空が広がっている。

数羽のカモメが追いかけっこをしながら戯れている。

現在の気温は0度であり、これからマイナスの世界に向かっていく。それにしても、日照時間が伸びたことは、何とも言えない喜びをもたらしてくれる。

四時半のこの時間帯に、夕日の姿をこのように眺めることができているのはいつぶりのことだろうか。この調子だと、午後五時までは、ほのかな明るさを残しているように思う。

赤レンガの家々の屋根に積もっている雪は、まだ溶けずに残っている。今夜もまたマイナスの世界に突入するため、深夜に雪でも降れば、屋根の雪が増すかもしれない。

午前中と午後にかけて、監訳の仕事が随分とはかどった。幸いにも、分量的に多い章を全て読み終え、残りは分量的に最も短い最終章だけとなった。

最後の章は、夕食前にレビューをしておきたい。それをもって本文のレビューは完了し、明日は注記のレビューに集中することができる。

午後に本文のレビューをしている最中に、改めて、高度な発達段階を体現した個人を単純に組織内に増やそうとする試みには注意しなければならないと思った。端的には、それは「負の発達的浄化」を行おうとしているに過ぎない。

仮に、組織の構成員を全てティールの発達段階にしようとしても、それは根本的に無理な話である。組織というのはある意味、様々な発達段階の人間がいることによって機能していく側面があるからである。

例えば、シリコンバレーの革新的な組織に所属する全ての人たちが高度な段階にいるかというと、全くもってそうではないだろう。非常に極小の組織(例えば構成員二人)であれば、確かに、高度な発達段階に到達した人間だけで組織運営ができるのかもしれないが、一般的な組織においては、それは現実的ではなく、日本の大企業のような組織になれば、なおさら不可能なことである。

それにもかかわらず、組織が構成員に対して高次元の段階であることを要求するというのは、何か方向性が間違っているように思えてくる。そもそも、発達の原理として、私たちは次の発達段階を飛ばすことはできないのだ。

そして、ティールというのは極めて高度な段階であり——さらにはターコイズやインディゴなどの発達段階もあるが——、そうした段階に到達することを、組織の多くを占めるであろうブルーやオレンジの段階に強要するのは無理な話である。

ティールであることを強要するというのは、そもそもティールの段階がなすような行動ではなく、それはオレンジのそれか、下手をするとレッドのそれだろう。発達段階を飛ばすようなことを強要する態度や行動は、様々な段階を周縁に追いやってしまう。

組織内でティールであることを強要された場合、ブルーやオレンジの人々はどこに行けばいいのだろうか?ウィルバーの指摘するように、発達の螺旋を健全なものにしていくことが、発達理論の活用における最重要な態度であるならば、組織として行うべきことは、むやみやたらに高度な段階に到達することを構成員に強要することではなく、彼らが健全な発達を着実に遂げることができるような居場所と支援を提供することにあるのではないだろうか。フローニンゲン:2019/1/20(日)16:49

No.1593: The Gracious Twilight

I’m remembering yesterday’s gracious twilight right now. It was exquisite. Groningen, 17:41, Monday, 1/21/2019

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