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【フローニンゲンからの便り】17797-17801:2025年12月1日(月)


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タイトル一覧

17797

法華経・華厳経と唯識思想との相性

17798

今朝方の夢

17799

今朝方の夢の振り返り

17800

指板を見ない訓練

17801

スロモーション練習の価値

17797. 法華経・華厳経と唯識思想との相性  


早いもので今日から12月である。今年も気づけば残り一ヶ月となった。フローニンゲンはまだ氷点下となっていない。 昨日、唯識思想と法華経・華厳経のどちらが相性が良いかを比較していた。純粋に仏教思想内部の構造だけで比較すると、最も深い理論的統合が可能なのは華厳経であり、一方で実践的・心理的な展開に最も向いているのは法華経であるという結論に至った。唯識は「心の構造が世界の成立を規定する」という徹底した心識論であり、阿頼耶識に蓄えられた種子が因として世界を現行させるという厳密な認識論を提示する。これに対して華厳経は、世界そのものが重重無尽に相互浸透し合う法界として成り立ち、その中心に毘盧遮那仏の智慧が満ちているという壮大な世界観を描く。この二つを重ね合わせると、阿頼耶識における“種子が縁起的に展開して世界を生む”という構造と、法界そのものが相互依存的に広がる“相即相入の世界”という構造とが、驚くほど自然に連動する。すなわち、唯識が描く内的世界の生成メカニズムそのものが、華厳が描く法界の横溢した構造と深層で響き合い、「心内の縁起」と「世界の縁起」が同型的に理解できるのである。阿頼耶識は外界を“映し出す”場であると同時に、華厳の法界は“あらゆる存在が即時的に影響し合う場”であるため、心的世界と宇宙的世界が相互に反照する構造が生まれ、これは大乗仏教内部でも最も整合性の高い統合になる。一方、法華経と唯識の組み合わせは、理論構造の統合というより、心理的・実践的な次元で非常に強い親和性を示す。法華経は衆生が誤った認知の中で迷い、仏がそれを方便によって段階的に導く物語構造を持つ。この“認知の歪みをほどくプロセス”はそのまま唯識の「迷いは心の誤覚によって生じ、修行とは認識構造の転換である」という思想と一致する。声聞や縁覚が方便によって一乗へと導かれる過程は、阿頼耶識の有漏の種子が浄化され、清浄識へと変容していく過程に重ねて理解できる。さらに、法華経が説く“一切衆生悉有仏性”という主張は、唯識における「阿頼耶識の中に清浄な種子が潜在し、条件が整えば誰でも転依できる」という思想と極めてよく合致する。法華経の物語的・教育的展開は、唯識の心理変容モデルを外側から照らし出す形で機能し、両者を組み合わせることで“心がどのように転換されるか”“迷いから覚醒へどう移行するか”という、実践的心理モデルが豊かに描ける。この比較を踏まえれば、唯識との組み合わせで最も理論的に深い研究が可能なのは華厳経であり、そこでは心的構造と世界構造が縁起によって統合される新たな哲学的モデルが成立する。一方で、唯識と法華経の組み合わせは、心理的救済・教育的転換・認知の再構成といった実践的テーマに強く、心の変容プロセスを体系的に説明する研究に最適である。すなわち、唯識にとって華厳は“理論の拡張”、法華経は“実践の深化”をもたらし、それぞれが異なる次元で唯識思想を豊かにするのである。先日さらに追加で華厳経に関する英語の専門書を1冊買い足したが、やはり今月は自分へのクリスマスプレゼントとして華厳経と法華経に関する和書を一括注文しようと思う。フローニンゲン:2025/12/1(月)06:15


17798. 今朝方の夢  

           

今朝方は夢の中で、おそらく奈良と思われる町を散策していた。特に野球の強豪校を訪問する予定になっていて、そこでどのような生徒がいて、どのような練習が行われているのかがとても楽しみだった。父から借りたスポーツカーに男女三人の友人を乗せ、目的地に向かった。スポーツカーゆえに簡単に速度が上がってしまうことに注意しながら、他の車に迷惑がかからないように運転をした。道は直線だったし、前にはあまり車がなかったので一気に加速したい気持ちを持っていたが、速度を上げて運転するのはレース場で行えばいいと考え、一般道では速度をできるだけ落として運転することにした。目的地に行く前に大型スーパーに立ち寄ることにし、そこの広大な駐車場に車を停めることにした。幸いにもスーパーに近い場所が空いていて、そこに停めようとしたが、隣の軽自動車がこちらのエリアに少しはみ出していたのでそれに気をつけなければいけないと思った。


次に覚えているのは、見慣れない外国の街を男女数人の友人と散策しようとしている場面である。最初私たちは一台の乗用車の中にいて、四方八方を見渡して、私たちが散策するべき場所はどこかを検討し合っていた。どうやら私たちは単に街を観光で散策するのではなく、それは与えられたミッションを遂行するためのある種の調査のようだった。一人の友人が突然、私たちは周りの建物の住人から四方八方に見られていると述べて窓のカーテンを閉めた。すると一人の女性友達が、どうせ細かくはこちらを見ることはできないのだから気にすることはないと述べ、私は彼女の意見に賛成した。この車の窓ガラスは外からはぼやけてしか見えない作りになっていたのである。そこから話し合ってまずどこを調査しに行くかが決定した。最初は目の前にある撤退した大型ショッピングセンターの中を調査することにし、そこから海岸線のある場所を調査しに行くことにした。私には空を飛ぶ能力があったので、最初に先回りして海岸線のある場所の調査に向かった。空を飛んで移動し始めて驚いたのは、町を歩いている外国人たちの身長がやたらと高く、数メートルにも及ぶ人もいるぐらいで巨人がたくさんいた。フローニンゲン:2025/12/1(月)06:29


17799. 今朝方の夢の振り返り


今朝方の夢の前半において、自分は奈良と思しき古都を舞台に、野球の強豪校の訪問を控えていた。そこでは生徒の姿勢や鍛錬の様子を観察する期待があったように思われる。父から借りたスポーツカーを慎重に運転し、速度の誘惑に抗いながら進む描写は、自分の内側にある力の扱い方を象徴している可能性がある。すなわち、急速に物事を前に進められる能力を持ちながらも、それをむやみに解き放たず、適切な状況でのみ力を発揮する節度を意識している姿であると推測される。レース場という明確に許された空間でのみ速度を出せると判断する構図は、外的環境と内的衝動との折り合いを冷静に保つ自分の態度を反映しているようでもある。スーパーの駐車場で、わずかにはみ出した軽自動車に気を配る場面は、他者の些細な行動や境界の侵入を丁寧に読み取り、衝突を回避しながら自分の立ち位置を整えようとする繊細な心理を示している可能性がある。ここには、社会的な空間における自他の境界感覚、そして判断の慎重さが滲んでいると思われる。後半では、見知らぬ外国都市に舞台が移り、単なる観光ではなく「調査」や「ミッション」の達成という目的が付与されている点が特徴的である。目的地を仲間と協議する姿は、自分が人生における複数の可能性や選択肢を多角的に検討している状態を象徴しているのかもしれない。周囲の建物から見られているという指摘に対して、窓ガラスが外からはぼやけてしか見えないと理解した上で「気にする必要はない」と判断する流れは、他者からの評価や視線に対する距離の取り方が成熟しつつあることを反映しているように思える。すなわち、完全に無関心ではないが、必要以上に影響を受けず、メタな視点で状況を観察できる態度である。撤退したショッピングセンターから海岸線へと向かう計画は、表層的な消費文化から距離を置き、より根源的で開放的な領域へ移行する内的な動きを示唆しているようにも解釈できる。海岸線という場所は、境界と広がり、終わりと新しさが交差する象徴的な場であり、自分が何らかの転換点に向かって移動している可能性がある。特に印象的なのは、自分が空を飛ぶ能力を持っていた点である。この能力は、地上的な制約を離れ、より俯瞰的かつ自由な視野で物事を理解しようとする姿勢の象徴であるように思われる。先回りして調査に赴く行動には、自律的な判断、先見性、洞察力の高まりが感じられる。そこから見える外国の巨人たちは、世界や社会のスケールがこれまで想定していた以上に大きく、自分の成長に伴って視野が拡張していることを象徴しているのかもしれない。巨人は畏怖と敬意の両面を持つ存在であり、自分が挑むべき対象やこれから向き合う課題の大きさを示している可能性がある。この夢全体を貫くテーマは、「力の扱い方」「境界の読み取り」「視野の拡張」「目的を伴う移動」であると推測される。古都から近未来的な外国都市へ、道路から空へ、観察から調査へと移行していく流れは、自分の精神的成熟と探究の深化を象徴しているように思える。人生における意味として、この夢は、自分がこれから大きなステージへと進む準備を整えつつあることを示唆しているのかもしれない。扱う力は増し、視野は広がり、環境は複雑になり、向き合う対象は巨大になっていく。しかし同時に、自分には高度な判断力、節度、仲間からの支援、そして飛翔する能力が備わりつつある。この夢は、新たな挑戦の前に、心の奥深くで成熟が静かに進行している兆しであるとも考えられる。フローニンゲン:2025/12/1(月)07:35


17800. 指板を見ない訓練 

     

ギターの練習において、ある程度指板を見ながらスムーズに弾けるようになってきた段階で、あえて指板を見ない練習を取り入れることは極めて大きな価値を持つと考えられる。この「指板から視線を外す練習」は単なる難化トレーニングではなく、自身の身体感覚・聴覚・空間認識・音楽的思考を一段深いレベルへ発達させる重要なプロセスである。まず、指板を見ないことで最も強化されるのは「定位感覚」である。ギターのフレットは等間隔ではなく、一度目を離すと距離と位置を瞬時に判断する必要が出てくる。この判断は視覚ではなく、指の長さ、手首の角度、肘の位置、さらには身体全体の微細な感覚によって行われるようになる。つまり、運動スキルとしてのギター演奏が「外部視覚の依存」から「内部感覚の自律」へ移行していくのである。これはダイナミックスキル理論で言えば、外的補助を前提とした技能から、内部制御による技能へと複合化する段階に近い。指板を見ない練習は、身体が位置情報を自然に学習し、触覚によるマップが形成されることを後押しする。次に、指板を見ないことで演奏者の「聴覚への依存度」が高まる。指板を見て弾くと、正確さを視覚から確認できるため、耳の働きが相対的に弱くなることが多い。しかし、視覚を封じることで、音のわずかなズレやニュアンスの違いに敏感になり、音程やダイナミクスをより深く聴き取ろうとする姿勢が自然と育まれる。この段階は、単に正しい音を弾くというレベルを超え、「音楽そのものを聴きながら演奏する」という本質的な技能へと接続していく。特にクラシックギターのように、音色の変化、指のタッチ、爪の当たり方が微妙に音を変える楽器では、この聴覚強化は演奏の質を根本から向上させるだろう。また、視線を外した状態で演奏することで、自身の「精神的な自由度」も高まる。指板ばかりに意識を向けてしまうと、身体が固まり、演奏が機械化しがちである。視覚が優位になりすぎると、演奏自体が「間違えないこと」に焦点化され、音楽を流れとして感じるメンタルスペースが狭くなる。反対に、指板を見ずに弾く練習では、心の焦点が「音楽の流れ」や「身体の動きの自然さ」に向かいやすくなる。この状態は、しばしば瞑想や没入感に近い心理状態につながり、ギター演奏がより深い充実感や楽しさを生み出す要因となる。さらに、指板を見ない練習は「演奏の安定性」を高める効果もある。実際の演奏現場――録音・発表会・ライブ――では、照明や緊張感の影響で指板を完璧に見続けられるとは限らない。したがって、視覚が不安定な状況でもパフォーマンスが安定するためには、日常から「見ないで弾く訓練」を積んでおくことが長期的に役立つ。これはプロの演奏家が暗譜や舞台での演奏を確実に行うために必ず習得している能力である。ただし、この練習を始める際には無理に全体を見ないようにするのではなく、「部分的に視線を外す」「簡単なフレーズから挑戦する」「ポジション移動を中心に感覚化する」など段階的に行うと効果が高いはずだ。特に、よく使うポジション間(1→3→5フレット、5→7→9フレット)の移動を視覚に頼らず行えるようになると、自信と自由度が一気に高まるだろう。総じて言えば、指板を見ずに演奏する練習は、身体、耳、心の感覚を統合し、演奏をより自然で深いものに育てていくための重要なステップである。これは単なる技巧向上ではなく、演奏者としての成熟につながる発達的な通過点なのだと理解できる。フローニンゲン:2025/12/1(月)11:50


17801. スロモーション練習の価値


スローモーションでギターの練習を行うことには、単なる速度調整の範囲を超えた深い意義があると考えられる。ギター演奏は、瞬間ごとに複数の運指、音色操作、弦移動が同時並行で起こる複雑な技能であり、通常速度のまま練習すると、指の動きやタッチの微細な癖、弦の振動の質などを正確に認識することが難しくなる。スローモーション練習は、これらの要素を「時間の拡大」によって可視化し、普段は意識に上らない情報を丁寧に拾い上げる方法であると言える。まず、運指に関してスローモーションが持つ効果は絶大である。速いテンポでは、指が正確な軌道を通らず、その場しのぎの動きで音を処理してしまうことがある。しかし、ゆっくりとした練習では、指がどの方向に移動し、どの関節がどの角度で折れ、どのタイミングで離弦し、どの位置に着地するのかといった「軌跡の質」を細やかに観察できる。これにより、無駄な動きや不要な緊張を発見し、指の最適なストロークを確立することが可能になる。運指が洗練されるほど、最終的な速いテンポでの演奏は安定し、疲労も軽減するはずである。音色に関しても、スローモーション練習の価値は計り知れない。音色はタッチの角度、爪の当たり方、腕の重さ、指先のスピードなど複数の要因が絡み合って生まれる繊細な現象であるが、速いテンポではそれぞれの要素を分解して確認することが難しい。ゆっくり弾くことで、例えば爪が弦に触れる瞬間のノイズ、指が弦を押し下げる圧力、離弦時の速度などを詳細に把握でき、音色の一つひとつが「どのような身体的動作から生成されるのか」を理解できるようになる。この理解こそが、長期的には高度な音色コントロールの基盤を形成するだろう。さらに、スローモーション練習は脳神経学的にも大きな意義を持つと考えられる。ゆっくりとした動作は、脳が新しい運動パターンを構築し、最適化し、長期記憶として保持する際に極めて有効である。速い練習だけを重ねると、雑な動作や誤った癖がそのまま神経回路に焼き付いてしまう危険があるが、スローテンポでは最も望ましい運動様式を丁寧に脳へ刻み込むことができる。結果として、時間をかけたスロー練習は長期的な意味での効率的な練習方法であり、単に遅く弾いているだけのように見えて、実は最短距離の上達を支える基盤となる。加えて、スローモーション練習は「身体感覚の覚醒」につながる点も重要である。速いテンポでは手指の動きが先行し、感覚的な気づきが後回しになりやすい。しかし、ゆっくり弾くことで、指先が弦に触れる感覚、振動が皮膚に伝わる感覚、手首や腕の重さの分布、あるいは呼吸のリズムなど、演奏に内在する身体知が浮かび上がってくる。この身体知へのアクセスは、機械的な演奏から脱し、音楽と身体の統合を図るうえで極めて重要になると考えられる。総じて、スローモーション練習とは、時間を拡大し、運指・音色・身体感覚・認知プロセスをすべて再構築する高度なメタ練習であると言える。速さを追求するためにこそ、まず遅さを極める必要があるという逆説を体現する方法であり、ギタリストにとって最も価値ある投資の一つになるはずである。スロモーション練習の価値はジークンドーの開祖ブルース・リーも述べていたことである。フローニンゲン:2025/12/1(月)13:54


Today’s Letter

Mellow sounds are always permeating my inner world. These sounds well up from the realm of emptiness, or from suchness itself. Groningen, 12/1/2025

 
 
 

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